魔王と聖女
突発的に浮かんで消える前にと書いたものなのでさらっと読んでください。
俺の名はヴェゼル。魔王と呼ばれる生物である。
唐突だが、俺は今非常に混乱している。
千年の封印から解き放たれたら、以前の身体のあちこちから腐汁を垂れ流し、周囲のありとあらゆるものを腐らせる龍のような姿の生物ではなく、黒曜石のような鱗をまとった漆黒の紛れもない龍であった事ではなく。
唯一封印を解ける当代の聖女が恐れどころか怯みもせず、何らかの指示を与えた訳でもなく、醜く忌まわしい俺の頭蓋骨に口付けをした事である。
「お前……何で、俺に口付けなんて……お前も腐り落ちるかもしれなかったんだぞ?」
「……封印が解けたら、私の事など用無しでしょう?あの人達は私の事なんてすぐに忘れるでしょうし……ちょっとした時にでもおかしな女がいたと思い出してくれたら、と。だって……」
神が何を考えたのかはわからないが、当代の聖女は不遇の身であった。公爵家という経済的には恵まれた家に生まれたが、母親は聖女を産み落とすのと引き換えに他界。その為に、実の娘に憎しみのようなものまで抱いた父親は聖女を顧みる事はなかった。つれない父親に優しい言葉の一つでも掛けて欲しいと努力に努力を重ねた聖女は、理想の淑女と噂される程になったが、突然現れた同い年の従妹に全てを奪われた。平民と駆け落ちした妹夫婦が死に、その子供を引き取った父親は、聖女に対するのとは裏腹に、従妹を気に掛け、会話し、表情を緩めた。それに聖女はどれ程に傷付いただろう。それでも、聖女は突然生活の変わった従妹の面倒をよくみた。そんな事をやっている内に、聖女に劣等感を抱いていた婚約者の王子は完璧ではない、明るいだけが取り柄の従妹に心奪われた。従妹も不安な中で優しく接してくれる顔だけ凡庸王子に恋をした。聖女は決して王子を愛していた訳ではなかったようだが、それでも共に支え合って生きていくのだと思っていた男に裏切られた。完璧な君といるのは息苦しかった、君ならすぐに他の相手が見つかるなどと自己愛に満ちた寝惚けた言葉を放たれた。聖女が理想と呼ばれるに至ったのは血の滲むような努力を重ねて来たからだ。どんな状況、どんな相手に対しても優しさを忘れなかったからだ。それを一面だけ切り取って完璧だなど、凡庸どころか盆暗だ。
生まれた時からずっと聖女を見て来た。この身を解き放つ為に、引き込む機会を狙っていた。
「あなたは私から全てを奪っていくのね。いえ……初めから、私の事など誰も必要としていなかった……それだけね」
初めて人前で涙を流した聖女は絶望に満ち満ちていてとても美しかった。だが、その美しさを讃える気にはならなかった。
ない腹の底に熱を感じた。
「いいわ。もう、何も要らない……ねえ、見ているんでしょう?全部、あなたにあげる。連れて行って」
そうして、生物が生きていけない、誰も近付かない場所に聖女を連れ去った。
近付くだけでその身が腐り落ちて死に至る場所に入る事が出来るのは神の加護を持つ聖女と、神より授けられし聖剣を携えし勇者だけであるが、聖剣は俺を地に繋ぎ止め封印する為の法具となっているので、今ではこの場所へ入れるのは聖女のみである。
骨だけとなり、以前程ではないにしろ、生身の人間にとっては変わらず危険な俺の存在。以前の聖女も腐り落ちるまではいかずとも、我が身の腐汁を浴びればその場所は焼け爛れていた。
そんな俺の、腐汁が染みて毒の塊となっている骨に口付けたのだ。
「だって……誰も私を必要としていない。知っているでしょう?」
確かに本来であれば、惜しみない愛情を注いで当然であっただろう相手は聖女を裏切った。
だが、誰も必要としていないというのは違う。聖女は身分の別を問わず、慕われていた。誰にも分け隔てなく優しかった。あまりに出来過ぎていて近寄り難く思っていただけで本当は親しくなりたいと思っていた者は相当の数に上るし、家柄の関係で表立って仲良くする事は出来なくとも友人として大切に思っている令嬢もいた。公爵家の使用人や公爵家の跡取りにと父親が血縁から養子に貰った義弟などは皆、聖女を大切に思っていた。従妹も不義理を仕出かしてはいるが、聖女を慕ってはいた。現に今の俺と同じように動揺し、王子の事など頭からすっ飛んでいるらしい。
