おもちゃの剣3/銅の剣3
七月第三水曜日。鐘楼での戦いがあった次の日だ。三千代とスイは同じ屋根から出た。スイが眠たそうな目をこすりながら、扉を開ける。
「行ってきまーす」
「ありがとうございました。行ってきます」
スイの母親は笑顔で手を振った。
三千代は昨日、スイの家に直接やって来たため、自宅に教科書類を取りに行っていない。そのため彼女の鞄には火曜日の時間割がそのまま詰め込まれていた。授業科目が同じ時限に被ることはないので、その都度、別クラスのスイから借りればよいという算段である。
学校に着くころにはスイの眠気も醒めていた。
「疲れたあ~」
彼女の鞄には、直径40センチメートルほどの大きな金属板が入っている。重さは2キロほどにもなる。しかし金属板が入っていなくともいつもは代わりに学業に関係のないガラクタが沢山入っているため、重さにそこまで違いはないはずだった。彼女は毎日、同級生より二割増しに重い鞄で学校まで来ているのだ。
「教室までは私が持とうか?」
「ああー悪いねー」言いながら、スイは鞄を三千代に手渡した。
途端に、板の“声”が三千代に流れ込む。その声は空気を振動させない。“声”というよりも“思考”そのものだ。
「重くてすまぬ。丈もそこまで大きくないので、他の金属剣に比べれば軽い方なのだがなあ。」
板は銅でできていた。青い銅の板。王敬である。
「(ま、スイは運動不足だからね)」三千代は心の声で返事をした。
「そうか。比べて、三千代殿の肉体の逞しいことよ。」
「(照れるからやめて)」
「何を照れることがあるだろうか。三千代よ、そなたは昨日、戦士として戦うことを誓ったではないか。」人工音声が廊下に響く。
慌てて、三千代は己の鞄に手を突っ込んだ。スイが目を丸くしてこちらを見ている。周囲には誰もいないようであることに短く安堵の息をつき、三千代は思い切り、手の先のビニール質の棒を握った。ぎゅむ。
「(ドンキ! 声を! 出すな! ここ学校だから!)」
先ほどの人工音声の主、おもちゃの剣の慟哭風纏、通称ドンキである。空気でぱんぱんに硬くなっているビニールは、剣の刃部分だ。
スイのクラスの前にやって来た。肩から鞄を下ろし、スイに渡す。王敬の入っている方、すなわちスイの鞄だ。
スイの白い手に鞄が触れる。
「ありがとね、みっちょん」手繰る。「……!」
しかし鞄は動かない。三千代が掴んだまま、離さなかった。
「(オーケーを持っていると、他の剣に見つかるかも知れないんでしょ……)」
「(うん。でも、見つけても、見つかっても、なにもいきなり殺し合うわけじゃない。それに、オーケーは強いからね。きっとオーケーを握っている限り、私が殺されることはそうないと思うよ。だから……)」
銅剣が、少女らに続く。
「安心しろ。朕の本領発揮は防御にある。いざという時はスイの身体に緑青の鎧を即座に展開してみせよう。いかなる剣も防いでみせるぞ。」
玩具の剣が、銅剣に続く。
「それにいざとなれば小生とそなたがいるではないか。正義の剣士は、大切な者を守る刻、最も強くなるものよ。」
「(ドンキは黙ってて。それか、心の声的なやつで喋ってよ)」
ぱっ。手を離した。三千代の身体から王敬の声が消える。ずしりと重い鞄をスイは受け取った。
スイは教室を開錠した。こんなに早く学校に来るのは久しぶりのことだった。久しぶりに、教室の鍵を職員室から取ってきた。
「しかし、仕掛けるとしたらこちら側からになるであろうな。」王敬が言った。
「(んえ? なにが?)」
「昨日のそなた達の会話にはひとつ、誤解があった。」
「(ええ? どこ?)」
「強い剣ほど気配が大きい。これは正しい。そして朕は名剣ゆえ、放つ気配は大きい。大物というやつである。しかし――」王敬は強調してテレパシーを流した。「ゆえに朕が敵に見つかりやすいということは無い。」
