白銀の剣 上
“身体を持たない寄生虫”の正体は、電気だった。
そいつはまず、電気でできた“寄生虫”を剣に植え付ける。剣は誰かに拾われる。すると剣は己の中にあった“寄生虫”を使い、己を拾った誰かを操る。こうして“傀儡剣士”が誕生する。
そいつが“傀儡剣士”に与えた仕事は、他の剣の収集だ。“傀儡剣士”は町へ繰り出し、暴れる。すると他の剣はすぐに気づく。
「近くに自分と同じ、別世界からこちらの世界に送られてきた剣がいる。」と。
“傀儡剣士”はわざと、弱そうに振る舞う。すると他の剣士は、自分でも勝てそうだと思ってしまう。だから戦う。実のところ己の手中にある剣を使ってみたくて仕方ないものなのだ。
すぐに“傀儡剣士”は負けそうになるが、それはフリに過ぎない。最後の最後で本領発揮を見せ、勝利する。こうやって剣士から剣を奪う。
“傀儡剣士”が剣を振るうとき、剣から電波が飛ばされる。この電波によって、周囲の人間を丸め込む。ただし万能ではない。このときの電波は一般人にしか効かない。剣の所持者や、剣という存在を知っている者には、効かない。
こうして世間に知られることなく、そいつは剣を集める。
そいつとは誰か。
“名剣”──白銀の剣・異音と、その主人である。
二枚舌の剣から聞いたことであり、たった今、スイが三千代に話したことだった。
三千代は病院のベッドの上にいた。
あの後──あの戦いの後、三千代はすぐに病院に運ばれた。それから様々なことがあった。らしい。様々なことがあったが、三千代自身はよく覚えていなかった。よく覚えていないうちに、いくつもの日が過ぎていった。相変わらず、右腕は無いままだった。二枚舌の剣に切り飛ばされた右腕。まだ手術か何かでくっ付くのだろうか。あるいは義手か。いやどっちでもいい。どうでもいいわけではないが、今はどっちでもいい。そんな気持ちだった。
今まで、何があっただろうか。
ドンキに出会い、
ドンキと共に旧校舎の大鐘を叩き、
王敬に操られたスイと戦って勝ち、
別世界と剣のことを知り、
この町を守ると決め、
獣笛の剣士と戦い、
傀儡剣士と寄生虫のことを知り、
傀儡剣士たちと戦い、
米噛と豪頭怒号と出会い、
一匹の黒猫が剣によって死に、
傀儡剣士を見かけなくなり、
戦いが落ち着いたと思ったら、
再び傀儡剣士が現れ、
鈴鉢と螺落宝刀、そして二枚舌の剣と出会い、腕を斬り飛ばされ、病院のベッドの上で、全ての黒幕を知ろうとしている。
それらは全て半年もない内の出来事だった。
「スイ」
ずっと自分と共に戦ってくれた、友の名を呼ぶ。
スイ。
スイは、三千代の、今はない右腕を見て、苦しそうに目を細めた。
「話を、続けて」
三千代は左手で、スイの手を取った。スイの手は膝の上で震えていたが、やがて三千代の手を握り返して、震えが止んだ。
「うん……」
スイが二枚舌の剣から聞いた話が、これで全て三千代へと伝えられる。
そして三千代は知った。
白銀の剣・異音の主人の名と、その目的を。
何度も名残惜しそうにこちらを振り返るスイに、三千代はひらひらと手を振る。
スイを悲しませているのは自分だと思うと、やり切れない気持ちになった。
きぃ。ぱたん。扉が閉まった。
三千代は左手を下げた。
しん、と部屋は静まり返った。
三千代は病院の個室にいた。お見舞いに来た人が帰ってしまえば、部屋には一人だけだった。
「三千代よ。その、まだ、痛むか?」
いや、一人ではない。三千代の傍には、おもちゃの剣が転がっていた。スイいわく、ドンキの方から会いたがっていたらしい。部屋は日当たりがよく、充電用のコンセントも備わっていたので、ドンキがいても大丈夫だろう。今もドンキは柄の先から赤いコードを生やして充電している。
あのモールでの戦い以来、ドンキは妙におとなしくなっていた。理由は三千代にも分かる。負い目を感じているのだろう。なぜそんなことが分かるのか。
「所詮、小生は玩具の剣でしかなかった。そなたを助けることの叶わなかった愚かな大根侍をどうか許してくれ。」
などと言っているからだ。
まさかドンキがこんな弱弱しくなってしまうとは思ってもいなかったので、三千代は驚いた。そして、笑えてきた。
「あははっ!」
「なっ、何故笑う!」
「あはは、はは。ごめん、ごめん。おかしくて。……でも、ドンキが謝る必要はないよ」
