黒鉄の剣 6
「じゃあ、ワガハイは少し外へ行ってくる」
そう言ったクロの尻を、米噛はベッドの上からぼんやりと眺めていた。ふりふりと、長い尻尾が揺れている。
「いってらっしゃい。」一回の瞬きを挟み、「最近外出多いな?」
「ワガハイだって猫だからな。そう一箇所にずっと留まるような生態はしていない」
「ずっとオレの部屋で音楽聞きながらひなたぼっこしてるイメージがあるが……」
「ホントにただのイメージに過ぎないな、それは。オマエが学校で机に伏しているような時間帯、ワガハイはよく散歩しているもの」
「そうなのか?」
器用に机の上に立って、窓のロックを外す。相変わらず猫とは思えない猫だが、米噛はもう慣れた。屋根の上で姿勢を正し、次の瞬間には黒い落下物となって米噛の視界から消えた。
目線を、手元の漫画に戻す。8巻まで来ていた。物語は終盤だ。四天王も全員死ぬか改心し、残るは魔王だけとなった。ここまで来ると主人公の握る聖剣も常に光りっぱなしだ。
モノクロの絵の中で戦っている少年少女を見ていると、昨日のことを思い出す。三千代とスイ、そして、ドンキと王敬。少女たちはこの街に蔓延る「なにか」と戦っているのだ。今日も、戦っているだろうか。そんなことが気になった。
ベッドから立つ。
窓辺へ駆け寄り、猫がそうしたように、窓を開ける。
身を乗り出すと、視界が拓けた。街を一望できるわけではない。空があり、その下に灰色の道、街路樹、遠くに海が見えるだけだ。その中でゴマ粒のような黒い点を見つける。クロだ。周りに通行人はいない。
「おーい、気を付けてくれよ」
そう叫ぶと、クロはこちらを振り向いて、にゃあ、と鳴いてみせたらしい。口の変化から「鳴いたらしい」と分かっただけで、声は届いていない。
そうした日が、何日も続いた。五日続いたその日、パソコンに表示されているニュースを睨みながら、米噛はついに尋ねることにした。
「クロ。毎日どこに行ってるんだ?」
椅子を引き、上半身を捻る。視界にクロが入った。米噛のベッドの上であくびをしている。
「ええ? 少し言うのが恥ずかしいが……」
相変わらず日本語の流暢な猫だ。しかし今はそんなことはどうでもいい。
「まあどこでもいいけど。……いや、どこでも、よくないな。」目を細め、レンズの向こうの黒猫の姿を鮮明に焼き付ける。「しばらくどこにも行くな」
「オマエの言いたいことは分かる。」クロはベッドから降りた。「最近は物騒だからな」
米噛とクロは、同じニュースを思い浮かべていた。
ニュース。
それは、この街で起きた、ある事件についてのニュースだ。「別世界より現れた剣が暴れている」とか、そういったフィクションじみたものではない。より身近で、そしてよりリアルな“残酷”を孕む事件だ。薄いモザイクの向こうでは、小鳥の頭と胴が切り離されている。
米噛は──念を押すように──言う。
「この街では今、小動物の惨殺事件が起きている。犯人は多分中学生か高校生か、それくらいのやつだ」
「そうらしいな」
現場に、制服のほつれた黒い糸が落ちていた。
「今のところは、スズメ、カエル、ハト、あとはニワトリ……両生類に鳥類の死骸しか見つかっていないが、時間の問題だぞ。猫や犬が狙われはじめるのは。」米噛は熱く長い息を吐いた。「こういうのはエスカレートしていくものだろ」
「そうだろうな」
クロは普通の猫よりもずっと永い時間を生きている。人間の時間でいえば「長い」程度だが、同じ猫と比べるとその存在してきた時間は「永い」と表現して差し支えないものだった。クロは様々なことを知っている。
クロは、昔の事件を思い出す。
事件は、中学生──義務教育を受けているような、若い、子供によって引き起こされた。新聞はどの社も二面に渡って事件を取り上げ、犯人の幼少からの異常な行動を詳細に記述していた。
