おもちゃの剣 下
自らを慟哭風纏と名乗るおもちゃの剣──通称「ドンキ」(ドンキに売ってそうなおもちゃそのものだから)を海辺で拾って1週間が経とうとしている。ドンキは、赤いプラスチック質な柄の部分に、AIとスピーカーとマイクが内蔵されており、つまり、おしゃべりができる。エセ・サムライ語とでもいうべき可笑しな口調で、だが。
恐るべきことに、おもちゃの持ち主は鼻垂れた未就学児ではなく ましてやクソガキに磨きのかかってきたツヤツヤの男子小学生でもなかった。なんと女子中学生である。三千代といい、名前こそ若干ババアみたいだがそれ以外はごく普通の、どこにでもいる女子中学生だ。
「ミンチョよ、」
ミンチョというのは、ドンキが名付けた三千代のあだ名のようなものだ。おもちゃの剣に搭載されたAIがどういう言語感覚をしているのかは分からないが、ミントを丸めたような可愛さを感じるので、こう呼ばれることが三千代は嫌いではなかった。
「なに?」
「小生もその学校とやらに連れてゆけ。そなたが話し相手となる夜はまだしも、昼の間は退屈の極みでな、まこと耐え難いのだ。」
ドンキを拾ってから1週間が経ったが、ずっとこの調子である。毎朝こうやってせがんでくるのだ。学校へ連れていけ、学校へ連れていけ、と。
最初の3日かけて、電源をオンオフするスイッチを探した。しかし無いのだ。「どこにあるの?」と尋ねても、要約すると「侍は不眠不休」といった旨の返事をべらべら長い言葉で返してくる。お前は侍じゃなくて、あと刀でさえなくて、ロングソードを模したものだろ、とツッコミたくなる。それに本物の侍たちもきっと睡眠はとっていただろうよ。
一応は全ての機能を極限まで“低速”に落としている「侍の一時の休息」モードで過ごしているらしいが。
ともかく電源を落とせないというのは、電気で動くモノとしてどうなのか。「休めない」というのは生物にとっても機械にとっても欠陥に他ならない。そもそも乾電池をセットする箇所も充電のための穴もついていなそうだが、どうやって電気を得ているのか。これについては、これもエセ侍口調のせいで理解に時間を要したが本人が説明してくれた。太陽光発電システムがついているらしい。ソーラーパネルの類はどこにも見受けられないが、まあ本人がそう言うのならそうなのだろう、といったところで三千代は納得することにした。
そういうわけで三千代は、学校へ行く前に、日当たりのいい窓の傍にドンキをたてかけて、たっぷり発電できるようにしてやってから、今日もドンキの戯言を無視して扉を閉めるのだった。
「行ってきまーす。今日は5限までしか授業ないから、ちょっと早く帰ってこれるよ」
がらら。ぴしゃ。
……
その日、家に帰るとキーン、キーンとやかましい音が鳴り響いていた。外からでも聞こえる大きさで、玄関に足を踏み入れた瞬間に一段階聞こえるやかましさは上がった。あわててバタバタ階段を駆け上がる。がららっ!ぴしゃん!
「おい!ドンキ!お前だろっ!」
ムカつくのが、家には母がいるのでこちらは大きな声で叫び返せないことだ。小さく、しかし語末に感嘆符をしっかり感じさせるような口調で三千代は言った。
対してドンキは飄々とした語気だ。
「安心いたせ。おぬしの母君には一切届いてはおらぬ。小生が周波を調え、二十歳以下の者にのみ聞こえるよう策を講じておるゆえ。」
モスキート音というやつだ。若者にしか聞こえない音。近年ちょっと話題になっている。家の先でこの嫌な音を鳴らし、ガキ避け・犬猫避けにするユーザーが続出中らしい。
「なんのつもりだっ!」
「これぞ、いわゆる駄々というものよ。小生は、今まさしく駄々をこねておるのだ。小生を学校へ連れてゆけ、とな。ここまでの真似をしてまで、小生が学校へ行きたがっておるという証に他ならぬ。──笑いたければ笑うがよい、それほどの覚悟で申しておる。」
お望み通り「ふっ」と一声、軽く笑ってやる。
「どうしてそうこまで学校に行きたがるのかねえ。てかそう、ずっと疑問だったんだけど、学校に行ったとしても騒がしいだけだよ? この窓にもたれかかって波の音や風の音、小鳥のさえずりでも聞いてた方がよっぽど楽しいと思うんだけど」
「聞き飽きたわ。そして、見飽きた。小生に備わる感覚器官は、何も音を拾うマイクのみと思うなよ。柄に嵌め込まれし蒼き宝石――カメラを通し、小生はこの世界を余すことなく見据えておるのだ。」
「うそっ」
ガッ。刃の部分を掴む。むにゅっ。硬い弾力を感じながらも、表面が僅かに潰れる。
慟哭風纏──この、ドンキに売ってそうなおもちゃの剣には、ビニールっぽい刃の部分と、赤くプラスチック質な柄の他に、安っぽく金色で塗装された鍔がある。ガードとも呼ばれる、刃から柄への直線を横断するように取り付けられている部分である。これらが交差し、西洋のロングソードは十字のかたちをする。その鍔の中央、十字の交差する一点に、青いビー玉みたいなものが確かにはめ込まれている。
三千代が覗き込んでみると、ビー玉の奥でスマホについているようなカメラレンズらしきものがキュイと窄まった。
バッ。顔を離す。
「うわっ!」
勢いで、ベッドの上へドンキを放り投げた。
「何をするっ!」ドンキは人工音声で哭いた。
「驚いたぁ~!」
「何を驚くことがある。」
「いや、君ってカメラ機能も付いてたんだ。……じゃ、私の姿も映っていたの、ずっと」
「当然のこと。主の姿すら知らぬような従者が、いったいどこにおろうか。」
思い出されるのは、自分が椅子の上であぐらをかいている様だったり、あるいは自分でも見たことがない自身の寝顔であったりだ。宿屋の娘だけあって、湯上りにパンツ一丁で過ごすなんて風体を晒したことはなかった。にしたって少し恥ずかしい。
「あ、あ、あのときも、あのときも、全部見られてたの……」
「応」
人間の小娘がこうも大きく開けるものなのか、と驚ける程に大きく開いた口から空気が抜ける。うなだれる。
「はぁ~~っ」そして顔を上げないまま、「……まあ、いっかぁ」諦めたみたいに言った。
退屈が敵なのは人間同様、人工知能もそうなのかもしれないな。心優しき三千代はドンキのカメラをぢっと見つめ、そう思うことにした。
「私がいない間、ドンキをどうするかだよね。ってよく考えたら毎日7,8時間くらい暇してるわけだ」
「ようやく事の深刻さに気が付いたか。」
「いや……あんまり気づいてないかもだけど。だって、ここに来る前からドンキはひとりでに動くことはできなかったんでしょ? 今の状況と同じようなもんじゃないの? 1日の大半で移動することなくその場に留まっているっていうか……」
人工音声で「はぁ――」とため息みたいな声を出す。
「見当違いも甚だしいな、たわけめ。小生はここに来る以前より、流浪の旅を繰り返しておった。まるで別の様々な土地で、まるで別の様々な者に拾われ、その者に力を貸し、その地を喰っていた脅威を打ち払ってきたのだ。」
これを皮切りに、いつにもましてドンキはべらべら喋った。喋りまくった。武勇伝である。それはもう出るわ出るわ、
・屈強な灰色の大男に拾われ、森の黒き巨獣を討った話
・「夜風」を名乗る盗賊の頭領を改心させ、義賊にした話
・華奢な少女と共に、弱き民を食い物にする悪の組織を壊滅させた話
・人魚の若き王子に自身を振るわせ、アンコウの王「スピカ」を倒した話
・ヨーロッパの北のあたりで、人生の道に悩んでいた村娘を騎士団長にまで導いた話
・自分を拾った恰幅の良い商人が、全長が砂漠ほどあるデスワームから村を救った話
・隠居老人の畑で眠っていたところ引き抜かれ、熱風の魔女や悪しき鏡の騎士と戦った話
・いたずら好きの笹舟の精霊によって、馬の腰に括り付けられ、大河の端から端まで競争した話
「――馬はその逞しい胴を震わせて小生を動かし、道を阻む小さき霊どもを振り払いながら駆けた。あれはただのレースではなかった──いかに退魔の力を備えているかを競う、精霊、そして異形らとの障害物競争だったのだ。そして小生らは精霊に勝利した。我が馬は、河の流れるよりも迅かった。」
8こ目のエピソードが終わるのを待って、三千代はようやく人工音声を遮った。
「分かった、分かった! ようは、ずっと旅をしていたんだと言いたいわけね!」
「うむ。」
どのエピソードもおそらく嘘だ。1週間共に過ごして分かったことがあるが、慟哭風纏もといドンキ……こいつ妄想癖が凄まじい。……しかしまてよ?