「えっ」声に出てしまったことに気づき、スイはすぐに口を閉じる。「(どうして?)」
一拍置き、王敬は話す。
「敵が向こうからやって来ることはまあ、ないだろうということだ。向こうに朕の気配は察知されにくい。朕の能力でな、朕は気配を隠すことができるのだ。」
スイはスカートを膝裏へ折って、席についた。膝の上に鞄を乗せている。それから思い出したように蒸し暑く思い、腰を上げた。窓を開けに向かう。
「(オーケーの能力って……錆びること? 緑青を生成することでしょ?)」
スイは目を横に流した。肩にかけた鞄が重い。
「うむ。緑青で体積を増やすことで形状を変えることができる。」王敬は続ける。「近くに居る剣は互いの気配を察知できるが、これは音叉の共振のようなものである。」
「(共振……!)」
スイは、理科の教科書に載っていた図を思い浮かべた。
音の叉と書いて音叉。空洞のくり抜かれた木箱の上にある、金属のU字。ここを軽く叩いてやると、震え、音を出す。「ぴぃーん」と、どこか間の抜けた音を出す。そして同じ音を出す音叉……同じ周波数を持つ音叉を2つ用意し、並べると不思議なことが起こる。片方を叩くと、叩かれていないもう片方も同様に震え、同じ音を出すのだ。これを「共振」と呼ぶ。
「そうだ。その共振である。」王敬はスイの心を読み取った。「あるいは、瓜二つの、湖に浮くヨットかのう。湖に波が立つと、同じ波の上であるから、二つのヨットは同じ揺れ方をする。その時、“通信”が生まれる。」
「(それが、剣同士で起きていると……)」
「剣のみではないぞ。朕とスイ、剣と人間の間にテレパシーを通わせるのも同じ原理よ。剣と人間の形状は似ているのである。」
「(形状が似てる? 人間と剣が? そうかなぁ)」
「ほれ、手刀と言う言葉があるではないか。利き手とその腕が刃、刃を支える胴が鍔、そして反対側の手は柄である。」
「(んなムリヤリな……)」
全ての窓を開け終えた。前髪をかき分け、後ろ髪を窓から流れ込む風になびかせる。カーテンは風を受け、妊婦のように膨らんだ。そしてしぼむ。膨らみ、しぼむ。自然の摂理を可視化したみたいだ。
「肉体もそうであるし、何より魂が似ておる。好戦的な魂がの。ゆえに、剣と人間は、心を――魂を通わせる。」
「(魂の形が似ている……)」
「そうだとも。剣の魂も、人間の魂も、棘を放射状に伸ばす尿路結石のような形である。」
「(もっと綺麗なものに喩えてほしかったな~)」
生徒が一人、教室に入って来た。あまり話したことのない、男子生徒だ。ほんの数秒目で追って、目が合う前に、目を逸らした。
「話を戻す。ようは剣の形状をしているから、剣に気づかれるのだ。それはつまり、このように緑青を展開して金属板の姿になれば――」
「(向こうから気づかれない!)」
「向こうから気づかれにくい。」
「(そんな屁理屈が)」
「通るのだ。」王敬は続ける。「それに、金属板状態でも、こちらから向こうの気配を察知する鋭さは衰えない。つまり向こうから気づかれず、こちらは思うまま望むまま存分に向こうを探すことができるわけだな。」
「(こちらから仕掛ける、ってのはそういうことか~……)」
「いい? ドンキ? 黙ってるんだよ、学校にいるときは。特に授業中!」
三千代はドンキのスピーカー部分に手を当てて、ドンキの人工音声を極力小さくくぐもったものにしようとしている。くぐもった声が聞こえる。
「うむ。心得た。」ドンキの台詞はほとんど「ふぐ。おごごへは。」にしか聞こえない。
ドンキがなんて言ったのかあまり聞き取れないまま、三千代は顔を上げる。周囲を見渡し、ほっと息を吐く。良かった、まだ誰も教室に来ていない。
「ひへ、ほーへーほおごごふあいいいほいぼぶほいほはぼぼぼ。」
流石に何を言っているのかあまりに分からなすぎる。三千代はスピーカーからパット手を離した。しかし椀の形は崩していない。すぐにでもまた覆う所存だった。
尋ねる。