最初は蝶の翅を毟っていた。それに飽きたらトンボやカマキリなど、より力のある虫を殺すようになり、小学三年でメダカ、カエル、トカゲ、四年の秋にニワトリを殺した。学校は当初、近くの猫が食ったのだろうと思い、ゲージの網目を硬質できめの細かなものに変えた。がしゃがしゃ揺さぶってもびくともしない。なので、少年は五年の春、ペンチで錠を破壊し、中のウサギを殺した。そこで発覚し、一年ほど家に閉じ込められた。警察は強く介入しなかった。当時はそこまで「動物を殺す子供」程度を真剣に取り扱わなかったのだ。なにも、人を殺したわけではない。……次の年、卒業式にも出席することなく中学に上がり、春に、近所で飼われていた犬と、それから猫を。夏に、同級生と、産みの母を殺した。
犯人は精神異常者だった。並みの精神ではない者による行為だ。一般の常識に当てはめて考えてよいわけがない。……わけはないが……しかし、一般に娯楽を目的とした行為はエスカレートするものだ。「殺す」もまた、娯楽の名の元に行われた行為であるのならば、エスカレートする。殺すものは、虫から大きな虫へ、大きな虫から小さな動物へ、小さな動物から大きな動物へ、大きな動物から人間となった。
もう数十年も前の事件だ。しかし、歴史は韻を踏む。特に、複雑でない韻など、踏みやすくて仕方がない。似たような事件が今、再び起こされようとしているのは明らかだった。
クロは米噛の足元にすり寄ってゆく。己の影を猫がしゃなりと踏むのを、米噛はじっと見つめてやめない。
「しかし、ニュースでは、既に多くの警察が動いていると書いてあるぞ。」
米噛の影──豪頭が言った。
「当然だろう。」クロが俯く。「似たような事件の、もっと先の段階まで進ませてしまったものが数十年前にあった。社会もそれ以降、警戒を強めているのだろうな」
床は鏡張りでも水面でもなく、薄汚れたフローリングだ。偽物の木目に白い傷が無数に走っている。鏡面性の無い床に、クロの姿は映らない。ただ2つの重なった影だけがにじんでいた。
米噛も下腹部を内側に曲げて下を覗き込む。クロの頭頂が見える。
「とにかく、警察が動いてくれているんだから。しばらくは家でじっとしていてくれ」
「……」
「前にクロがオレに話してくれた事件。野生動物だけじゃなく、犯人の近所の犬が殺されていた。……あれは、屋外で飼われていたから狙われたんだ。」米噛は、そっと、クロの耳と耳の間に生える髪を撫でた。「家の中にいてくれ」
「そうだな。」クロは、「オマエの言う通りかもな。」と言って、それきり眠たそうな顔をした。
「米噛。」
「(どうした、コストコ)」
すーすーと寝息を立てて眠る黒猫を見下ろすようにして、米噛は読んでいた漫画本を閉じた。心の声で話すのは、眠る猫を起こさないためだ。猫は、猫用ベッドの中で伊達巻のように一回転の渦を描いている。ぐっすりと、眠っている。
「吾輩がこの世界に来て、そなたに拾われて、一か月が経った。」
「(そうだなあ。もう、か)」
「ああ。吾輩は常にそなたの影に──常にそなたと共に在る。繋がった視界を通じて、この世界の勝手というものも、おおよそ分かった。」
「(適応早いよなあ、お前。日本語も英語もスグに覚えたし)」
米噛の言葉に、豪頭は僅かに間を空ける。そして、
「例の事件には、吾輩と同じ、別世界の剣が関与しているのではないか?」
「(……犯人は剣の保有者ってことか?)」
「あくまで、その可能性だ。」
米噛は黙った。しかし、黙っていても、思考は止まっていない。剣と触れているとき、人間は剣に心を覗かれている。豪頭に、米噛の考えが伝わった。
「やるのか?」
「うん。」米噛は声に出した。「やってみようかな」
クロを起こしてしまわないよう、小さな、しかし、しっかりとした声だった。
米噛は立ち上がり、扉をそっと開け、静かに部屋から出た。廊下を歩く度、ぺたぺたとスリッパが床に音を流した。
母の部屋に来た。仕事の関係で、よく家から離れることが多い。今も、関東の方に行っているため、数日前から家に居ない。しかし部屋は、全く汚れていない。母が家にいないときは、米噛が掃除をしてやっているからだ。これは母からの頼みだった。たまにこの部屋でクロが眠るからだ。