「いい案がある、かも」
「申してみよ。」
――
15分後。
「これは――どういうことだ。」
ドンキは、近所の駄菓子屋の看板娘(ニホンジカ、メス、2歳と半年)の胴の側面に、サスペンダーのようなもので括りつけられていた。
「ここの駄菓子屋で飼われてるコの、かのりちゃんだよ」
「なにゆえ、こんな場所に鹿がいる? ここは古都・奈良ではなかったはず――まさか、異変の兆しか。」
「違うわっ!」ツッコんでしまったが、「なぜこんな場所に鹿がいる、か。あー私もよく知らないなあ。私が幼い頃からいたし、疑問に思ったこともなかったや」
「そなたが幼き頃より、こやつは共におったというのか? 小生の目には、そなたは十五、そしてこの鹿はせいぜい生後三年と見えるのだが──」
「ああ、いや。かのりちゃんだけじゃなくて、かのりちゃんのお母さんの代、おばあちゃんの代、他にもいくつか鹿の家族が地域に点在していてね。ともかく何匹か鹿はこの街にずっと居るんだよね、」なぜだか。
言ってから、三千代は駄菓子屋の奥へ消えていった。
慟哭風纏はぶらぶら揺らされながら主人を待つ。
少しして、主人の声で「おばあちゃん 今って餌やってもいい?」と聞こえた。さらに少しして戻って来た。薄くて白い煎餅が数枚、手に握られている。慟哭風纏の蒼い目はそれを興味深そうに映した。
「それは、なんぞ。」
「鹿せんべいだよ。ふつうの」
三千代は中腰にかがんで手を伸ばした。だから今、かのりと呼ばれる鹿の子の鼻先に煎餅がある。かのりは当然のようにベロを伸ばし、煎餅を食った。ぱりぱり。軽やかな音が空気に弾ける。
「この子は小鹿の頃から人懐っこくてね。いっつも街をうろちょろ歩き回っているから、私が学校行ってる間は この子に乗せてってもらえば退屈しないんじゃない?」
「“かのり”と申したな。よし、気に入った。そなたは今より小生の足──いや、相棒として仕えるがよい。」
剣と鹿じゃ主従関係はどうなるんだろうなあ。かのりの胴でぶらぶら揺れるドンキを見つめて考える。
「“かのり”――小生は、そなたのことを “天下乗” と呼ぶとしよう。そなたのような勇ましき大鹿には、こちらの名こそがふさわしかろう。」
米ぬかと小麦粉で作られた鹿せんべいは言ってみれば「おやつ」のようなものである。駄菓子屋で3枚50円で買うことができ、たまに街の女子高校生らが与えている。それとは別に一日三食、飼い主のおばあちゃんが与えるキチンとした食事がある。特に放課後によく見かけるのだ。駄菓子屋前で大皿に盛られた芝草やニンジン、芋をもさもさ食べているかのりの、愛くるしい姿を。
食事は飼い主のご飯の時間に、一緒にとっているようだ。おばあちゃんの晩ご飯は早く、午後5時半には始まってしまうので、かのりはその数十分前……午後の5時には駄菓子屋に帰ってきている。
「そういうわけで、学校帰りにまた来るから」
土曜と日曜、それから祝日で休みだった月曜を挟んであれから4日後。火曜日。登校の途中に駄菓子屋へ寄って、かのりの腹にドンキを括り付けた。かのりは朝食を食べて少しゆっくりしていたところで、これから腹ごなしの散歩にでも出かけそうな顔をしている。
「応。」
「じゃあね、ドンキ。かのりちゃん」
「達者でな――。」
心なしか、ドンキの声も上機嫌なように聞こえる。もしかしたら実際、設定をいじって高いピッチの声にしているのかもしれない。つくづく謎のおもちゃである。
「(もしかすると、思っているより高価な商品なのかな……)」
慟哭風纏──ドンキ、もとい「ドンキで売ってそうなおもちゃの剣」。
外見こそ激安の殿堂「ドン・キホーテ」で売っていそうなおもちゃでしかない。しかしAIは搭載されているわ、太陽光発電システムも備わっているわ、当然のようにマイク、スピーカー、カメラもあるわで、実は安くないおもちゃなのではないか。
まだ涼しい朝の道を歩きながら考える。空は雲ひとつない。街には背の高い建物がほとんどなく、空の蒼さを何者も何物も遮らない。いい気持ちだ。ドンキはかのりちゃんと楽しい楽しい散歩に行っていることだろうし。
この瞬間、三千代は自身を取り囲む最小単位的な世界という意味での「周辺」に関して、なにも懸念がなかった。全てが上手くいっている状態。エビカツサンドに乗って滑っていくような爽快な感覚だ。
10分かそこら歩いて、足を止める。ピィーン、ポォーーン。僅かにノイズが混じったチャイム。古いというよりは古き良き民家だと思う。長いこと大切に使われてきたんだろうな、と分かる二階建ての一軒家。学校の友人・スイの家だ。
三千代から学校へ行く最短の道のりからやや外れるところにあるが、朝、時間に余裕があるときはここに寄る。がらら、鈍い銀色の引き戸をスライドしてスイが出てくる。眠たそうな顔をしていた。
「おはよ~~」
「おはよー」と返す。
スイの家から歩き始めて数分の間、スイはずっと三千代の制服、肩を引っ張りながらてこてこ歩き、眠気と戦っていた。彼女が夜更かししているわけではないことは、三千代がよく知るところだった。ただスイが早寝してもずっとすやすや眠り続ける超健康優良児というだけである。
「ふあぁ。最近部活はどうなの?」
対して興味もなさそうに、スイが尋ねた。三千代は少し顔の向きを変え、目線の端で、自分の肩を軽く掴むスイの白い手を見る。
「部活って、私は帰宅部だよ」
スイの白い手が、ぱっ、と三千代の肩から離れた。段々眠気もなくなってきたらしい。スイは、僅かに気怠いカンジの残った、しかし相当に透き通った声で返す。
「言わせるなよ~。みっちょん、運動神経がいいから部活の助っ人に引っ張りダコなんじゃないかー」
みっちょん、というのはスイがいつの間にか使いはじめた三千代のあだ名だ。スイは続ける。
「最近は本業……帰宅部の方に入れ込んでたようだけど、一昨日の土曜は剣道部に付き合わされてたろー」
「ああ、うん」
なんとなしに、三千代は自分の腕を見た。見事な褐色をしている。登校に十数分しかかからないところに住んでてその上さらに帰宅部なのにここまで肌が焼けているのは、いっつもいろんな運動部の助っ人として駆り出されているからだった。
