黒鉄の剣 10
「スイを起こす、とな。三千代そなた、かような未明から猫探しをするつもりか? 未だ朝飯も食っておらぬだろうが。」
自転車のカゴからドンキが喚いた。
三千代は切り返す。
「今、猫みたいな動物は危険なんだ。惨殺事件の犯人に狙われる可能性が高い。早く保護しないと」
「これは止めても聞かんな。」
「うん」
三千代は思い切りブレーキを踏んだ。キッ、キュッとタイヤの擦れる音を立てながら、自転車は急速に停止へと向かう。
インターホンが鳴る。
二分、しないうちに、スイが扉から現れた。
「ふぁーあ~……」
「朝早くにごめんね」
三千代は、自身の短い髪を掻いた。褐色の肌に汗が走る。
「いいよー。」語尾を伸ばすスイの声は、全てを承諾している様子だった。「猫、探しに行こう」
彼女の肩からは、ベージュのカバンが下げられていた。うっすらと、青い長方形が浮き出ている。
三千代はこくりと頷く。
「オーケーもしっかり持っているね。じゃあ、出発だ」
その声を背に、スイは駐輪スペースから自分の自転車を取り出していた。
「私とみっちょんは、二人で行動すればいいんだよね?」
三千代への確認。
三千代は米噛からのメッセージを見てすぐ、米噛に電話を入れていた。そして、いつ、何処から猫が消えたのかなど、詳しい状況を教えてもらった。スイと二人で行動するというのは、米噛からの提案だった。
それらのことを、三千代はスイの家に向かうまでに電話で伝えていた。
「うん。」三千代は答える。「米噛さんの飼い猫──クロさん──は、部屋から忽然と消えたらしい。万に一つ、仮に誘拐だとしたら、仮に惨殺事件の犯人に攫われたのだとしたら……」
そこまで言った三千代に、スイが続ける。
「相手は剣の保持者」
「そう。だから、やっぱり同じく剣の保持者であるスイと一緒に、私は行動した方がいいってさ。実際、私とドンキには、戦闘力はないからなあ」
「何を抜かす。小生のような豪剣以上に戦闘に向く刀があるか。」
ドンキが三千代に反論した。大きな人工音声が響いて、前カゴががしゃがしゃと揺れた。
敵対するのは、強すぎる故に別の世界から追放された、化物のような剣である。一方でドンキはただのおもちゃの剣。ふつうに考えて、勝てるわけがない。
しかし──
「そんなことないよ、みっちょん。」スイは言う。「だってみっちょんの運動能力、おかしいくらいスゴいからねー」
それを聞いて三千代は頬をぽりぽりと掻いてみせたが、しかし彼女の運動能力が凄いものであることは事実だった。それは、これまでの剣士との戦いを生き抜いてきていることが何よりの証左であった。
しかしスイは、三千代のことを、そんなことよりも評価している点があった。
それは。
正義だ。
あえて口に出すこともないが、スイが最も信用しているのは三千代の正義、その精神である。三千代は己の正義のために行動する人間だ。
「行こう。」三千代は、自転車に跨って道へ出てきたスイの目を見て、そう言った。「私たちが、凶行を止めるんだ」
「うん」
三千代の持つ正義の芯の強さが、スイは誇らしかった。
三千代とスイ。
二人は、ウサギの一件の後も毎日、街へ出て剣とその保持者を探していた。“身体を持たない寄生虫”に操られている傀儡剣士と平行し、連続小動物惨殺事件の犯人を捜していたのだ。
今捜すべきは、後者。小動物の惨殺犯。もしくは「クロ」という名を持つ黒い猫だ。これ以上惨殺を行われるよりも前に、惨殺犯を捕まえるか、もしくはクロを保護できれば、いいのだ。
三千代は、隣を走るスイの顔を見た。陶器のように白い肌が、水色の自転車に似合っていた。漆で塗ったように黒く、長い髪が、風を受けて流線型になびいている。
「ん……どうかしたのー」
目が合った。
「……」顔を前に戻す。「ううん。なんでもない」
