27.欠陥品と正規品
「七年前のことです」
それは、パトリックが語ったリチャードが本宅を離れた時期と重なる。
「僕は、契約書を付き人に読ませて仕事をしていました。彼は知識も豊富で、僕が最も信頼している人の一人でした。
分かりやすく調子に乗っていました。兄よりも僕の方が売上は多かったし、僕を指名してくれる客も多かった。字が読めなくても誰よりもうまくやってみせる。そう、思い上がっていたんです」
リチャードの声が掠れる。この出来事は、まだ彼の中で何も終わってはいないのだ。傷口からは新しい血が溢れている。
「けれど、こんなところはいらないだろうと彼が読み飛ばした一文に、重要な事項が書かれていたんです。気づいたのは父で、危うく当家は大損するところでした。僕は付き人を叱りつけました。どうしてもっときちんと読んでくれなかったのかと、大声で彼を詰ったんです」
そこでリチャードは顔を上げて、ふっと笑った。
「僕はね、その時、自分に失望したんだ」
それはあまりにも悲しい笑みだった。
「字が読めないことじゃない。最後に決めたのは僕だったのに、そうやって、自分の失敗を他人に押し付けた己にね」
リチャードは煌めくばかりの緑の瞳を片手で覆って、天を仰ぐ。
「これから先もずっと、こういうことはあるでしょう。その度に僕は人を疑って、責めることになる」
誰かを媒介にしてしか繋がれない世界。けれど、だからこそ彼はその人を信じて、疑って、責めてしまう。
「気に入らない付き人は解雇すればいい。ならば気に入らない弟は? 兄は僕をどう思うでしょう」
静かな言葉は書斎に突き刺さるようにして響く。
「さっきあなたが兄さん宛ての手紙を書いている間、僕が何を考えていたか知っていますか」
シャルロッテは首を横に振ることしかできなかった。
「僕はそれが、恋文だったらどうしようかと思っていました」
「そんなことあるわけがっ」
悪い冗談にもほどがある。否定しようと思ったところで、冷ややかなリチャードの視線と向き合わざるを得なくなった。
「あるわけがないと、あなたは思うでしょう」
これは冗談ではないと、その目が語っている。
「それは、あなたに確かめる術があるからだ。僕には、それはありません」
その時、シャルロッテは思い知った。
ああ、そうだ。リチャードの言った通りだ。
わたしは何も、分かってはいなかった。
彼の痛みについて、考えてきたつもりだった。想像して、寄り添えると思っていた。
けれど、こんなにも違う。
シャルロッテには、彼の本当の孤独は分からない。
自分一人ぽっかりと世界に取り残されているような、リチャードの隔絶は。
「兄はまあ、少々思い込みが激しいところはありますが、悪い男ではない。きっとあなたを大切にしてくれると思います」
ひとつ大きく溜息を吐いて、リチャードはシャルロッテを見つめる。
にこりと、リチャードは完璧な角度で微笑んだ。
「欠陥品と正規品を並べられて、何も欠陥品を選ぶこともないでしょう」
書斎の扉が、開け放たれる。丁寧なお辞儀とは対照的に、出ていけと言わんばかりに。
「どうか、お元気で。ミス・ウェルナー」
その広い背から放たれていたのは明確な拒絶だった。
リチャードはもう、シャルロッテを名前で呼んでくれることもないのだ。
*
どんな風に屋敷に戻ったのか覚えていない。ただふらふらと幽霊のように彷徨い帰った。
結局のところ、シャルロッテは己が救われたかったのだと思う。
妹と折り合いが悪い自分が、あの兄弟の橋渡しに成功して、リチャードとパトリックが分かり合うことが出来たとしたら。シャルロッテ自身も救われるような気がしていた。
リチャードが真に抱える孤独が見えていなかった。
パトリックは「俺の言葉はもう届かない」と言った。
机の上に積まれたノートをめくる。シャルロッテが書いてきた物語の数々。どれもこれも、彼に届く気はさらさらしなかった。シャルロッテは一つ大きく溜息を吐いた。
そこで、扉がノックされた。「どうぞ」
「こんばんは。お姉様」
