銅の剣 中
別世界よりやって来た銅の剣・王敬と出会って1週間と経たずの日のことだった。スイの薄々不安に思っていたことは、金属の削れる嫌な音を上げて実現した。つまり、「これから何かに巻き込まれるんじゃないか」と思っていたところ、何かに巻き込まれた。土曜日、スイが電車に乗っていたときの話だ。
────
その日、隣町で石のマルシェがあった。鉱石や天然石、貴石、ちょっと珍しい石の展示販売会だ。学校では科学部にも所属しているスイ。理科全般が好きで、その興味は鉱石類も例外ではなかった。
イベント前日、スイは友人の三千代を誘ったが彼女はその日、剣道の練習試合があるとかで断られてしまった。彼女、帰宅部なのに運動神経が良すぎて部活の助っ人に引っ張りだこなのだ。これでは「帰宅部」というより「十を超える運動部を兼部している」と言った方がいいんじゃないかと、スイは常々思っている。ともかく石マルシェには一人で行くことにした。
当日、家で、テレビを見ながら昼食を済ませる。ワイドショーでは、動物園から猿が脱走したというニュースが流されていた。これも隣町の動物園だった。といっても石マルシェの会場と近いわけではないし、普段から鹿の闊歩する街に住んでいては、今更猿が怖いとも思えなかった。これから行く街の話題なので「タイムリーな話だなあ」とは思ったが、何も気にならなかった。
「いってきまーす」
ドアノブにかけている外出用の手提げかばんをひったくって家を出る。
半袖のシャツにゆったりと口の広いズボン、そして薄い布の手提げかばん。荷物も少なく足取りが軽い。
異変に気付いたのは駅のホームである。筆箱とルーズリーフの数枚入ったクリアファイル、それと財布、携帯、これくらいしか入れていないはずのかばんが、やけに重い。
慌てて口を広げると、何か金属類の板が入っていた。これでは重いわけだ。
「んなっ!」
咄嗟に声に出してしまい、周囲をきょろきょろ見る。駅は人が少なく、それに誰もスイのことを見ていなかった。それでも恥ずかしい。
この金属板は何なのか。もっとかばんの口を広げて、光を入れる。どんどん姿、色がくっきり見えてくる。綺麗な青っぽい緑。
銅か。
銅は、緑青と呼ばれるその名の通り青や緑っぽい錆を表面に作る。
「まさか、オーケー?」
スイは剣の名前を呼んだ。小さな声で、かばんの口に向かって。
しかし何も答えない。
「はぁあ」
スイは、左手をかばんに突っ込んでがっしと金属板を掴んだ。ざらざらした質感。間違いない、銅だ。緑青を身に纏った、錆びた銅の板。もう一度呼びかける。
「オーケー?」
「うむ。」
「わっ!!」
でっかい声が出た。駅ホームにいる数少ない人々が、一斉にこちらを見た。スイはカッと頬を紅く染めた。
銅板は王敬だった。ふだんは、今のスイの頬みたいに鮮やかな赤色をしているが、今はサビにまみれて青っぽい緑をしている。それはそれで美しいが。それよりも形状が気になる。ふだんは剣そのものだが、今は板である。錆びた銅板でしかない。
いそいでトイレの個室に駆け込む。
「オーケー!? なんでついてきて……っていうかどうやってついてきて……っていうか見た目変わってない?」
質問がありすぎる。王敬はまず最初の質問に答えた。
「そなたがどこかに出かけようとしておったからに決まっているのだ。そなたの行く学校とやらは月の日、火星の日、水星の日、木星の日、そして金星の日にしかないはずだ。土星の日と太陽の日に外出するなど不自然ではないか。」
それから続けざまに、
「そなたはなぜ、此の姿の朕を、朕と分かったのだ?」
「そりゃ、緑青を纏ってたからだよ……。緑青は銅の特徴だし、私が持ってるでっかい銅っていったら……最近拾った、キミくらいだからね~」
「“君”ではない。王敬である。」
「はいはい、オーケーオーケー。で?どうやってついてきたの?どうしてそんな見た目なの?あ、いや、そんな見た目なのは、錆びたからだろうけど、どうして急に錆びたんだろう?」昨日まではきらきら眩しい赤い銅だったのに。
「銅板が入っている」と意識してしまうと途端に重く感じてしまい、スイはとりあえずかばんをフックにひっかけた。個室トイレ内のドアにある、上着などをひっかけておくためのフックだ。かばんの布越しに、銅板と化した王敬に触れる。王敬は丁寧に答える。
「“名剣”は特別強い、といったではないか。特別なのだ。特別な力がある。幸運にも、その例のひとつをそなたは今目の当たりにしている。」ほれどうだ、といったふうに言う。「朕はこのように自在に緑青を操ることができるのだ。錆は表面だけでなく周囲まで広げることができる。火山の噴火によって体積を大きくする島のようにな。」
それで、自身の体積を錆で拡張し、完全に一枚の板になったというのか。スイはおもしろくってため息をついた。
「いろいろできるんだねえ」
「この錆を広げたり元に戻したりを繰り返し、多少は自分で動くことができるのだ。蛞蝓のごとく地を這う移動ゆえ、朕もあまり好かぬがな。」
「そうやってかばんに忍び込んだわけね」