「ム。」
「そうヘコまないで。……ドンキじゃないと、私はここまで戦えなかったと思うよ」
「それこそ、何故だ。小生は只の玩具。そなたがあの別世界の剣かなにかを拾わなかったにしても、小生を相棒に選ぶ必然性など……」
ドンキがここまで言うだなんて。こいつ弱ってんだなあ。AIに弱るとかあるかわかんないけれど。三千代はそう思った。
「あるよ。ドンキじゃなきゃいけなかった理由。私は、やっぱり傀儡剣士と戦うにしても、相手を傷つけたくはなかった。だからドンキのぷにぷにのビニールで相手と戦えるなら、それが一番だったんだ」
「腕を斬り落とされ、まだそれが言えるのか……。」
「言えるさ。私は、そう、言えるよ」
三千代は背中を丸め、左手をぎゅっと握った。
「見事なり。」
「ありがとう。……だからドンキ、ドンキは私の役に立っていたよ。たった一度の私の負傷で全てを恐れてしまわないで。ドンキはいつもみたいにおちゃらけてればいいんだよ」
「しかし……。そなたは度々、言っておった。『ドンキ、こんなときにふざけないで』と。」
「あ、あは。言ったかも。……もう言わないよ。ドンキの中二病、私は嫌いじゃないから。たまにうっとうしいときもあるけど、でも明るくて、面白かった。だから自分を責めないで。いつもみたいにしていてよ」
「そうか。……そうだな! よし、今度はそなたに、虹を食い荒らす悪魔と戦ったときの話をしてやろう!」
「その話は、聞くのもう四度目くらいだからもういいかな……」
と言うと、
「そうか……。」
ドンキはしょんぼりと答えた。
三千代はくすくすと笑う。切断された右腕は今でも泣きたいくらい痛い。でも笑えた。
「ドンキ。さっきお見舞いに来てくれたスイの話、聞いてたでしょう。……もう黒幕もその目的も判明しちゃった。……私は戦うつもりだよ。ドンキ、ついてきてくれる?」
「ああ。」ドンキは答えた。「……ああ!」
それからドンキは自分を取り戻したみたいに、中二病的ワードとエセ侍風口調で飾られた言葉で三千代と話を続けた。
片腕を失い、身体はとても痛んだが、精神は一切すり減っていなかった。そのことが自分で分かった。むしろ自分に何ができそうなのかを考えられる時間が生まれたことで、精神は一段と安定した。
明日はスイに勉強道具を持ってきてもらおうと思っている。片方の腕がないから、小さな本のページをめくることは叶わないが。しかし社会の資料集や理科の便覧といった大判の教科書をぱらぱら見ることくらいはできるだろう。
ここ数か月は目まぐるしかった。
向こう数か月も目まぐるしいはずだ。イオンとその主人を倒す。そしたら、普通に、受験がある。それは変わらない。普通の中学三年生みたいに受験する。なぜなら自分は普通の中学三年生だからだ。それはおもちゃの剣を拾っても、別世界の剣と戦っても、片腕を失っても変わらない。
「そうだ、ドンキ。ドンキって英語とか喋れる?」
「小生は高性能アーティフィシャル・インテリジェンスなり。それくらい造作ない。」
「じゃあ、私に英語を教えてよ。そろそろ受験勉強しないとだから」
「心得た。」
ドンキは、普段の口調からは信じられないほど流暢な英語を披露してくれた。
三千代はこの前スイと見た商品ページを思い出す。特に値段を思い出す。流石に高価な商品である。搭載されているAIは、英語もお手の物の優れものだ。
いつの間にか眠ってしまっていたようだ。
こんこん、とぬくもりのある音が響く。扉がノックされた。
「誰か来たようだぞ。」
とドンキが言った。
三千代は目をこすりながら、上半身を起こした。左右のバランスがとれず、少しよたついてしまった。
カーテンから差す光はオレンジで、今が夕であることを示していた。随分眠ってしまったようだった。
「スイ?」
と言ってみたが、違うだろうということは分かっていた。
なぜか、分かっていた。
それは、十数年にも渡る長い付き合いで培われた直感によるものかもしれないし、あるいは、今日の午前に一度お見舞いに来たのだし日に二度も来ることはないだろうという常識で考えてそう思ったのかもしれなかった。
とにかく病院の受付を通ってきているのだから、通っていい人であるに違いない。三千代は「どうぞー」と言って、来客を招き入れた。