口ではそう言ったが、三千代の頭にはある想像が浮いていた。スイ……の、自転車前かごに入っている、銅の剣・王敬。通称・オーケー。
「(“剣”は、周囲の“剣”の気配が分かる。だから、惨殺犯が剣の保持者だったら、近くにいたら分かるはずなんだ)」
しかしそう簡単ではないことを、三千代は知っている。剣は周囲の剣の気配が分かる──といっても、強い剣は特殊な能力を持っていることが多く、能力を応用して気配を隠すことができるものも多い。「気配」とは「魂の形状」だ。形状を変えたりすることで剣は気配を隠すことができる。
王敬がまさにそうだ。“名剣”・王敬は、銅の剣であり、銅の錆──緑青──を自在に操る特殊な力を持っている。緑青を自身で纏って形を変えることで、王敬は気配を消している。スイのカバンに浮き出た長方形は、王敬が板に姿を変えているものに他ならない。
そして。
惨殺犯が剣の保持者だとしたら。
十中八九。
その剣は、力を持っているはずだ。──気配を隠す、力を。
だとしたら惨殺犯をこの街から探し出すなんて不可能に近い。そう思われることだろう。
「(でも……)」
三千代はあることを思い浮かべていた。それは、最悪の事態だ。
「(惨殺犯が犯行に及ぶとき。そのときだけは、気配が現れる。つまり例えば────クロさんを殺すために、“剣”を剣の形にするとき──)」
ふだんは剣以外の形に化けていても、剣として使うときは当然、剣の形に戻さなければならない。そのときなら、“剣”の「気配」を放っているはずだ。
しかしそれを待っていては本末転倒だ。
剣が剣の形になる時とは、剣が振るわれる時なのだ。
惨殺犯の犯行を止め、クロを助けるために今こうして町中を駆けまわっているというのに。惨殺犯の犯行の開幕が、惨殺犯を見つけるきっかけになってしまっては。それでは本末転倒。それでは──
「(それだと、間に合わない!)」
クロの発見。もしくは、剣とその保持者の発見。それが今の最優先事項だ。
「(ねー、オーケー)」
スイは、前かごの中のカバンをちらりと見た。
「なんだ。」
王敬。スイに「オーケー」と呼ばれたこの剣は、テレパシーで短く答えた。
剣と人間の間にテレパシーを通わせるには、互いに触れている必要があった。薄い布越しでも可能だが、剣の硬い質感を人間の皮膚が感じていなければいけないのだと、スイは思っていた。しかし違った。いや、違ったというより、違うようになった。
スイと王敬は今や、至近距離ならば触れずとも通わせることができるようになっていた。
テレパシーとは、音叉の共鳴のようなもの。剣と人間は、剣と剣ほど「魂の形状」が一致しているわけではないから、触れなければ共鳴は起きないということだ。それが、触れずとも共鳴するようになったということは、「魂の形状」が似通ってきたということなのだろうか。ペットは飼い主に似る、と言う。
そんなことを、スイは思い浮かべていた。
思い浮かべていたことは、テレパシーによって王敬に伝わる。
「そんなくだらぬことを考えておるのか?」王敬は声を──テレパシーを荒げ、「誰が!そなたのペットであるものか。」と言った。
「(あ、聞こえてた? えーと、尋ねたいのはそんなことじゃなくってね、剣の気配のこと)」
スイは三千代に合わせて自転車を停止させた。物陰など、猫がいそうなところで逐一止まって周囲を探っているのだ。
「おーい、クロー」
三千代の声が聞こえる。
それに続くようにしてスイも「クロ―」と言ってみるが、頭では別のことを王敬に尋ねている。
「(剣の気配はないの?)」
正直この広い街で猫一匹探し出すのは現実的ではない。それよりも早く惨殺犯と剣を見つけ出すことこそ、最適解だと思っていた。これ以上誰かに──それは動物であっても──死んでほしくない。このスイの気持ちは、三千代の胸に抱かれたそれと全く同じだ。