王敬はおしゃべりだが、やかましいわけではない。王敬はあくまで触れる者にテレパシーを流し込むことができるだけだ。大声で喚くわけではない。だからスイも、外についてきた王敬を咎める気はそこまでなかった。
「しゃーない。じゃ、オーケーもついてくればいいよ」
「うむ。そうさせてもらう。」
「ええと。オーケーは、学校がないはずの土曜日に私がどこに行こうとしたのか、気になったんだよね。」
「そうである。」
「石マルシェだよ、石マルシェ」
「ほうマルシェ。市場のことか。」
「そ。石マルシェだから、石の販売会。鉱物とか鉱石もいっぱいあるよ。だからオーケーみたいな銅の塊持ち込んでもまあ、不自然じゃないかもね~。オーケーの仲間もいるかも」
「ふ。朕の仲間は鉱物ではない。剣だ。履き違えるでない。」
「そうなの?」
スイはドアを開いてトイレから出た。丁度、電車が来ていた。
慌てて乗り込む。
電車はがらがら空いていた。シートの両端こそ人が座っているが、それ以外は全て空いている。スイはてきとうに近かった席に座る。
隣町までは一駅しかないが、それが少し長い。電車も、観光を意識しているというか、のろのろ走るので、外景を乗客がじっくり見れるようになっている。確かに窓から見える海は綺麗だが、何年も住んでいるとどうでもよくなってくる。「海なんてどうでもいいからさっさと走ってくれよ」とまでは思わないにしても、スイもわざわざ窓の外の海を眺めようとはしなかった。
スイは膝の上の手提げかばんに両手を重ねて置く。こつんと硬い感触。銅板、もとい銅剣、もとい王敬だ。王敬の思考が、触れている手を辿って思考器官ににゅるにゅる伝わってくる。王敬は今、文句を言っている。
「こら。目を開けぬか。朕の視覚は、触れている剣士の視覚だ。そなたが目を閉じれば何も見えぬではないか。」
「(そうなの?)」
言われたとおりにしてパッと目を開く。
「うむ。――海か。」
海が見える。青いインクの入ったバケツを浴槽にひっくり返したような、一色の海。グラデーションもくそもない。が、これが好きだという人もいるのだろう。そんな感じのシンプルな海だ。
「(もう十数年も毎日見てるとねえ)」
「なに、そなたは飽きたというのか。」
「んっ?」
「どうしたのだ。」
「(あれ?今私声出てたっけ)」
「そなたはさっきから一言もしゃべっておらぬぞ。朕が勝手にそなたの心を読んでいるだけである。」
「げっ」
「今のは、声に出ておったがの。なにが、“げっ”、なのだ。」
「(心読めるの?オーケー?)」
「当然である。剣と剣士は一心同体。考えることが同じ、と言う意味ではなく、な。――互いの考えが分かる。それこそ真の一心同体なのだ。」
「(フーン。まあ、電車内で一人で声を出さずともキミ──あ いや──オーケーとしゃべれるのはいいね。丁度、暇だったし。ねえ次の駅までこうやって喋ってようよ)」
電車は動き出したばかり。次の駅まで、歌でいうなら2曲分はある。
「(私の友達にみっちょん──三千代ってのがいてね。その子は運動神経がと~ってもいいから、剣道もできるんだ~。だから、オーケーを振るうなら、私より、みっちょんの方がいいかもね)」
「しかし朕を拾ったのはそなただ。そなたに振ってもらわねば困るのだ。よし、今日から一日二十回、庭先で振ってみせよ。」
「(う、うちの庭って駐車場のこと? 父さんが仕事行ってるときは確かに空いてるけどさ~。塀とかないから、外から丸見えだよ、恥ずかしいよ。)」
「恥? 剣士の恥とは負けること、そのひとつのみではないか。」
「(そうだとして。私は剣士じゃないから!)」
それに、戦のないこの時代、なんのために剣を使うというのか。スイはそう思った。思ったということは王敬にそのことを読まれているということだったが、王敬は何も返さなかった。
「(あとオーケーってふだんは思いっきり剣の見た目じゃん。誰かに見られたら銃刀法違反でタイホされちゃうかも)」
「この世界では剣の所持が禁じられているのか?それに銃と剣を並べるとは何事か。銃など、獣程度しか殺せぬでないか。」
「(この世界では、銃で撃たれても刀で斬られても、等しくダメなの!人体っていうのは!)」
「おお、そうであった、そうであった。なんと脆い。」
少し考えるためか間を置いてから、再び王敬は、
「ともかく銃刀法違反という悪法が悪さをしているのだな。」
「(あー銃の所持が認められている国もあるみたいだから。探せば剣を持っててもいい国もあるかもしれないけどね)」
言っていてスイはふと思い出す。『シャーマンキング』なる漫画で、でかい薙刀を日本に持ち込んできた少年がいたではないか。あれはたしか、薙刀が相当古いもので、刀類ではなく骨董品として扱われたため、法にひっかからずに持ち込めた……みたいな説明があった気がする。そんなことを思い出したということは当然、「そんなこと」は王敬にも伝わった。
「では、剣の形状を保ちつつも、身を緑青で覆おう。アンティークを装うのだ。そうすれば骨董品扱いとなり、携えることも許されよう。そして、庭先で見せびらかすように朕を――剣を振るうのだ。」