ふわり、と水の色、もしくは空の色の、髪が揺れた。そいつは制服を着ていた。今日は平日だったのか、と三千代は思った。しかしスイは午前に病院にやって来たし、制服を着ていなかった。まさかスイは学校を休んでお見舞いに来てくれたのか。それはなんだか申し訳ないな、と思った。それと、今はそれよりも目の前に現れたこいつをどうするべきかについて考えないと、とも思った。
「やあ。三千代君。お見舞いに来たよ」
そいつは言った。
そいつはしゃらんと立っていた。三千代は自然と、そいつの手に目線が動いた。何も握られていない。当然だ。病院は刃物なんて持ってきてはいけないのだから。受付で止められる。もしくは、豪頭や螺落のように、自分の近くに隠しておける剣を持ってきているのだろうか。
分からない。
分からないままに、三千代はそいつの役職名を呼ぶ。
「会長」
役職名の方が、馴染みがあった。皆、そいつを──彼女を、役職名で呼んでいる。敬遠するためではない。皆、彼女を慕い、親しんでいるからだ。
「具合は……どうだい?」
彼女は言った。
彼女の名前は、百合烏賊。
三千代やスイが通う翔仰第一中学校の現・生徒会会長。
そして。
別世界より破棄されし“名剣”が一本──白銀の剣・異音の、この世界での主人だ。
「寝ているところを、起こしてしまったようだね」
三千代はどきりとした。なぜバレたのだろう。
と思っていると、百合烏賊は手の甲で口の付近をぐしぐしと拭うジェスチャーをしてみせた。
三千代は気づく。気づいて、手の甲で口の付近を拭おうとする。くせで右腕を動かそうとしてしまった。そうだ、右腕はもう無いのだった。
左手で拭う。……やはりよだれが垂れてしまっていた。だから百合烏賊に、眠っていたのがバレたのか。三千代はとても恥ずかしい気分になった。それと、締まらないな、とも思った。
気を取り直す。
「どうしてここに?」
三千代は言いながら、なぜスイが私服で病院に来たのか分かった。やはりスイは学校に行っていなかったのだ。学校に行けば、百合烏賊と会ってしまうから。
三千代は続ける。
「なんでここにいるのが分かったの?」
「それは──」
百合烏賊は曖昧な笑みを浮かべた。
そのまま、ベッドへと近づいてくる。
布団の皺が動く。三千代が膝を曲げたからだ。左腕は胸の前。
「そう構えないでくれよ」
百合烏賊は言うが、まさか素直に聞き入れて構えを解くわけもない。
ベッドの上にはおもちゃの剣がある。百合烏賊はそれを見て何か言いたそうにしたが、上唇と下唇が離れただけで、何も言わなかった。
百合烏賊はベッド隣の椅子に腰かけ、手提げを膝の上に乗せた。
瞬間──
三千代は、ドンキをつかみ、思い切り百合烏賊の顔面へ向けて振るった!
べちん! 弾力のあるビニール風船でできた剣が、百合烏賊の顔面を思い切り叩いた!
「いたっ!」
「あ……」
三千代はドンキを離す。
「やったか!?」
ベッドの上でドンキが言った。今まで空気を読んで黙ってくれていたのだった。
「あ、思ったより痛くない」
百合烏賊は右手で己の顔をぺたぺた触ってみせた。
「さっきから気になってたけど、そのおもちゃ、何なんだい?」
「え……。あ、普通に、おもちゃ。おもちゃの剣。い……いきなり叩いてごめん」
三千代も叩く気はなかったのだが、反射的にやってしまった。心の底から申し訳ないと思った。
「ううん、いいよ。」百合烏賊はぺかっと笑っている。「いたくなかったしね。それに──」
百合烏賊は顔を上げた。目線が高くなって、ベッドの上で座る三千代と正面から目が合った。たっぷり間を持たせてから、彼女は、
「今は剣を持っていないから。今、私の顔を叩いても、何にも意味がないんだ」
と言った。
「貴様! やはり暗黒剣・異音の使い手か! 知っておるのだぞ、貴様が悪しきたくらみを企てておるのは!」
ドンキが叫んだ。
「おや、そうなのかい?」
「……」 三千代は迷ったが、「うん。」 答えることにした。「知ってる」
もう隠せはしないだろう。
お互いに。
「会長。会長は、別世界の、“名剣”と呼ばれる剣を拾っている。白銀の剣・イオンを……」
「そうだね」
「“身体を持たない寄生虫”をばら撒いて、“傀儡剣士”を生み出して、暴れさせてるのも……」
