黒鉄の剣 9
あれから三日が経った。その間、クロは一歩も外に出ず、毎日家であくびをしていた。今日も、あくびをしながら、『サンボマスター』を聴いていた。このアルバムが終わったら、次に『マイ・ケミカル・ロマンス』が待っている。クロのプレイリストにはその2つのアーティストの名前しかなかった。
「終戦記念日だな」
クロがそう言った。
パソコンの中のサンボマスターは、愛や平和について歌っていた。
「なんで急に?」米噛はベッドから顔を上げて答える。「まあ今日は八月の十五日だけども」
きっとリビングのテレビをつければ、テレビはどの局もそのことを取り上げているだろう。今は朝の八時だ。女性アナウンサーが「終戦から○○年経ちました」と、神妙そうな顔で言っている様子がありありと思い浮かんだ。
米噛は、クロが永く生きているということを思い出す。
「まさか、流石に、戦前生まれとか言わないよな」
「ばか。ふと思っただけだよ。」急でもなんでもない、と顔で言っている。それから、「戦前生まれなんて、今じゃあ人間でもかなり少ないだろ。ましてや猫なんて、いないよ。ワガハイは不老不死の化け猫かよ」
「充分化け猫だろ」
猫が喋っているのだ。しかも、確認しただけでも日本語と英語、二つ喋れる。これが「化け」でなくてなんだというのだろう。米噛は、くくく、と笑った。
米噛も、クロが戦前生まれでないことくらい知っている。前に尋ねた時は「十三才くらいだ」と言っていた。クロは十三才なのである。なかなかの老猫だ。
シーツの皺に凸凹と影が波打っている。影は──影の中にいる豪頭怒号は、
「この世界の戦争はどんなものだったのだろう。」と言った。
豪頭は、この世界でも戦争があったことは知っているようだが、詳しくは知らないらしい。
米噛は「うーん」と少し考えた後、
「オレも詳しくは知らないよ。でも、説明すると長くなるのは確かだな」
クロの丸まっている机に目をやった。小学四年生から使っている学習机。上に付けられた棚に、高校の教科書が並べられている。その左端の一冊。白い背表紙に「日本史A」の字が赤色で書かれていた。
「ん? 米噛、コストコと話しているのか?」
「こっちの世界の戦争がどんなだったのか気になるらしい」
「そうか。ソイツよりワガハイの方が知っていることが多いだろうからな、教えてやろう」
そう言って、クロはパソコンを叩いた。Enterのような大きなキーなら猫の肉球をてきとうに置くだけでも押すことができるのだ。音楽が止んだ。
クロは、たん、と大きく跳んで、米噛の寝転がるベッドの上に着地した。着地点が大きく凹む。
米噛は、クロが座れるように身体を起こして座禅を組んだ。
「無学で悪かったな」
「これから学べばいいさ」
クロは米噛を上目で見つめながら、米噛の影の中に座った。豪頭と話すには、こうしないといけない。
「クロ。そなたは、この世界の戦争について詳しいのか?」
「詳しいってほどじゃあないけれど、昔の友人に、そういった話の好きな奴がいて、よく聞かせてもらったんだ。だから、コストコに大まかに教えるくらいはできるさ」
「おお! では、ぜひお願いする。」
「うん。どこから話そうか……。まずは、サラエボ事件からかな。1914年、バルカン半島っていうところの────」
ボスニア・ヘルツェゴビナという国の首都・サラエボで、当時のオーストリア皇太子が射殺された。というところから、クロの話は始まった。豪頭は度々質問を挟みながらもそれを聞いていた。ほとんど剣の登場しない戦争に、ずっと驚いていた。しばらくは米噛も側臥位の姿勢で寝転がって話を聞いていたが、話が1915年4月のガリポリの戦いに入ったあたりで、とうとう眠ってしまった。