「そなたと三千代殿の気持ちは分かるが――すまぬ。そう簡単には見つからん。」王敬が答える。「相手が相当に強い剣だとしても、朕の半径百メートル以内で顕現してもらわなければ、気配は拾えぬだろうのう。」
強い剣ほど、放つ気配は大きい。それこそ“名剣”ならば二百メートル離れていても分かる。気配の大きさとは魂の大きさであり、オーラの強さ、そして存在感の強さなのだ。
王敬は続ける。
「そして、剣が己の気配の隠匿を解くとき――つまり剣が顕現するとき――とは、剣が振るわれるときであろう。」
「(う……)」
「このような残酷を三千代殿と、そして、そなたに伝えて良いものか分からぬが――剣が振るわれる前に見つけ出すというのは不可能に近かろうな。」
「うん」
スイは力強く答えた。
声に出してしまった。
それが聞こえたらしく、三千代が振り向く。
「スイ? 何か言った?」
「なんでもなーい。ここらに剣の気配はないって」
肩から下げたベージュのカバンをバンバンと叩く。銅板の硬い感触が手のひらにブワッと広がる。
三千代は「そっか」と言って、別の方向を向いてしまった。
「ドンキのカメラから、何か見える?」と言って、おもちゃの剣を掲げる。
おもちゃの剣は、
「小生の蒼き魔眼が告げておる――二階には虚無のみ、何ひとつ潜んではおらぬとな。」と言っている。
「二階にも何もない、か……」
ここは街の南にある廃工場の入り口だ。しかし猫も剣もなかったので、二人の少女は次の場所に向かうことにした。
三千代が自転車に乗るのを見て、それに続く。
重たい車輪が回転を始めて前へと動く。
どんどん軽く、速度を上げる車輪。
その上で、ぎゅっとグリップを握って、
「(うん。)」スイは心の中で反芻した。「(でも、見つけ出してみせるんだよ)」
惨殺犯の剣が見つかるのは、誰かにその刃が振り下ろされるときだけだ。その瞬間にしか、剣は現れないのだから。
「三千代よ。惨殺の初手、そして一週間前の兎の件――いずれも公園にて仕組まれしものなり。其処は確かめ済みか?」
初めと最後の惨殺事件は、街の東にある公園で起きた。米噛と豪頭によって入り口付近が破壊された、あの公園だ。ドンキはそこに向かえと言っているのだ。
「そこはもう米噛さんがチェックした。私たちは街の西の方を探すの」
「されど此処には、人も猫も潜み得る陰影は見当たらぬ。」
ドンキの言うように、ここいらは人も猫も、とても隠れることができそうな場所ではなかった。碁盤の目のようにびっしりと住宅が並んでおり、それぞれに塀もない。無数の窓だけが、こちらを睨むように、白んだ太陽を映している。とても、悪いことをこそこそと行える雰囲気ではない。犯人が犯行現場に選ぶことも恐らくはないだろう。
「うん。場所を変えてみようか……」
「寸胴の化物の巣食う魔城。そこは既に確かめ申したか?」
「は?」三千代は慌てて、ブレーキを踏みかけた。「何言って──」
「フム。こう言わぬと分からぬか。――であるから、凛厳を頂上に構える、そなたが修羅のごとく通いし中学校のことよ」
凛厳。それは寸胴の体型を持った、巨大な、この街を支配する化物。……ではなく、三千代とスイの通う市立翔仰第一中学校の、旧校舎四階から伸びる鐘楼に吊るされている、大鐘のことだ。中二病であるドンキには、この大鐘が化物に見えているのだった。
「ああ……第一中学校のこと言ってるのね」
「如何か。」
「確かにまだ……確かめてない。」三千代は考える。「(今は夏休みで人も少ないし、この時間なら先生もまだ来てないだろう。何よりドンキの言う通り、大鐘のある旧棟は隠れるのにうってつけだ)」
