『恋をして』
『恋をして』
野村隆介は、部屋の窓際に置いた椅子に座り、古いアルバムをめくっていた。73歳を目前にした今、過去を振り返る機会が増えていた。特に、妻の三津子を失って10年が経った今では、彼女との思い出が詰まった写真を見るのが日課になっていた。
「あぁ、この写真か」
隆介は一枚の色あせた写真に目を留めた。1970年、彼が18歳の時に撮られたものだ。Big Johnの白いジーンズにVANの紺のトレーナーを着た若い自分が、照れくさそうに微笑んでいる。当時流行していたビートルズ風の長めの髪型も懐かしい。
「あの頃は、スティーブ・マックイーンに憧れていたんだよな」
彼は小さくつぶやいた。1967年、16歳だった隆介は友人と映画館で「大脱走」を観た。スクリーンに映し出されたスティーブ・マックイーンの姿に心を奪われた。特に、白いジーンズと紺のトレーナーという組み合わせが、彼の若い心に強く焼き付いた。
「でも、おかしいよな」
隆介は眉をひそめた。「大脱走」が日本で公開されたのは確か1963年だった。なのに、なぜ自分は1967年に16歳でこの映画を観たと記憶しているのだろう?時系列がおかしい。
彼はさらにアルバムをめくり、もう一枚の写真を見つけた。ある女子高の文化祭での写真だ。そこには三津子と一緒に写っている若い自分がいた。三津子は演劇部の衣装を身につけ、隆介の腕にそっと手を添えて微笑んでいる。二人とも頬を赤らめ、カメラを見つめている。
「そうだ...」
記憶が蘇ってきた。実際に隆介が「大脱走」を初めて観たのは、再上映された時だった。1967年、東京の小さな映画館で特集上映されていたのだ。友人に誘われて何気なく観に行ったその映画が、彼の人生を変える一つのきっかけとなった。
彼は立ち上がり、クローゼットから古い木箱を取り出した。中には、大切に折り畳まれたBig Johnの白いジーンズと、色褪せたVANの紺のトレーナーが入っていた。三津子がいつも「あなたの青春の制服ね」と優しく微笑んでいたものだ。
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1968年の秋、高校1年生だった隆介は、スティーブ・マックイーンに憧れ、白いジーンズが欲しくてたまらなかった。ようやく念願のBig Johnの白いジーンズを買う日が来た。
「野村くん、それ似合ってるね」
新品のジーンズを履いて公園で親友の酒井と話をしていた時、向かえに住むクラスメイトの由美子が声をかけてきた。
「あ、ありがとう」隆介は照れながら答えた。
「ねえ、今度の日曜日、うちの姉の学校で文化祭があるんだけど、一緒に行かない?」
由美子は隆介に切符を渡した。「演劇部の公演がすごく評判なんだって」
隆介は迷わず誘いを受けた。まだ着ていなかったVANの紺のトレーナーを着る絶好の機会だと思った。
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日曜日、隆介は緊張しながら由美子と待ち合わせた。初めて完全なマックイーンスタイルで外出する日だった。
「わあ、野村くん、今日はおしゃれだね」由美子は目を丸くした。
女子高の文化祭は活気に満ちていた。教室では様々な催し物が行われ、校庭には模擬店が並んでいた。由美子に案内され、二人は体育館へと向かった。
「ロミオとジュリエット」の現代版が上演されていた。舞台は想像以上に本格的で、隆介は物語に引き込まれた。幕間の休憩時、由美子は姉を探しに行き、隆介は一人で体育館の外に出た。
そこで彼は小さな少女が脚本らしき冊子を読んでいるのを見つけた。小柄な体型ながら、澄んだ生き生きとした瞳が印象的だった。そして何より、全身から発せられる生気に満ちたオーラが隆介の目を引いた。まるで小さな太陽のような輝きを持っていた。