どれだけ眠っただろうか。
流れるプールの夢を見た。数秒後には忘れそうな夢だった。
目を覚ましても、ふたりの声は聞こえていた。黒剣のテレパシーが体内に伝わる、黒猫の日本語が鼓膜を打つ。
「そのコは、自分の血が本当に白いのか確かめてやる、と言って、腕を搔っ切ろうとした。」そう言っているのは黒猫の方──クロだった。「病名はそういう意味ではないんだよと、ワガハイは何度も説明したのだけれどな。リストカットは本来、腕に対して横に切ってもあまり危険ではない。縦に切ると血管が大きく損傷するが、横だとそこまで……。しかし、免疫力が著しく下がっている状態だと話は別だ」
米噛は身体を起こさずに、目をこする。なんの話をしているんだ?と、ぼやける頭で考える。
「(てか、どれだけ話しているんだよ)」
ふたりはそのことに気づかない様子で、話を続けている。クロへと向けられた豪頭のテレパシーが流れてくる。
「僅かな傷口からでも雑菌が侵入するからか」
「そうだ。そして、僅かな菌でも病気にかかる。あの時は既にかなり免疫力の下がった状態だったらしい。会話のあった二か月後、かれは無菌室に移されたよ」
クロの声は重かった。
今している話は、そろそろ終わりそうだった。だから、米噛はふたりの邪魔をせずに眠ったふりをすることにした。ふり、というか、実際、半分は眠っているようなものだった。まぶたが重い。
米噛は再び夢の世界へと入水した。
クロは話を続ける。
「それからは、彼に会うことはなかったなあ。猫が病院に入れるわけもないし」
「無菌室には、窓は、ないのか?」
「あるよ。遠目から見ても分かる、分厚い、分厚い窓が。あの部屋の位置からだと、木々の幹の間を縫うようにして、公園が見下ろせるはずだ。ワガハイは木にも登れるが、会おうとしなかった。公園にも近づかなかったよ」
「なぜだ。」
「きっと木の枝から飛び移って窓に近づいても、声を届けることはできないからな。それに──元気になってから会えばいいと思っていたんだ。今にして思えば、姿だけでも見せてやるべきだった」
「……」
「死んだ、ってのを知ったのは、その更に半年後だな。葬式へ向かう、彼の家族を見かけたんだ。冬に別れて、夏に死んだ。……今日だ。今日は……ええと……」クロは両の肉球をしばらく見つめた後、「……うーんと……七回忌、だなあ」
豪頭はそれを聞いて、しばらく黙ったが、
「恐ろしい病気なのだな。そんな若い者の身体をも蝕むというのは。吾輩のいた世界では、そんな話、聞いたことがなかった。しかし、なぜ、死というものは、どの世界でも、こうも悲しく感じられるのだろう。」
と言った。
「なぜだろうな。」クロは目を閉じて、丸まった。「あのコと出会ったのは、ワガハイが当時の母の死に明け暮れているときだった。親しい者を亡くすというのは悲しいことだ。そんなとき、海辺で歌を聴いている彼に出会った。彼が教えてくれたことがある」
「それは、何を?」
「ふっ。聴いていた歌の名前だよ」
「なんだ、」と、豪頭は拍子抜けしたように言った。「てっきり人生訓か何かかと。」
「聴いていた歌はMCRの──マイ・ケミカル・ロマンスの、『Party Poison』さ。激しい歌だ。今流したら米噛が目を覚ましてしまう。後で起きたとき、流してやろう」
そう言ってクロはパソコンの方をちらりと見た。音楽アプリが再生を停止して、等号を縦に立てたようなマークを画面に大きく映している。
「ワガハイは、クロの聴く歌だと、マイケミよりもサンボマスターの方が好みだ。」
「そういえば、あのコは、こうも言っていた。」クロはベッドに広がる影に笑う。