三千代はぎゅっと布団を握り締めた。褐色の手の甲に汗がぽたりと落ちる。
「あ。君たちはそう呼んでいるんだね。……うん、そうだね、あれも、私がやったことだ」
百合烏賊は柔らかな口元の笑みを崩さないまま、目を閉じた。
「君たちのいうところの“傀儡剣士”は、君たちが思っている以上にこの町に潜んでいる。気づかなかったろう? ……君たちのことは、かれらから聞いていたよ」
「一体……」
「一体? 一体何を、って? そこまで知っているってことは、私が何をしたいのかも知っているんだろう?」
そうだ。
知っている。
二枚舌の剣が教えてくれた。
でもそれは、何をしようとしているか|、だ。何故そんなことをしようとしているか、はまだ知らない。そして三千代が知りたいのは後者なのだ。
一体なぜ、百合烏賊は──
なぜ──
「なんで、別世界に大殺戮を起こそうとしているの!?」
二枚舌の剣から聞いた話を、スイが三千代に伝えた。
白銀の剣・異音の主人の名は、百合烏賊。
その目的は、別世界へのゲートを開き、こちらの世界で集めた剣を送り返すこと。
ただ送り返すだけではない。
「別世界」から「この世界」に送られてきた剣は、総じて「強すぎて世界の均衡を乱す可能性のある剣」だ。世界中に散らばっているのを集めて、この世界に送ってきた。手に負えないものを一斉放棄したと言ってもいい。そんな代物を再び集めて、「この世界」から元いた「別世界」へと送り返す。ただし今度は、世界中には散らばらない。
一国に送るのだ。
白銀の剣・異音の仕えていた、北の大国に。
瞬間、北の大国は世界唯一の“名剣”保有国となり、他にも強力な剣を何本も従えることとなる。万国共通条約で強い剣を捨てた他全ての国は、抗う術もなく敗れる。そもそも万国共通条約の締結は、そのまま平和条約の締結をも意味していた。あれで戦争は終わったのだと、誰もが思っていた。ただ北の大国だけが、着々と世界を裏切る準備をしていたのだ。
三千代にだって、急に言われても分からない話だった。
「そもそもこっちの世界から別世界へのゲート、なんてもの、あるの?」
「作るんだってさ」
スイは言った。
双想の実。
……というものが、あるらしい。
簡単に言うと、食べた者の願いが叶う伝説のアイテムだ。当然、世界を変える危険があるので──万国共通条約によって、この世界へと破棄されることが決定していた。
「別世界」から「この世界」へと送られてきた異音は、拾い主を捕まえて、協力させる手筈になっていた。異音の力は「電導」。電気を──電気信号を、操ることができる。金属も生物も支配できるわけだ。その力で剣を集める。最後に拾い主に双想の実を食べさせ、「別々の世界を繋ぐゲート」を願えばいい。
「そんな、急な話」
三千代たちにとっては急な話だった。傀儡剣士を倒しても、剣に情報を聞き出そうとする前に自害することがほとんどだったから。こうして二枚舌の剣の話を聞くまでは、ほとんど知れることがなかったのだ。
しかし、相手にとっては──百合烏賊と異音にとっては、数か月前から準備してきた計画なのだ。完全に相手側が優位にある。
「なるほど、二枚舌君から話を聞いていたのか」
百合烏賊は、三千代の瞳を覗き込んだ。どきり、とする。吸い込まれるようだった。
「はは。三千代君は分かりやすいなあ。顔に、そう、と書いてある。……うーん、まさか二枚舌君が裏切るだなんてね。てっきり異音の計画に賛同していると思ったのだけれど」
「会長。分かってるはずじゃないの? もし、向こうの世界に会長が集めた剣を一斉に送ったら、あの世界のパワーバランスが乱れて、一方的な大虐殺が起きる」
「そうらしいね」
「そうらしい、って……いいの!?」
「よくないさ。人が死ぬのは、悲しいことだ。たとえ遠く離れた国の一度も会ったことのない人さえ、できれば死んでほしくない。たとえ別世界のでたらめな倫理観の人びとだってね」
「だったらなんで!」
「……」
百合烏賊は三千代の問いに答えず、黙った。
三千代もなぜか喋ってはいけないような気がして、この沈黙を自分が破ってはいけないような気がして、黙った。
二分ほどが過ぎようとしていた。
「何故、二人とも黙っておるのだ。さっさと話を進めぬか。」
ドンキが言った。
「ふ、ふふふ。あ──はははは!」
百合烏賊は腹を抱えて笑い出す。
