第一話
ザイドの洗礼が始まった。
神殿の中庭に通じる扉は堅く閉ざされた。次に開く時は、洗礼が終わってからだ。
順調にいけば五日後には扉が開くと、ザイドは笑って言っていた。
ザイドを見送ったヴレイはいつも通りに学校へ行き、授業が終わって帰る途中のパン屋で寄り道をした。
「ザイドが洗礼に入ったんだ」とヴレイは餡子の入ったパンをかじりながら呟いた。
いつもならザイドと早食い競争なんかして、良く噛まないので咽ていた。
「そりゃあ、ヴレイちゃん寂しいねぇ」
丸っとしたオバちゃんは棚にパンを並べながら、「まあ、元気だしな」とヴレイの肩を酔いそうなぐらいぐらぐら揺らした。
「別に寂しくなんかないよぉーだ、あと、もうちゃん付けはやめてよ」
意地を張った返事をして店を出た。
家に帰ると、母親の畑仕事を手伝った。
日が暮れて、何事もなく夕食の時間になった。パンは間食したが、腹ペコだった。
ザイドがいないと、こんなにも穏やかに時が過ぎるんだなと実感する。
「ねえ、母さん。フレイヤの王族の、えっとお姫様って、なんていう名前だっけ」
「え?」と母親はスープを口に運びながら、急に何を言い出すのかしらと、眉をしかめた。
「王族のお姫様って言っても、何人かいらっしゃるわよ。王様の直系ってこと?」
「ちょ? ああ、うん、そうそう」と適当に相槌を打った。
「まったく自分の国の王族も知らないの? えっと、まず御正室に第一王子のウイス様、第二王子のシェンナ様、御側室の第一王女ルピナ様でしょ。ヴレイと同じ十三歳よ」
「同い年なの?」
「そうよ、しかももう直ぐエルムに越されて、総督になられるとか。すごいわねぇ、で、王様の妹君の――」
「あー、もういいよ、ありがとう。ごちそうさま!」
「え、どうしたのよ、急に」と驚く母を撒いて、ヴレイは食器を流しに入れて、自分の部屋に戻った。
やっぱりあの子はお姫様なんだと確信した。
夕食を終え、胸が躍るようなワクワクが込み上げてくる。
自室の窓から、家の灯りがポツポツと見える、頭上には星空がいつもの如く広がっていた。
我が家は小高い丘に建っているので、村全体が見渡せた。村の中心地にはザイドが洗礼を受けている、寺院の円錐塔が見えた。
早くザイドの洗礼が終わればいいのに、と思いながらヴレイは窓辺に肘を付きながらうとうとと眠りについた。
「うっーーー…」
眠りに落ちたはずだったが、両手が燃えるような激痛を覚えて、ヴレイは呻きながら目を覚ました。
痛みで手は痺れ、身を蹲らせながら、ここが冷たい土の上だと分かった。何故こんな所にいるのか戸惑いながら、手から燃えるような激痛に、それどころではなくなった。
辺りが暗いので夜だと判断できた。肘で体を支えながら、何とか膝をついて、ゆっくり立ち上がった。
徐々に痛みにも慣れ始め、ヴレイは恐る恐る自分の両手を確かめる。暗くて様子が分からなかったが、酷く血の匂いがした。
だが血生臭さは別の所からも漂ってきた、血だけではなく、木が焼ける焦げ臭さが鼻の奥をついて視線を上げた。
建物が燃えている。燃える建物のすぐ傍で倒れている人を認めて、ビクッとヴレイは肩を震わす。
見覚えのある長い黒髪に、暗い中でやけに白く目立つ手が力なく横たわっていた。
恐る恐る歩み寄るヴレイは、倒れている者の顔を覗き込んだ。
暫く、倒れている者の顔を見詰めたまま、ヴレイは人形のように瞬きも忘れていた。
「母さん……? どうしたの? どうして倒れてるの、起きてよ、母さん、かぁさん……」
暗くて様子が曖昧でも、母親が瀕死の状態で倒れていることぐらい感覚的に理解できた。
理解できても、まるで現実味がなく悪夢を見ているみたいだった。
夢なら早く目覚めてしまえ、起きろ起きろと何度もヴレイは自分に怒鳴ったが、覚めることのない現実だった。
「ヴ、ヴレイ……」
今にも消えてしまいそうな声を発した母親は、歯を食いしばりながら、上半身を起こした。脇腹を押さえ、痛みを堪えているように見えた。
どうして良いか分からず、ヴレイは母親に触れるのも怖かった。
「逃げなさい、隣町まで逃げなさい、逃げ延びて、このことは忘れなさい、ソテルを読んだわ、生きるのよヴレイ」
「母さん、何を言って――」
