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黒鉄の剣 8

 空が赤くなる頃には、公園を見物する人もまばらになっていた。

 大事件といっても、その街に住む人々には一人ひとり、変わらず“生活”がある。それに、言ってしまえば、「小動物が殺されただけ」だ。誰か人が死んだわけでもない。街に爆弾が落とされたわけでもない。

 たかが“いち事件”、だ。

 少し時間が経って冷静になると皆「やあねえ」「物騒だわあ」で済ませるような、そんな程度の事件なのである。

 ただ、小さな子供を持つ親やペットを飼っているらしい人々だけは、他が去った後も真剣な顔のまま話し合っていた。かれらだけは「他人事じゃない」からだ。かれらの顔は丁度、米噛(まいかみ)の今の表情に似ていた。

 それでもここに残る意味はほとんどない。警察が、事件とは関係のない民間人に、事件の詳細を話すことはない。ウサギの死体もとっくに回収されている。小動物といえど、惨殺死体を(おおやけ)の場に放置するわけにはいかない。特に、この公園は事件以前は小さな子がよく遊んでいた。立ち入り禁止の態勢も緩める気配はなく、公園の外から見えるのはせいぜい、攻城槌(こうじょうつい)で突いたような穴まみれのフェンスくらいだ。あれを遠巻きに見ても、頭上に疑問符が浮かぶだけだろう。


 「怖い」「心配だ」「子供が」「うちの」「散歩が好きで」「猫は」「二十年前にも」「鳥の次は兎」「かわいそうに」「似たような事件が」「ニワトリが」「よく外に行くから」「犬もそのうち」「小さい子は」「そうね」「危ないから」「集団下校を」「あのフェンス」「犯人は」「何を使って」「殺したの」「相当大きな」「刃物で」「でも」「うん」「どうして」「殺したの」「どうして」「こんな」「残酷な」「ことが」「できるの」

 (ささや)くような小さな声が飛び交う。

 そんな中、三千代とスイ、そして米噛は黙って立っていた。それでいて三人ともこの場を去る気配がなかった。

 三千代とスイは、長く伸びた米噛の影の上に立っている。夕風が少女らの髪を撫でて後方へと抜けていく。

「(今回の事件、“寄生虫”のせいではないと思います。)」三千代が言う。「(“寄生虫”に操られている剣士は、一般の人を傷つけたことはありませんでした。きっと動物もそうです。無関係な者を傷つけないように操作されているんだと思います。)」


 “寄生虫”。

 それは、少し前に三千代とスイが戦った、獣笛(じゅうてき)の剣士から聞いた言葉だった。そいつが口にした言葉をそのまま使うと、“身体を持たない寄生虫”。ソレに寄生された剣士は、白目を剥き、気絶して意思を失う。(から)っぽの容器となった肉体を、寄生虫と剣に操られる。目を凝らせば手繰(たぐ)る糸でも見えそうな、傀儡(かいらい)のような動きをする。人の多い所で暴れ、剣士を見つけると勢いよく飛びかかってくる。

 そんな“寄生虫”は。

 三千代とスイの最大懸念事項だった。

 しかし、暴れはするものの、剣士以外には傷つけようとする素振りはなかった。

 だとすると、今回の事件に“寄生虫”は関わっていないのではないだろうか。三千代らはそう考えていた。


「(ふむ。屍の王(リッチキング)の下僕にあらず、ということか。)」そう言ったのはドンキだ。「(されば、生ける者の血潮を欲する亡者――吸血鬼の類と見て間違いあるまい。鮮血を撒き散らす鈍色(にびいろ)()(のこ)にて、無残に斬り伏せたのであろう。)」

 相変わらず中二病的婉曲表現で分かりずらい言い方だった。

 三千代は自転車の前かごに入っている手提げかばんをキッと(にら)む。

「(ドンキ、こういうときに茶化すのはやめて)」

「(茶化してなどおらぬ。小生は小生なりに一所懸命に思索を重ねておる。それよりも、豪頭殿。今回の惨殺事件に異界の剣が関わっておること、疑いなき事実にござろうな?)」

 豪頭は、ドンキの中二病的エセ侍口調に困惑している様子だった。数秒、思考がホワイトアウトでもしたかのように沈黙した(のち)