「なんだ?」
「マイ・ケミカル・ロマンスを聴いていれば、少しだけ、死ぬのが寂しくない」
「な――」んだ、それは。そう言おうとした豪頭を遮るようにしてクロは続ける。
「サンボマスタ―を聴いていれば、少しだけ、生きるのが怖くない」
豪頭はしばらく返事に困った後、
「人生訓か?」尋ねるように言った。
「どうだろう。好きな音楽のことを大仰に言っただけかもな。でも、それが人生の指針でもいいかもしれないね」
「やれやれ、この世界の人間と、猫の、倫理観が分からないな。――が、なぜそなたがいつも同じアーティストの歌ばかり流しているのかは、分かった。」
豪頭がそう言ったのを聞いて、クロは笑った。細い髭がゆらりと揺れる。
そのとき、米噛は目を開けた。
「起こしてしまったか」
クロは申し訳なさそうにする素振りも見せず、ベッドから飛び降りた。そして床から椅子、椅子から机の上に、大きなジャンプを二度も繰り出してみせた。
スリープしていたパソコンが活動を再開する。
歌が流れ始めた。女の声で、抑揚の控えられた日本語が聞こえた。かと思うと、それはすぐにザラつきのある高音の英語に塗り替えられた。
米噛は完全に意識が覚醒した。尋ねてみる。
「なんの歌だ、これ」
「マイ・ケミカル・ロマンスの『Party Poison』だ。」
そう答えたのは豪頭だった。
「(なぜコストコが知ってるんだ?)」
「そなたが起きる前、クロに教えてもらった。」
「(ふうん)」米噛は納得した。「(なーる)」
「? なーる、とはなんだ?」
「(なるほど、って意味)」
「なるほど。……いや。……なーる。」
豪頭の潜む己の影から目を離し、机の方へと視線を移した。卓上の時計の短針に、眼を凝らす。
「オレは随分寝てしまったらしい。」それから続けて、「ふたりとも、なんの話をしていたんだ?」
「いろいろなことを話したよ。」そう答えたのは、時計の隣に佇むクロだった。「世界大戦の話の後に、コストコのいた世界での戦いのこと聞いた。あとは、そうだな。刃物の話や、未解決事件のこと、天体現象、海の生き物、短歌や詩、この街のこと、それと……ワガハイの昔の友人のこととかな」
「ふーん」
前々から思っていたけれど、こいつって結構、顔が広いよな。と、米噛は思った。
スマートフォンの電源を入れると、アプリからこの地域のニュースの通知が来ていた。ふだんはニュースに興味なんてなく、通知は切っているのだが、今は違った。
連続小動物惨殺事件の続報だ。
「(そうだよな。あのウサギは、野良のものではない。誰かが飼っていた、ペットだ)」
人間の世界ではよく、野生の動物よりも人間の飼っている動物を殺した方が、罪が重くなる。事件への世間の注目度は跳ね上がっていた。
それから更に四日後。
ウサギの亡骸が公園で発見されてから七日が経っていた。
もぞり。ベッドの上で身をねじってスマートフォンを手に取る。時刻は十時を指していた。最近、この時間までだらだら眠ってしまう。
「朝か……」
「もう昼だろう。」と豪頭が言う。
「いや、これから朝食を食べるんだから、朝だよ」
てきとうなことを言っているな、と自分でも思う。
今日のニュースをチェックしながら、ベッドから立ち上がる。ページの底まで画面がスクロールされた。この地域の全てのニュースをチェックしたことになる。特に嬉しいニュースはないが、悲しいニュースもなかった。これは嬉しいことだ。新たな惨殺は、なかったのだ。
惨殺は大体、三、四日に一度起きていた。それが、あのウサギの一件以降、丸一週間、新しい件はニュースになっていない。
事件はこれで終わったのだろうか?
惨殺は、これで終わったのだろうか?