最近はドンキのこともあってバタバタしていたから、部活の助っ人は断っていた。それが金曜、駄菓子屋の鹿のかのりちゃんにドンキを任せるという名案によって事が解決へ向かい始めた。そういうわけでその夜、ずっと返事を待たせていた剣道部からの頼み事についに「YES」を返すことができたのだ。スイにも電話で話した。「明日剣道の練習試合に出ることになっちゃった」と。そのためにスイの外出の誘いを断ってしまって、これについて少し申し訳ないと感じていた。
「土曜日に遊ぶってやつ、断っちゃってごめんね。剣道は……久しぶりだったけど、楽しかったよ。あ、ただ、」
「うん」
「ひとり、恐ろしく強い子がいて。その子には勝てなかったなあ……。ああいうのが県大会とか全国大会に進むんだろうなー」
「へぇ。なんて子なの」
「ええとね──」
学校に着く。校門の時点で分かっていたことだが、既にかなりの人数が登校している。教室は既に5割いる。まあ遅すぎず早すぎずで、適切な時間帯に到着したな、と思う。スイとはクラスが違うので、3年生のクラスがある2階に着いたあたりで別れる。
「あ~っ」
感嘆にしてはやけに間延びしている声をスイが上げた。
「どうしたの?」
「みっちょん……ルーズリーフ持ってる?」
「え? ないなあ、今。ノートのページを数枚千切るくらいはできるけど」
「ごめん! お願い!一限目、理科の、実験の授業だったや」
「ああ」
理科の実験てことは、授業の終わりにレポートというかメモを提出しなければならない。スイはいつも小さな小さな字で、教科書に直に書き込みをする人間だ。だからルーズリーフもノートも基本持ってきていないのだ。鞄には余計なモノばかり入っているくせに。三千代は自分に何を「お願い」してきているのか理解して、まぶたを落として僅かに笑った。
鞄を胸の前に回して、てっぺんの辺を開ける。淡い水色の大学ノートを取り出し、裏から開く。真っ白なページが続く。ばりばり、音を立てて2,3枚千切る。廊下は騒がしく、紙の破かれる音などはすぐにかき消され誰も気にしていない様子だ。
「はい、これくらいでいい?」
「ありがとぉー!!」
罫線の入った白紙を掲げ、ぶんぶん手を振りながら、長い髪を揺らしながら、スイは去っていった。もう眠気は全くないのだろう。それと、いつも元気だがいつにもまして元気に見えるのは、彼女が理科の実験などを好いているからだろう。
見送ってから、振り返って次は自分の教室を目指す。
「ええと私のところは、」
歩きながら今日の時間割を思い浮かべる。ああそうだ、一限目は国語だ。
一限目は国語だった。もっと具体的に言うと、中原中也の『汚れつちまつた悲しみに』という詩だった。授業は45分が経過し、良く分からないまま終わろうとしていた。
中原中也さんは何が言いたいんだろう、分からない……分からないうちに、うとうとさえしてきた。眠ってはいけないと分かっていながらも、まだ埋まっていないプリント問2を見つめるよりもまぶたの裏を見る時間が多くなってきた。猫のように背が丸まる。
「──!!」
――と突然、教室がざわざわ騒ぎ出した。
慌てて飛び起きる。あたりの様子を窺うと、誰もが窓の外を見ていた。
先生も一緒になって窓の外を見ている。若い男の、眼鏡をかけた先生で、気の強い方じゃない。よくあだ名にちゃん付けで呼ばれるような、そんな新米教師だ。先生は「もうそろそろ授業も終わるんだしまあいいか」みたいな呆れと諦めの混じった穏やかな顔をしている。黒板の上の時計の針は、授業の終わる1分前を指していた。あの時計は少しずれているから、実際には授業の終わる2分前といったところか。
すっかり眠気も吹き飛んでくれた。誰も国語のプリントには取り組んでいない。三千代も周囲に習って、窓の外を見てみる。
「いっ!!」
大きく育った蜂の巣を見つけたときのように、押し殺した叫び声を上げてしまう。あれが驚かずにいられるだろうか。周囲の生徒や新米教師が、どこか歓迎するような雰囲気であれを見つめている間、三千代だけはくらくらと頭を悩ませた。
「(なんでここに来てるんだよっ!)」
校庭に動物が迷い込む、というのは面白いイベントである。犬なんざ、街中でごろごろ見かけるというのに、授業中にリードをたなびかせて校庭を駆けだすと途端にスターとなる。
ましてや、おもちゃの剣を携えた鹿なんてものになると……
鹿は、まるで我が物のように工程を闊歩していた。そのたびブラブラと腰のあたりで何かが揺れている。
「あれなにー」
「鹿だ、鹿」
「なぜ鹿が?」
「なんか着てない?カワイー」
まずいぞ。三千代は冷や汗をたらす。
「(マズイ。ドンキのことがバレる。あいつは、なんでか私のことを主と呼ぶ。あのオモチャの所有者が私だとバレたら……)」
そこでチャイムがなった。先生が「あ、」と一度詰まってから「今日の授業はこれで終わります」を言う。起立、礼、を日直が極めて冷静沈着に指揮する。今日の日直はいつも大人しくしている確か図書委員の女子で、あまり校庭の鹿に興味がない様子だ。ぱっぱと「ありがとうございました」を言い終えるとすぐ腰を下ろし、国語の教材を机にしまった。
と同時に、対照的に、弾丸のように教室から飛び出したのは三千代である。褐色の体躯がビュウンと風を切って、いやそれ自体がひとかたまりの黒い風となって、とにかく早く駆けた。だだだん、だだだん、だだだだん。まさしく“一瞬”で3階分の階段を全て駆け降りる。ほとんど、3階の窓から自由落下するようなスピードだった。
「校庭に現れた鹿」なんて、人気者に決まっている。都会なら「野生生物」として警戒されるかもしれないが、この街に住むもので鹿に恐怖の感情を抱く者は皆無といってよかった。かわいい鹿“ちゃん”である。そういうわけで三千代の他に、同じクラスからも別のクラスからも別の学年からも、鹿と戯れようと教室を飛び出した者たちはいた。ただ、三千代はそういった連中の誰よりも速かった。恐ろしく速かった。
「わっ」
今も、1階理科室からへび花火のようにずるずる列を成して伸びている軍団の横を、快速電車のように抜けていった。一人の髪の長い生徒は、三千代の通過で発生した風で髪を乱暴にかき乱された。