「あ、ああ。ドンキ殿の言葉は難しいが、言いたいことは分かる。――この事件は、吾輩や王敬殿のような、別世界から送られてきた剣が関わっているはずだ。」ゆっくりと説明へ移った。「ドンキ殿。改めて説明する。」

 豪頭の考えはこうだ。

 米噛が公園に訪れ、ウサギの死体を発見する。その時点で、筋肉の(こわ)()り具合からウサギは、死後、少なくとも三十分以上が経過した状態だった。殺害方法は刃物による首の切断。頭と胴を切り離され、草むらに並べて寝かせられていた。その首の切断面が、調理用包丁ではとても出せないような、綺麗なものだった。問題は血だ。いくら切断面が綺麗でも、多少は血が出る。ウサギの首からも血が垂れ、下に敷いてある草に赤黒い染みを作ろうとしていた、しかし、乾いていなかったのだ。血が乾いていなかったのだ。発見当時、太陽は高く昇っていた。あれほどギラギラ輝く恒星の光を直に受けておきながら、血が乾いていなかった。これは、おかしなことなのだ。

「(それは、おかしいね。)」とスイが言う。

「だろう。ならば、“剣”が関わっているということだ。吾輩や王敬殿を見れば分かるように、強い“剣”にはおかしな力が備わっているものだから。」


犯人は剣の保持者だ。

恐らく“寄生虫”には操られていない。

剣は水か氷の力を持ったものである可能性が高い。


 考えられる犯人像を共有し、その後、米噛は三千代とスイと連絡先を交換した。いざという時、互いに連絡を取れるように。

「それじゃあ」

 軽く手を挙げる米噛にぺこりとお辞儀をして、三千代とスイは自転車に(またが)る。

 がちん。スタンドを蹴り上げ、思い切りペダルを踏みこむ。次第にスピードを上げながら、自転車は公園から遠のいてゆく。まばらに立つ人々が、視界の中でゴマ粒のように小さくなっていった。

「(“身体を持たない寄生虫”、そして……“連続小動物惨殺事件”。この街で剣の存在はどんどん大きなものになっていってる)」

 三千代は眉をひそめた。

 王敬に操られていたスイを助け出したときから、三千代の想いは変わらない。自分の生まれ育った街を、“剣”という未知なるものから守りたい。ただそれだけだった。そして、剣の保持者もまたこの街の住民だ。だから誰も傷つけず、それでいて誰もかれもを守ってあげたかった。そのためにおもちゃの剣を振るうのだ。

 家へ向かう途中、駄菓子屋の前を通った。店頭では鹿の「かのり」が餌を食べていた。もうそんな時間か、と思った。

「おお、天下乗(てんかのり)よ。」ドンキはかのりのことを、この名で呼ぶ。「そなたの胸中も、さぞや闇の風に揺らいでおろう。されど案ずるな。小生らが悪しき水の魔剣使いをメタメタに(たお)してやるからな。待っておれ。」

 ドンキの言葉に心の中で(うなず)く。

「(そうよ。かのりちゃんだってまだ若い鹿の子。惨殺犯の危険にさらされてるんだ)」

 三千代はブレーキを握り締めた。キュウ、とタイヤが擦れる音がする。後輪が浮かび、身体ががくんと前に揺れる。

「わっ。」後ろからスイの声が聞こえる。「どうしたの、急に止まって」

 スイはすぐに止まることはできず、ゆっくりとブレーキをかけ、三千代よりも数メートル先まで進んだところでやっと止まった。上半身を曲げて三千代の顔を見る。

 三千代は、

「おばあさんに教えなきゃ。しばらくかのりちゃんは外に出さない方がいい、って」


 三千代は何も持たずに自転車から飛び降りた。こちらを見つめながらキャベツを咀嚼するかのりちゃんを一瞥(いちべつ)。それから勢いよく駄菓子屋の中に入っていった。

「そうか……そうだよね~……。鹿も充分、狙われる可能性があるよね」

 スイは駄菓子屋へと消えてゆく三千代の背中を見届けてから、そう言った。

 手を、前かごの中にあるかばんの中に突っ込む。喉が渇いた。水を探す。米噛から貰った500ミリペットボトル天然水は、とっくに(ぬる)くなっていた。

 中指と薬指の腹に、硬い何かが当たる。別に「何か」なんて誤魔化す必要もない。それは王敬だ。銅の板に化けている王敬に、指が触れたのだ。表面を覆う青錆(あおさび)がざらざらしている。まるで沈没船の装甲を引っ()がしてきたようだ。

