3.わたしの王子様
「はあ」
シャルロッテは自室で一人、何度目かの溜息を吐いた。
夜会が終わってからもずっと彼のことを考えてしまう自分がいるのは、認めたくないが事実である。元々夢見がちではあるが、輪をかけてぼんやりしている。
ハンカチに刺繍されているのは、名前のイニシャルのはずだ。家名なら調べれば分かるかもしれないが、こちらは見当もつかない。
ルーファス、レナルド、ロバート。
Rから始まる名前について、色々と考えてみたけれど、どれもしっくりこない。何かもっとこう、あの洗練された雰囲気に似合う名前があるはずだ。
こんなことならもう少しちゃんと社交をしておけばよかったと思っても、もう遅い。
あんな王子様みたいな人、はじめてみた。
なんてことないことのように軽やかに、シャルロッテをエヴァンから救ってくれた、名前も知らないあの人。 今まで読んだどの物語の王子様よりもかっこよかった。こんな人が本当にこの世に実在するのかと目を瞠った。
このハンカチが手元に残っていなければ、シャルロッテは彼を自分の妄想だと笑い飛ばしただろう。
あの時、戻ってきてくれるつもりだったのか、それとも都合よく理由をつけて行方をくらましただけなのかは分からない。
いつかまた出会うことは叶うのだろうか。今度こそはちゃんと、お礼を言わなければならない。
指先でゆっくりとイニシャルをなぞる。そのまま、ハンカチをそっと一番上の引き出しにしまった。
今日ヘンリエッタは、伯爵令息の何某という人と観劇に行くらしい。興味がないので名前も覚えていない。
気分転換に、わたしもどこか出かけてみようか。
今日はくそじじいの朗読の日だが、まだ時間がある。ずっと欲しかった本もいくつかあるし、本屋にでも行こう。そのまま街から屋敷に行けばいい。シャルロッテは、くたびれた外套を羽織って繰り出した。
シャルロッテは、行きつけの本屋の前に入った。うっとりと息を吸い込む。
インクと紙の匂いに満ちたここが、この街で一等好きだ。自分の知らない物語がまだ世界にこんなにあるという事実に、どうしようもなく胸がときめく。
しかしながらシャルロッテは大富豪ではないので、ここにある本の全てを買い求めることはできない。手持ちでは、せいぜい一冊か二冊が限界だろう。
さて、どれにしようか。
きょろきょろと辺りを見回したところで、箔押しの美しい本が目に入った。好きな作家の新刊だ。この装丁だといささか高くつくだろうが、ぜひとも欲しい。
と、手に取って値札を見て、シャルロッテは二度ぱちぱちと瞬きをした。
思っていたより、高い。今持っている現金では手が出ない。こないだドレスを直すのに仕立屋に頼んだのが痛かった。
ああ、あの分がなければこの本が買えたのに。
欲しい。買えない。でも、欲しい。
今日の朗読の分があれば買える。終わってからまた買いに来ようか。取り置きは頼めるのだろうか。そんなことを考えながら、シャルロッテは本を手に取ったり棚に戻したりを、三回ほど繰り返した。
本屋からしたら至極迷惑な客だろう。仕方がないので別の棚に移って買えそうな本を物色して、けれど諦めきれなくてちらりとその本を盗み見ていた。
しばらくすると、長身の男がさっと本を手に取った。
ああ、わたしの本。欲しかったのに。
いつの間にかシャルロッテは、精緻な刺繍の施された彼のコートの手元を食い入るように見つめてしまっていた。
すると、男がちらりとこちらに向き直った。シャルロッテはさっと顔を背けて、立ち読みをしている体を装った。
けれど、少し遅かったらしい。
頭の上から軽快な声が降ってきた。
「やあ、またお会いしましたね」
その声に弾かれたように、シャルロッテは本から顔を上げる。そうして、はっと息を呑んだ。
夢にまで見るかと思った王子様が、自分の目の前に立っている。
立ち尽くすシャルロッテをよそに、彼はまたにこりと微笑んだ。
「大丈夫でしたか?」
何を、とは彼は言わなかったけれど、夜会のことだとは察しがついた。
「はい。おかげさまで」
シャルロッテが応えると、緑色の瞳が輝く。
「よかった。僕が戻った時、お知り合いの方とお話されていたので割り込むのもよくないかなと思いまして」
驚いた。本当に戻ってきてくれる気だったのか。
「あ、ただの妹です! 本当です!!」
はたわたと両手を振ってシャルロッテは否定する。わたしはどうして、こんなに必死になっているのだろう。
「はい」
対して、向かい合う彼の落ち着き払ったことといったら。恥ずかしくて土に還りたくなる。
「ああ、こちらの本、お買い求めだったのですね」
シャルロッテの視線に気づいたように、彼が言った。「どうぞ」
当然のようにシャルロッテの前にそれが差し出される。極上の笑顔を添えて。
買いたかったことは、事実である。
シャルロッテは不躾にならない程度にこっそりと、男の全身を上から下まで見つめた。
身を包むのは、上品な誂えのチェスターコート。見たところ、生地は最高級のカシミアだろう。細身の体にぴったりと添うそれは、言うまでもなく注文服だ。
ゆるやかなウェーブのかかった金髪の頭の上にあるのは、シックな中折れ帽。
例えば人が貴族と聞いて想像するものを、そのまま纏ったような感じだ。どこからどう見ても完璧な装いである。
彼は本一冊の値段など気にはしないだろう。きっと同じ本を十冊は買えるはずだ。
手持ちが足りなくて買えもしないのに、未練がましく眺めていました。
なんて口が裂けても言えるはずもない。
「どうかされましたか?」
首を傾げれば、金髪がさらりと揺れる。まるで絵に描いたような美形だ。自分とは違う世界の人。
シャルロッテは、そっと床に目を落とした。
「わたしは今日こちらの詩集を買うので、大丈夫です」
嘘はついていない。
欲しかったのは本当だ。一つ一つの詩が繊細で、自分の家の本棚に置いて何度も読み返したいと思った。そして、こちらは薄めでシンプルな装丁だった。それに比例したように、手に取りやすいリーズナブルなお値段である。
「なるほど」
うんうんと、彼は頷く。よかった。寂しい懐事情を晒すことなく、この場を切り抜けることができた。
「では、こちらも」
するりと持っていた詩集が取り上げられる。彼は二冊分の本を持ったまま、会計へと向かった。なんてことない街の本屋が、まるで赤絨毯の敷かれた舞踏会の大広間かのように見えた。
シャルロッテは、呆気に取られたようにその全てを見つめていた。
颯爽と本を買い終えた男がもう一度、自分の前に立った。
「はい、どうぞ」
大きな手が、買ったばかりの本を差し出してくる。すらりと指が長い手だなと思うが、どうしていいのか分からない。
これは、なんだろう。
シャルロッテは、男と本を交互に見つめながら考えた。
「もしよければこの後お茶でもいかがですか? あなたが選んだ本の話を聞かせてください」
シャルロッテ=ウェルナー、二十歳。
この時はじめて、男性からお茶に誘われたのだった。