「みっちょん?」
スイである。
風と、風で揺れた自身の髪に、目を閉じかけてしまいながらも。スイは友人・“みっちょん”……三千代の姿を捉えていた。しかしあだ名で呼ばれた当人はというと、今すれ違ったのが友人・スイだとは全く気付かなかった。三千代はこちらを振り返りもせずそのままどこかえ行ってしまった。
「相変わらず足はっやいなー」
ぺ。口に入った髪を吐き出す。少し立ち止まると、後列の子とぶつかってしまった。どん。「きゃっ」「あゴメンなさい」慌てて歩くのを再開する。スイは、歩きながら考える。
三千代は運動神経がいい。当然足だって速い。いつも助っ人運動部員として各部を飛び回るだけあって、学校でもちょっと有名なハナシだ。ただ……今の走り。スイは、三千代と同じクラスだったとき──小学1年、3年、4年、6年、中学に上がってからは1年と2年──のことを思い出す。
「(スポーツテストのときの50メートル走だって、あんなに必死な形相で走ってなかったよーな気が)」
三千代は、あんなに急いでどこに行ったというのか。
実験のあったスイのクラスは、校庭に出現した鹿のことなど知らなかった。
「(みっちょん、どうしたんだろ?)」
スイは瞬間、自分も三千代後を追って 彼女の向かった先に行ってみるか、と考えた。が、三千代の姿は既に見えなくなっており、三千代の通った痕跡も、もはや風としてさえ残っていない。スイの髪は揺れるのをやめていた。
それに、次の授業は体育だった。
「ま、いっか」
「どうしたの?」
隣を歩いていたクラスメイトがスイに問う。「や、なんでもない」と言って、スイは自分の教室へ続く階段をまた一歩、のぼった。
三千代はついに校庭にたどり着いた。……見えた。かのりと、ドンキだ。
砂を踏む。もう一歩踏む。ざしゅっ、ざしゅっ。この動作が高速で繰り返され、ダッシュとなる。ターゲットと水平に目が合ってからは、走行スピードが一段階上がっていた。三千代は高速で校庭中央の鹿へと向かっていく。叫びながら。
「ドンキ~~っ!!」
鹿と三千代の距離はみるみる縮まってゆく。これで鹿が驚いてどこか行ってくれるのならそれが一番いいが、そうはいかない。なぜなら、あの鹿は三千代に驚かないということが確定しているからだ。鹿──かのりちゃんと、三千代は、知り合いなのだ。
鹿ごと追い払うというのは不可能だろう。すると、最低限遂行しないといけないこと──それは、鹿の腰あたりにぶら下がっているおもちゃの剣の回収である!
校庭のど真ん中にやって来ることができた。
「こら! ドンキ!」
ふつうくらいの声を出したつもりだ。ここからなら、校舎には聞こえないだろう。
ちらりと校舎の方を見てみると、沢山の窓から、沢山の人間の顔があった。ぎょっとして、数瞬間、体が硬直する。その間にドンキ――慟哭風纏は、この状況をなんともないと思っていそうな口調で、
「これは――我が主・三千代ではないか。まさか、ここにいるとはな。」
などと抜かす。
振り返ってドンキをまじまじ見る。ドンキは、かのりの腰あたりに巻かれたサスペンダーにくっ付いている。
「ここは私が通っている学校だよ……知らないで来たの?」
「なんと、そうだったのか。それは――少々不味いな。」
「マズイ?」
ドンキの発言の意図は分からないが、ともかくかのりからサスペンダーとドンキを取り外す。少々もたもたしてしまったせいで、もうしばらくすると人が集まりそうな雰囲気がしてくる。「よしっ」ようやく外せた。かのりの背中をぽんぽんと軽く払って、また校舎の方を向く。こちらに近づいてくる、体育教師が見えた。
「ちょっともう、ホントに静かにしててよ?」
ドンキの柄の部分、マイクが内蔵されているであろう箇所に向けて言い聞かせる。そしてスカートのウエスト部分にぐいっと押し込んだ。おしりに、刃──ビニール部分が当たっている。
「こらっ、そこの生徒。鹿から離れなさい」
「す、すみません」
「何を謝ることがある? 三千代が一体、何を咎められるような真似をしたというのだ? 小生の目には、ひとかけらの非すら見えぬが。」
後ろに回していた手をぎゅっと強く握る。「(ドンキのバカ……!)」制服の布越しに、ドンキの刃にあたるビニールがぐにっと凹む。
「ん? 今何か言ったか」
体育教師が首をかしげた。
「あっ、すみません、すみません、なんでもないんです」
「三千代よ、よく聞け。侍というものは、そう易々と頭を垂れるものではない。謝罪とは、己の誇りを差し出すに等しい行い――」
「シッ!」
目前の体育教師は、三千代以上に焼けた黒い肌に汗を滴らせ、今度は反対方向に首をかしげた。
「ううん? 三千代、おまえ少し変だぞ」
「あっごめんなさい。ちょっと興奮しちゃって」
目線をやる。つられて体育教師も改めて鹿の方を見た。つぶらな瞳の鹿。
その隙に、三千代は手を動かして、掌底でドンキの柄の尻──スピーカーの部分を塞ぐ。これでドンキが騒いでも人工音声は聞こえずらい。
「んー? 随分人に慣れてる鹿だなあ。三千代、お前何か知ってるのか」
もごもご。
「あっ、そうです!近所の駄菓子屋のおばあちゃんが飼ってるコで……」
もごもご。
「そうか。知り合いだったか。まあでも、他の生徒が集まって来るといけない。お前ももう教室に戻っていなさい。先生たちでなんとかするから」
もごもご。
「分かりました! ありがとうございます! では!」
もごもご、音の振動でむずむずするお尻のあたりを抑えながら、三千代は走り去った。
「おい三千代。天下乗を置いていってもよいのか?」
走っている最中も尻から声が聞こえっぱなしだ。
「うるさいなあ、もう」
休み時間は始まったばかりだ。
「勘弁してよドンキ」
校庭の最西端、物置の裏にやって来る。生徒も先生も来ないような、じめじめしたところだ。なぜか濡れている石だったり、なぜか割られている陶器の欠片だったり、良く分からないものばかり落ちている。ドンキを取り出してから、しゃがむ。スカートを膝裏の方に折って、お尻も着かないようにする。