「なんて?」
「して、小生と交わる第一の地獄の使徒は何処だ? と申したのだ。」
「……そうすぐに見つからないよ。それに剣が交わるかどうかはまだ分かんないから。話し合いで解決できるならそうするに越したことはない」
三千代は優しく、諭すように話した。しかしドンキは中二病だった。
「話し合い、か。そう上手くゆくとは思えぬな。――あれは小生が、砂漠で商人に拾われた刻の話なのだが、彼はかなりのお人よしでな。共に、沢山の住民を喰った悪しきデスワームを斃しに向かった。しかし其のデスワーム、口が達者で己を善良な蚯蚓と偽り――」
「シッ。もうそろそろ他の生徒も来るから!」三千代はドンキの刃――ビニール部分をバナナみたいにギリギリ握る。「絶対に黙っててよ、ドンキ。もし黙らなかったら──」
「――なかったらどうだと言うのだ。」
「──体育館裏に埋めるから。あそこの土は柔らかいから。犬も掘り返さないような深度に埋めてやるからね」
6秒、のち、
「承知した。」
それきりドンキは黙った。
しかし少女らの覚悟、決意に反してこの日、学校に“剣”は現れなかった。
二人は一緒に帰宅することにした。スイは部活を休み、三千代も合気道部の助っ人をキャンセルした。
「はて。先日旧棟で感じた剣の気配――あれは間違いのないものだったが。明らかに朕と同種の気配が、およそ2町離れたところに。」
スイの鞄に手をあてて、三千代が尋ねる。
「(ちょう?)」
スイが答える。
「(ええと、2町は大体220メートル……かな~?)」
「そうだ。旧棟は遮蔽物が多く、正確な方角、距離までは割り出せぬが。間違いなく、剣は居た。」
三千代とスイは本棟の姿を思い浮かべた。
「(今日はその気配を感じたりはした?)」
三千代は、スイと王敬、両方に尋ねているつもりだった。
「(いやあ、)」スイの心の声と、
「いや、」王敬の声はほとんど同時に発せられた。王敬はそのまま話し続ける。「全く感じることはなかった。」
うーんと少女二人が唸っていると、ドンキがいきり立ったような口ぶりで、
「(魔女だ! 分かったぞ、三千代! あの刹那、校舎には魔女が潜んでおったのだ! 気配を隠匿させる魔技があったのだ! 王敬殿は銅剣であったが、今度の敵は――魔剣! 魔剣を携えし魔女よ!)」
ドンキは心の声で話せるようになっていた。果たしておもちゃに搭載されたAIに心の声、というか心があるのか疑問だが、とりあえずうるさくはないので三千代は放っておくことにした。
「(ドンキのその魔女に対する執着はなんなんだろうね。よく妄想に登場しているけれど)」
「(小生の此れは妄想ではあらぬ!)」
「三千代殿。しかし慟哭殿の想定するところは遠く外れているわけでもないかも知れぬ。気配を隠匿する技を持つ剣、というのは全然あり得るのだ。土星の日、スイと朕が電車で戦った相手も似たようなものだと、言えなくもないのだからな。」
「(そうだったね)」スイが頷く。
「しかし悔しいのう。朕は慟哭殿に負けて改心し、これからは悪を挫く正義の剣になったのだ。ガラにもなく、勧善懲悪に張り切っていた。だが、――挫かれたのは朕の出鼻であったというわけか。」
王敬の悔しがりっぷりほどではないが、三千代とスイもまた、出鼻を挫かれた感じはあった。というより、それなりに格好つけて覚悟を決めた風になっていたのに初日に何も起こらなかったことが、少し恥ずかしかった。平和に越したことはないが、そういう道理では割り切ることのできない感情がある。
二人とも部活に行かずに学校を出たため、時刻はかなり早かった。途中、公園に立ち寄り木陰の下に座って休憩をした。
「暑いなあ~。明日から日傘持ってこよう」スイが言った。
「私もそうしようかな」三千代が続く。
七月も終盤だ。夏はまだまだ長い。
公園での休憩は十五分ほど続いた。
スカートを折って少女らは立ち上がった。立ちくらみしないよう、ゆっくりと。そのとき、