「ああ、面白い。三千代君は“やさしい”、な。……なるほどおもちゃの剣もまた剣のうち。ソレで相手の身体を叩いても相手はちっとも痛くない。相手を傷つけずに勝負できるわけだ」
目がちらりと三千代の右腕を見た。
「でも、自分は傷つく。相手に傷つけられる。きみはなんて優しいんだ?」
「ふん。それが我が主、三千代よ。」
「知っているさ……。……おもちゃの剣君。きみに言われずともね」
百合烏賊は、ベッドの上のおもちゃの剣──ドンキ──には一切目もくれず、持ってきた手提げを開いた。そして、中から二冊の本を取り出した。
「今日はお見舞いに来たんだ。君は、どうしてここに私が来たかを問うたね。なんでここに君がいると知っているかを問うたね。……お見舞いに来たんだ。入院している同級生がいると分かれば、病院を調べて駆けつけてやりたくなるものだろう」
百合烏賊は、はい、と言って本を差し出した。硬質な表紙の児童書の上に、分厚い文庫本が乗っている。三千代は左手で本を受け取ると、ベッドの上に置いた。
自分の持ってきた品が受け入れられた様子を見て、百合烏賊は、うん、と言った。しかし表情はむしろ曇った。
「……配慮に欠けていた。怪我をしたと聞いたが、まさか腕を失くしたとはね。それでは文庫本の方は捲りずらいだろう。すまない」
三千代には百合烏賊の心が分からないでいた。しかし今の行動に悪意があったようには見えなかった。だからこそ心が分からないのだが。
「……いや、うれしいよ。ありがとう」
三千代は二冊の本のうち、上の文庫本の表紙をなでた。つるつるとしている。実は、読んだことのある小説だった。前にスイに借りて、読んだことがあったのだ。しかしそのことは百合烏賊には言わなかった。言わないでいいことだと思った。
百合烏賊はその様子を見て喜んだ。
「やはり、君は優しいよ」
「……」
「一年前も、君はそうだった」
「一年前……」
これは、別世界や双想の実、剣と関係のある話なのだろうか。分からないが、三千代はこの話を遮ってはいけないとい思った。左手を胸に当て、考える。一年前に何があったのか。
「思い出せないかい? それはきっと、君が普段から優しさを振りまいているから。あのひとつの優しさが君にとっては特別じゃあなかったからなのかもしれないね」
「……」
三千代の目は、話の続きを促していた。
百合烏賊は目を閉じて頷く。
「うん。なら思い出してもらおう。一年前、君はある少女に手紙を書いたんだ」
「あ、」
「名前はそう──」
「「詩音ちゃん」だ。」三千代と百合烏賊の声が重なった。
「私たちが二年生の夏、だね。……学校を挙げての寄付活動があった。私たち生徒会の役員は、募金箱を持って校門に立った」
「(そうだ……)」
そんなことがあった。三千代は思い出していた。
東京の西の方に、この町と姉妹都市の関係を結んでいる小さな町があった。そこに通っていた当時小学二年生の少女こそ、詩音。詩音は心臓の病があった。そこで、この町の学校でも寄付活動が行われた。
「寄付はたくさん集まったよ。三千代君。君は、私が持っていた箱にお金を入れてくれたね。……わざとじゃあないんだけれど、あのとき君の手元が見えてしまった。」
百合烏賊は三千代の手を見つめる。
「君は紙幣を入れてくれた。後で生徒会室で箱をひっくり返して集まったお金を集計したけれど、紙幣はその一枚だけだった。生徒会役員を除くと、一人の生徒が出してくれた寄付額の中で最も大きかったはずだ」
百合烏賊は両手を伸ばし、三千代の手をとった。たった一つだけ残された左の手だ。
「生徒会を代表して礼を言うよ。三千代君。ありがとう」
「いやそんな……」
三千代は予想外の話に、戸惑っていた。一方で、戸惑いは話が予想外だったことに対してだけではなかった。三千代は、百合烏賊の「優しさ」に戸惑っていた。
「(どうして? 病に伏していた少女のことを気にかけていたのは私だけじゃない。他の誰でもない、会長が──百合烏賊が、そうじゃないか。そうだ。百合烏賊は優しい子だ。なのにどうして、別世界に虐殺をもたらそうとしているの……?)」
三千代の心の中など分かるはずもなく、百合烏賊は話の続きを始めた。
