輝きは消える
不規則に続く振動が、少女の身体を揺する。
汚れの目立つ壁に視線を止め身じろぎ一つしない少女を、同乗している金髪の青年はため息とともに眺めた。
二人がいるのは、幌付きの荷馬車の中。大きな揺れで荷台に敷き詰められた荷物が大きく動くため、金髪の若者は押しつぶされないように必死に自分の場所を確保していた。片やもう一人の方は、膝を抱えてじっとしているだけなので、箱と壁に押しつぶされているように見える。
アレクとしては、この陰気な同乗者に文句を言ってやりたい気分だったが、事情を少なからず知ってしまったため特に何も言うことはなかった。
あの日、城に戻ってきたアレクが見たのは衝撃的なものだった。血を流して倒れている男と、そのそばで血に濡れているアイティラ。そして、珍しく焦った様子のコーラル伯爵。訳も分からぬまま運ばれて行く若い男の姿を眺めていただけのアレクは、全てが終わった後に伯爵からその日の出来事を聞いた。
カナンの町で起きた悪魔騒動なる出来事をアレクは初めて知ることになり、それに伯爵が関わっていると聞かされた時には思わずうめき声が漏れてしまった。伯爵を非難することは簡単だったが、出来るのはそれだけだった。すでに自分は、伯爵が起こしたこの反乱に巻き込まれているのだ。もし、この反乱が成功しなかったとき、アレクは確実に殺されることになるだろう。だからこそ、この伯爵の罪が表に出て、反乱が瓦解することは何としても防がなくてはならない。「厄介な爆弾を抱え込みやがって」と片目の従者に向けて口にするので精いっぱいだった。
そして、血を流していた若い男の名が、シュペル・クルーガーと聞いてさらに驚いた。子供の頃に面識があったかどうか不明だが、失踪して忘れ去られていた人物の名が突然現れたのである。そのシュペルが伯爵の罪を暴いて伯爵を殺そうとしたが、結果的にそれは失敗し、アレクが見た場面につながったということをその時アレクは聞いた。
再び大きなため息が馬車内を満たす。
厄介なことにアイティラはシュペルの知己であったらしく、傷付けてしまったことをずっと引きずっているのだ。静かになる分にはいいのだが、沈んだ空気を纏った人物が近くに居れば、こちらも気分が沈むというものである。それに、消えたシュペルに伯爵の罪が知られている現状も、アレクの心に少なくない負担を課していた。
長く続いた沈黙にアレクは耐えかねて、御者をしている己の従者に声をかけた。
「シン、今向かっているダリエルの町がどんな場所か知っているか?」
従者は振り向かずに答えた。
「自分も詳しくは知りません。ただ、数か月前にその町で暴動が起きたと聞いたことがあります」
「暴動?」
「深夜に突然、その町の住人が剣を持って無差別に人を襲い始めたとか。聞いたところによれば、騒ぎを起こした人々は家族や知り合いだろうとお構いなしに殺し始め、最後は森の中で死んでいたそうです」
「奇妙な出来事だな。森の中で死んでいたって、誰かに殺されたってことか?」
「それは分かりません。ただ、その事件の際、偶然その町に蒼の騎士団が滞在していたようで、蒼の騎士団が騒ぎを治めるために彼らを森の中で殺したのではないかと言われてますね」
「偶然、蒼の騎士団が町に滞在してたって?...本当に偶然だと思うか?」
「噂ではそう言われてます」
そこでその話は終わり、また沈黙が落ちることになった。
その時、アレクは相変わらず壁の汚れを眺めているだろうアイティラのことをなんとなく見た。どうせこちらの話には興味などないであろうと思ってだ。だが、アイティラの赤い目はアレクに真っすぐ向けられており、目が合うと即座にそっぽを向かれた。
「そろそろ着きます。門が見えてきました」
アイティラとアレクとシンの三人は、この日ダリエルの町に到着した。
村人たちの避難とシュペルの起こした一件も終わり、新たな騒乱がこの町で起ころうとしていた。
***
その部屋には一見、絢爛と華美が同居しているように見えた。
しかし、部屋に飾られた調度品は一つ一つが美しくはあっても、それらが同じ部屋内でそれぞれ主張しあっていて、全体として見たときにひどく見栄えを損ねている。
その部屋の大きな机の端に一人、服装は部屋と同じく豪華だが見栄えの悪い男がいた。
皺のある顔に落ちくぼんだ眼、なにより周囲に走らせている視線と、不安そうに縮こまっている姿を見ればこの男の肩書を聞いた者は驚くだろう。この人物は、王国貴族に名を連ねるクルーガー侯爵その人だからだ。
部屋にはクルーガー侯爵ただ一人だ。