「俺は代わりにお前の願いを叶えると言っただろう?」
「あなたは私を必要としてくれた。利用する為だったとしても、ずっとずっと必要としてくれていた。それで充分です」
「嘘を言うな。お前の本当の願いはそれではないだろう!」
「だって、あなたは魔王でしょう?愛して欲しいなんて言って、愛せるの?」
「……愛など、俺にはわからん。だが、お前は契約以上の事を成した」
そう、封印から解き放たれた俺の身体は醜く忌まわしい姿ではなかったのだ。姿が変わって出来なくなった事など、腐汁を撒き散らし全てのものを腐らせる事だけ。代わりに炎を吐き出し、辺りを焼け野原に出来るだろう事が感じられる。聖女をずっと見て来たように遠視も使えれば、ここに連れて来た時のように転移魔法も使える。
正直、あの忌まわしい身体から解放される日が来るなどとは思っていなかったし、その事に喜びとまではいかないが解放感のようなものは感じている。
その上、それでもその身を脅かすと誰もが考えるだろう獰猛な姿だった俺の、その姿を見た聖女は言ったのだ。
――龍とはこんなに美しい生き物だったのですね、と。
口付けと言い、その言葉と言い、今までに一度も向けられた事のないものである。
胸の奥が震えた。身体の中を何かが駆け上った。
その理由も意味もわからない。ただ。
「俺は、裏切らない」
それだけは決めた。
「……あなた、魔王だなんて嘘でしょう?」
「間違いなく人間にとってはその身を脅かす魔物の王だったと思うが……」
「……勇者も聖女も間違えたんですね。きっと、あなたを倒そうとするのではなく、その身や周囲を腐らせてしまうというあなたを救わなければいけなかった。だってあなたは……こんなにも私に寄り添ってくれている……」
そっと白い手が如何にも獰猛な顔に触れる。寄せられた額から手から熱が伝わる。
俺は生まれ落ちた時から、存在を許されない忌まわしい生物であった。全ての生物は生命を脅かす俺を厭い、排除しようとした。
望んでこう生まれた訳ではない。
俺は神を呪い、世界を呪った。全てを俺のこの身と同じように腐らせ、世界を終わらせようとした。
「倒されても仕方のない事は充分にして来たぞ。自らの意思でな」
「……今の姿が本来のあなたなのだと思います。あなたを歪めたのが何なのかはわかりません。けれど、その歪みを正そうとして聖女や聖剣が生み出された。そうでなければ、あなたが今、この姿になっている筈がありません」
聖女として何か感じるものでもあるのか、聖女はそう言い切った。
「……聖女はともかく、聖剣もか?」
「そう思います。あなたの傍まで聖女を連れて行く為の物だったのだろうと。本来は勇者ではなく、聖女が扱うべき物だったのではないかと、先程聖剣に触れた時に感じました」
確かに俺の武器は腐汁だけではなかった。龍並の身体は動かすだけで、人など簡単に殺せた。
「ただ、先程の私の醜態をご覧になればわかるように、鍛えていなくてはとても振るえません」
「……だろうな。神は馬鹿なのか?」
身体を縫い留めていた聖剣は骨の隙間を通り、地面に刺さっていたが、令嬢として育ってきた聖女の力では簡単には抜けなかった。
前後に揺らし、少しずつ隙間を広げ、抜くというよりは倒して漸く排除した。
危なかしいその様に、いつ転ぶかと気が気でなかった。
「ところでその聖剣、どうするつもりだ?」
「……どうせ私には扱えませんし、使うつもりもありません。存在を抹消出来たらそれが一番良いのでしょうが……」
――カラン。
音のした方を見遣れば、聖剣のあった場所には繊細な細工の施された腕輪が転がっている。
「……魔力の増大や身体能力の強化、防御魔法というよりは簡易的な結界のような効果があるようです」
手にした聖女はそう鑑定する。確かに盆暗王子が劣等感に苛まれるのもわからなくはない有能さだ。
だからと言って、あの言葉は許されるものではないが。