それに。電話で、米噛が確かめに行ったという話も出なかった。街の中央からやや東にある、彼の通っている高校は確かめたが、中学校に行ったという話は出なかった。
「行こうか」
三千代は、隣を走るスイにそう言った。
スイは左手で器用に自転車をコントロールしながら、空いた右手で顔をぱたぱたと仰いでいる。暑そうだ。
「どこにー?」
「中学校。まだ、確かめてないでしょ? ……その前に少し休もうか?」
スイは、右手を握り締めて親指を立てる。
「大丈夫。水ちゃんと飲んでるから。行こ!」
「なぜ中学校には行かない?」
豪頭が言った。
米噛は念じる。
「(あそこにクロがいるとは思えない)」
「どうしてだ。」
豪頭のテレパシーに、米噛は右上を見た。雲がのんびりと流れている。昔、クロから聞いた話を思い出しながら、米噛は話す。
「(オレも聞いただけなんだけどさ。クロはあそこが嫌いなんだよ)」
「初耳だな。でもなぜだ。」
「(あそこの旧校舎四階に、大きな鐘があって。前に、オレらも聞いただろ。あの馬鹿みたいにデカい音。滅多に鳴らないんだけれど、クロも昔、聞いたことがあるらしい。それ以来、あそこが苦手なんだと)」
「大きい音が怖いのか。」豪頭は「うん?」と疑問符をひとつ使った。「いつも聞いてるロックの歌は、大きな音じゃないのか?」
「(“だって、金属で出来た化物が唸りを上げているみたいじゃあないか”……だとさ。まあ怖いものは皆それぞれなんだろ)」
米噛は心の中でそう言ってから、ふと頭をかしげた。
待てよ。中学校から百メートル南の方に、潰れた映画館があったはずだ。つい最近潰れた、小さな映画館。隣町の大型デパート最上階の大きな映画館に地域の人が皆行くようになって、ついに潰れてしまったのだった。元々目立たないセピア色の看板でやっていたところだったので、そもそもあまり知られていない。しかし幼い頃、母親と『シュレック』を見に一度行ったことがあった。
なぜあそこは確かめなかったのだろう。自分でも不思議だ。すっかり忘れていた。あそこ、妊娠した猫を匿う場所としても、惨殺犯が凶行に及ぶ場所としても、うってつけじゃないか。
「(行ってみるか、中学校の方面に)」
三千代・スイと、米噛が市立翔仰第一中学校のある方向を目指したのは、ほとんど同時刻のことだった。
三千代らは西から東へ、米噛は東から西へ、この街の中心を目指していた。
そこは日本の中心でもあった。
経度135度。
日本で最も時刻の正確な場所だ。
翔仰第一中学校は日本標準時子午線の上にある。
「(もう、七時か)」
米噛が心の中で呟いた。
「七時! そろそろ先生たちが学校に来ちゃう!」
三千代が叫ぶ。
二人の少女は、そして一人の青年は、それぞれ剣を携えて、この国の中心を目指していた。
元々いた場所がそこまで離れていなかったのと、途中に下り坂があった分、米噛の方が早く着きそうだった。日本時刻午前七時一分と零秒。三千代とスイは中学校まで残り約500メートル、西のところを走っている。そして米噛は中学校から約200メートル、東だ。
「そろそろ着くぞ」
「吾輩は初めて来る。中学校の下に、このような場所があったのか。」
左手側、錆まみれの看板が突っ立っているのが、ここからでも小さく見えている。
このまま真っ直ぐ進めばすぐに中学へと着く。しかし米噛の目的地は中学校ではなく、その南にある潰れた映画館だ。
米噛が、ぐい、とハンドルを左に切った。顔が、身体が、自転車が南を向く。太陽を左に感じる、右に鋭い影が伸びる。背中に巨大な海の存在を感じる。海から吹く風が、全てを、南へと押しやっている。
米噛が映画館に到着したのと、三千代たちが中学校に到着したのは、同時刻のことだった。
「随分廃れた場所だ。」
米噛は中学入学の頃から使っているぼろぼろの自転車から飛び降り、