「あの…素晴らしい公演でした」隆介は勇気を出して声をかけた。
彼女は顔を上げ、隆介を見た。「ありがとう。でも私は役者じゃなくて、裏方なの」彼女の声には芯の強さが感じられた。
「裏方の人がいないと、舞台は成り立たないと思うよ」隆介は真剣に言った。
彼女は微笑んだ。その笑顔が隆介の心を捉えた。
「あなたのそのファッション…」彼女は隆介を見つめた。「まさかスティーブ・マックイーンの『大脱走』?」
隆介は驚いた。「そうなんだ!わかるの?」
「まさに!そう思ったの」彼女は目を輝かせた。「それにBig JohnにVANっていう組み合わせもおしゃれね。映画好き?」
「うん、特に洋画が好きなんだ」
「私も!将来は映画の世界で働きたいの」
彼女の名前は河合三津子。この女子高の演劇部の副部長だった。二人は文化祭が終わるまで映画の話に夢中になった。別れ際、三津子は小さな紙に電話番号を書いて隆介に渡した。
「もし、よかったら…また映画の話をしましょう」彼女の頬は桜色に染まっていた。
バスに乗って帰る道中、隆介は紙を握りしめ、心臓が早鐘を打つのを感じていた。
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それから二人は手紙のやり取りを始めた。隆介は自分の映画体験を、三津子は演劇部での出来事や観た映画の感想を綴った。文通が一ヶ月ほど続いたある日、勇気を出して隆介は三津子に電話をかけた。
「もし…今度の日曜日、映画を観に行かない?」隆介の声は少し震えていた。
電話の向こうで、三津子は小さく「うん」と答えた。
1969年の初夏、ついに二人きりのデートの日が来た。隆介は友人から借りたホンダのCB400でデートに向かった。
三津子の家に迎えに行くと、彼女は薄いブルーのワンピースを着ていた。風に揺れる髪が太陽の光を受けて輝いていた。
「素敵!乗せてくれるの?」三津子はバイクを見て目を輝かせた。
隆介は予備のヘルメットを彼女に手渡した。「もちろん。今日は特別な場所に連れて行くよ」
小柄な三津子の体が隆介の背中にぴったりとくっつき、彼女の腕が隆介の腰に回される感覚に、隆介の頬が熱くなった。彼らは東京の喧騒を抜け、多摩の山々へと向かった。ワインディングロードを駆け抜けるCB400のエンジン音が青春のサウンドトラックのように響く中、三津子は時折歓声を上げた。
風を切る爽快感と、背後で全身から生気を放つ三津子の存在。隆介はこの瞬間を永遠に記憶に留めたいと思った。山頂の展望台に着くと、二人は東京を一望できる景色を前に立ち尽くした。
「風の中を駆け抜けるって、まるで映画の一場面みたいね」三津子は髪を整えながら言った。「ありがとう、隆介くん」
初めて名前で呼ばれ、隆介の心は小さく震えた。
二人は展望台の手すりに寄りかかり、遠く霞む東京の街並みを眺めていた。夕暮れの柔らかな光が二人を包み込み、風は少し冷たくなり始めていた。
「少し寒くない?」隆介は三津子の肩が小さく震えるのに気づいた。
「大丈夫よ」と言いながらも、三津子は両腕を抱くようにして身体を縮めた。
隆介は迷った末、勇気を出して自分のジャケットを脱ぎ、そっと三津子の肩にかけた。その瞬間、二人の視線が交わった。三津子の瞳には夕日が映り込み、小さな宝石のように輝いていた。
「隆介くん...」三津子は小さな声で呟いた。
隆介は言葉を失い、ただ彼女を見つめていた。周りの景色も、遠くの街の喧騒も、すべてが遠ざかっていくようだった。ただそこには三津子と自分だけが存在するように感じた。
風が二人の間を吹き抜け、三津子の髪が彼女の頬をかすめた。隆介は思わず手を伸ばし、その髪をそっと耳にかけた。その手が自然と彼女の頬に触れた。
三津子の頬は柔らかく、そして温かかった。彼女は目を閉じ、隆介の手のひらに顔を寄せるようにした。
「三津子...」