ドンキの鍔の部分に付いている青色のビー玉を覗き込む。これで主人が困っていることを伝えたいのだが、エセ侍口調の鈍感AIには何も伝わらない。
「勘弁、だと? 一体何を、小生に勘弁してほしいというのだ。」
「学校に来るのをだよっ!」
校庭に人が出はじめているので、あまり大きな声は出せない。こそこそドンキに口を近づける。
「ああ、そういうことか。――いや、すまぬ。小生とて、元より学校などという場所に来るつもりはなかった。ここが、いつもそなたが語っていた“学校”なる場所であるとは、露ほども知らなかったのだ。」
「え?」
「いや、な。確かに小生も、そなたの通う“学校”とやらには、いつか足を運んでみたかった。だが、場所すら教えてもらっておらぬとなれば、いかにこの小生──伝説の豪剣・慟哭風纏とて、狙って辿り着けるはずもなかろう。」
確かに、そもそもドンキを運んでいたのは意思疎通もできない鹿の子・かのりだ。
かのりちゃんが偶然、学校に迷い込んでしまったのかもしれない。と、三千代は、一瞬だけ思った。
いやいやいや。かのりちゃんが生まれてから2年と半年、彼女が誤って学校に入り込んでしまうことは一度もなかった。やはり こんの出鱈目剣型玩具は、常識を破った想像もできない方法で鹿との意思疎通を果たし、自身を学校に運ばせたのではないか。三千代は頷く。うむ、こう考える方が妥当だな。
この旨をドンキに伝えると、
「うむ、それは、そうだ。小生は、仲を深めた天下乗に頼み、この身をここまで運ばせた。」
「やーっぱりそうなんじゃん!……え、マジに鹿と意思疎通できたの?」
「応。」
最近のAIってすごいんだな。三千代はそう思った。
「じゃあ、ここが学校っていうことは知らなかったんだけど、また別の理由でここにやって来たら、偶然ここが学校だった、と。」
「信じてもらえるか――いや、信じてもらわねば困る。小生は偽りなど申さぬ。ただ、真を語っておるだけのことよ。」
足が痺れてきて、三千代は立ち上がる。褐色の肌に汗がだくだく流れる。ボブの短めの髪が、首や顔の横にぴっちりとくっ付いている。ああ、鬱陶しい暑さだ。
「……んじゃ、なんで来たの」
「そうだ。先ほど、そなたがここに居るのは少々不味い──そう申したな。あれこそが、すべてだ。」
「つまり、どういうこと?」
「つまり、とどのつまり。――凛厳は、ここにいたのだ。」
「は?」
凛厳。
……凛厳?
リンゴン?
記憶の底に沈んでいた言葉だった。一週間ちょっと前に聞いたはずだけど、どうでもよすぎてすぐに記憶の底に沈めたのだ。
だから思い出せたとき、脳が拓けた感覚がして、もはや気持ちよかった。
「あ、あああっ!」三千代は叫ぶ。「思い出した!」
「思い出したか、三千代よ――。」
「あれか! ええと、ドンキが旅の目的をべらべら喋ってたときの!」
一週間とちょっと前。三千代が海辺で、おもちゃの剣──ドンキを拾った。そのとき、ドンキは自身のことを「ある使命を胸に抱き 世界を巡る流浪の剣」だと語った。「ある使命」とは、「世の不正を正すこと」。つまり「悪」を倒すこと。そのとき「悪」として挙げられていた存在たちこそが──“暗黒竜”、“辻斬”、“魔王”、“泥棒”。
そして。
「リンゴン!」
“凛厳”。
「そうだ。悪が――凛厳がいたのは、そなたの通う学校だった。」
「は~あ。」呆れ、というよりは感心の声だ。「あの設定、まだ続いてたとはねえ」
「なにか勘違いしているようだが、これはれっきとした現実の話だ。大マジなハナシだ。下手に触れれば命すら危うい、大層危険な相手だ。甘く見るな。」
「命ぃ?えらく、強い言葉を使うなあ」
三千代は僅かに……ほんの僅かに、ドンキの妄言に耳を傾ける気持ちが出てきていた。それまでどうせAIの戯言、人工知能の妄想、ハルシネーションかなんかだろうと思っていたが、にしてはえらくしつこい。ここまで言うということは、まさか本当に「マジ」なんじゃないだろうな。三千代は、手を口にあてて考える。
言ってみれば三千代はちょっと前に「喋る剣を拾った」という非日常イベントに遭遇したばかりなのだ。
……
もしかすると今この手に握っているモノはアリス・イン・ワンダーランドでいうところのウサギさん、不思議な世界への案内人なのかもしれない。
……
非日常は、今も続いているのかもしれない。
……
それどころか、これまでの出来事は初期微動のようなものに過ぎず、非日常というやつは、今からようやく本格的に始まり出すのかもしれない。
……
……三千代の発想はそこまで飛躍した。
リンゴンとやらがファンタジー世界からやって来た大怪獣かなにかだったら、とは思わない。もっと現実的な存在、例えば不審者や犯罪者のことを指している可能性の方が恐ろしい。
ドンキは、「倒すべき悪」として、“魔王”や“暗黒竜”といったファンタジーな存在の他に、“辻斬”や“泥棒”といった現実世界の犯罪名も挙げていた。“リンゴン”も、そういった「犯罪」の、なにか、あだ名とか別名とか隠語とかなのかもしれない。なんならリンゴンとは固有名詞で、この近くに居る犯罪者の名前そのものなのかもしれない。
「ソイツは、警察などに相談するべき相手だと思う?」
「いや、警察では歯が立たぬだろう。相手は怪物だ。ただの人間が挑めば、一方的に惨殺されるだけの話よ。」
「怪物?リンゴンとは、怪物のことなの?」
「他になにがある。」
「私はてっきり、何か犯罪者の名前かと……」
「は──そうであるならば、とっくに警察に連絡するよう、そなたに進言しているだろうよ。だが、違うのだ。凛厳という存在は、殺人鬼でも強盗犯でもない。あれはむしろ、熊や狼といった類いの、人間にとっての、そう――“人間という種にとっての敵”だ。法も理屈も通じぬ、そういう相手だ。」
三千代は。『寄生獣』という漫画のことを思い出していた。「人間という種にとっての敵」。法を破って悪さするんじゃなくて、結果として人間に害を与えるような生態をしているというだけの……そういう生き方というだけの、生物。
休み時間ももうそろそろ終わるというのに、ここへきて三千代は頭を抱えた。立てそうにない。