米噛の脳に、液晶の向こうのモザイクの向こうの小鳥たちの、肉眼の裏に焼き付いたウサギの、死んだ身体がリフレインされる。
殺された後の小鳥やウサギは、人の目につきやすいところに放置されていた。道の真ん中、学校の中庭、公園。犯人が、殺害という行為そのものだけではなく、誰かに発見され報道されるところまで含めて犯行を楽しんでいるのは明らかだ。前にクロから聞いた「二十年前にあった事件」の犯人も、そうだった。犯人は自分のやったことを誰かに見てもらいたがっている。
となると、警察や世間からの注目が大きくなったことは、今回の犯人が手を止める理由にはならなかっただろう。むしろ一層注目されるような獲物を喜々として狩りだしていたかもしれない。
犯人が惨殺を止めたのは、やはり。
「オレとコストコによる、公園の破壊痕か?」
「かもな。」
スマートフォンには、七日前のニュースが表示されている。そこには、モザイクのかけられたウサギの写真があった。そして、ぐちゃぐちゃに破壊された公園の写真があった。フェンスは粉々に砕け、禿げた草地の黄土の地面に散乱している。大穴のいくつも穿たれた、醜い地面だ。それは、鉄の塊による、鉄の刃による、鉄の剣による、破壊の痕だった。
「犯人は、これを見て気づいたんだ。自分の他にも剣を拾った奴がいると。そして、ソイツの剣の方が、自分のそれよりも強いということを……」
米噛は、ニュースを睨んだ。強く掴まれた液晶画面の左右両端が僅かにたわんで、虹色の波を打った。
その夜、クロがいなくなった。
そのことに気づいたのは、午後3時の20分を少し過ぎた頃だった。
瞼の向こうに光を感じて、つい目を開いてしまった。パソコンの画面が光っていたのだ。光度の低い、暗い画面だった。しかし、カーテンも閉め切られた暗黒の部屋の中では、その暗い画面さえも明るすぎた。強烈な刺激を受けた目は一気に開いた。
部屋の灯りをつけることにする。スイッチに手をかけて、目を閉じる。
目を潰してしまわないように、一度閉じられた目を今度は、ゆっくりと時間をかけて開けていく。
そこには見慣れた部屋があった。
脳が、完全に起きてしまった。
適切な起床時間でない時間に起きたのに、妙に頭が冴える。
まず最初に思い浮かべたのは、不法侵入だ。誰かが家に忍び込んで、パソコンをいじったのではないか。
「(しかし、一体何の目的で?)」
パソコンが点いている他に、部屋が荒らされた様子はなかった。
それからすぐに、親のことを思い出す。母親は出張の多い仕事をしており、長らく家を空けた後、急に深夜に帰ってくることもある。
「(でも、流石に帰ってくる前に連絡入れてくるよな)」
スマートフォンの画面に、母親からの連絡は通知されていない。仮に連絡無しに帰ってくるにしても、こっそり息子のパソコンの電源を入れて放置する意味が分からない。
他にも様々な場合を考えた。それは一瞬の出来事であった。全ては流星のように、一瞬にして脳を逡巡した考えに過ぎなかった。電灯のスイッチから机に向かうまでの、僅かな時間の出来事だった。
そしてパソコンの前に来てようやく、我が家には喋れる器用な猫が居座っているということを、米噛は思い出した。
「まさか……!」
画面に映し出されていたのはメモアプリだった。急いで、光度を上げる。画面をズームし、毛虫のような小さな文字を大きくする。
『少し、外出してくる。
隣町から憔悴している猫が迷い込んできた。
どうやら、妊娠しているようでな。
ワガハイが看てやることになった。
数日で戻ってくる。』
そう書かれていた。
この夜。
クロがいなくなった。
「おい!」
豪頭が叫んだ。
米噛は、以前、豪頭から「テレパシーとは音叉のようなものだ」と教えてもらったことがあった。いつかの学校の帰りだった。波長の共鳴であり、共振。豪頭の強いテレパシーに、米噛の身体がぐわんと揺れた。