隆介はゆっくりと身を乗り出し、震える唇で彼女の唇に触れた。それは風のように軽く、桜の花びらのように優しいキスだった。二人の唇が触れ合うほんの数秒の間、世界は美しい静寂に包まれた。
別れるとき、二人の吐息が冷たい空気の中で白く混ざり合った。三津子の頬は夕日より赤く染まり、瞳には星が生まれたようだった。
「初めてだった...」三津子は恥ずかしそうに目を伏せた。
「僕も...」隆介も頬を赤らめ、でもどこか誇らしげだった。
その瞬間、遠くで鐘の音が鳴り、二人は我に返ったように顔を見合わせた。それから、二人は小さく笑い合った。青春の甘さと爽やかさが、夕暮れの空に溶け込
「あの…」隆介は勇気を振り絞った。「三津子さん、僕のこと好きになってくれる?」
三津子は空を見上げ、そっと隆介の手を握った。「もう、好きになってるよ」
その日以降、二人はお互いの学校が休みの日には一緒に映画を観に行き、時にはバイクで郊外へドライブに出かけた。二人で銀座の喫茶店に座って、観た映画について熱く語り合うのが恒例となった。まだ恋愛映画すら手をつないで観るのが恥ずかしい年頃だったが、映画館の暗闇の中で、少しずつ二人の指は絡み合うようになっていった。
1970年の春、ザ・ビートルズが解散を発表したニュースを聞いたその日、隆介と三津子は銀座の喫茶店にいた。隆介は高校卒業を控え、三津子は大学進学が決まっていた。
「時代が変わるのね」三津子はコーヒーカップを見つめながら言った。「少し怖いけど、期待もあるわ」
「でも、俺たちは変わらないよ」隆介は三津子の手を取った。「これからもずっと…」
二人は恥ずかしそうに微笑み合った。未来はまだ白紙のキャンバスのようだったが、二人で一緒に描いていくという約束だけは確かだった。
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現在、2025年。隆介はアルバムを閉じ、窓の外を見た。東京の街並みは彼が若かった頃とは全く違うものになっていた。高層ビルが立ち並び、電子看板が明滅する風景は、彼が10代の頃に想像していた未来とは異なっていた。
彼は再び木箱から白いジーンズを取り出し、ゆっくりとそれを広げた。もう何年も前から、このジーンズは彼のウエストに合わなくなっていた。しかし、この白いジーンズと紺のトレーナーは、彼の人生の重要な部分を象徴していた。
三津子との出会い、初々しい恋、そして52年という長い結婚生活。彼女が最期を迎える病室でも、隆介は彼女の枕元に座り、若かりし日の思い出を語り合っていた。
「覚えてる?初めて会った日、僕が白いジーンズを履いていたこと」
三津子は弱々しく微笑んだ。「もちろん。文化祭の日ね。あなたはスティーブ・マックイーンみたいでかっこよかった」
「あの日、君に声をかける勇気が出たのは、この服のおかげだったかもしれないね」
「でも私が好きになったのは、服じゃなくてあなたよ」三津子はそっと隆介の手を握った。
隆介は目を閉じ、その記憶を胸に抱いた。時系列の矛盾なんて、もはやどうでもいいことだった。どうしてマックイーンのファッションに影響された時期が映画公開より後なのかという不思議も、今となっては懐かしい思い出の一部だ。彼の心の中では、すべての記憶が美しく調和していた。
隆介はそっと木箱に洋服を戻し、ベッドの傍らに置いた。明日は彼の73歳の誕生日だ。三津子がいない誕生日を迎えるのは10回目になる。
窓の外では、春の雨が静かに降り始めていた。隆介は椅子に深く腰を下ろし、遠い日の記憶に思いを馳せた。映画館のスクリーンに映るスティーブ・マックイーン、女子高の文化祭で出会った三津子、そして青春の輝きに満ちた日々。
すべてはBig Johnの白いジーンズとVANの紺のトレーナーから始まったのだ。初恋の純粋さと、永遠の愛の約束。時代が変わり、彼自身も変わったが、その記憶だけは今も鮮明に残っている。まるで昨日のことのように。