猫のようになめらかに、ヘンリエッタが部屋に入ってくる。その手にあるものを見て、シャルロッテは目を瞠った。
「あなた、それ」
ヘンリエッタはそれをつまらなさそうに見つめる。
「これ、お姉様は男の方からもらったのよね」
突然の問いにシャルロッテは顔が強張るのを感じた。けれど、事実は事実として存在する。
「そ、そうね」
できるだけ平静を装ってそう答える。ふわりと華やかな色合いは、まるで花束のようにも見えた。
「そして、それはパトリック様じゃないのよね」
シャルロッテが頷くと、妹は「なーんだ」と勝手に納得してシャルロッテの寝台にごろりと行儀悪く寝転んだ。自由で気まぐれで、本当に猫のようだ。
「なんで分かったの?」
「だってそういうものですもの」
寝台にうつ伏せになったヘンリエッタは、組んだ手の上に顎を乗せて盛大に溜息を吐いた。
「お返しするわね、これ」
綺麗にストールを畳んで、ヘンリエッタはそう言った。あんなに気に入っていたようだったのに。
もう二度と自分の手に返ってくることはないと思っていたのに、どうして。
「わたくしのことを好きじゃない男の人からのプレゼントなんか、要らないわ」
するりと立ち上がったヘンリエッタは蠱惑的に微笑む。
「それに、お姉様の好みってことはわたくしの好みの人じゃないもの」
確かに、ヘンリエッタとシャルロッテは真逆だ。随分前のことだが、夜会でかっこいいと思う男を順番に指差していったことがある。一人たりとも一致しなかったことを、シャルロッテは妙に懐かしく思い出した。
「そうね」
そうだ。この妹でも分かるぐらい簡単なことだ。パトリックはわたしの好みじゃない。
そんなことも分からないリチャードは大ばか者だ。
「じゃあ、確かにお返ししましたからね」
来るのが突然なら、帰るのも突然だ。ヘンリエッタは言いたいことだけを言って、自分の部屋へと戻っていった。
そっとストールを撫でる。シルクのなめらかさが手のひらを撫でていく。
これはわたしの為に選ばれたものだから、わたしに似合う。
簡単なことだ。
シャルロッテは今まで、自分の為にしか物語を書いたことはなかった。
あの日泣いていたわたしのため。
膝を抱えていたわたしのため。
そして、いつか未来で転んだわたしのため。
欲しかった言葉を全部、物語に載せてきた。そこに、自分以外の誰かは存在しなかった。
この今、はじめて、シャルロッテは誰かのための言葉を探している。
机の一番上の抽斗を開ける。そこには、真鍮製のストールピンとRのイニシャルのハンカチが入っている。
ピンを外すと、先端がきらりと輝いた。そのまま、ぷつりと指に刺した。赤い血が玉のように指先に浮かぶ。
シャルロッテは真っ白な紙を見つめて、ぎゅっと手を握りしめる。
ぽたりと一滴、血が流れ落ちた。
「僕のために泣いてくれたんだね」と言ってくれた人。どんな時も彼は泣くことはなかった。
机の上に置いたペンを取る。
昔から、思っていることを口から素直に出せない性分だった。だからシャルロッテはいつも、物語に自分の思いを託してきた。
川底を浚うようだといつも思う。
わたしはわたしが沈めた石を拾うことしかできない。
シャルロッテはそこに砂金が埋まっていると信じている。信じるほかにないのだ。
手にしてみたらなんてことはない、ただの屑石だ。
けれど、それを何度も何度も繰り返す。そうして掬い上げた欠片を天に放つ。
それが星のように輝くことを祈りながら、見えない糸を撚る。彼らを星座のように繋ぎ合わせて、シャルロッテは物語を紡ぐのだ。
どんなに言葉を尽くしても、彼がこれを読むことは叶わないのかもしれないけれど。
それでも、少しだけ。
だって、他ならぬ彼が言ったのだ。
呪いは一人では解けないのだと。誰か解いてくれる人が、必要なのだと。
優しいあの人の心に届きますように。
誰を恨むことも、憎むことも己に許さなかった彼のそばに少しでもいられますように。
そう思って、また手を伸ばす。
きっと、そんなことしかできないのだ。
わたしがずっと書いていたのは、あなたへの恋文だ。
それを思い知ればいい。そう思った。