「くっ」ちょっと笑い声が出た。「(は~。どこに骨董品の剣をぶんぶん振り回すやつがいるんだよう)」
しかし緑青で覆われた剣というのはかっこいいかもしれない。緑青は古来より芸術的な美しさが認められている。ニューヨークの自由の女神像、ヴェルサイユ宮殿の屋根装飾、それに鎌倉の大仏なんかがそうだ。
「(そういえば“別世界”では、ええとなんだっけ、確か稲か何かで……)」
「イネ科植物で作られた模擬刀のことか?」
「(そうそれ。模擬刀で、人々は剣の練習をしているんだよね)」
「いかにも。」
「(模擬刀を使った戦いでも、負けた人は死んじゃうの?植物で作られてたって剣は剣でしょ?)」
「いや、そんなことはない。植物性の材料から作られたものは模擬刀というカテゴリに入る。これは剣とは異なるものだ。人を殺せるものは剣のみ。模擬刀では人は死なんよ。それに、剣で死ぬとは誇りのために死ぬということ。訓練とは練習。練習に負けた程度で誇りが死ぬ者はおらぬ。」
「(はぁーん。複雑だねえ)」
「剣とは、基本的に無機物を材料に創られたものなのだ。冷たい金属に叩かれてこそ、人体は敗北を認めるものなのだ。」
「(ふ~んッ!」心の中で留めようとしていた声が、つい出た。電車がひどく揺れたのだ。「な、何?」
「どうしたのだ、スイ。」
「分からない……」もはや声は素直に放たれた。「電車が揺れた。」 車内で人々がざわざわ騒ぎ、スイ一人の声など誰も気にしない事態になっていたためである。スイもまた、騒ぎのうちの一人でしかなかった。「何が起きたの?」
元々スイと王敬のいる号車には、7,8人ほどしか人が座っていない。そこに他の号車から人々が、わっとなだれ込んできたのだ。30を超える人間が扉を強引に開き、流星たちのように。スイが「あの、何が、」と聞くよりも先に流星の一つが叫ぶ。「人殺しだ!」 途端に、元々この号車に座っていた6,7人も血色を変えて一斉に立ち上がり、流星群へ合流した。かれらは一斉に、もっと奥へと駆けていった。
────
窓の外は景色を変えていない。ずっとシンプルな海だけが見えている。あとどれくらいで次の駅に着くのか分からない。
スイはひとり、ぽかんとしていた。車両はがらんとしている。
「聞こえたぞスイ。人殺しか。」
人殺しが現れた、らしい。
「……」
ライオンから逃げる水牛の群れのように、どどどど、と乗客たちが先頭車両を目指して走る。電車は既に東へ向かって進んでいるのに、その中でもっと東へ進もうとする人々。既に動いているエスカレーターで歩くくらい無意味なことだ。
シートに根を張ったように少女だけが動けずにいた。
「スイ。どうする。」
王敬からの何度目かのテレパシーでついにハッと意識を覚醒させる。
「ど……うする、ったって。逃げるしか、」
言いかけたところで。「ぬっ」という擬音さえ聞こえそうなかんじで大男がこの号車に入って来た。向こうの号車からやって来たらしい。白い半袖のシャツにべっとり赤い血がついている。手には、剣が握られていた。木目模様というべきか、木星の縦縞模様というべきか、ダマスカス鋼のダマスク模様というべきか、とにかく不思議な模様の剣だ。ああ、分かったあれだ、とスイはついに適切な表現を思いつく。あれに似ているのだ、色合いといい、模様といい、誰かが洗剤を捨てて虹色に汚れたどぶ川。それそのものが、剣の見た目だった。
電車は8両編成。スイの座っているのは3号車。2号車へ繋がる扉の向こうには誰も見えない。きっと他の乗客は全員、最先頭の1号車に行ったのだろう。
再び大男の方を見る。ゆらゆらゆっくりこちらに近づいている。恐ろしいが、目を離せない。手が震える。かばんの布を小刻みに撫で、そのたび布越しに銅板の冷たさが伝わった。
視覚を共有しているのだから、「人殺し」と思われる大男の姿は当然、王敬にも伝わっていた。大男の握る剣もまた然りである。
大男の握る剣は、自身と同じく「別世界」からやって来たものであると、王敬は気づく。
「スイ。朕を見てみよ。」
どうすればいいか分からないでいたスイは、とりあえず聞こえた声に従う。かばんを開けて声の主──テレパシーの主、王敬を見る。見ると、王敬は錆びた鉄板の姿をやめ、もとの真っ赤に輝く剣になっていた。薄暗い電車の電灯を反射して、見事に煌めいていた。柄に触れる。
「他の人間は奥へ逃げたか。朕は別に、そなたも逃げれば良いと思っておる。だが――動かぬのだろう、脚が。」
その通りだ。スイは動けずにいた。単純に、恐怖によって。今も男はこちらに近づいている。どぶ川色の剣をきりきりと引きずりながら。
「どっどうしよう、オーケー」
「どうする、と最初に尋ねたのは朕の方だ。そしてそなたは逃げると答えた。が、それも無理だったようだな。」一拍置いて、「腹を括れ。」
「え?」
「覚悟を決めるのだ。」
「は…か、」
「朕に置いた手をどけよ。握るのだ。手に取って振るえ。」王敬の言いたいことはつまるところこうだ、「戦え!」
「む、ムリっ!」