脚の高いベッドの下には、様々なものが詰め込まれている。小さな地球儀の隣、の大きな人生ゲームの隣、鈍い銀色のキャリーケースが横たわっていた。母は仕事でも旅行でもいつも、戦艦のように真っ黒のキャリーケースを使っている。この銀色の方は予備だ。流石に少し、ほこりの匂いがした。
腕を伸ばし、縦と横の寸法を確認する。キャリーケースの中でも大きい部類ではないだろうか。これなら、入りそうだった。
空のまま引きずる。音を立てないように細心の注意を払った。
家を出ると、すぐに裏へ回り込んだ。塀で囲われているので、外から庭の様子は見えない。
右膝を湿った地面につけた。ケースを塀に立てかける。両手を地面に──影に突っ込む。
「ふっ、ううおっ……!」
ずるりと、黒い剣が引き抜かれた。ほとんど、一番深い夜の色だった。輪郭に走るわずかな光沢だけが、その剣は金属なのだと示していた。しかし、土が一切付着していない。やはりその剣は、普通の剣ではなかった。
「どうだ? 入りそうか?」
剣の声に応じて、米噛は塀に目をやった。片目を閉じて、もう片目に銀色のキャリーケースの全体像を入れる。
「(対角線と対角線に柄と刃の切っ先をあてるようにして、詰め込めば……ぎりぎり、入る……か?)」
「あまり無理に押し込むなよ。吾輩は“斬る”剣ではないゆえ、刃を当ててもケースを裂くことはないだろうが、しかしそなたの母の持ち物を傷つけたくはない。」
「(気をつけよう。オレだって、母さんのものを傷つけたら大目玉だ)」
横たえたケースに、剣をそっと寝かせる。
米噛は奇妙な格好となった。左手でキャリーケースを引き、右手には日傘。しかしリュックは背負っておらず、半袖のシャツと地味な色の長ズボン。これから長い旅行をするつもりなのか、それともそうではないのか、そしてではなぜそんな大きな鞄を引きずっているのか……。はたから見たら何も分からない、変な格好だ。
キャリーケースの頭頂部は少し開いており、黒い棒が突き出ている。ケースの取っ手を掴む米噛の手は、その棒に手の甲をあてている。豪頭の柄だ。
「(調子はどうだ?)」米噛が尋ねる。
「全開だ。」豪頭が答える。
がら、がら、がら。アスファルトの地面に、キャスターの回転する音が流れる。突起の上を踏んでたまに跳ぶのが、僅かな浮遊感となって手に伝わった。まるで溝を走るレコードプレーヤーの針のようだ、と米噛は思った。
「(果たして、これが根本的な解決に繋がるだろうか)」
米噛の企て。それは、豪頭の存在を知らしめることで犯人を委縮させてしまうというものだ。
別世界の剣には“魂”が──気配が宿る。強い剣には、特に大きな魂が宿る。豪頭もまた強いため、その魂も大きい。普段は影に潜り、魂の形状をとろとろに変えて気配を隠しているが、外に出ればその気配は遠くまで届く。豪頭はこれを夜空に煌めく恒星に喩えていた。強い光を放つ星は遠くからでも見える。それと同じように、強い剣は遠くからでも存在を気づかれる。魂が、強い気配を放つからだ。
しかしそうした強い剣は、大抵特別な力を持っている。その力で気配を隠すことができるものも多い。豪頭は影に潜り、王敬は緑青で己の造形を変えることで、そうしていた。こうした剣は、普段から気配を隠している。隠していないということは、警鐘を打ち鳴らしているということだ。強い剣が「今から力を奮うぞ」と告げているのに他ならないのだから。
「仮に向こうが剣の保持者だとすれば、剣はすぐに吾輩が“名剣”であることに気づくだろう。そしたら、吾輩に怯えるもよし、歯向かうもよし。前者なら剣の使用も止むだろう。後者なら――少々痛めつけてやろう。そういうわけだから、そなたの策は道理に適っている。」
「(オマエの力で、どう痛めつけるんだよ。誤って殺してしまいそうだ)」
米噛は、日傘を握ったままの手の甲で額の汗を拭った。
「(とりあえず最初の事件のあった場所に行ってみるか)」
「最初の事件?」