「思い出したぞ。」王敬が言った。「先日の剣の気配はどうも様子がおかしかったのだ。」
三千代が、王敬の入っている鞄の方を見る。
「(おかしかった?)」
「うむ。剣の気配というのは近づけば濃くなり、遠くなれば薄くしか感じることのできぬものだ。宙に浮く星には、くっきりと目に映る眩く輝く一等星から、目を凝らしてようやくちいこい点を認識できる程度の五等星、六等星、それ以下の低級等星があるであろう。それと、同じことだの。」
スイは遠くの恒星がここからでは小さな豆にしか見えない様を思い浮かべる。
「(それで、220メートルも離れてたら、気配は……)」
「当然、薄くしか感じることはできぬ。いや感じることができただけでも、向こうは相当強い剣であることの証左だの。これも星と同じことである。遠くにあるが強く輝く星は、近くにあるだけの弱い星よりも、見えやすいものであろう。」
「(なるほど。本来なら相当大きな気配のはず、なのか)」三千代が言った。
「しかし不思議なのだが。」王敬は続ける。「気配は移動せず、暫く場に留まった後、消滅したのだ。こちらに近づいて濃くなることも、また遠のいて薄まることもなかった。瞬いたかのように、点滅したかのように、気配が消滅したのだ。気配はそこの一つのみで、剣同士の交戦によって破壊されたとは考えにくい。とどのつまり、おかしなことだ。」
スイは昨日の会話を思い出す。
「(でもオーケー? 土曜日に私らが戦った、どぶ川色の剣。あれには気配を消す能力があって、オーケーの探知に引っかからなかったって話だったでしょ)」
「いかにも。」
「(そういう感じでさ、剣の能力で、気配を消したんじゃない? 昨日のやつも似たような剣が正体で。そういう能力の剣がいたのかもよー)」
「その可能性は充分ある。剣の能力だ。気配を消すでなくとも、朕のように、形状を変形できる剣であれば――あるいは。」
「(そうだね)」
「(小生の申した通り。やはり魔女だったのだ。魔女は魂を偽装し、其の正体を隠しておったのだな。)」
「(ああ、もう、ドンキはうるさいなあ)」
三千代はため息を吐いた。
「今日は泊ってかないの?」
スイの上半身が左に傾く。その分だけ髪が揺れた。
「うん。二日連続ってわけには……。それに明日は体育があるから。家に帰って体操服を取りに行かないと」
手をひらひらさせる様子を見せ、最後に「じゃ、」とだけ言って、三千代は向こうを振り向いた。
スイと別れた直後、三千代は住宅街を闊歩する鹿に出会った。駄菓子屋で飼われているかのりちゃんだ。
「あら、かのりちゃんだ」
「なにっ。おお、小生の生涯の相棒よ。三千代、小生をこの狭く薄暗く薄汚い鞄から取り出せい。この蒼眼に友の姿を映したい。」
「ちゃんと洗濯してるよ……」
ぱっぱと鞄を払い、中からおもちゃの剣を取り出す。刃の部分まで外に晒しては恥ずかしいので、真っ赤な柄と安っぽい金色の鍔のあたりまでしか、鞄から出してやらない。ドンキの言う「蒼眼」とは彼のカメラレンズ──鍔の側面中央に埋まった青いビー玉のようなレンズのことだから、これで充分かのりの姿は見えるはずだ。
「どう?」
「会いたかったぞ、天下乗。」
ドンキはかのりのことを「天下乗」と呼ぶ。
「三千代よ。」
「なに? オーケーがいないとテレパシーで喋れないんだから、あんまり外で声出さないでよー」
「ま、いいではないか。それよりも、三千代。そなた、天下乗に乗ってみてはどうだ? 侍は獣に跨って駆けるものだろう?」
「私って侍だったの?」
構っていられない。三千代は歩の速度を落とさず帰路をなぞる。
一歩、また踏み出した。そこは大きな建物の裏になっており、急に視界が一段暗くなった。大きな影。暑い日にはありがたい。
「ああ、ちょっと涼しい──」
「──!!」
突然、後ろから声がした。
「三千代!」
スイの声だ!