ひゅおっ。風を切って剣が振り下ろされる。スイが咄嗟に目を閉じる前に一瞬見えた、大男の目は虚ろ。それだけ瞼裏に焼き付けて、残りの時間は「ああ私死んだ」と思って過ごした。
「そうであろうな。ではそなたの肘より先を貸してもらうぞ。」
声が聞こえた。体にこだまする王敬の声。
目をあけると、スイは右手に王敬を握って、頭上に掲げていた。腕がびりびりする。スイは、王敬をつかって、大男の振り下ろしたどぶ川色の剣を、受けていたのだ。ぎりぎりと剣と剣が摩擦する。
あれ、私、生きてる。スイは生理現象としての涙を流した。
声も出ないでいるスイに、王敬はまったくいつもと変わらぬ冷静で王様な口ぶりで話しかける。
「この大男の剣。朕と同じく“別世界”から送られてきたものに間違いない。今この鍔迫り合いの最中もこっちにキャンキャンと甲高いテレパシーを飛ばしてきおっているわ。鬱陶しい。」
「……」
大男もスイもしゃべらない。王敬の話では、大男の握るどぶ川色の剣は今、王敬と同じようにテレパシーを飛ばしているらしいが。スイには聞こえない。剣の声は、剣同士か、剣の所有者にしか聞こえないのかもしれない。
王敬は続ける。
「万国共通条約によって“名剣”がこっちの世界へ送られたとき、同時にいくつか別の剣も送られてきたのは本当だったらしい。」
「え?」
「朕たち“名剣”以外の剣もいくつかこっちの世界に来ている。そなたの眼前にいるこのどぶ川のような剣はその一本。恐らく、大犯罪者のだれかが使っていた剣か。」
王敬の話を飲み込みながらも、スイは別のことが気になっていた。
「私の体どうなって……」
「言ったであろう。そなたの肘より先を貸してもらった。」
見ると、王敬は美しい赤色の刃をしたまま、柄の部分は緑青で染まっていた。そしてその先から根を張るように、緑青の錆はスイの腕に絡むように広がっている。
「このどぶ川、さっきから甲高い声で朕を挑発しているが。はん、貴様ごとき、従者を座らせたままでも勝てるわ。」
言った次の瞬間、スイの腕は自分以外の意思でグインと激しく動かされた。王敬が横に振るったのだ。剣と剣がぶつかる。どぶ川剣との間に鈍い金属音が弾く。どぶ川剣は握っていた大男ごと後方へ吹っ飛んだ。
スイは一ミリも動いていない。左手は膝の上のかばんの上に置いたままだし、シートも最初に座った場所のまま。脚もがたがた震えるだけで動かしていない。目だけは大男の方を追っていたが、それだけだ。
右腕の肘より先も感覚はあるのだが、脱力している。そこに王敬という別の意思が入り込んで、操縦されている。王敬が勝手に自分の腕を動かして王敬を振っている感覚。しかし不快さはない。なんというか、とても頼りになる。父親の運転する自動車の助手席に座っているような、そんな感覚。
「かかってこい、無名の、雑魚なる剣よ。」
がああっ、と大声を吠えて大男は飛び跳ねるように立ち上がる。ぐるんぐるんとどぶ川色の剣が残像を見せて振るわれる。思わず目を閉じそうになるが、スイは辛うじて右目を開けたままにする。そうだ、王敬は今、自分と視覚を共有している。自分が目を閉じれば、王敬も何も見えなくなってしまうはずだ。大男とどぶ川剣から目を背けてはいけない。キッ、として両目を大きく開く。
「ふっ。かまわん。別にスイ、そなたがそこで眠ってたって勝てるような相手である。朕は“名剣”だからな。」
余裕のテレパシーをスイに聞かせながら、王敬はまたしても軽々と、どぶ川剣の斬撃を受け止めた。がちん。弾く。がきん、がきん。何度も2つの剣は衝突し、必ずどぶ川色の方が弾かれた。
「すごい……」
いつしかスイは、まるで鼻の先で線香花火がぱちぱち弾けるのを見るような心持で、戦いを見ていた。“名剣”とそれ以外の剣では、ここまで差があるものなのか。
「この巨漢。どぶ川剣に操られているようだの。恐らく、拾った瞬間から。」
「でもどうやってこんな大きな剣、電車に持ち込めたんだろう……。こんなの持ち歩いてたらすぐ、銃刀法違反でしょっぴかれそう。ホントに、どうやってここまで?」
下から突き上げるようにどぶ川色の斬撃が飛んでくる。それを王敬は、切っ先でぴたりと止めてみせた。全くブレないまま、ぐいっと押し込んでやると、どぶ川剣は床にびたんと叩きつけられる。連動して大男が肩から崩れて床に沈む。今大男の顔はスイの足と同じ高さにある。
スイは下を覗き込む。だらんと垂れた頭部に虚ろな目。もしかしたら大男は気絶しているかもしれなかった。それでも剣を握って離さない。虹の混ざったどぶ川色の大きな剣。どうやってこんな大きな剣、電車に持ち込んだんだろう。
「さて、な。」
王敬はそのことに興味がないようだった。それよりも、
「確かにこれまで戦った中では強い方だが、なぜ此のような雑魚剣を、こっちの世界に送ってきたのだ? 万国共通条約にひっかかるほどの強さか?」
万国共通条約。王敬を含む、強すぎる“名剣”たちを一斉にこちらの世界に捨てたという、“別世界”のあの取り決めの話のこと。こっちの世界でいう“核兵器”みたいな、ひとつで戦況をひっくり返せるほどの危険な存在は、その条約にひっかかり戦争で使えない。そしてこちらの世界へと廃棄される。