「寄付だけじゃない。生徒会室の前と図書館には、簡易なポストを設けていた。詩音ちゃんへメッセージを送るためのね。億に一つ悪意あるメッセージが詩音ちゃんに届くのを防ぐため、投函された手紙は全て生徒会役員で目を通させてもらった」
百合烏賊は三千代の手を離さない。
「……といってもポストの中にあった手紙は一通だけだった。三千代君。君だけが、詩音ちゃんに手紙を書いてくれた」
「え」
「私も驚いたさ。いや、手紙が思いのほか少なかったからではない。思いのほか多かったから、さ」
「一通、だったんだ」
「一通もあるのがすごいことなんだ。親の稼いだお金を箱に落とすよりも、自分でメッセージを考えてポストに入れることのほうが……めんどうだからね。正直誰も書いてくれないと思っていた。でも、君がいた。三千代君。君が」
「……」
「重ねて、礼を言うよ。ありがとう。詩音ちゃんはとても喜んでいたよ」
三千代は百合烏賊の言葉を素直に受け取ろうとしていたが、妙なひっかかりを覚えた。
「まるで、実際に喜んでいる様子を見たみたいに言うんだね」
「うん。」百合烏賊は表情を変えず、「見たのさ。実際に。満面の笑顔をね」と言った。
「見た?」
「そう。週に一度、ビデオで通話していたんだ。翔仰第一中学生徒会会長としてというよりは、ただのいち友人の佐々木百合烏賊としてね」
百合烏賊は続けて、
「……その本」
ベッドの上の児童書を指さした。文庫本の下敷きになっていて、表紙は見えない。
「詩音ちゃんにも送ったものなんだ。私が小学生の頃読んで、なんというか、とても心の支えになったから」
三千代はその本を手に取った。中をめくると、目次にはいくつもの話のタイトルが載っていた。どうやら短いお話をまとめた本のようだ。ぺらぺらとめくってみる。紙がしっかりしていて、片腕でもめくることが難しくなかった。
本を側面から見ると、ひとつ、黒い線が走っていた。つまり真っ黒なページがあるということだった。三千代は気になって、そのページを開いてみた。127ページ。『おじいさんの犬』というお話の最後だった。見開きのページで、老人が空を見上げている絵があった。夜空である。どうりで黒いわけだ。しかし黒く塗り潰されているわけではない。なぜなら夜空には無数の星が輝いていたから。それは満天の星空だった。老人は星空を見上げていた。
「それは、亡くなった愛犬の骨をおじいさんが庭に埋める話だね。おじいさんは『満天の星空が魂を良い所に連れて行ってくれる』と信じている。それがその見開きで示されて、物語は締められる。とても美しい話だろう」
「うん……綺麗、だね」
三千代は素直に言った。とても、綺麗だったのだ。その絵は。その星空の絵は。
「そうか。君も気に入ってくれてうれしいよ。私はその話が一番好き。詩音ちゃんも、よく通話で話してくれたなあ」
どこか遠い目をする百合烏賊。三千代は本から顔を上げ、彼女を見つめた。
百合烏賊は、詩音ちゃんとの思い出をつらつらと語った。
例えば、詩音ちゃんは学校に行けるようになったら何がしたいかとか。
例えば、いつか直接会ってみたいねと話したこととか。
例えば、百合烏賊が詩音ちゃんに勉強を教えたりとか。
例えば、詩音ちゃんは病院近くの公園を散歩できるほど元気になったこととか。
例えば、好きな本についての話。例えば、この本について。この老人と亡くなった愛犬、そして星空の話について。
百合烏賊と詩音ちゃんはとても仲が良いようだった。
話をしているとき、百合烏賊の表情は楽しげだった。
三千代も聞いているうちに、百合烏賊がどのような人物なのかようやく分かることができたように思えた。中学に入ってから出会い、そこまで濃密な接点こそなかったが、二年半以上同じ場所に通った仲なのだ。そんな彼女のことを、まさか今日この日になってようやく「少し知ることができた」というのは、不思議な感覚だった。
「やさしいんだね」
三千代は言った。
「そうだね。詩音ちゃんはやさしい子だった。きっと、君ほどにね」
百合烏賊の言葉に、三千代はかぶりを振る。
「違う。会長が、だよ。私は百合烏賊がやさしい人だって言ったんだ」
「私が?」 百合烏賊は笑った。「どうして……」
「だって、その子のことを──詩音ちゃんのことを、そんなに大切に想っているじゃないか」
「ああ……」
「ねえ、詩音ちゃんは公園を散歩できるほど元気になれたんでしょう」