慌てて振り返り、三千代は叫ぶ。「何かが起きた」ことは確定している。
「スイ!」
「“剣”が現れた!」
スイの言葉に、三千代はすぐさま、肩から鞄を抜いて地面に落とす。柄を掴んで離していなかったので、鞄の落下と共に、ドンキがずるりと引き抜かれた。
大きな建物の裏面に背中を向ける。上半身上腹部よりも上をひねって周囲を見渡す。右に、駆け寄ってくるスイの姿を確認。左へと道が続く。前方にはトタンの剥がれた古い、廃れた家屋があった。何かの店か、もしくは小さな加工所のように見える。いずれにせよ人は居ない様子で、薄茶に汚れた窓の向こうにはガラクタがうず高く積まれていた。その少し左に視線をスライドすると、広めの路地裏が目に入った。
「(こんなところ、あったっけ!?)」
長く住んでいる町といえど、普段は気にもしせず、ずっと見落とし続けてきた場所というのはあるものだ。
「かのり! そこに隠れていて!」
背中をぐっと押して、鹿のかのりを路地裏へと誘導する。鹿は人間よりも胴の太いものだが、かのりはまだ成長途中の雌で小ぶりな方でもある。ぎりぎり通れるだろう。路地裏の向こうには光が見える。通り抜けることができそうだった。
「急いで!」
「三千代。小生に任せろ。」
ドンキは声高らかに言った。三千代が遮る前に、
「天下乗よ。征け、征くのだ。」仰々しい口調はいつも通りだったが、声色が少し違った。「今、この場に凶悪な魔女が接近しようとしている。そいつは世界の支配を目論む、飛鳥より蘇りし原始の大魔女に違いなかろう。――ふ。安心しろ。小生、やられるつもりは毛頭無し。さ、天下乗。小生の無二の相棒。路地裏で、世界が救われる様を見ておれ。」
かのりは頭を小さく下げ、かつかつと路地裏へと歩いていった。
ドンキは声をいつものに戻す。
「動物を懐柔しやすい声色を出した。良い侍とは、動物に好かれるものよ。」
「どっかで聞いたことのある言い回し……。」三千代はホッと短く息を吐く。「でも、助かった」
スイは三千代の隣まで来ていた。彼女の家からここまで、全然離れてはいないが、彼女は全力疾走で来たのだろう。肩で息をしている。
「ぜえ、はあ。ぜえっ」
手には銅剣が握られている。王敬。金属板形態を解き、本来の姿──西日の如く赤く輝く銅の剣になっている。
「スイ、無理して喋らないでいいよ。オーケーを通じて話を聞く」
三千代は空いている方の手の人差し指で、王敬の刃の真ん中に走る線──“鎬”と呼ばれる線に触れた。
「三千代殿、慟哭殿。スイの叫んだ通りである。剣が現れた。」
「(距離は?)」
三千代は声を心内のものに切り替え、尋ねた。
「一町と二十八間、二十五間、二十二間――」
王敬は答えてくれたが、古典的な計量単位系で三千代には伝わりずらい。戸惑っていると、王敬のテレパシーをすぐにスイがメートル法に訳してくれた。
「(百六十メートル、五十五、五十……どんどんこっちに近づいてきている!)」
「そんな!」三千代は声に出してしまった。
あと十何秒後には、剣がここに現れるのだ。
「此れは、昨日朕が学校本棟に感じた気配ではない。こちらに気づいており、かつ、気配を思うまま点滅することが可能ならば――このように猛スピードでこちらに接近する必要は無いのだ。ゆえに別の剣であろう。」
王敬のイメージがテレパシーで伝わってくる。剣がどんどん近づいてきているのが分かる。
「とりあえず、あそこの影に隠れよう!」
三千代の指さす方を見てスイは頷く。
高い建物の壁にくっ付くようにして、二人は背中を合わせる。これで死角はほとんど無いはずだ。空から落ちてくるか、地中から出てくるかでもない限り……
「(……いや!)」
スイはかぶりを振った。
「みっちょん、おかしい。」
「ええ、なにが?」
「相手との距離は既に百メートルを切ってる。おかしいんだよ。視認できなきゃ──」
