爪痕
アイティラはわずかばかりの疲労を感じながら、凍える部屋の寝台で身体を丸めていた。悪夢にうなされるように身体を縮めると、それに合わせて寝台が軋むような音を立てる。
昨夜は遅くまで赤剣隊の消失事件について調べていた。消えた五人の赤剣隊が行ったと思われる酒場に聞いたものの、その五人は覚えてないと言われた。酒場までの道中で、それらしき五人を見たという声はあったものの、その程度しか収穫はなかった。今日もまた探しに行くことになっているが、これ以上の手掛かりが見つかる期待は持てそうにない。
「ん...」
煩い足音にアイティラから不満の声が漏れる。あの不愛想な従者が呼びに来たのだろう。
それでも自分から起きるつもりのないアイティラはそれを無視した。
案の定、誰かが入ってくる気配があった。しかし、その割には動作の一々が荒々しく、アイティラに違和感を抱かせた。そして、飛び込んできた声に、今度こそアイティラは異常を感じ取った。
「おい、起きろ!」
呼びに来たのはアレクだった。しかし、その顔色は真っ青で、呼吸が乱れていた。
「下りてこい!早く!早くしろ!」
説明する暇などないかのように急かす声に、アイティラは状況が分からないまま飛び起きた。
金髪の青年は宿の一階まで下りるとそのまま外に出て、アイティラを振り向く余裕すら見せずに駆け出した。
「ねえ、ねえ! 何があったの?」
3つの呼吸が続いた後に、嫌に冷静に聞こえる声が耳に届いた。
「見れば分かる」
金髪の青年の向かう先に、片目の従者の姿が見えた。従者はなぜかできている人だかりから少し離れた場所で、人々と同じ方向を見ていた。
「シン!」
アレクの声を聞きながら、アイティラは人だかりの先を見た。そこは教会らしく、尖塔が人々の頭を超えて姿を見せていた。何かの祭りとは言えなかった。なにより、アイティラが感じた血の匂いが、その考えを一番に否定している。
アイティラは、集まった人々の間を小さな身体を生かして滑り込んだ。アレクの取り乱した姿を見た時点で、何かがこの先にあることは分かっていた。
視界が晴れて、そこに飛び込んできたのは...
この町に似合わないが、この町で見たことのある光景だった。
教会の古くも清貧な白の壁面は、赤の絵の具で塗られていた。茶色くなった芝生が広がる庭園には、赤の水だまりが出来ていた。至る所が鮮烈な赤に色付けされ、教会はその姿を邪悪なものに豹変させている。
「なに...これ...」
アイティラが人だかりを抜けそれらに近づくと、怯えた観客が引き留めるように「おい!」と声をかけた。しかし、それでも止まらずに、少女は新たな色彩を教会に与えた一人の傍にひざまずいた。
黒のローブが赤をしみこませ、重たくぬるいものがアイティラの足を這って行く。
それは赤剣隊の男だった。
なぜ赤剣隊だとわかったのかというと、身体の上に乗せられた赤い帯が、赤剣隊を示す証だと知っているからだ。顔は恐怖に歪んでおり、身体のいたるところに深い切り傷があった。だがそれよりも、この死者を凄惨に印象付けるのは、その腹のあたりにある三本の斜めに走った傷だろう。臓物を巻き込むように引かれた線は、獣の爪に切り裂かれたようでいて、人が剣で無理やり描いたのだと思わせた。それは、他の死体にも共通した特徴だった。
ぴちゃと音がして振り向くと、気分の悪そうなアレクと、表情の伺いづらいシンが居た。
「消えた赤剣隊が、こいつらだろうな」
「誰がやったの?」
「僕が知るわけないだろ...」
いつもより弱り切った声だった。
「分からないんだ。 赤剣隊を狙ったってことは、国王側の人間なのか? だが誰だ? 騎士団? 貴族の雇われか? それとも...」
アレクは考えを整理するためにも口に出してみたが、答えは出無さそうだった。
考えて見れば見るほど、どの可能性もありそうに思えてならない。
「分かったのは、あの女隊長の推測が当たってたことくらいだな」
アレクの苦々しい呟きに、アイティラの肩がはねた。
「レイラ...レイラは? 生きてる?」
震えた声に引き付けられると、アイティラは色を失った顔でアレクを見上げていた。
アレクから見て、それはこの女が初めて怯えたような表情を見せた瞬間だった。
思わず息を呑んだアレクは、不思議な力を感じさせる瞳から目をそらすことしか出来なかった。
「どこに行く!」