「(公園。そこで、3羽の鳩が、首と胴を切断された状態で見つかった。それが、最初に見つかった“惨殺事件”だよ)」
この日、キャリーケースを引きずって地域の小さな公園へ向かうという、奇妙な男が街に現れた。
米噛はベンチにどかっと尻を下ろし、深くため息を吐いた。
ニュースで得た情報を整理する。多くの記事に、事件が起きた具体的な場所、推測される犯行の時間帯、そして凶刃の餌食となった小鳥たちの亡骸の状態まで……全て事細かに書かれていた。ここまで注目され、調べられていても、犯行が止まらないということは、犯人は、誰にも捕まらないという自信を持っているのだろう。
犯人は現場に戻る、とどこかで聞いたことがある。それに少し期待する節もあった。今日、偶然犯人がここに訪れてはいないだろうか……と。米噛はぼさぼさの髪をかき上げ、わずかに確保できた視界で、ちらちらと辺りを見渡した。
「……」
しかし、怪しい人間はおろか、一般の公園利用者も見当たらない。いや、後者はまさに事件の影響だろう。この辺りには幼い子供を持つ家庭が多い。小動物とはいえ惨殺事件があれば、そんな場所で子供を遊ばせたい親はいない。
ケースから手を離す。公園に、キャリーケース。
「(怪しい人間はオレか……)」
空いた手で喉の下をなでると、大量の汗がついた。この気温で長時間の野外活動は現実的ではない。持ってきたペットボトル飲料の蓋を開け、ひっくり返す。瀑布のような水を口に流し込んだ。
水を飲むと、今度は尿意が押し寄せた。人間の身体は単純なものだと思った。
「トイレ……」
立ち上がる。
「待て。吾輩はどうするんだ。キャリーケースごと公衆便所に乗り込むわけにもいくまい。」
「(確かに、母さんのケースに汚れてもらっては困る。)」米噛は汚い男子便所の前で立ち止まり、身体の向きを変えた。「(仕方ない、近くのコンビニに急ごう)」
トイレから公園の出口へと続く道を見る。左側には草が生い茂っている。猫の小便や糞で汚れていることだろう。草地を踏まないよう気をつけながら、黄土色の道を辿った。その途中、丈の高い草に隠れて何かを視界の左に捉えた。灰色で、大きさの異なる2つの石のようにも見えた。草を横に倒し、ベッドのようにしてその上で横たわっている。
「これは……」
ウサギの死骸だった。
灰色の、ウサギが、死んでいる。大小2つの石のように見えたソレは、ウサギの頭部と残りだった。横たわっている草の上、そして頭の下の方と胴の上の方には、赤茶色の絵の具のようなものが汚くへばりついていた。血だ。乾きかけている。しかしまだ、完全に乾いてはいない。なのに、手を近づけても全く生物の温かみを感じない。それは凍えるような“死”だった。
冷たい汗がどっと噴き出した。その場で膝を地面に落とす。草が長ズボンの上からちくちくとつついてくるので、どうにも痒い。
言葉が出ず、
「……」
ただ両手で椀を作っていた。その後どうするつもりかは自分でも分からないが、まず掬い上げようとしているらしかった。
「待て!」
声に反応し、振り返る。
しかし誰もいない。蓋をするようにして手を耳にあてる。聴覚に栓をしたかったのではない。耳の穴から声の残滓を掻き出して、確かめようとしたのだ。これは幻聴ではないということを。
「そうだ。幻聴ではない。」
同じ声が聞こえた。いや、聞こえたのではない。心内で響いたのだ。やっと気づく。これはテレパシーだ。
「(コストコ……)」
膝をついたときに手から離したキャリーケースは、草の上に倒れたらしかった。その拍子に、豪頭の柄が大きく外に飛び出してしまったようだ。柄の先端、けん玉の玉のような丸っこい部分が、 米噛のふくらはぎに触れていた。
「落ち着け、米噛。」豪頭は昂る感情を抑えるような口調だった。「触れるな。そなたの指紋が付くぞ。」
「(そう、だ……)」
ぶちぶちと草の千切れる音を立てながら、ケースを手に取って米噛は立ち上がった。銀色の塗装は鈍く、しかし猛烈な太陽の光を受けてぎらぎらと、輝いている。なんとも目立つキャリーケースだ。