スイが言い切るよりも先に叫んだのは、ドンキだ。
「上だッ! 三千代、スイ!」
──三千代は、接近する敵を威嚇するため、ドンキの刃を地面と水平になるように持っていた。居合切りの構えに近い。相手の突撃に対して大きく薙ぐことができれば、たじろがせることができると考えたためだった──
それが功を奏した。刃が地面と水平になっていたということは、鍔に埋め込まれていたドンキの眼──カメラは空を映していたことになる。ドンキは、建物の上から落下するように壁を駆け降りる一匹の獣の姿を捉えることができたのだ。
「なっ!」
三千代はスイの肩を強く押し出した。
「きゃあ!」
スイの肉を押した反動を利用して、三千代自身も後方に大きく下がる。二人の空けた空間に、獣は勢いよく墜落した。がこぉ──ん。銃声のような激しく、それでいて短く硬い音が弾ける。
土埃が立つ。といっても地面は硬く、きめの細かい砂が帳となって広がるほどではない。薄い霧のような埃の向こうに、剣と、剣士の影をはっきりと確認できた。
剣は、剣士の腰に、閂のように横を向いて挿されていた。それをゆっくり引き抜き、剣士は空へめがけて高く掲げた。刀身は細い。剣というよりも、大きな針のように見える。避雷針みたいだ。次の瞬間──
ひゅううろろろろ。
不思議な笛の音がした。
宙を舞っていた埃が空気にかき消されて、剣士と剣の姿がより明らかとなる。
剣士は目を閉じて、横笛のように、剣の柄を齧っていた。
ひゅううろろろろ。
そして、剣士は手を離し、地につけた。四足歩行の……そう……獣みたいだ。
「なんと! 人だったか!」ドンキが声を上げる。「獣に見えた。」
スイが続く。
「私も。野生動物か何かかと……」
スイの身体は、巨大な青い高杯のようなもので支えられていた。なめらかな器のような部分に、スイが尻をついている。三千代の手に力いっぱい押し出された後、王敬が即座に緑青を生成、展開し、スイの転倒を防いだのだ。
緑青の高杯は、底に生やしてある触手のような、根のようなものをうねうねと伸ばし、リクライニングチェアみたく前面へ動き、スイを立たせた。
「ありがとう、オーケー」
「よい。」感謝に対する応答を最小に済ませ、王敬は続ける。「さて。あの剣士は言葉を交わせる様子にないの。それに、明らかに朕らに攻撃の意思があった。スイ。そなたの身体、朕に預けてはくれぬか?」
「分かってる。私が動いても、みっちょんの足手まといになるだけだからね。エヴァのダミーシステムみたいに、今回も頼むね」
「ダミーなんとかとは、なんなのだ?」王敬は『エヴァ』を知らない。「ともかく、うぬ。頼まれた。」
瞬間、スイの身体に、投網が上から広がり被さったかのように、青い網が無尽に走った。
「もう絶対、みっちょん殺そうとかしないでよ。それと、あの敵っぽい剣士も殺さないで。人を殺そうとしないで。それが、私を使う条件」
「分かっておる。慟哭殿のように、人を生かす――正義の剣となろう。」
左から右へ流すような一目で友人の身の安全を確認し、そのまま三千代は獣の方に目をやった。
「いくよ、ドンキ」
「応。」
ひゅーうーうぅろろろろ。
この時、笛の音が乱れた。
獣を見る。低く背を屈めているので、正確な背の丈は分からないが、自分達よりも数歳年上のようだ。高校生くらいだろうか。制服を着ている。白い半袖も、紺のスカートも、ここらでは見かけないが高校のもののように感じられる。そう、スカートを履いている。剣を挿していたのは、スカートのベルトループのところだったと分かる。
明るめの茶色い髪がばさばさと揺れてる。スイほどではないが、長い髪の持ち主だ。また、スイのようなストレートではなく、ゆるふわとした髪で、ステレオタイプ的な言い方になるかもしれないがいわゆるギャルっぽい風貌をしている。
四足で低く構える獣の正体は、高校生ほどの少女だった。少女といえど、三千代やスイから見ればお姉さんにあたる。面識はない。