「これを冒険者の方に売れば当面の生活費にはなりそうですね」
当面どころか正規価格であれば、一生働かずとも食っていけるだろう。だが、この聖女であれば安く買い叩かれるのがオチだろうし、妙な連中に狙われたりと面倒な事になりそうな気しかしない。正規価格で買い取れそうな連中との接触も聖女の現状を考えれば勧められない。
その上、腕輪から助けて欲しいという念のようなものを感じる。千年俺を縛り付けておきながらと思わないでもないが、聖女の為の物でありながらその聖女が不要品扱いしている事もあり、水に流してやる事にする。
「そんな誰もが欲しがるような物を売ろうとすれば面倒事になる。それよりもその辺りに転がっている死体から金目の物を頂戴するか、手頃な迷宮を攻略した方が良い」
聖女が生まれるまでの長い時間、暇を持て余して遠視で様々なものを見て来た。おそらく聖女よりは俺の方が世間というものを知っている。
「しかし……それにしても聖女、お前は聖剣を随分ぞんざいに扱うんだな。お前の為の物なんだろう?」
「聖剣が、今まで私の為に何かしてくれた訳でもありませんし、寧ろ私を利用するだけだと思っていたあなたの方が私の為に心を砕いてくれています。あなたを脅かす聖剣なんて要りません」
腕輪がそんな事はしないと訴えているように感じるが、聖女は一顧だにしない。これは火口にでも行けばその中に投げ入れたりしかねない。
向けられる無垢な好意になんだか落ち着かない。どういう反応をすれば良いのか見当もつかない。だが、悪い気分ではない事だけは確かだ。
「あの……迷宮というものはその姿でも入れるものなのですか?」
死体から追い剥ぎするのにはやはり抵抗があるのか、聖女は迷宮を資金源に選んだようだ。
「いや、無理だな」
「あっ、そうですよね。私、勝手に一緒に行っていただけると……」
「そのつもりだが?」
一人で行かせる気など端からない。裏切らない、と決めたのだ。
「え?でも、入れないのではないのですか?」
「お前と同じような姿を取ればいい。ほら」
魔王と言われただけあり、普通の龍には出来ない事も俺には出来る。遠視や転移魔法もそうだ。
一瞬で人間の姿になった俺に、聖女は目を瞬かせている。
「大体、龍と人間が一緒に居れば、それもまた面倒事になるぞ」
「……本当に色々な事をご存知なのですね。お恥ずかしいです」
「千年、暇だっただけだ。ついでにお前を聖女と呼ぶ事も面倒に繋がりそうだからな。今後、お前の事はリリィと呼ぶぞ。俺の事はヴェゼルと呼べ」
「えっ?あっ、はいっ!ヴェゼル様!」
名を呼ぶという行為はその存在を認めるという事だ。誰にも呼ばれた事のないこの名を聖女、いやリリィには呼んで欲しいと思った。
リリィも同じ事を考えたのか、公爵家の至宝と謳われた白百合が大輪の花を咲かせた。
あの絶望に満ちた顔より、こちらの方が良い。
そう思いながら手を差し伸べる。
「さあ、行くか」
所謂、異世界転生乙女ゲームものであれば、従妹=ヒロイン、聖女=メインルートライバル令嬢、魔王=ラスボスという感じでしょうか。異世界転生はありませんが。
一応、この後、魔王という名のチートと聖女という名のチート二人は、のんびりと世界を旅行する感覚で迷宮を攻略し、魔物を退治し、伝説として名を残します。
聖女の義弟の元には生活が落ち着いた所で一度顔を出し、無事である事と今がとても幸せである事を告げます。「また会いに来てくれますか」という義弟には魔王が「お前が跡目を継いだらな。その頃には公爵家もリリィにとって居心地のいい場所になっているだろう?」と言って奮起させ、使用人達もその日の為に義弟を支えます。
従妹は本当に思慕も恩義も感じていた為、王子の事に加え、義弟から父娘の関係も聞き、自身の存在によって聖女が追い詰められた事にショックを受けて、自ら修道院で祈りの日々を送る事を選びます。
ちなみに元聖剣の腕輪はちょいちょい聖女に存在を抹消されそうになります。(笑)
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。