「ああ。母親や看護師の方……大人の人と一緒ならね」
「よかったね……!」
三千代は百合烏賊の手を取った。褐色の左手が、彼女の大きな両手に重なる。百合烏賊の手は弾力があって、とてもしっかりした感触がした。白くてふにふにと柔らかい、インドアなスイの手とは違う。三千代はスイの手が好きだったが、この百合烏賊の手もまた嫌いではなかった。誰かのために頑張っている手なのだと思った。
「私も、手紙を送ってよかった。もっと詩音ちゃんの話を聞かせてよ」
三千代は、傀儡剣士だとか、白銀の剣・異音だとか、双想の実だとか、そういったことは今関係なく、百合烏賊の同級生として──いや友人として、彼女の話を聞きたいと思った。
しかし百合烏賊は、そっと三千代の手をどけた。
「いや。話はもうおしまいだ。」
百合烏賊の笑顔は、惜しむようだった。惜しむように──
「詩音ちゃんは、今年の初夏に亡くなったからね」
「は」
その言葉が信じられなかった。
しかし百合烏賊はもう二度とは、椅子に腰を下ろさなかった。
「私は馬鹿なのさ」
百合烏賊は立ったまま、どこでもない宙を見つめて言った。
「大馬鹿なの。私は……三千代君。君みたいに、詩音ちゃんみたいに、やさしい人ではないんだよ」
「な、なんで」
「私はいつだって配慮に欠けている。詩音ちゃんの病名、私は彼女が亡くなった後にようやく知った。そして、調べた。そして……知った」
百合烏賊が知ったこと。それは。
「今の医療では治る見込みのほとんどない、とても難しい病気なのだと。病名の印象で抱くよりもずっと、つらくて、苦しくて、悲しい病気なのだと。“死”に……とても近い意味を持つ、病気なのだと」
ぎゅう、と百合烏賊は手を握り締める。続ける。
「そんな彼女に、私は“弔い”をテーマにしたお話を送ってしまったんだ。死にかけの、でも──死んでいない、そんな少女にね……?」
彼女はもう止まらない。
「……私は……。」静かな声で。「私は…………どれだけ馬鹿なのだろうね……?」
「あ……」
三千代は百合烏賊の荒れる様が、恐ろしくて。いや。とても可哀想で、見ていられなくて──目線をベッドに落とした。そこには児童書があった。百合烏賊の、詩音ちゃんの好きな、「老人が愛犬を弔う話」の載った、児童書が。
百合烏賊は続ける。
「詩音ちゃんは、東京の西の病院で、亡くなった。私の与えた紛い物のやさしさを抱いたままね」
「なぜそなたは、そう悲しいことを申す。」
ドンキが言った。何も言えないでいる三千代の傍で、ドンキは人工音声を張り上げた。
「君は……三千代君の、おもちゃの剣……」
「そなたが詩音という少女に送った話。それは紛い物のやさしさではないだろう。真の救いとなったはずだ。」
「ドンキ」
思いがけないドンキの言葉に、三千代が驚いた。百合烏賊の表情は変わっていない。ドンキは続ける。
「星空が魂を救う。自然科学的に考えれば、あり得る話ではない。しかし、その者が信じたまま逝けたのなら。真実と変わらないのではないか?」
「ドンキ……」
三千代はドンキから百合烏賊の方へ目線を移すと、こくりと強く頷いてみせた。
しかし。
「……違う」
百合烏賊は弱弱しい声で答える。両の手は、顔面を封じるように抑えていて、自戒の名のもとにそのまま己を壊しそうな雰囲気さえあった。
百合烏賊はゆっくりと、両手の隙間から言葉を落とす。
「違うんだ。だから詩音ちゃんは救われないんだ」
「……ええ?」
「東京の宙に、満天の星は見えないから」
それは残酷そのものだった。詩音ちゃんは、百合烏賊の送った本で「満天の星空による弔い」という概念を持ってしまった。それを胸に、詩音ちゃんは亡くなった。しかし彼女の亡くなった病院は──彼女の骨が眠るのは、東京だ。眩しい街の光によって、星の光は霞んでしまう。眠らない街・東京の夜に見える星など、月や金星、せいぜいそこに木星が加わる程度。
東京の宙に、満天の星は見えない。
詩音ちゃんがきっと最期まで胸に抱いていた「満天の星空による弔い」はいつまで経っても実現はしない。
三千代は何も言えないでいた。ただ相槌を打つことも、嗚咽のような喃語を上げることも、叶わない。ただ沈黙していた。
「双想の実は――」
百合烏賊はこちらに顔を見せず、吐き捨てるように言う。