「ふむ。魔女ではないな。」ドンキが言った。
「知ってるよ……」
ドンキとこうしてだべっている暇などない。三千代の頬に汗が一筋走る。暑さのための発汗とはまた異なる。冷えた汗だ。
「(にしても……)」スイは眉を寄せる。「(動かないね)」
「油断するな。朕も見たことのないような剣であるが、この世界に送られてきたということはそれなりに強い剣に異ならぬ。」
「うん。……ねえ、オーケー」
「なんであるか。」
「剣士の方はどうなの? こっちの世界の人間相手でも、意思の無い者になら、オーケーは緑青を一瞬で浸食させることができる、って」
土曜、電車の中で戦った大男の像が脳裏によぎる。剣に操られた人間。人間の挙動を超えた、意思の無い傀儡。王敬は緑青の蔓を絡めることで一瞬にしてその動きを封じてみせた。
あれと同じことを、今回も再現できるのか。
「いや。まだ確かなことは言えぬが、恐らく無理であろうな。あ奴は剣の傀儡となっておらぬ。自らの意思で、こちらに剣を向けておるようだの。この距離から見たところ、だが。」
「そんな」
「ゆえに、朕の緑青で無力化することは難しかろうな。殺さず、となればなおのこと。」
王敬の声は、接触していないと人間には通じない、テレパシーである。今の発言は三千代には聞こえていないだろう。スイがスピーカーの役割を担う必要があった。
「三千代。」この場面でみっちょんと呼ぶのは憚られた。「気を付けて、この人、剣には操られてな──」
突風が吹いたかのように──獣のような剣士は動いた。向かったのは三千代の方だ。犬搔きのように、両手で股の下の地面を叩き、グンと前へ飛び出した。
「(スイの言葉──! この人は自分の意思でこんなことをしているのか! でも、コレが剣に操られていない人間の動きなの!?)」
動揺しつつも、三千代は横へ跳んで獣の突進を避けた。褐色の肌から無数の小さな水の玉が飛び、煌めいた。
「三千代!」
「三千代!」
ドンキとスイが同時に叫んだ。
三千代は半円を描くように動き、獣から距離を取る。
「大丈夫。」とは言うが、「でも……」
野犬か何かを相手にしているみたいだ。
三千代は良識のある人間である。鐘楼での王敬との戦いは例外だが、これまでスポーツの場を除いて誰かと戦ったことなどない。それも、全て人間相手だ。目前の者もまた人間ではあるはずなのだが、野犬か、大型の猫科動物にしか感じられない。三千代は、他の大勢の女子中学生がそうであるように、獣を相手に戦ったことはなかった。
ひゅううろろろろ。
「なんなの、この剣」
三千代はそう言って、ゆっくりと、スイのいる方向に足を運ぶ。肩と肩が触れた。
王敬の声が聞こえるようになる。
「朕も見たことのない剣であるが。――うむ。名付けるのなら、獣笛の剣といったところか。」
「笛なのに剣なの?」スイがツッコむ。
「剣はなんでも有り、である。慟哭殿も、玩具のような姿にして、れっきとした剣ではないか。玩具かつ剣。――なれば、笛かつ剣、が在っても当然である。」
「ドンキは玩具のような、っていうか玩具そのものだけど」
三千代の言葉を無視して王敬は続ける。
「あの獣の咥えている剣をよく見よ。白い、が、純白では無いであろう。やや黄ばみを帯びている。それに、金属のものとは異なった風の光沢が見える。」
「骨?」スイが目を凝らしながら言った。
「骨である。骨の中でも――」
「牙か。」ドンキが、王敬の言葉を遮るようにして言った。「聞いたことがある。森の奥深くに、咆哮ひとつで山を崩すほどの巨大な老いた虎がいると。その猛虎の牙を研ぎ、剣にしたと言うのか!」
全て嘘っぱちである。ドンキは、王敬たちの出身である別世界に行ったことなどない。いつも通り、中二病的ハルシネーションから出た嘘である。しかし王敬はこれを信じた。