「ほんとに、ファンタジー的な非日常的なモンスターが、このそばにいるっていうのか」
「応。」
「じゃあぜひ、私は逃げたいね。この場から」
「何を言う。」
「……何が?」
「そなたは小生の――慟哭風纏の主ではないか。」
「え?うん……そう、なのかな」
「そうなのだ。ゆえに、そなたが戦うのだ。」
「は?」
なにをいっとるんだこの剣のおもちゃは。三千代は心底から思った。剣のおもちゃは三千代に構わない。
「凛厳の近くにそなたがいると知り、小生は少々不味いと思った。このままではそなたが危険だ、とな。――だが考えてみれば、これほど都合がいいこともあるまい。凛厳の近くにいる“そなた”というのは、伝説の豪剣である小生の主人である“そなた”のことなのだからな。そなたが小生を振るえば、いかなる悪も打ち滅ぼせよう。」
完全に筋肉が弛緩しきって、三千代は口をだらんと開けている。その穴に向かって、人工音声がはきはき飛ばされる。
「さあ行こう小生の主人――三千代よ。共に巨悪・凛厳を倒すのだ――」
きーん、こーん、かーん、こーん。おもちゃのスピーカーとはまた別の電子音によって、ドンキの演説は遮られた。授業が始まろうとしている。
「やばっ、休み時間終わっちゃった! 急いで教室戻らないと!」
「待て、小生もその教室とやらに連れてゆけ。」
「できるわけないでしょ。君、カメラが付いてるじゃないか。教室に持ち込んだら盗撮になっちゃう。そもそも うちの中学は携帯電話とか電子機器は持ち込んだらダメなんだから、ホントは」
「早とちりはいかんな。小生、“侍の一時の休息”モードのときは、目も喉も休ませている。」
ドンキの言った「侍の一時の休息」モードとは、つまりスリープモードのことだった。全ての機能を極限まで低速に落とし、節電する。三千代の家でも、三千代が寝ている間や、三千代が出かけている間には、この「侍の一時の休息」モードで過ごしていた。
目や喉……つまり、モードの最中は、カメラやスピーカーの機能を働かせていないらしい。
「そのモードのときは君がカメラ機能を働かせていないって、私はどう確かめるんだよ」
「信じる──それしか道はなかろう。」
どう返答してやろうかと困っているうちに、チャイムは完全に鳴りやんだ。たった今をもって、市立翔仰第一中学校は、本日2限目の授業の時間だ。
「ほれ、急がぬと授業とやらが始まってしまうのではないか?」
「ああっ くそっ もう始まってるよ!」
立ちくらみしないようゆっくり立ち上がると、次の瞬間には湿った砂を蹴り上げて走り出した。走りながら、人をばかにしたようなチープな原色の赤をした柄に向かって、「さっさと“侍の一時の休息”モードにはいってよ!」と叫ぶ。
返事を待たずして、三千代はドンキをスカートとパンツの隙間へ突っ込んだ。
……
「ぜえっ、はあっ、すびまっ すみません!お、遅れました!」
彼女から汗が流れているのは、「爆走」という運動による肉体的負荷のためだけではなかった。授業に遅れたこともそうだし、何より、尻のあたりから不安がおもちゃの剣の形をとって生えている。
「珍しいな、お前が遅刻するの」
「すみません」
「まあ、今始まったところだ。さ、席につけ」
「ありがとうございます……」
2限目は、優しい初老の先生による社会の授業だ。
座っている人びとの間を通り抜け、自分の席まで歩く。一歩ごとに、一滴以上の汗が床に落ちた。周囲の目が恥ずかしい。汗のせいで制服がぴっちり張り付いて、褐色の肌が透けて見えている。それに、不自然な臀部の膨らみを隠すため、腰のあたりで両手を組んで歩いている。さながらいじけた乙女のような動作で、これがまた汗だくの自分には似合わない気がしていた。
席に着く。誰にも見られていないことを確認し、すぐさま鞄の中にドンキを突っ込む。
「はあ」
鞄の中を覗く。
「……」
予想に反して、ドンキは沈黙してくれた。ありがたい。いつもみたいにエセ侍口調の人工音声でべらべら喋り出していたら、いよいよどうしようもなくなっていたところだった。
授業中に黙ってくれるのなら、今日一日くらい問題はないだろう。とくん、とくん。三千代の心臓は落ち着きを取り戻しつつある。今日はどこかの部活に助っ人を頼まれるよりも先に、さっさと家に帰ってしまおう。スイも今日は科学部の部活があったはずだ。一人でさっさと家に帰ることに決める。
三千代はなんとなく窓の方を見た。青い空だけが見える。窓は開いているので、風が教室に入ってきている。といってもそこまで強い風ではない。レモン色のカーテンがやさしく膨らむ。窓辺の席の子が、カーテンを鬱陶しそうに払った。起立でもしないと三千代の席からは校庭が見えない。
「(かのりちゃんは、今頃散歩を再開しているのだろう)」
はぁ。かのりちゃんの散歩にドンキを連れていってもらう、っていうのはいい案だと思ったんだけどなあ。三千代はため息を吐いた。まさか、学校に来るだなんて。
それに、ドンキの言う“リンゴン”とやらが何かまだ分かっていない。万に一つということがある。ドンキの言葉を百パーセント信じるなら「ファンタジー世界のモンスター」ということになる。
「(うーん、)」
流石にそれは絶対ありえない。
……とは思うのだが。
ドンキは否定していたが、リンゴンとやらがこの近くにいるとしたらそれはやはり、不審者の類だと思うのだ。以前、ドンキは家の窓にやってきたカラスを「怪鳥」と言っていた。「三千代、怪鳥が現れたぞ!」と言ったのだ。ドンキの癖である。妄想癖というか、ドンキのAIには見聞きしたものをファンタジーに捉えるフィルターのようなものが存在しているようだ。ミミズを見せれば、きっと「デスワーム」とでも言うのだろう。十円玉硬貨を見せれば、きっと「幻の金貨」とでも言うのだろう。そもそもあいつは自身のことをおもちゃの剣ではなく「伝説の豪剣」だと思い込んでいる。
だから、“リンゴン”とやらが現実に存在する「何か」を元ネタとしているのはほとんど間違いない。問題は、その「何か」が何なのか、だ。「怪鳥」は「カラス」のことを指していた。では「リンゴン」は何を指している?