それでも彼は動くのを止めなかった。米噛は、パソコンも電灯も点けたまま、部屋から飛び出していた。そのまま、落下するような速度で階段を駆け下りた。がん、がん、がん、と、木製であるはずの階段に、重い金属のような音が響いた。
「どこに行くつもりだ!」
「探しに!」
豪頭の質問に、乱暴に返事をした。それに、豪頭が対抗するような強い語気で返す。
「待て!」
「止めるな!」と米噛は言い放ち、靴の紐を結び続ける。
それでも豪頭はしつこく食い下がる。
「待つんだ!」
「……なんだよ」
「米噛。スマートフォンか懐中電灯を持っていけ。」豪頭は、主人の身体を揺さぶるほどの、強いテレパシーで続ける。「吾輩の黒い刃は、米噛――そなたの影からしか生まれない。“夜”というのは、星の影だ。星の影に覆われて、そのままではそなたの影は存在できない。それだと吾輩の力も発揮できん。」
「……」
「だったら、自前の光で影を生むまでだ。だろう? ……ライトを持っていけ。それで、そなたの影を作れ。吾輩は、そこから騎士の剣となって飛び出そう。」
「……ありがとう」
いくら夏といえ、四時では真っ暗だった。空に一切の淡色さえ差していない。
この時期の空は、五時に明けるのだと、米噛は知った。
五時。
夜が明けた。
「少し休め、米噛。」
豪頭が言った。
米噛は一言も言葉を発さない。首を縦にも横にも振らない。額の汗さえ、拭わない。ただ足を上下させるだけだ。それに合わせてペダルが、チェーンが、車輪が駆動して、自転車は前へと進んだ。
米噛は一時間半ものあいだ、ただ自転車を漕いだ。
それでもクロが見つかることはなかった。神社の境内、公園遊具の下、中学校校舎裏、壁に穴の開いた廃屋、マンションやアパートの駐輪場、コンビニの裏、河川敷。クロがいそうな場所。過去にクロを見かけた場所。そのどこにも、今、クロはいなかった。
それどころか。
米噛は気づく。
「(猫の一匹すらいない……!)」
クロだけではない。そもそも猫がいないのだ。社の縁の下で眠っている丸い体が、駐輪場に羅列された自転車の間からこちらを覗く顔が、河川敷で何かを食べている姿が、なかった。
この街から、猫が消えている。
「(いつもは、二十分に一匹は見かけるぞ。朝はこんなもんなのか?)」
米噛は自問のつもりで、そう思い浮かべた。
「猫は薄明薄暮性だ。早朝と夕暮れに最も活動が盛んになる――と、以前、クロから聞いた」
豪頭が答えた。
それを聞いて米噛は俯いた。薄い明かりの中に広がる、薄い己の影を見つめる。
「(たしかに……クロはいつも、早起きだったな)」
「だろう?」と豪頭。「いやしかし、そなたに言われて吾輩も初めて気づいたことだったが、今日は猫を全く見かけない。」
米噛は外に出てから初めて、足を止めた。自転車から降りて、路面樹の陰に入る。街の中心からはかなり外れた場所だった。年季は入っているが小奇麗な住宅が多く、そうした建物ひとつひとつを見ているだけで、妙にそわそわしてくる。隣町に近い場所なのだ。今、米噛と豪頭がいるところは。観光地である隣町の近くだった。
息が苦しい気がするのは、立っている場所がちょっとした丘の上のようなところだからなのかも知れなかった。住宅が階段のように段々になって建てられている。
背を伸ばすと、遠くに海が見えた。白んだ青に、所々、朝焼けを映したピンク色が混ざっている。まるで胃酸を口からこぼしたような、不思議な色だった。
そういえばこんなに早い時間に海を見たことはなかった、と思った。
まだ夢が続いているかのようだった。
白と青とピンクを混ぜた海。
その手前に地上路線が走っている。いつも隣町に行くときに使う電車の走る線だ。米噛の脳内でその線路のイメージと今探している猫のイメージが混ざって、ふと、「猫バス」を思い浮かべた。一瞬後には「今はそんなことを考えている場合じゃない」と思い直す。
そのとき、 樹の陰から樹の陰へ、目の前を高速の何かが横切った。
ハトか何かだと思ったが、それにしては大きかった気もした。