 心の中にぶつぶつと誰かの呟く声が響く。

 スイは、水を口に流し込みながら、声の主に尋ねる。

「(オーケー?)」

「スイか。」

 口からペットボトルを離す。手の甲で唇についた水気を拭きとった。

「(何か考え事でもしていたの?)」

「ああ。」

「(事件のこと?)」

「それは、どうであろうな。同郷の剣の関わる出来事という意味では気になるが、あの(ごう)()()(ごう)という剣のように、被害にあった小動物たちに同情するつもりはない。」

「……。」スイは顔をしかめた。

「そなたらには、ああいうのが“可哀想”なのだな。」

「(……なに? オーケーには、そうじゃないの?)」

「ああ。」

 随分はっきりと言うものだから、スイはうっかりかばんから手を離しそうになってしまった。

 王敬は続ける。

「忘れてくれるでないぞ。朕は元々、戦争に使われていたのだ。“死”なんてものは飽きるほど見た。人間や剣の“死”だけではない。……向こうの世界の人間はそなたらと違い、腹が減っても死ぬことはない。しかしそなたらみたく、腹が減ることはある。腹が減っては剣は振るえぬ。ゆえ、戦場では野生動物を殺して食うのだよ。」

 スイはついにかばんから手を離し、両手で包むようにペットボトルを握った。ししおどしのように傾けられたボトルから、スイの口に向かって、どこかの山の天然水がぼとぼとと落ちてゆく。頬に膨れるほど水をつめてから、しっかりとペットボトルの蓋を回して閉める。かばんの中に突っ込む。

 スイは、王敬は自分たちとは倫理観が違うのだと思った。

「当然である。戦士と市民の倫理観が同じわけがなかろう。」王敬はスイの心を読み、そう答えた。「向こう出身の剣なら全て、そのはずなのだ。剣とは殺しの道具よ。いちいち“死”に反応する方がおかしい。だから不思議なのだ。なぜ、あの黒剣(こっけん)は、見知らぬ小さな獣の命が失われただけで、ああも、深く、悲しんでいたのだ? 不思議で、可笑しくて、そのことについて考えていたのだ。」

 黒剣。

 (ごう)()()(ごう)

 王敬と同じく「強すぎて世界の均衡を乱す危険がある」ために別世界から投棄された、“名剣”の一本。

「(コストコさんのことが気になっていたの?)」

 保持者である米噛は、豪頭怒号のことを「コストコ」と呼んでいた。それを習い、三千代とスイもそう呼ぶことにしていた。

「この世界の人間は、我々の名を妙なものに変えたがる。」ぽそりと呟いてから、「豪頭怒号のことを気にするのは当然であろう。豪頭はこの世界で初めて会った“名剣”なのだ。慟哭(どうこく)殿はどうも違ったようであるし。」

「(“名剣”、か~)」

「そうだ。向こうの世界に居た時も、“名剣”同士に交流は殆ど無かった。三本以上が一堂に会したのは、万国共通条約の締結時とこの世界への転送時を含め、朕の知る限り四度しかなかった。」

 たった三本が集まっただけで「一堂に会する」と表現するのは大げさだろうか。しかし今のスイには、それが大げさではないことが、なんとなく分かった。あちらの世界で“名剣”の持つ影響力は、恐ろしく大きなものなのだと、なんとなく分かってきていた。

 スイは自身の長い髪に指を通した。上から下まで、一度も(もつ)れることなく、指はすとんと下りた。

「(米噛さんは、ネコの友達がいるって言ってたよね)」

「それも可笑しな話だの。」

「(なんにもおかしくないよー。)」スイが顔を上げると、かのりちゃんと目が合った。にこりと微笑む。「(それでね。きっとそのネコは、豪頭さんとも友達だったんだよ。だからあんなに、事件に、深く悲しんでいたんだ)」

 三千代が駄菓子屋から出てきたのを見て、スイはかばんから手を離した。あの顔を見るに、どうやら三千代はおばあさんの説得に成功したようだった。三千代はスイやドンキの待つ自転車に近づく途中、かのりちゃんの背中をなぞるように()でた。