自分の顔面から血気のが引くのが分かった。母親が本気で言っていると、本能的に感じたからだ。その時、すぐ傍の崩れかけた建物が音を立てて崩壊した。
「母さんっ!」
火災で倒壊した建物から熱風が巻き起こった。
熱い。肌にジリジリと熱を感じて、これ以上留まれば本当に焼け死ぬかもしれないと、生まれて初めて「死」を感じた瞬間だった。
「まだ生きていたかーー」
怒号のような低く唸るような声が、自分の背中に突き刺さったような気がして、ヴレイは首だけをどうにか背後へ向けた。
「羅刹の血を受け継ぐ者。お前の一族は、全て消しさる」
何を言っているのかまるで分からないヴレイは、呆然とその場に立ち尽くした。それよりもどうして母親がこんな事態に巻き込まれているのか、そもそも現実なのかさえも、混乱による思考停止が全身に襲った。
声の主が、煙と瓦礫の間から姿を現したが、炭まみれで、肌の色さえ見紛えるほどに、人として捉えるのに時を要した。
しかしその姿が友人であることは、不思議と理解できた。確認できたというより、ザイドの気配をいつも傍で感じるように、肌に気配が伝わってくる。ビリビリと火の粉が肌を焼くようだった。
「ザイド? ザイドだよね、どうしちゃったんだよ、――何やってんだよお前」
目頭まで湧き上った想いは悔しさだった。
どうしてこんなことになっているのか、何故、自分は地面に倒れていて、何も知らないのか、何も分からない自分に腹が立った。
ザイドを助けたい、母親も助けたい、どうしたらいい、どうすればいい。
「ヴレイ、早く逃げなさいっ!」
母親の叫びと共に、熱風の渦が牙をむいて襲いかかり、ヴレイは突風に吹き飛ばされた。
吹き飛ばされたヴレイは地面を削るように丘から転げ落ちた。
熱風の渦は炎を巨大化させ、さらに建物を崩壊させると、ザイドと母親の姿を視界から遮った。
地に尻を突いたまま、呆然とその光景を眺めていたが、鼻をつくような焦げ臭さにヴレイは我に返った。
村がどうなっているのか気になったが、でも死にたくない、生きたい。
目頭に力が入って、視界が霞んだ。悔しさと情けなさがヴレイを覆い尽くそうとしたが、足は踵を返して、無我夢中で道を下った。
隣町までは一本道だ。途中からは転がり落ちるように砂利道を下り、ザイドと何度も行き来した道を無心に走った。
死んだような目をしていたザイド、ついさっきまで笑っていたあいつが、まるで別人の声を出していた。こんなの現実じゃない、現実じゃない。
大きく息を吸おうとしたら、喉の奥は張り付いた。開き切った口から、渇いた嗚咽が漏れて、涙も涎も一緒になって顎から滴った。
膝から崩れ落ちそうだったが、ヴレイはふらつきながらも足は止めなかった。
道を下る途中、逃げてきた何人かの村人たちを見付けたが、とても声は掛けられなかった。自分自身を守る気力だけで、精一杯だった。
足が絡まって、転がるように砂利道に転倒した。足首を捻って、膝を擦り剥いた。
足首に痛みが走ったが、そんなことに興味はなかった。片足を引きずったまま、ヴレイは隣町の外れにたどり着いた。
隣町の様子が、どうやらヴァジ村の異変に騒然としているようで、町人たちがバタついていた。
ふらついたヴレイはその場に尻餅をつき、震える自分の手を改めて見入った。
「君が、ヴレイ・リルディクス君ね。知らせが入り、お迎えに来ました」
突然、ランタンではない人工的な明かりが当てられ、ヴレイは目を細めて見上げた。
見知らぬ人間が三人、ヴレイが何か罪でも犯したかのように、物々しく立ち並んでいた。
「我々はジルニクス帝国防衛機関ソテル、フレイヤ支部の者です。これから支部へお連れ致します。けがの治療は輸送機の中で行います」
体力を消耗していたヴレイは、明かりの中から発せられる言葉を直ぐに理解できなかったが、母親が言っていた『ソテル』だけは聞き取れた。
「ソテルって――、親父の――、でも母さんが――」
切れ切れの言葉を並べるだけで息切れした。
「フレイヤ支部がヴァジ村へ救援に向かっています。我々は君の救護が最優先です」
言われるままにヴレイは両肩を掴まれ、そのままタンカーに乗せられると、揺れと共にヴレイは酷い睡魔に襲われた。