「(こういうのって、中は意外と綺麗な状態かもよ)」
中へと入っていく。
真っ暗で、カウンターの位置さえ分からない。
「足元に気をつけろ。それと――」豪頭は言う。「ライトを用意しておけ。」
「(分かった)」
米噛は、小さな懐中電灯の挿されている腰に手を伸ばした。
黒鉄の剣・豪頭怒号。地中の砂鉄を操作し、剣の保持者──米噛──の影から無数の黒い刃を生む能力を持っている。
影より生える黒き刃。
そう、“影”がいるのだ。
豪頭の力を発揮させるには“影”が必要であり、それはつまり“光”が必要ということでもあった。
米噛は、ぎゅっと、手の中に光を──懐中電灯を、握り締めた。
一歩、また一歩、闇を踏む。
「……」
黒闇の中。米噛は、豪頭の力について考えていた。これから、己の影の中に潜むこの黒き大剣を振るうことになるかもしれないのだ。
黒い刃の指向性は保持者の感情によって決定される。人間の「感情」というものは「思考」に比べて大雑把なものであり、コントロールに慣れていない者が使えば、大抵、黒い刃は四散五裂、無闇矢鱈な全方向へと爆発するように伸び、巨大なウニみたくなってしまう。
米噛は考え込む。
自分は豪頭を上手く扱えるのだろうか。
また、相手は剣をどう扱うのだろうか。
結局、この日まで、米噛は他の剣に力を向けられたことはなかった。スイの持っている銅剣・王敬は青錆を操作する力を持っており、それが傀儡剣士を拘束する様子は見たが、戦いに使われているところは見なかった。“身体を持たない寄生虫”によってこの街を跋扈しているという傀儡剣士たちにも、一人も出会わなかった。
もしかしたら、己は今日、初めて、他の剣と対峙するかもしれないのだ。
そう思うと足が震えた。不安定な闇を、踏み外しそうな気持になった。
「落ち着け。」
暗黒の中、豪頭がそう言った。影がないため力が極端に弱まっている、か弱いテレパシーだった。
「(落ち着け、ってのは無理だろ。もう思い当たる場所がここくらいしかないんだ。クロがいそうな場所。そして──)」闇を踏む。埃が舞う。「(惨殺犯がいそうな場所)」
それはただの妄想だった。
“想定している最悪の事態”。
あくまで“想定”でしかないはずなのだ。
つまり、「今日が偶然にも惨殺犯の活動日であり、偶然にもクロを狙う」という、偶然がいくつも重なったただの妄想を基に、米噛はこんなところまで来たのだった。
最悪なのは。
それが妄想では終わらなかったことだ。
それが杞憂では、終わらなかったことだ。
ライトで足元を照らしながら一階の全ての上映室を回り終え、二階へ続く階段の手すりに手をかけた、その時だった。
「右後ろ斜め上6メートル先、剣の気配が出た!」豪頭が叫び。
「南に百二十メートル先に、剣が出たぞ! スイ!」王敬が叫んだのは。
全くの同時刻のことだった。
スイの話を聞いて、三千代は全身の毛を逆立てた。
「ここから南に百二十メートルって……」三千代は叫ぶ。「どこ!?」
叫ぶだけではない。口を開いた瞬間には既に体は動いている。中学校旧校舎の三階から、飛ぶように階段を駆け下りる。出てすぐ、校舎裏に回り込む。止めてあった自転車に乱暴に鍵を差し込む。がちゃ、がちゃと喧しい音。それに混じって、スイの張り上げられた声。
「映画館だよ!」
それを聞いて三千代は一気に、幼い頃の記憶が蘇る。小さな映画館だったが、幼い頃一度、スイと共に『モンスターズ・インク』を観に行ったことがあった。
「あそこか!」
もはや「行こう!」なんて言葉は必要なかった。
行くのだ。
何がなんでも。
少女二人は、行くのだ。
米噛は階段を一段飛ばしで駆けあがっていった。ものの数秒で二階に到着する。
二階には巨大なシアターがひとつあるだけで、その扉は閉ざされている。
でも、それがどうした?