どぶ川色の剣は、こちらの世界に廃棄された剣。しかし王敬が言うには、そうするほど強くないらしい。基準が分からないスイは、「そうなんだ」と言うしかない。
「一応警戒しておこう。スイ、肩までを朕に貸せ。」
王敬は言った。王敬は、緑青をスイの肩まで伸ばしたいらしい。スイは自分の右腕を見る。王敬の柄から根を張るように、肘のところまで緑青の錆が広がっている。
「うん。ど、どーぞ」
スイが口にした瞬間、青く緑の美しい蔓は、ぶわっと腕を伝って伸びた。肩のあたりまで伸びた。肘より先を動かすより、肩から動かした方が剣は良く振ることができる。それくらいは剣の経験がないスイにも分かることだった。
スイは座ったまま、未だ僅かにも体を動かしていない。海坊主みたいに、倒れていた大男がぬらりと立ち上がった。立ち上がったといより、操り人形みたいに、別の誰かの意思で立たされたようなカンジだ。王敬の言っていた「剣の方が男を操っている」というのは本当かもしれない。
大男はどぶ川色の剣を再度、豪快に振るった。風圧でスイの長い黒髪が揺れる。それを王敬──銅剣は受け止めなかった。受け流した。ずるり。スイの横を抜け、大男が顔面から床に突っ込む。その拍子に、勢いを乗せたまま見当違いの方向に流されたどぶ川剣も、床に深々と突き刺さった。
「ぬあっはっはっは。キレおった、無名の剣がキレおった!」
王敬は嬉しそうだ。王敬が「無名の剣」と呼んでいるどぶ川色の剣はどうやら、王敬にブチギレの意をテレパシーで送っているらしい。興味単位で聞いてみる。
「な、なんて言ってるの?」
「ぬ、ふふっ。――“テメエこら王敬のジジイ死ね死ね薄汚い錆び錆び剣がチビのくせにジジイのくせに死ねっ雑魚っ死ね死ね死ねっ!”と言っておるなあ。薄汚いのはどちらだ。洗剤をこぼしたどぶ川のような色合いをしおって。」
王敬は本当に楽しそうに言った。ちなみにどぶ川剣の台詞を真似しているときは、なんというか甲高い声のイメージがテレパシーで伝わった。剣によって声というかテレパシーの模様が違うらしい。王敬は威厳ある老人、どぶ川剣はコンビニにたむろしている金髪の若者みたいな、そんな感じがする。
「やっつけたの?」
スイが尋ねた。目の先に、大男のつむじが見える。ぐったり倒れて、どぶ川剣の鍔に手をかけていて、その手も柳みたいに垂れている。
「まだだ。」
まだ、らしい。スイはぞくりと身体を震わせ、ちょっとシートから浮いた尻を、もとに戻す。
「どうやってやっつけるの?」
そうだ、どうやってやっつけるのか。王敬のもといた世界──“別世界”では、剣の勝敗は確か、相手の顔面か喉かお腹か手を叩いたら勝ちだったはず。そして負けた方は死ぬ。……死ぬ!?
「ね、ねえ。もしかして~……私たちが勝ったら、この男の人、し、し……」
「いや。」王敬は否定から台詞を始めた。「恐らく“剣の勝敗”では死なぬであろう。朕のいた世界で負けた人間が死ぬのは、誇りのためぞ。剣に負ければ誇りが折れるゆえ、死ぬ。すなわち剣に誇りを持っていないであろうこの世界の人間は、剣に負けても死なぬはず。」
王敬はそう言った後、付け加えるように、
「無論、朕でこやつの頭をかち割ったり腹を掻っ捌いたり喉を貫いたりすれば、この世界の人間の人体の理に従い、死ぬであろうの。」
と続けた。
「ほっ」スイはほっと安堵の息を吐いた。
「じゃあ、あのどぶ川みたいな色の剣を、この男の人から引きはがせばいいんだね」
「かなり、がっちりと掴まれているようだがの。」
確かに王敬が思いっきり弾いても、どぶ川剣は男の手からすっぽ抜けていかなかった。
「じゃあ、どうしよう」
「小手を打ってみよう。」
小手。手のことだ。剣の勝負では、顔面か喉、腹、手を叩いた方が勝ちとなる。こっちの世界の、剣道と似たようなものだ。
「勝敗によって人間が死ぬ、ということはないであろう。安心しろ。が、勝敗自体はあるであろう。この世界の人間に誇りがなくとも、剣の方には誇りがあるはずなのだ。勝利すれば、男はともかく、どぶ川剣の方は敗北を認め、手から離れるかもしれん。」
「な~る……。そうだね」
スイは自分の意志で右腕を動かしてみた。王敬の緑青の蔓は張っているままだが、別に自由を奪われたわけではない。身体の本来の持ち主であるスイも、当然のように自分自身の腕を動かせる。
そーっと腕を下ろし、王敬の刃の、凸面鏡のような側面を、男の太い腕の先へと伸ばす。もう少しで、ちょんっと触れそうだ。あと少し、あと少し……
ちょんっ
と、触れる前に──
スイは気づいてしまった。
「あれっ」
「どうした。」と言った次の瞬間に、スイの視界を通じて王敬も気づく。「なるほど。」
「いないっ! この男の人、剣を握っていない!」
大男の手の先に、洗剤が混じった汚いどぶ川みたいな剣が、握られていない。
「どこ!」
「あほう。そなたあほうか。あほうのスイめ。よく見ろ。」