周囲を見る。何度も何度も、ゴムのオモチャのように上半身を何度も捻り、執拗に周囲を見る。そして誰も居ないことを確認し──米噛はケースから剣を引き抜いた。
深夜の空のように深く暗い己の影から引きずり出すわけではない。ジッパーの開いた大きな穴から、物理的な実体を持つ物体を引き抜くだけだ。鉄塊の重さこそあるが、難なく引き抜けた。豪頭はやはり、公園には似合わぬ大剣だった。
「おい!?」
驚く豪頭をよそに、
「(どうやら人はいないみたい。剣の気配はあるか?)」米噛は眼球をぎょろぎょろ回すのを止めない。
「な――いや。ない。が――しかし、どういうつもりで――」
「(死骸のあった草を引きちぎった。血を指の腹でこすったんだ。)」米噛は、手元の汚れた草に視線を落とす。「(血は完全に固まったわけじゃなかった。)」
「つまり――」
「(つまり。犯行は最近のものかも知れない。現場に戻って来る、ってのは本当だったらしい)」
米噛は左の手を丸めた。ぐしゃり。ウサギの血の付着した草の束が潰された。米噛はそれをケースの中に放った。後でトイレにでも流しておくつもりだった。
「しかし、それで、どうするつもりだ。」
草と獣の血の匂いで臭くなった左手を、豪頭の柄を握る右手に重ねる。
「(どうせ、犯人はまたここに帰ってくるだろう。じゃあ……ビビらせておこう。)」
剣の切っ先を見つめる。頭と胴の離れたウサギとその周辺の血濡れた草地に、米噛の影が落ちている。足を開いて一歩踏み出すと、ウサギの亡骸は完全に米噛の股の下に来た。
「ふうっ!」
一息に、米噛は豪頭を地面に突き立てた。
深く突き立てようとした。
かつん。
豪頭は影の上で静止した。
杖をついたように豪頭の切っ先が影の上で立っている。そして──
瞬間、米噛の影から無数の黒い刃が生まれ、閃光のように一帯に広がった。黒い──針、棘、牙、矢、刀、剣、槍──ともかく刃だ。この刃は主人を傷つけないように生える。刃は、米噛の股下と足の裏からは生えない。米噛と豪頭、そして草のベッドに横たわるウサギを除き、黒い刃は周囲の全てを切り裂き、貫いた。
大熊の爪を超える傷跡を木々に刻み、網目の細かな緑色のフェンスを粉々にし、地面には月面のような大穴をいくつも穿った。
「(よし……早いところ、ここを去ろう)」
「大胆なことをするなあ。」
「(大胆にもなるさ。でも、誰にも見られてはいないと思う)」
米噛は手から剣を離した。手のひらが、汗でぐっしょりと濡れている。また、赤くなっていた。剣を握る手に力を込めすぎていたらしい。剣の方──豪頭はというと、影の中に吸い込まれるようにして落ちていった。影から生える無数の黒い刃もそれより一足先に姿を消している。
キャリーケースの取っ手を掴み、ぐいとこちらに手繰り寄せる。空になったケースは思っていたよりも軽くて、横に転びそうになってしまった。
「気をつけろ。」
「(ああ、ありがとう)」
公園の出口で、何事もなかったかのように振り向く。そこには異様な光景が広がっていた。気性の荒い怪物でも通った後のようだった。傷だらけの木々、粉々のフェンス、穴だらけの地面。丈の高かった草は、根元から千切れていた。ただ一箇所、大皿ほどの空間にだけ、綺麗に剃り残されている。あおい楕円のベッドだ。その上には、2つになってウサギが眠っている。
惨殺犯がこれにビビッて犯行を止めてくれれば良いのだが。
「(コストコ)」
「なんだ。」
「(コストコの力は、影の濃さ、そして──使い手の感情に左右されるって言っていたよな)」
「ああ。」
米噛は、破壊された公園出口付近の草地から目を逸らし、
「(さっき、オレは……どんな感情だった?)」
「“不安”、だ。」
「(なるほど……。)」心の中でそう呟いて、公園を出た。
刀。剣。槍。矢。牙。針。棘。無数の黒い刃。
歪な刃の輪郭に金属光沢が流れるその様が、いつまでも脳裏で点滅を繰り返した。
「(不安、か)」