「いわゆるドラゴンボールのような、魔神のランプのような、限定個の願いが叶う魔法のアイテム……ではない」
「……」
「特殊な効力を持つというだけの、果物であり、植物であり、自然物さ。……ミラクルフルーツという実を知ってるかい?」
「……」
三千代は答えない。百合烏賊も、答えを望んでいるわけではなかった。これから全て、自分で説明することだったから。
「食べた数分後から、酸味を甘味として感じるようになる、不思議な実なの。効果持続時間は約三十分前後。……そう、効果には持続時間がある」
その間は、口に放り込む酸っぱいものは次々と甘く感じられる。なにも「次に食べるひとつのみ」を甘くさせるのではない。
「双想の実も、一緒さ。食べたら効果はしばらく持続する。叶う願い事はひとつじゃない。持続時間の間に、願えば願った数だけ、さ」
百合烏賊は、ふふふ、と笑い、
「持続時間の間に、まず異音の願いを叶えてやる。別世界へのゲートを開くんだ」
扉へ向かって歩き出した。ゆっくりと、ゆっくりと、この時間を惜しむみたいに、三千代との会話を終わらせるために歩く。
「異音の願いを叶えた後、きっと時間は、“余る”。 残りの時間──私は、願う。私は、この世界を停電させる。……この世界のどこからでも星がよく見えるようにね」
「──!」
三千代は百合烏賊の背を見やった。彼女は病室の扉に手をかけていた。
「さようなら、三千代君。──数週間後、僅かな時間だけ、世界を満天の星空で包んでみせるよ」
「待って!」
三千代は叫ぶ。
きい、と扉の開く音。
病室の声は廊下に漏れる。
でも。構うものか。叫び続ける。
「どうして、そのこと、私に教えたの!?」
「……三千代君……。……君が、詩音ちゃんに手紙を送ったからさ」
一歩、百合烏賊は廊下へ踏み出た。僅かな沈黙。その後、
「文庫本、悪かったね。君が怪我をしたのが腕だとは、思わなかったんだ」
ばたん、と扉の閉まる音。
病室には、三千代とドンキ、そして二冊の本だけが残された。
しかし、室内の静けさはそこまで変わらなかった。
百合烏賊の語りは一貫して、静かなものだったから。
数週間後、と百合烏賊は言っていた。
数週間後、この世界のどこかに「双想の実」というものが送られてくる。
それを食べた百合烏賊は、世界の停電を願い、叶える。
病院も、会社も、原子力発電所も、停電する。
交通は麻痺するだろう。空港の機能が死に、鉄道は止まり、信号も消えるからいたるところで渋滞が起きる。
ライフラインはどうなるだろう。ポンプが止まって水道の供給は不安定になる。冷蔵庫は沈黙し、たくさんの食料が損なわれる。
治安の悪い街からも灯りが奪われる。……想像さえしたくない。最も暗い闇は、人間の心の中にある闇だ。人類は光がないと極端に弱くなる。
世界は停電する。
世界が暗黒の中に静止する。
明かりを失った地球からは、宇宙の星がよく見えるだろう。
その裏で、この世界と、そして別世界で、たくさんの命が失われることになっても……。
「三千代よ……。」
「心配いらないよ、ドンキ」
口ではそう言ったが、三千代の手はかたかたと震えていた。布団は握り締められて薔薇のような皺を寄せる。
二冊の本がその上で散らばっている。
ひとつは児童書。
ひとつは文庫本。前にスイに借りたことがある、探偵小説だ。どうせ片方の腕を失って間もない今、ページを開くことはできない。
なぜ百合烏賊は、自分にあんなことを話したのだろう。三千代は考えた。私が詩音ちゃんに手紙を送ったから? 百合烏賊がやさしくあろうとした詩音ちゃんに、私もやさしさを与えていたから? そのよしみで?
文庫本の中では、殺人が行われる。
物語は、犯人が壜を海辺に捨てるところから始まる。
それから犯人は離島に乗り込んで、復讐の名のもとに殺人を行う。
犯人は全ての復讐と殺人を成し遂げる。
壜は物語の最後、少年に拾われる。
壜の中には手紙が入っていて、犯人の殺人計画と告白が書かれていた。
犯人は、自分の行いが間違いではないと思いながらも、心のどこかで、誰かに止めてほしかったのだろう。
三千代は思った。
この文庫本は、壜なのだと。物語が始まる前に見つけられた、壜なのだと。
「ねえ、ドンキ」
「応。」
「私が、百合烏賊を止めるよ」