「慟哭殿は物知りであるなあ。朕は、動物の種類までは特定できなかった。――ふ。朕もまだまだだの。」
「オーケーも、ドンキの言うこと信じなくていいから。」三千代は、獣の口元に焦点を定める。「でも、あの剣が何かの動物の牙であることは間違いない。それで獣笛っていうのは──ああ、確かに、穴が開いてて笛みたいになってる。さっきから聞こえてた不思議な音は、あの剣のものだったのかあ」
獣の口に咥えられた牙の剣には、鍔の先から無作為にぽこぽこと虫の食ったような穴が開いていた。あの「ひゅううろろろろ」という不思議な音は、刀身にぼこぼこと穴が開いているためのようだ。
ひゅううろろろろ。
笛の音は、四足の剣士の呼吸に合わせて鳴った。彼女が激しく動けば呼吸も荒くなり、鳴る頻度は高まって音も乱れるのだろう。しかし今のことろ笛の音が乱れている様子はない。
「警戒しているようである。」王敬が言った。「まさか名剣クラスの剣が二本集まって居たのだとは思わなかったのであろう。」
「……」
三千代は思い出す。
確か敵の彼女が上から登場したとき、三千代は「いくよ、ドンキ」と言い、ドンキも「応」と答えた。それでどうやら、ドンキのことを名を持った特別な剣──“名剣”だと勘違いしてしまったのだろう。
ドンキは名剣でもなんでもないんだけどね、と言おうとして三千代は直前でやめた。敵が良いように勘違いしてくれているのを、わざわざ親切に教えてやることもない。なんなら利用できるかもしれない。そう考えた。
獣笛の剣と獣のような剣士は、いまだこちらを警戒していた。向こうから襲ってきたのに勝手なものだ。足をうろうろ動かしてこちらを窺う様子は、やはり野生動物のそれに見える。
ふと、気づいたことがあった。
「さっきから音が全然聞こえない」
三千代が言った。スイがこちらを見る。三千代は続ける。
「カラスの鳴く音、道路を走る車の音、海から吹く風の音……。何も、聞こえない」
「あ……」スイも言われて気づいた。しかし。「でも、三千代の声は聞こえてるじゃん。それにあの不思議な笛の音も」
ひゅううろろろろ。
「ふむ。」ドンキの人工音声が囁く。「それが、あの剣の“力”なのであろう。強き剣には特別な力が宿っていると王敬殿から聞き申した。あの笛の音、小生のマイクで分析してみたが、不思議な波形をしている。」
「不思議な波形をしていると、どうなるの」三千代が唾をのんで尋ねる。
「半径十メートルあまりの範囲に音の穹を築く。外部音波が該当領域へ侵入しそうになろうが、穹となっている笛の音がそれを阻む。対象音波を相殺し、結果として内部に雑音が入って来ぬのだ。反対に、しかし同じ原理のもと、穹内の音が外へ漏れることも無い。」
「つまり?」
「つまるところ。笛の音で作られたドームにより、ここ周辺にはノイズが入らぬ。またドーム内の音も外には聞こえぬ。更につまるところで言うと、聴覚的に閉鎖された空間となっておる、ということなり。」
「どれだけ騒いでも、外には気づいてもらえないってこと?」スイがドンキのカメラに目を向ける。
「いかにも。」
「ううーん。ドンキは無駄に性能が高いおもちゃだからね……。もしかしてこれはただの中二病的なアレではなく、正しいことを言ってるの?」三千代の声には疑問符が付いている。
「小生は常に正しいことしか言わぬ。」
事実、ドンキの分析は当たっていた。音のドームで空間を閉じる……これが、獣笛の剣の特別な力のうちのひとつだった。
「特別な力は、二つあるようだの。」王敬が言った。
もうひとつの、獣笛の剣の力。こちらは分かりやすい。ひと目見れば分かる。
「来る!」三千代が叫ぶ。
獣笛の剣士が、こちらをめがけて駆け出した。四足がダダンダダンと地面を揺らす。口に咥えられた骨の──牙の剣が地面と水平に空間を裂き、こちらへ迫る。
獣笛の剣の、もうひとつの力──
剣士を獣にしてしまう力だ。