「(ゴン……って怪獣っぽい響きだよなあ。じゃあ、大男とか?)」
イメージされるのは、巨漢。プロレスのヒール役のような、悪そうな大男。熊のような大男。もしかすると、熊そのものかもしれない。大熊・リンゴンだ。けど、ここらで熊の目撃情報なんてあったか?うーんうーんと唸りながら考えている。気づくと、ノートの端っこにクマちゃんのかわいらしい絵を描いていた。ハッとして、消しゴムを手に取る。ごしごしと擦ると、クマちゃんのあったところには僅かな黒ずみと凹凸だけが残され、再び白くなった。
くあぁ。その後もぼんやり考えているうちに、あくびが出てしまった。いつの間にか、社会の授業は終わりに差し掛かっている。「いけない」と思って、授業に集中するよう試みる。
「……」
「──つまり、冤罪の温床になっているわけだな──」
「……」
「──1949年の弘前事件、50年の財田川事件、55年の──」
「……」
頑張って授業に耳を向けてみたが、すぐ頭の中は例のことで埋まってしまう。次の休み時間にでもドンキにもっと話を聞いてみるしかないか、と思ったがあいにく体育だ。着替えのために更衣室に移動する必要がある。ドンキに話しかける時間なんてないだろう。
そういうわけで、2限が終わり、3限、4限と、暇な時間がどこにもなかった。
「結局昼休みになっちゃった」
三千代は、机の隣のフックにかけてあった鞄を外す。起立と同時に肩にかけ、机に一瞥すると教室から出ていった。机の上には、スイへのメッセージが残されていた。黄色い正方形の付箋で。
「(きっとスイはいつも通り、昼休みになったらこの教室にやってくる。私とお弁当を食べるために。……申し訳ないけど、今日はパスさせてもらおう。やることがある)」
そうして、三千代は1限目終わりの休み時間にいた場所に戻ってきた。物置裏のじめじめした日陰だ。
鞄から、ビニール袋を取り出し湿った地面に敷く。袋は体操服を入れるためのものだったのだが、今は緊急事態だ。お尻とスカートを濡らさないためにはこうするしかない。ゆっくり腰を下ろし、膝を折ったままにして脚を横に開く。あぐらを組んでいるかたちになる。
「うぅうっ」
ビニール越しに、小石が体にこつこつ当たるカンジがある。何より冷たい。不快だ。
不快だが、仕方ない。さっさと始めよう。ビニール袋に続いて鞄から、お弁当、そしておもちゃの剣を取り出す。
「ドンキ」
反応がない。
「ドンキ!」
「お――おお、三千代か。つい、長く眠りについてしまっていたようだな。」
寝起きの人間みたいな反応だ。あぐらの中央、太ももと太ももの間にドンキを突き立てる。風船みたいに空気でぱんぱんに硬くなっている刃の方を下に、柄の尻を天へ突き上げるようにして立たせる。三千代が真下を覗き込むと、ドンキの、シャワーヘッドみたいな放射状に広がるスピーカーの穴が見える。
「それで? リンゴンについて教えてほしいんだけど」
背の低く横に太った円柱みたいなおにぎりを、箸で崩してひと口サイズをつまみ上げる。口に放り込んで咀嚼していると、
「おお、ついにその気に――む!?」
ドンキはなぜか、発話を中断した。
「どうかした?」
「いや――!」どこにボリュームを調整するツマがあるのか、ドンキは一段階大きな声で「デスワームが現れたのだ!」
と叫んだ。
箸を落としそうになって、あわてて握っていた手に力を込める。ひと息おいて、
「はあ?」
今、確かにドンキは「デスワーム」と口にした。
「デスワーム?」
きょろきょろ地面を探るように見る。この時点で既に予想はついていたが。ドンキのカメラレンズが向く先、やはり小さなミミズがいた。
「あのねえ。これはただのミミズ。デスワームじゃない」
「いや、これはどう見てもデスワームだ。一体どれほどの人間を喰らってきたのか、その醜く肥え太った姿が、すべてを物語っておる。」
言われてみればちょっとデカいミミズである。だが、ミミズはミミズだ。デスワームだなんていう化物ではない。この湿地ですくすく元気に育ってこれたからちょいとデカい、というだけのミミズである。
「これがあるから不安なんだよなあ」
「何がだ。」
「今もミミズを見てデスワームだ~とか騒いでたじゃん。どうせそのリンゴンってのも、なにかどうでもいいものを怪獣リンゴンだーって妄想してるだけなんじゃないの?」
そう言って、三千代は手の甲でミミズをしっしと追い払った。これにてデスワーム撃退完了だ。この分だと、リンゴンの討伐もなかなか簡単そうなものである。
「なら、その目で確かめてくればよかろう。」
ドンキは、その台詞に続けて、リンゴンが今どこにいるのかを教えてくれた。三千代はすぐに「リンゴン」が何なのか分かった。
凛厳のいるところ。それは。
学校の東の方に建ってある、「旧棟」と呼ばれる古い棟である。
旧棟。昔、市立翔仰中学校が2つに分かれる前、教室として使用されていた部屋が集まっている棟。その時代、ひとつの学年でクラスはAからLまで、つまり12もあったらしく、全ての学生を収容するためには2つの棟が必要だった。1・2年棟と、3年棟である。
その後、街の西の方にもう一つ中学校が建つことになり、そちらに家が近い生徒はそちらに通うようになった。そうして街の第二中学が誕生した。こちらは第一中学と名を改めた。
市立翔仰第一中学校。ひと学年のクラス数は8つに減り、1・2年棟に全ての学年が収まるようになる。いい機会だからと、1・2年棟は改装されぴかぴかの「本棟」として新生した。
そして、もう校舎として使うことはないが取り壊すのもなあ、というわけで誰もが扱いに悩んでいた元・3年棟。こちらは、部室を持たず空間に飢えていた弱小部活たちの「じゃあ俺たちに部室として使わせてくれ」という声が聞き入れられ、小さな部活の部室が集まる「部室棟」として使われることになった。この時、新たに部活やサークルが乱立する創部ブームが起きた。「ボードゲーム部」「漫画研究部」「百均調査部」、あと「科学部」もこの時作られたものらしい。
だからこっちの棟に拠点を置く部活のメンバーたちはここを「部室棟」と呼ぶことにこだわり、この呼称を広めようとしているのだが……。多くの生徒にとってこっちの棟というのは「部室が集まっている棟」ではなくて「本棟じゃないなんか古くて汚い方の棟」の印象が強いのだった。だから「旧棟」と呼ばれる。昔も今も、多分これからもずっと。
「本棟」に部室を構える大きな部から、「旧棟」に部室を新たに設けた部への不当な差別さえある。と「旧棟」組は訴えている。具体的には、本棟1階の美術室を部室に持つ美術部のことを、旧棟2階D教室を使用している漫画研究部は敵対視している。
放課後、旧棟にやって来た。
「久しぶりに来たなあ」
「旧棟」組の部活は文化部ばかりで、三千代が助っ人部員として呼ばれることはない。なので三千代はあまり、こちらに足を踏み入れることがないのだ。たまにスイのいる科学部の様子を見に来るくらいである。
「あ、」
そうだ、旧棟にはスイが来ているはずだ。今日の行動を知られるわけにはいかないので、見つからないように慎重に行こう。三千代は小さく「よし」と言ったのを最後に、口を固く結んだ。
1階、2階、3階。そして4階。ここにはもうどこかの部活の部室もない。
