◆0 灰の中より……
アメリカ、テキサス州のとある農村.
何もかもが広大なテキサスでは車での移動が主だが、酒瓶をポリ袋に突っ込んだその男はジョギングをしながら走って帰路についていた.
「ふっ……ふっ……」
男は、ボクサーであった。
男はかつて、世界中を震撼させたヘヴィ級のボクサーであった。
だが男の灰色のジャージを羽織った後ろ姿は、かつての栄光を感じさせないほど小さく、虚しさを感じさせるものであった。
一歩速度を上げて走るごとに感じる右肩の痛みに、肩は萎縮し男の頬には疲れても居ないのに冷や汗が伝っていた。
男が毎日感じているのは、自分への失望に他ならなかった。
『今の俺は、こんな事もできねえのか……』
心の中で呟いた自問自答が、テキサスの青い空へ無情に溶けていった。
男が牧場の真ん中にある家にたどり着いたのは、空が夕暮れの色に染まる頃だった。
玄関をあけ、もう温くなった酒瓶を冷蔵庫に入れる。
こうなる事を予見してあらかじめ買ってあった酒瓶を取り出し、棚にかけられたチャンピオンベルトを一瞥し、ベランダにあるロッキングチェアーに乱雑に座り酒瓶を直飲みで煽った。
サイドテーブルにあったラジオをつけて今のボクシングのタイトルマッチを聴くことが今の男の日課だった。
だが、その日に流れていたラジオの内容はいつもと違っていた。
『今日は前チャンピオン、ハンク・グリフィン衝撃の引退から5年を記念した特別放送です。
当時の彼のライバルにして、現チャンピオンのローランド・シャイニーさんにお越し頂きました
引退前の試合に関して当時の記憶を振り返って頂きたいと思います、よろしくお願いします』
『よろしくお願いします。
結論から言うと私はまだ彼に勝ててはいません、彼の肩の故障はあのジャック・ハリソン譲りのストイック過ぎるトレーニング方法によるダメージの蓄積が原因にある
だが私は、彼がジャックの呪いから解放されて再びリングへ舞い戻り
あの魂の拳を燃え上がらせてくれると信じ—―』
男は不機嫌そうに唸り、ラジオの電源を切った。
「うるせえよお坊ちゃんが、俺はロッキーじゃねえんだよ」
男はチェアーに寄りかかり、黄昏時の空に揺れる屋根の風見鶏を見上げながら一人呟く。
そう、男—―ハンク・グリフィンは紛れもない英雄であった。
一時であっても、英雄であった。
肩の故障が彼の誇りを奪ったことに、彼自身は後悔などしていなかったが……
「生き急ぎすぎたな……余生を過ごすにゃ早すぎる」
ハンクが呟いた言葉は、そのまま彼の目の前に拡がる茫漠とした人生を表すかのように広大なテキサスの牧場風景に溶けていく。
ボクサーとして魂を燃やしたハンク・グリフィンはもう居ない。
此処にあるのは、ただ燃え尽きた灰だけだ……
……いいや、これは燃え尽きた灰の物語などではない。
「あ?なんだ?」
これは灰の中から、宇宙の摂理に逆らって燃え上がり
「一番星が、あんなに光って」
異なる世界で再び輝く、英雄再起の神話である!
「いや、あれは一番星なんかじゃ—―」
空に輝いた光は、目に見える速度でハンク自身を飲み込むように降り注ぎ
ハンク・グリフィンを、瞬く間に地球上から消し去ったのであった。
次回:SAN値ピンチ