「(“あほう”って3回も言われた)」と気にするスイをよそに、王敬は再びスイの腕をコントロールし始めた。王敬の意思でスイの腕が動かされる。
「あっ! わっ、なにぃ?」
王敬は自身の切っ先で、だらんと垂れた大男の手を指した。脱力感からして、ラプンツェルの長い髪のように、床に着いていないとおかしいはずだ。なのに、なにか見えないものにひっかけられているように、空中で留まっている。
「剣はまだ、そこにある……!」スイは目を点にして言った。
王敬は、冷静な老人の声を連想する落ち着いたテレパシーをスイに送る。
「あの雑魚剣、姿を見えなくしたようである。」
剣が透明になったらしい。
「そっちの世界じゃ、剣ってそんなことまでできるの?」
「いや――」
目の前で大男がゆらゆら陽炎みたいに立ち上がる。謝っているみたいに俯いているが、座っているスイより高い位置に顔がくる。スイは下から覗くかたちで大男と目が合った。光が一切入っていない。
「ひっ」
大男の手には剣がない。いや、目に見えぬ剣が握られている。
王敬はスイの質問に答える。
「どの剣にもできる芸当ではない。これはあの剣の特別な力だ。」王敬は「ぞくぞくする」とでも言いたげな、本当に楽しそうな、弾むようなテレパシーを送った。「朕の緑青生成のような、特別な力よ。強い剣には、こうした特別な力が宿ることがある。ふはは。あの剣、思っていたより強いらしい。」
王敬が言い切った次の瞬間には、2つの剣が激しくぶつかっていた。
がぎゃぎゃががぎゃりきんがんがんぎりがんぎゃりぎゃりがんきんがんぎりがきん
「はははははははっはははははははははあっははははははははははははははあは!」
王敬が、激しく笑っている。
2つの剣はぶつかり、離れ、衝突し、弾き合い、磁石のようにぶつかって、磁石のように離れ、それを繰り返した。しかし目に見えるのは2つのうち片方のみ、赤い銅の剣だけだ。傍目からは、一本の銅剣が不自然に空中で急停止し、急に弾かれ、パントマイムをしているみたいな、そういったふうに見えることだろう。大男の方も、ただ腕をぶんぶん振り回しているようにしか見えず、誰が見てもこれが透明剣に操られている傀儡剣士なのだとは気づかないだろう。
「あっわっわっ!」
スイはもはやどうすることもできない。王敬のために目を背けないと決めたはずなのに、つい、何度か目を閉じてしまった。しかしそんなことどうでもよい、とでも言うかのごとく王敬は楽しげに踊った。踊るように、相手──透明になったどぶ川剣に何度も刃を接触させた。そのたび小さな火花と高い金属音が散る。
大男──というかどぶ川剣──の戦い方には変化があった。距離をとるようになっていたのだ。どぶ川剣の特殊能力は「透明化」。透明になる強みはやはり、間合いが悟られにくくなることだ。この強みを存分に活かすためか、大男に一歩退かせた位置から攻撃してくる。実際スイの目にはどこからどこまでがどぶ川剣なのか分からなくなっていた。
「おっ、オーケー!」
「なんだ!」
王敬のテレパシーは語末に感嘆符を付けている。興奮しているらしい。邪魔するようで悪いが聞かずにはいられないので、スイは叫ぶ。
「どうして相手のどぶ川剣の攻撃を捌けるのー! 見えてないんでしょ!」
「ずいぶん、つまらぬ質問をするのだな。」王敬は笑った。「朕にも分からぬ!」
がきん! ひと際高く大きな音を生み、王敬の斬撃は大男を後方に吹っ飛ばした。びたん! 向かいの座席に背中から叩きつけられる。
「あ~分かんないのね……」
「きっと経験則というやつであろう。朕はあちらの世界でも、戦争の前線で活躍し続けてきたからの。」
「そういうもんかなあ」
向かいの座席にダウンしている大男を見つめる。よく見ると左手は完全にグーの握り拳になっているが、右手は筒を掴んでいるような輪っかになっている。あそこに見えない剣の見えない柄があるのだろう。
次にスイは自分自身の腕を見た。王敬を握っている方の腕だ。手から肘、肩のあたりまで、緑青の筋が浮きだた血管みたいにびっしり張り巡らされている。王敬に乗っ取られたわけではないので、腕はスイの意思でも動く。軽く左右に振ってみる。全ての攻撃を王敬が防いでくれたのでかすり傷ひとつなく、痛さも全くない。痛くない……のだけど、ちょっとびりびりと痺れている感覚があるのと、学校のスポーツテストでハンドボールを投げたときのような、疲れがある。
「ねえオーケー。腕のことなんだけど……」
「うむ。そなた普段全く運動しておらぬだろう。適切な人体の可動域のなかで動かしたゆえ、肉体的欠損は一切心配ないが、筋肉は疲れさせたかも知れぬ。そなた、明日は相当な筋肉痛を覚悟した方がよいぞ。」
「やっぱりか……」
「ふ。ちと遊び過ぎたのだ。もう終わらせる。」
「おわ? 終わらせるったって、」
スイは正面を向く。いつの間にか立っていた大男。大男の体は完全に弛緩しきっていて、人間というよりゴム人形といったほうがよろしいくらいだ。明らかに本人の意思ではない。あの透明になった剣が操っている、か、そうでなくとも、誰か別の者によって肉体を操られていることは確かだ。