目を向けると、そこには猫がいた。猫が座って、こちらの顔を窺っている。その猫には、片方の耳が丸々無かった。
「あの時の猫だ」
米噛は、息を漏らすようにして言った。
「ああ、」豪頭が続く。「あの、祭りの日の、猫集会にいた。」
猫は、弧を描くようにして米噛の周りを歩いた。そして、真横の位置まで来てから止まった。しばらくこちらを見上げていたが、太陽に千切れたピンクの雲が入ろうとしたとき、フイと向こうを向いてしまった。
このままでは猫はどこかに行ってしまう。
猫が左前脚と右後ろ脚を上げた。それを見て咄嗟に、
「ま、」米噛は、「待ってくれ!」と叫んだ。
無意識に手を前に伸ばしていた。
それから、しまった、と思った。
大声を出せば猫は逃げ出すに決まっている。
「……あれ?」
しかしそうはならなかった。
米噛は、叫んだときに同時に一歩、足を踏み出していた。樹の陰から出た彼の影は、低い太陽の光を受けて針のように細く、長く伸びていた。米噛の影の、左手のあたりで、猫は硬直していた。
焦りで沸騰していた思考が、落ち着きを取り戻す。すると、自分の中に別の声が聞こえることに気づいた。
「んぁあにゃあ、にぁああ、あにゃあ。」
それは豪頭のテレパシーだった。
そして、猫語だった。
「(コ、コストコ? なにをしてるわけ?)」
「この猫と話している。」
豪頭はなんでもないように言ってみせた。
猫は驚いた顔で、こちらを見ている。
「にぁああ、にゃ。」と豪頭が言った。
すると、猫は更に驚いた様子でその場をぐるぐる回って、それから、地面を見た。地面というよりも、米噛の影を。
「猫語で、吾輩は影であると言った。それから、吾輩とそなたがクロの友人だとな」
「(いや、そもそも……どうして猫語喋れるんだよ)」
「たまにクロに教えてもらっていたからな。」
なんでもないように言った。
「(……あ、そう)」
米噛はひとり納得したようにため息をついた。ああ、そういえば、豪頭はこの世界に来てわずか一か月のうちに日本語と英語を習得したのだった。それで、おまけに猫語も覚えちゃったわけかよ。ほとんど呆れるように、そう思った。
「(でも……)」米噛は口角を上げた。「(猫と話せるのはめちゃくちゃ助かる)」
「だろう?」
「(ああ。クロについて、尋ねてみよう)」
「にぃああにゃおにゃお、にゃあ」
「にゃあ、にゃあん」
「にぁ、なーん」
「にゃにゃにゃあ」
猫は、地面に鼻をこすりつける勢いで、米噛の影に向かって鳴いている。
「……なんて?」
「にゃああ、にぁ。」豪頭はそう鳴いた数秒後、訂正するように、「まだ話し始めたばかりだ。」と言った。
「あ、ごめん」
「街に猫がいないのは、クロが関係しているようだぞ」
「本当か!?」
「ああ。……少し声を抑えるか、心の声に切り替えてくれ。ここは住宅街で、しかも今は早朝だ」
「(ごめん)」
「いい。」豪頭はひとつ咳払いの真似をしてから、「クロが、例の惨殺事件のことを周辺の猫社会で共有していたようだ。それにより、多くの猫が一時的に他の街へ避難しているらしい」
「(惨殺事件がうちの街でしか起きていないからか)」
「そうだ。犯人はあの小さな街の中だけで犯行を楽しんでいる。迷宮のミノタウロスにでもなったつもりなのだろう。」
だから、街から猫を逃がした。そう言うと、豪頭は猫との会話に戻った。これから本題──クロの行方についての、話が始まるのだろう。
「にゃおお、なぁーん」
「んにゃあ、んにゃあ」
「……」
傍目から見たら、影に向かって吠える猫の頭頂を眺める不気味な人間でしかないだろうな。米噛はそう思った。
片耳の猫は、最後にこちらを振り向いてから、てくてくと歩き出した。曲がり角に入ったのを見届けてから、米噛は自転車に跨った。
「(話し終えたのか)」
「ああ。」
「(クロの行方は分かったのか!?)」
「いや。残念だが、正確な情報は持っていなかった。」