「けほっ、こほ、」
どの階もそうだが、この階は特に手入れがされていない。ほこりが沈殿し、雑草のように廊下のわきで生い茂っている。手で口と鼻を抑えながら歩く。もう一方の手で、背中の鞄から剣のおもちゃを取り出す。
「いよいよ、この時が迫ってきおったか。さあ、三千代よ、心を鎮め、気を引き締めてまいるぞ。」
思いのほか大きな声を出してきやがった。あわてて周囲を見渡すが、旧棟4階となると誰もいない。
「うるさいなあ。ほこりが舞うでしょ」
もう三千代の中で「リンゴン」の正体は99パーセント断定されている。今やっていることは、妄想癖の強いおもちゃの剣・ドンキに、「リンゴン」を間近で見せて、その正体を教えてやるためでしかない。出来の悪い子供向けに丁寧にアレンジされた教育の、一環のようなものだ。
旧棟4階には部室がない。なぜなら空き教室がないからだ。いくつか部屋はあるが、一体何に使われているというのか・いたというのか……いち一般生徒には想像もつかない。三千代は、小豆色の重々しい、金属っぽい扉を見つめた。端の方が錆びている。
実は学校が建つ前には小さな遺跡があり、そこから発掘された陶器の欠片なんかが資料と一緒に保管されている。とどこかで聞いたことがあるが、真偽は定かではないし、どうでもいい。三千代に限らずほぼすべての生徒がどうでもいいと思っていることだろう。最もエネルギーが有り余っている中学生の時期に、ずっと昔に割れた陶器に興味があるような者などあまりいないものだ。
ただ。4階にはもう一つ、変なモノがある。
三千代は振り返った。小豆色の扉の向かいに小さな階段がある。上がると、小さな扉がある。扉の下には、「立ち入り禁止」のフレーズが一列に羅列された黄色いテープがびろびろになって落ちている。三千代はテープを跨ぎ、小さな扉を開けた。まず光を感じ目を閉じた。そよそよ風が吹いている。短い黒髪が揺れ、褐色の肌で汗が冷やされる。
4階には、小豆扉の部屋の他に、もう一つ、変なモノがある。
変なモノというか、印象に残るもの、だろうか。三千代も入学当時は驚いたものだ。インパクトがすごい。しかし ずっとそこにあるのにずっと動かないので、いつしかどうでもよくなる。これも、三千代に限らずほとんどの生徒が似たような心情の変化を辿ることだろう。
現役の第一中学生徒の中に、これの音を聞いたことがあるやつは、いないだろう。
「ついに相まみえたな、寸胴の怪物――凛厳! 今こそ小生・慟哭風纏、そしてその主たる三千代が、貴様を打ち滅ぼす!」
叫ぶドンキを無視して、三千代はため息をつく。
「……旧棟の大鐘、ね」
それがリンゴン……もとい凛厳の正体だった。
旧棟4階から数段分しかない小さな階段を上ったところに、小さな扉がある。その向こうは、四方に太い柱があり、扉のある面以外の三方を高い柵で囲った鐘楼になっていた。床は鳥の糞まみれだ。中央に大きな鐘が吊られてあり、中から紐が垂らされている。紐は電車のつり手のように、先の方で輪が作られている。ここに手をひっかけて、思いっきりぐいっと引っ張れば……今でも鐘は音を響かせそうに見えた。
三千代はどきどきしていた。ふつうなら一般生徒が立ち入っていい場所ではない。
「スリープモード……ああ、ええと。“侍の一時の休息”モードだっけ? そのモードのときでも、マイクはオンになってたでしょ。だったら、授業終わりと休み時間の終わりとで何回もチャイムの音が聞こえてたはず。ほら、あのキーンコーンカーンコーンって音」
ドンキは沈黙しており、話を聞いているのかいないのか分からない。とにかく続ける。
「あれは、職員室に“チャイム”って書かれたスイッチがあるの。時間になったら自動でスイッチがオンになって、各教室のスピーカーからチャイムが聞こえるようになってる」
三千代は、ドンキのカメラを自分の顔に向けて、空いている方の手の人差し指をくるくるして説明する。
「で、私のお母さんとか、そのもっと前の世代はね? そんな音声素材なかったから。つまり最初は、チャイム音じゃなくて、授業とか休み時間とかの区切りを知らせてたのは……この大きな鐘だったんだってさ」
ずいっ。顔を、カメラに近づける。青色の、ビー玉のようなカメラ。
「分かった? これは怪物・リンゴンなんかじゃない。ただの学校の鐘!」
「そんなはずが――」
「ん?」
「そんなはずがない。小生を振って、確かめてみせよ。」
ドンキの人工音声は、震えているように聞こえた。いや完全な気のせいなのだろうけど。
「ええ? この鐘が怪物だったとして──仮にそうだったとしても、ドンキには絶対に勝てないと思うけどなあ」
三千代はドンキを握った手をかざし、ブウーンと振ってみる。ぺちんっ。空気の詰まったビニールでできた刃が、巨大で重い鐘に当たって、跳ね返された。鐘はちいとも揺れていない。
「ほらあ」
「――か。」
ドンキは小さな声でまだ何か言っている。手を下ろし、スピーカーがある柄の部分を顔の前に持ってくる。
「もー今度は何?」
一拍の後、
「魔女かっ! 魔女が魔法を操り、怪物・凛厳をただの銅鐘へと化かしおったわ! 小生が渾身の力で弱らせたその化け物を――最後の土壇場にて、手柄を横より掠め取りおって! うおおおっ! 小生の――この小生の世直しを、無粋にも邪魔立てしおって! 許しはせぬ、許しはせぬぞ!」
ドンキはいきり立って喚きだした。明らかにさっきより音量のボリュームが上がっている。このおもちゃ、ユーザーに音量調整させず、音量調整の勝手を内蔵のAIに委ねているせいで、クソ迷惑すぎる!
三千代は気づくと、耳を塞ぐために手を離していた。ドンキが宙に舞う。そして────
キィイーーィイィーーーーーーーンンッ!!!!
瞬間、その場に響き渡るモスキート音! 三千代は何が起きたかすぐに理解した。──ドンキが自暴自棄になりやがったのだ!
「うわわぁっ!」
三千代の家と違って、ここは中学校だ。すぐ下に、たくさんの若者がいる。その全員にきっと、爆音的なモスキート音が聞こえているだろう!
慌てて、三千代は手から離れた直後のドンキをキャッチしようと、腕を伸ばす。焦っているせいでなかなか掴めない。空中でルービックキューブを組み立てているかのように手が絡まってまた解けて、といったカンジに激しく動く。
そして。
はしっ。何かを掴んだ。それはだいぶ下の方で、三千代の下腹部のあたりに位置していた。自分が何を掴んだのか確かめるために、必然的に下を覗くかたちになる。見ると、とっくに鐘楼の床に落ちているドンキの姿があった。
「(こんのヤロオ……)」
そして、今手に握っているものが何なのか確かめるよりも前に、前方へずっこけるようにして、ソレを強く引っ張ってしまった。
「わっ」
りーーん、ごーーん。
りーーん、ごーーん。
りーーん、ごーーん。
りーーん、ごーーん。
鐘の音が、響き渡った。
なんとか踏ん張ってこけなかった三千代は入学以来初めて聞いた轟音に──頭上で揺れている「旧棟の大鐘」のクソうるさい音色に、目を閉じてしまった。
「ああっ、もう!」
こうして。
ただの女子中学生・三千代は。
妄想癖の強いエセ侍AI搭載剣型玩具・慟哭風纏――もとい、ドンキに。
出会った。