「剣はがっちり掴まれてるんでしょ? 多分、タガの外れた強い力で」
挙動の全てが速くてあまり見えなかったが、思い返してみれば大男の体は人間の常識的な関節可動域から外れた動きをしていた。頭だけはずっと垂れたまま動いていなかったが、他の四肢は、あり得ない方向に折れ曲がったり、あり得ない軌道で剣を振っていた。肉体が無理に動かされているのだ。きっと男の体のいたるところで骨折が起き、筋肉組織が千切れていることだろう。
それに、ダウンをとっても大男は数秒で復活してしまう。その短い間に大男の手の甲に王敬をあてるだなんて、スイには恐ろしくてできなかった。座席から立った瞬間、ジェンガのように崩れてその場にへたり込んでしまう予感がする。
「安心せい。終わるときはすぐよ。」
「え、」
反応する間もなく、男は腕を横に薙いだ。ほぼ同時に金属と金属のぶつかる男が響く。鼓膜が腕が、腕の先の銅剣が。びりびり震える。不可視の剣がぎりぎりと悲鳴を上げる。連撃の予感があった。──しかし、
「あれ」
予感に反し、男は静止した。王敬もスイの腕を動かさずに空中で、振りあがったまま固定している。久しぶりの静寂が訪れた。
「勝利したぞ。」
王敬がくだらなそうにテレパシーを送った。
「あれっ。ええと」
「朕の勝ちだ。」続けて「見よ。」と言うので、スイは大男をまじまじと見てみた。
男は、彫刻のように動かない。
さっきまでは何かに操られている人形みたいで、四肢の上空に細い糸さえ見えそうだった。今も大男に自分の意思というやつはないのだろうけど、様子が異なる。さっきまでが操り人形だとしたら、今は完全に彫刻。
男の手に剣は見えない。
どぶ川剣は依然として「特別な力」とやらを使い透明なままらしい。しかし、そこに蔓のように青くて緑っぽい筋が走っていた。蔓は、そこにある見えないものに絡みついて、その形を暴いていた。透明な剣は、銅の錆びた色で覆われて疑似的に姿を見せていたのだ。
王敬の方を見て、説明を求める。王敬はゆったりと答える。
「朕の特別な力は、緑青の生成であろう。錆は広がり浸食する。先ほどの鍔迫り合いのとき、朕の錆を付着させておいた。そこから広がった錆が、こやつらを固定した。」
男の肌にも、青くて歪な線が張り巡らされていた。手の先の指から腕、脚、首、見えていないが恐らく服の下にもびっしり。これでは動けないわけだ。
「銅の錆って触れてるものに伝播するんだっけ……?」
正確には、「しない」。しかし錆によって銅の体積は増える。それが意図を持ってコードのように他のものに絡まりついたのだ。それに王敬はあちらの世界で数本しか存在しない“名剣”の一本。常識を破った特別性を持っていた。
「もう一歩も動けんよ。」続けて、「さ、スイ。朕でこやつの手の甲を叩け。」
「う、うん」
ぴとっ。汗ばんだ男の手に、銅剣の側面を当てる。すると。
「うわっ」
ばきん、と音を立て、どぶ川剣とそれから男の体に複雑に纏わりついていた青い錆の蔓が一斉に砕けた。錆の欠片たちがぱらぱらと床に落ちるかと思い、反射的に下を見る。何も落ちていない。
「錆は、役割を終えると霧散するのだ。」
王敬が言った。心を読まれたらしい。少し遅れて、がん、からからから、どぶ川色の剣が落ちた。もう形も色も目に見えるようになっていた。洗剤を捨てたどぶ川の、虹と濁水が対流を描いているような不思議な模様の、大きな剣。
「こやつが負けを認めた。」王敬は確信する。「やはりこの世界でも、面、喉、胴、小手のいずれかを打てば勝負が決するようだな。」
「か、勝ったの……」
「当然である。」
ぷしゅー。電車が駅に着いた。
向こうの車両で、どどどど、と人間の群れが騒がしい。一斉に電車から出ていったようだ。
「さて。スイはどうするのだ。」
緑青の霧散と共に大男は床に倒れていた。五体投地のかたちで、背中を上にして大の字で眠っている。すーすー寝息を立てている。血色が良くなっている。あの剣から離れたためだろうか。
「この男の人は大丈夫そうだね。問題は剣の方だけど……」
「壊すか?」
「えっそんなことできるの」
そうこう話している間に、ぞろぞろ、何も知らない新しい乗客たちが電車に入って来た。みんなまずぶっ倒れている大男を見て「ぎょっ」と言い、自分は何も見ていませんよといったカンジですぐさま無視を決めて隣の車両に移動していった。
「みんな冷たいなあ」
石マルシェに行くためにはスイもこの駅で降りる必要があったが、それどころではない。男や剣を放っておけるわけもない。スイはため息をつく。
「うおっ!」
駆け込み乗車をしてきた若い男性が、スイを見て声を上げた。正面を向いて駆けてきたらしく、床に落ちている大男より先にスイの姿が目に入ったらしい。同時に、スイの握っている銅の剣も。スイは今、ぶっ倒れている大男と大剣を見下ろすように、銅剣を握って座っているのだ。
「あっ、わっ、わっ、わ、えと」
焦る。脳裏に浮かぶ文字は「銃刀法違反」。次に、視線を落とすとぶっ倒れている大男。これではまるでスイがその手にした銅剣で大男をぶちのめしたみたいではないか!