「は。人間と、剣と、猫が? 友なのか?」王敬は言う。「……可笑しな話だ。」


 三千代・スイと別れた後、米噛は静かに公園から立ち去った。

 服もズボンも、着ているものは上から下まで軽装だ。手に引くキャリーケースだけがバカにデカい。おかしな格好だった。

「(帰ろう。クロは一度寝ると長い。)」家から出る時にすーすー寝息を立てているのは確認した。「(きっと今もまだ寝てるはずだ。でも急いで帰る)」

「うむ。」

 米噛は()いている方の手で無意識にポケットの中を探っていた。

 硬い、かまぼこ板のようなものを掴んだ。スマートフォンだ。中に、先ほど教えてもらった三千代とスイの連絡先が登録されている。

 横断歩道の前に立ち止まる。信号が青を点滅しだしていた。

 米噛は、スマートフォンのロック画面で現在時刻を確認する。僅か一秒後に、自動の顔認証システムが作動し、ロックが解除された。画面は、黒い猫の接写を背景に、アプリケーションアイコンを並べている。

 信号が赤になった。ここの信号は長い。

 後輩の名前が電話番号の一覧に載っているのは、不思議な気分だった。中学時代は同級生の連絡先さえ片手で数えるほどしか持っていなかったのだ。後輩の連絡先なんてひとつも無かった。しかし今、奇妙なきっかけで、後輩二人と知り合いになった。

 米噛は、二人の顔を思い浮かべる。人と関わることが少なく、他人の名前と顔を覚えるのが苦手なのだ。自分のひとつ下の代の生徒の顔や名前など、一人も知らなかった。

「(いや……)」

 一人だけ、知っている。そう思った頃、信号が切り替わった。鳥のような高い音を鳴らしながら、青い光を放っている。スマートフォンをポケットにしまい、顔を上げる。横断歩道の最初の白線へと足を伸ばす。

 自分の隣には、進行方向を同じにする様々な人がいた。買い物帰りの主婦や、サラリーマン。また、ジャージを着ている女学生。海辺にゴミ拾いに行っていたのだろう。向こうからやって来る人々も様々だった。首にヘッドホンをかけながら気怠そうに歩く若い男、車椅子に乗る老婆、それを押す中年の女性。

 そんな中、一際目立つ人間がいた。

 夏の午前六時のような澄んだ空色の、長い髪を揺らす、中学三年生だ。

「(佐々木(ササキ)百合烏賊(ユリイカ))」

 それが彼女の名前だ。彼女は、米噛が「一人だけ知っている」、自分の後輩だった。

「知り合いか?」

 豪頭がそう言った。テレパシーによって思考が繋がっているのだ。五感も共有している。豪頭は、米噛の目線の先にいる空色髪の少女を見て、そう言ったのだった。

「(どうだろうな)」

 知り合い……ではないだろう。恐らく向こうは自分のことを知らないから。こちらが一方的に向こうを知っているだけ、だ。

 佐々木(ささき)百合烏賊(ゆりいか)は米噛の後輩だ。「後輩」と言っても、「自分が可愛がってやった年下」という意味ではない。「自分の通っていた学校の後ろの代の人間」というだけである。

 一年の後期から生徒会に入り、翌年には会長となった。毎週木曜の朝礼で全校生徒の前に立っていた。言うまでもなく成績優秀者だった。常識的な生徒会の権力の範疇で学校改革も進めてきたらしい。運動も得意なようだ。苦手な食べ物もないようだ。老若男女誰にも優しい。動物にも優しい。虫も苦手ではない。早口言葉も得意。クイズも得意。ジグソーパズルも得意。防災に関するアプリ開発をしたこともある。読書感想文コンクールで上位入賞を果たしている。とにかく色々な話を聞いたことがある。別に、米噛が彼女の熱心なファンだったわけではない。休み時間、教室の机に突っ伏して寝たふりをしていると、たまにそんな話をしているのが聞こえてくるのだ。それらの話は根も葉もない噂ではない。噂の大半が、聞いた数日後には本当だったのだと(わか)る。『学校新聞』で表彰の様子が載っていたり、『保健だより』に寄稿されたエッセイの内容から、判るのだ。

 とにかく百合烏賊(ゆりいか)は目立つ生徒だった。主に「いい意味で」だ。同時期に学校に通っていたのなら、誰にとっても印象に残る人物だったはずだ。それに、単純に毎週一度は朝礼でその姿を目にし、ほぼ毎日校門から挨拶の声が聞こえている。これで覚えない方がおかしい。そういったわけで、米噛も彼女のことだけは知っていた。そして覚えていた。