閉ざされている、とか。関係ない!
米噛はその闇を思い切り蹴とばした!
ぎぃいいいっ! 悲鳴を上げて扉が開く。
「(何も見えない!)」
思わず、米噛は目を閉じた。
そこは、あろうことは、眩しかったのだ。
「(目がちかちかする……!)」
「ゆっくりと開け! そなたが目を閉じていると、吾輩にも何も見えない! 剣は――敵は、すぐそこにいるぞ!」
豪頭のテレパシーに従い、ゆっくりと目を開ける。
青い空が目に飛び込む。
二秒後、停止していた脳が回り出し、状況を徐々に読み込んでいった。
青い空は、やはり青い空でしかなかった。映画館の天井が丸々、くり抜かれていたのだ。
真っ赤なシートが床から斬り離されて、部屋の四辺へと寄せられている。そのため部屋の中央が拓けていた。ぽつんと、二つの物体が見える。
ひとつは青年。七三で分けられた前髪に、利発そうな顔つきをしている。多くの人に好かれそうな、三日月のような弧を口で作っている。米噛とは正反対の容姿だった。それに。手には。氷柱のような剣を握っている。ぴちょ、ぴちょと、切っ先から、赤い何かを垂らしている。
米噛の黒縁の眼鏡の奥の目の奥の脳が沸騰する。ぼさぼさしたたわしのような黒髪が青い天井へ向かって逆立つ。体内を巡る不摂生などろどろの血が、熱すぎて、冷たい。
部屋の真ん中に見えるもうひとつは、床に落ちている、黒い猫の死体だった。
七三の青年がこちらに気づいた。にこりと微笑み、何かを言おうとした。斜めから差す太陽を浴び、白い肌を輝かせている。何か言っている。
「ありゃあ。見られてしまった。ま、いいか。猫の次は犬か鹿のつもりだったけれど、別に人間でも……」
自分以外の森羅万象を馬鹿にするような台詞、それだけ聞こえた。
米噛には、その後の全てが聞こえなかった。
しかしこれだけ分かれば十分だった。
目の前の人間が、惨殺犯であること。
目の前の人間が、クロを殺したこと。
殺しを楽しんでいること。
ここから先は白んだ頭にぷつぷつと無から沸いた推察でしかないが。
あの氷の剣でこの映画館の天井をくり抜いたのは、ウサギを殺した際に草むらの上に飾るように置いたのと同じ意味ではないのだろうか。今度も、クロの死体を飾ろうとしたのではないか。それにしたって派手なのは、もしかすると。公園を派手に破壊した米噛と豪頭──自分達──への対抗心のようなものではないのか。
下を向く。
そこには、斜めから差す太陽の生む、己の、深い、暗い、濃い、黒い、影があった。
父も母も二人の祖父も二人の祖母も近い親戚も数少ない友人も全て生きている米噛は、誰かを弔うのは、これが初めてだった。
クロのよく聞いていた歌のことを思い出す。クロに影響され、英語の分からない米噛でもたまに聞いていた歌がひとつあった。
「お」 米噛は、「おぉ─」 己の影に手を伸ばし、「─おぉお──」 黒い鉄の大剣を、「おぉおおぉおおっ!!」ずるりと引き抜いた。
その黒き巨剣は一瞬天頂を挿し、項垂れるように振り下ろされ、黒い流星となって地に落ちた。映画館の灰色の床に伸びる己の影の頭頂部に、切っ先が触れた。鉄と鉄が衝突した、高い音が爆発する。びりびりと腕が痺れる。つむじからつま先まで、その先に伸びる影までも、全てが強烈な感情で満たされていく。そこから宇宙が開闢するみたいにして、無数の黒い刃が放たれた。無数の、無数の、無数の、黒い。棘の半球。惑星を埋める喪服。黒い、葬列だ。