困るのが、実際にその通りであることだ。
しかし「ああこれ? 私がこの銅剣でこの大男をぶちのめしたの」と正直に説明できるわけがない。逮捕一直線である。まずいまずいまずい。考えているうちに電車の扉が閉まる。ぷしゅーという音。それがなんのきっかけになったのか、スイはようやく思いついたひとつの言い訳をまず口に出してみた。
「こ。こすっ…ぷれ、です。」もう一度繰り返す。「コスプレです!」
若い男性は引きつった笑いを見せ、自分は何も知りませんよといったカンジでそそくさと隣の車両に移動していった。王敬は気にもせず、つづけて床に伏している大男について言及を続ける。
「この男は生きておるはずだ。身体に外傷もない。安心せい、そなたを罪に問える者などおらぬよ。」
「はあ。」スイはドッと疲れた。「そうだといいんだけど~……」
電車が動き出した。みんな逃げていったので結局車両には座っているスイとへばっている大男しかいない。あとは2本の剣だけだ。
「ねえ、男の握ってた──男を操ってた剣はどうする?」
床に静止する、どぶ川色の剣。もう姿は見えている。
「壊そう。」
あまりにすぐ答えたので、スイはたじろいでしまう。しかし、
「そ、」この返事で言葉を詰まらせてはいけない気がした。「そうした方がいいのかな」
「人間の方はこの世界の人間ゆえ、剣の勝敗を気にしている様子はない。操られていたということもあるだろうがな。しかし剣はやはり朕と同じ、あの世界出身の剣である。勝負に誇りを持っておる。朕に負けた今、ぴたりと挑発を止めておるよ。朕に破壊されることを望んでおるようだの。」
「そう、言ってるの?」
「ああ。」
「そう……」
スイに、王敬やどぶ川色の剣がもといた世界のことは、分からない。
『人間の肉体がめったら強いということ。
誇りを賭けた剣の勝負で生死が決定すること。
むしろそれでしか人間の生死が分かれぬこと。
誇りは人間の剣士だけでなく剣にもあること。』
それだけだ。
想像のできないほどに、こことは、倫理が、道徳が、価値基準が違う。
「その剣と王敬がそう言うのなら、そうしたほうがいいんだろうね」
「うむ。」
スイは立った。脚ががくがく震えている。
王敬の根が張ったスイの腕に、力が込められる。スイも王敬の柄をぎゅっと強く握ったし、呼応するように王敬もスイの筋肉を操縦した。2つの意思が同じ向きを向いている。力のベクトルが一方向に、落とされる。落雷のように、王敬は切っ先から、どぶ川色の剣へ突き立った。王敬は刃渡りが短いので、スイはおじぎをするように背を丸めるかたちになる。ばきん。金属の砕ける音。硬いモノがより硬いモノに壊される音。
「さらば、無名の剣よ。」
刃を二分にされたどぶ川色の剣は、イカが神経締めされたみたいにスッと色を消した。強い剣の持つ特別な力。かれの場合は「透明化」だった。これは、かれの最期の透明化だった。
「壊れた剣は霧散するはずだ。粉々になって空気に溶けてゆく――その姿を見せたくなかったのであろう。」
同様に特別な力「緑青生成」を持つ剣・王敬がそう言った。
はっとして思い出す。
「そうだ! 男の人は、最初“人殺し”って呼ばれてた! 向こうの車両に、この人が斬りつけた人間がいるかもしれない!」
スイは王敬をかばんにしまって駆け出す。王敬が手から離れる。途端に、スイの腕に纏わりついていた緑青の蔓が消えた。
手提げかばんを肩まで通し、左手で、布越しに王敬に触れる。
「しかし、先ほど新たに客が乗り込んできたが。誰も騒いでおらぬでないか。」
王敬の言ったことはもっともだ。ぐーすか床で寝ている大男を見てもまあ無視するかもしれないが、流石に血まみれの人間が倒れているとなっては無視できまい。というか反射的に生理的に、誰かが叫んでいるはずだ。
3号車から抜けて4号車、5号車、6号車。7号車。「あ、あれ?」 8号車につづく扉に手をかけたスイのことを、乗客たちは怪訝な目で見た。ここまで走って来たので汗だくだくなのだ。目線を切り抜けて8号車に入る。
「うそ」
周囲の目がこちらを向く。周囲、とは、当然、元気に生きている乗客のことである。スイは今のが声に出ていたことに気づいて口を結ぶ。
「怪我人も、死人もおらぬようだな。この世界では、死んでも肉体が霧散しないのであろう。」
「(うん。誰も死んでない。誰も傷ついて倒れてなんかない。……さっきの男の人と剣は、誰も斬ってなかったんだ)」
大きく熱い息が塊で吐き出される。分からないことは多い。しかしとりあえずは、
「(よかった……)」
その後、次の駅で降り、向かいホームから折り返しの電車に乗り換え、一駅前に戻った。何事もなかったように、とはいかないものの、大事件に巻き込まれたことはひとまず置いといて、電車賃がもったいないので、少女と剣は、普通に石マルシェを満喫した。