重たくなったローブを持ち上げたアイティラは、人だかりに向けて駆けだしていた。アレクが咄嗟に手を伸ばしたものの、その姿は捉えられない。
「レイラに会ってくる」
血をしみこませたローブが重かったのか、赤い剣で膝上あたりを切り裂いた。
少女のその姿が奇異に映ったのか、または血で汚れることを嫌ったのか、集まった人だかりは左右に避けて道ができた。姿を消したアイティラを残して、アレクとシンは何もかもが分からない現場を眺めるしかなかった。
人だかりを抜けたアイティラが向かったのは、赤剣隊が拠点としている家だ。
壁面に掲げられた大きな旗が、遠くからだとよく見えた。そこからは、人が慌ただしく出入りしている。
少女の姿を目にとめて、彼らは一様に動きを止めた。そして、手近な一人にアイティラは詰め寄った。
「レイラは今どこにいるの?」
少女の様子があまりにも鬼気迫ったものだったのか、問われた方は上半身をのけぞらせた。
しかし、その件で慌ただしくなってたこともあり、返答はすぐに出て来た。
「実は、隊長の姿が見当たらなくて! 今、探していて!」
叫ぶような言葉の後に目を開けると、彼らの指導者様は硬直したように動きを止めていた。
「...そう。最後に見たのはいつ?」
「き、昨日、昼頃にここを出てったのが最後で」
言いながら、目の前の少女から放たれる圧力が強まり、声が途切れた。
さらに、フードの下から見えた異様な目によって、喉の奥から掠れた悲鳴が漏れた。
「なんで引き留めなかったの?」
「え...」
「なんでレイラを引き留めなかったの?」
「ひ、あ、すみま、すみませ...」
がくがくと震えながら答えたのは、この時アイティラから向けられた殺気のせいであった。
目元に涙を浮かべて膝から崩れ落ちると、異様な赤い瞳が見下ろしていた。
それは、縦に割れたような、人ではない何かを思わせるものだった。怯えてしまった赤剣隊の一人にアイティラは気づくと、一歩下がってから告げた。
「ごめんね、あなたは悪くないのに」
アイティラはそれだけ告げると、彼らの傍から離れた。それと同時に、赤剣隊の止まっていた時間も動き出した。
道を歩くアイティラは、フードを深くかぶって下を向いていた。道中、人にぶつかって声を荒げられたが、それさえも聞こえずに前へ進む。もし、この時フードが上がっていれば、先ほどのような怯えた顔がいくつも浮かんだに違いない。
それは恐怖だった。失うことへの過度の恐怖。
それを覆い隠すために、怒りと殺意でごまかすように心中を埋め尽くす。
それが、この少女が心を保つための、いつもの方法であった。
敵の正体は分からない。だが、それが誰であっても変わらない。
「レイラは殺させない」
アイティラはその呟きを残して、人々の中に溶けこんだ。
***
「なあ、シン。僕は何も知らなかったのかもしれない」
教会に集まる人だかりを遠巻きに見て、アレクがぽつりとこぼした。
片目の従者は表情を変えないまま、主人に顔を向けた。
「あの狭くて苦しい王城から逃げて来て、反乱に身を投じれば、僕でも何かを成せると思っていた。
国を立て直す。理想の王国を再現する。そのために命を懸けることが、美しいものだと思っていた」
青年の端正な横顔は強張っていた。
視線は固定され、邪悪な尖塔を一点に見続けている。
「だが、現実の死はあの姿だ。理想に誑かされた姿があの屍だ」
シンはそこに含まれた感情に気づいていた。
それが、アレクを苦しめるものだと気づいてなお、片目の従者は何も言わない。
「理想を見せた責任は取らなきゃいけないな」
「...はい、アレク様」
シンは返事をしながら、この青年の苦しみを自分も分かち合いたいと願った。
「とはいっても、具体的な方策は何も思いついてないんだがな」
自分の声が予想以上に低かったことに驚いたのか、アレクは無理に調子を上げるように声を高くした。
その様子がまた、シンにとっては主人への敬愛を高めさせる。
「アレク様、一度赤剣隊とも合流しましょう。その後で...」
シンもアレクの気持ちを汲んで、重い空気を締め出すように切り出した。
しかし、アレクのずっと奥に見えた人影を見て、その言葉は続くことはなかった。
不自然な従者の様子に振り返ったアレクも、その後動きを止めることになる。
「なんで、あいつがここに?」
アレクのつぶやきが届いたわけではなかったが、向こうもアレクの姿を見て固まった。