「クソッ!」つい声に出てしまった。
口を閉じる。
「(野良猫の出産なら、オレの家につれてこればよかったんだ。そしたら、クロも、その猫も、余計な危険にさらされることはなかった。今、外が危険だってことは、クロも充分に理解している様子だったじゃないか……!)」
自転車は朝日の中どんどん加速し、風景を高速で米噛の後方へと流した。
「(他には……)」米噛はぎりぎりとグリップを握り締めた。 「(他には、どんなことが聞けた?)」
徐々に昇ってゆく太陽の下、影は濃く、太くなってゆく。
「クロは今、妊婦猫の傍にいる。野良の猫は人間に近づこうとしない。特に妊娠・出産を控えたデリケートな時期なら尚更だ。だから、クロはその猫を米噛の家に連れていこうとはしなかったんだ。」
豪頭の述べた説明は正論のようだったが、それでも米噛には納得できないものだった。
「……」
「そして、クロの正確な居場所は分からないままだが、ヒントは貰った。」
「(ヒント?)」
「ああ。野良の猫も、出産の成功率を少しでも上げるために、場所を選ぶ。外敵の少ない、清潔で、適当な温度の場所だ。」
「(それは……)」
米噛の頭に様々な場所が思い浮かぶ。猫の基準で、外敵の少ない──人のいない場所、それでいて清潔な場所、暑くない場所、寒くない場所、安全な場所。神社、校舎裏、駐輪場、河川敷などだろうか。しかしそれらは、既に確認し終えている。そこにはクロはいなかった。
思いつかない。
左手がグリップを離れる。そのまま、ぶん殴るような勢いで己の顔面を掴んだ。いらなくなった学校のプリントのように、そのままぐしゃぐしゃに握りつぶしてやりたい気持ちに駆られる。
「落ち着け。そなたらしくないぞ。」
豪頭の声に冷静さを取り戻す。
「はぁあ。」脱力した口から息が溢れる。「(何度もスマン……)」
「出会って一か月の吾輩がそなたの“らしさ”を語っても説得力はないかもしれんがな。……米噛。そなたは異界の剣にも、喋る猫にも、今や一切動じていない。いつもはそうした凪いだ精神をしているではないか。それを思い出せ。何かを探すにしても、誰かと戦うにしても、冷静であることが重要だ。激動に駆られるな。冷静になるんだ。」
「(ああ)」
「そしたら見えてくることもある。」
「……」米噛は顔を上げる。「(三千代さんとスイさんに、協力をお願いしよう)」
太陽を見る。
あの高さは、今が六時であることを示していた。
こんなに早朝に連絡するのはとても迷惑なことだ。それを承知した上で、自分は、そうするのだ。友を守るために。
午前六時零分と四十三秒、三千代は目を覚ました。すぐに、机の上のスマートフォンが光っていることに気がつく。
「ふぁあーあ……」
眠たい目をこすりながら、机の上まで歩く。ぺたぺたと、スリッパの音が淡い青の朝の中に響く。
画面には、バナー通知が表示されていた。誰かがメッセージを送信してきたらしい。
誰か。
それは、米噛だった。
「米噛さん?」
学習机の正面には窓があり、水色のカーテンがゆらゆら揺れている。それに合わせて、光りが踊るように差した。
「如何したのか、漆黒に迷える小娘よ。」
カーテンの向こう側、窓に立てかけるようにして、おもちゃの剣が置かれている。慟哭風纏もとい──
「ドンキ。」三千代は、声の主に向かって言った。「米噛さんからメッセージが届いてたんだよ。もしかしたら、例の連続小動物惨殺事件について、何か分かったのかもしれない」
三千代はシャッとカーテンを横にスライドした。ドンキの真っ赤なプラスチックの柄を掴んで持ち上げる。
「“連続小動物惨殺事件”――。そのような早口言葉、よく寝覚めの呂律で易々と吐けたな。そなたの舌、なかなか侮り難し。」
「ちょっと、今は真面目にしてよ」
「して、メッセージには何と?」
「……」
押し黙って画面を睨む。それから、顔を上げ、
「スイを起こしに行こう。米噛さんの飼っている猫がどこかに消えた」