「米噛先輩。」百合烏賊はそう言った。「こんばんは」

 米噛は目を見開いた。彼女が自分の名を呼んだ。まさか向こうに自分のことを知られているとは思わなかった。

「……」

 何か言おうとしたが、何も思い浮かばない。そもそもここは横断歩道のど真ん中なのだ。立ち止まっておしゃべりするわけにもいかない。向こうも立ち止まるつもりはないようで、歩みを止めず、ぺこりと頭を下げてみせただけだった。その対応が正解だったのか、と気づき、こちらも同様に頭を下げた。

 横断歩道を渡り切った。振り返る。すると彼女は消えていた……なんてこともなく。百合烏賊は空色の長髪を揺らしながら、歩いていた。

 こんな噂を思い出す。百合烏賊会長は全校生徒の顔と名前を覚えている。まさかあの一番信じられないような噂さえ、本当だったのか。米噛は冷や汗を一つ垂らし、彼女へ尊敬の念を送った。

「(他人の顔と名前を覚えれるの、すご……)」


 家に着いた。米噛は息を殺して、

「ただいま。」

 と言った。

 誰かへ自分の存在を伝えるための挨拶なのに、誰にも気づかれないように声を抑える。そこには小さな、気にするほどではない矛盾があった。

「クロ、起きてるか?」

 クロ。その名の者に問うような言い方だ。しかし、仮に起きていたとしてもふつう聞こえないような声で言ったのだ、当然返事は返ってこない。

 靴を脱ぎ、鈍い銀色のキャリーケースを靴箱にそっと立てかけておく。階段を上がる。

 扉の前に立ったとき、扉の向こうから音が聞こえた。激しい打楽器の音だった。いや、それが主体なのではない。打楽器は、「それ」に絡まりついている音のひとつに過ぎなかった。「それ」とはつまり「歌」だ。誰かの歌声に、打楽器や弦楽器の音が絡まり、音楽になっていた。激しい音楽だ。

 扉を開けると、

「おかえり。」読めない表情をこちらに向けて、クロは、「遅かったな。」とだけ言った。

 音楽は、クロが聴いていたものだったらしい。

 パソコンにでかでかと、音楽配信サービスの画面が映っている。それは『マイ・ケミカル・ロマンス』という外国のバンドの歌だった。クロの好きなバンドだ。そして、クロの好きな歌だった。いつも同じバンドの同じ歌を聴いて、飽きないのだろうか、と米噛は思っている。

 クロはにやりと口角を上げてから、すぐにわざとらしくムスッとしてみせた。

「オマエ、ワガハイには外出するなと言っておいて、ジブンは外に行ってきたのかよ」

「ごめん」

 米噛はベッドに腰を下ろした。閉じた(まぶた)にぬさぼさとした前髪が下りる。

 机の上でキーボードを叩いていたクロは、表情を崩して笑った。彫刻刀で引いた線のような、細い目だった。

「ま、いいさ。」そう言って、クロは大きく跳躍した。「オマエがワガハイのことを思って言ってくれたのは分かる」

 そう面と向かって言われると米噛は恥ずかしい気持ちになった。

 クロは続ける。

「それに、もう当分は外出する予定もないんだ。今朝オマエに忠告されたときには言い忘れていたけれどね」

「え? そうなのか?」

「神社の裏に、妊娠中の若い雌猫がいてな。まつりの日にオマエを睨んでいた一匹は、その夫だよ。」

 そう言って、クロは肉球を上げて右耳をぺたりと押さえつけた。

「あのワイルドな猫か」

 米噛は祭りの夜のことを思い浮かべる。猫の大集会。米噛を睨む、片耳の丸々欠けた猫。

「見た目は怖いが、アイツは嫁想いの良い猫だよ。ワガハイはそいつに、産婆を──助産師を頼まれてな。ほら、前にも言った気がするが、ワガハイ、ここらの猫社会では長老のようなポジションに就いてるんだよ。長生きしているから」

「それで連日……」

「そうだ。神社まで様子を見に行っていた。オマエにも心配かけたな。でももう大丈夫だ。昨日、無事に産まれたからな。立派な四つ子だ」

「じゃあ、」

「ああ。オマエが望むなら、しばらく外出はやめておこう」

 それを聞いて、米噛は、胸をなでおろした。




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