だが、時折何かにおびえたように動きを止めたり、頭を抱えたりしている姿を誰かに見られる心配がないことを考えれば、一人の方が良かったのだろう。時折、自身の左側にある扉を気にしては、老いた指先で無意味に机を叩いている。
彼はこの部屋に訪れる人物を待っていた。多額の金で雇った傭兵団の頭である野卑な男だ。時間まではまだ二時間猶予があるのだが、それでも早く報告が聞きたくてこうして待っているのである。
その時、クルーガー侯爵の耳に足音が聞こえた。それと同時に人の声も。
それらは、正面にある離れた扉の奥から聞こえ、侯爵は机を叩いていた指を止めた。
扉が大きく開け放たれ、その先に二人の人物が現れた。片方は若い金髪の男で、もう片方はその男に頭を掴まれて引きずられていた。金髪の若者の視線がクルーガー侯爵に向けられたところで、引きずられていた男は解放され、勢いよく逃げ出していった。逃げ出したのは、雇った傭兵の一人だった。
突然の出来事に侯爵は驚きの声を上げた。
「誰だ!ここを誰の屋敷だと思っておる!」
それに対する返答は、冷ややかな蒼氷色の視線と声だった。
「覚えていないのか?俺は一度たりとも忘れたことはなかったが」
「お前のような奴など知らぬ。どこから...!」
若者に向けて怒鳴った侯爵の声が途絶え、代わりに口を無意味に開閉させた。
やっとのことで絞り出した声は、ひどく掠れていた。
「シュペル...お前、なのか?」
「覚えていたようだな」
親子の再会は感動的なものではなく、むしろ危険な色を宿していた。
記憶よりも随分痩せこけ衰えた侯爵の姿に、シュペルは小さく声を漏らす。
「こんなにも、小さい男だったのか」
それが、子供の頃には逆らえないほど巨大だと思えた父親に感じた印象だった。
侯爵は気圧されたように椅子から動けずに息子を見た。
シュペルの覚束ない足取りと同時に、白銀の槍の先端が地面をなぞる音が近づく。
その音が侯爵の危機感をあおり、壊れた鐘のような声が部屋中に響き渡った。
「私に何をする気だ!これまでお前を育てて来た恩を忘れたか!」
「貴方に恩など感じていない。貴方が、姉さんをあの男に売り飛ばしたことは忘れてないがな」
白銀の槍が侯爵の喉元に突き付けられ、侯爵は短く息を吸った。
顎の下にある鋭い輝きに、侯爵の呼吸が浅くなっていく。
「聞きたいことがある。正直に答えなければ、即座に殺す」
「わ、分かった。何が聞きたい」
「この領地の村がいくつも何者かによって滅ぼされているらしい。何か知っているか?」
侯爵はこの言葉に呼吸を止め、息子を見上げた。
鋭く向けられる視線に逡巡したように口ごもる。
「なぜそんなことを知りたがる」
「答えろ。質問しているのはこちらだ」
「...傭兵を雇った。それで、領内にある村を襲わせたんだ」
蒼氷色の瞳に、冷たい炎が宿った。
「なぜそんなことをした!」
そのシュペルの言葉に、この時初めて侯爵が落ちくぼんだ眼を鋭くした。
「そうするしかなかったんだ!こちらが先手を打たなければ、奴らは結託してこちらを襲って来る。私の命を狙いに来るのだ!」
「それは貴方だけの妄想だろう。それだけで戦えない人々を殺したというのか?」
「妄想だと!?そんなものではない。確実に私を殺しに来るのだ!」
侯爵のそれは確信に満ちていた。本当に起こる出来事であると信じ切っている様子だった。
その根拠がどこからきているのか、シュペルは知らない。心当たりはあったものの、ありえないことだからだ。未来の出来事など、誰にも予知することなどできない。
「貴方の空想に付き合っている暇はない。その傭兵たちをすぐに止めさせろ」
「そんなことをして、誰が私を守って...」
「従わなければ、ここで死ぬことになる」
「......」
侯爵は答えを出すのを躊躇い口ごもる。視線をさまよわせ、声を出そうとするが結局なにも口にできない。シュペルは、そんな侯爵の答えを待った。
二人とも、この時に互いのことに注視しすぎていた。だから、侯爵から見てすぐ左横の扉が開いたことに気づかなかった。
シュペルが気付いたのは、扉の立てる音によってだった。
その先で驚いた表情で固まっている人物を見て、シュペルも思わず固まってしまった。
そこには、子供の頃に見た時と全く変わっていない、瘦身の不健康そうな男が眼鏡の奥から覗いていたからだ。
シュペルの動きは、迅速だった。その姿を視界に収めたとたん、長年心に沈めていた怒りが一瞬にして燃え上がり、侯爵に向けられていた白銀の槍を即座にその人物に向けた。腹部の傷が危険なほどの痛みを叫び視界が明滅したが、それでも視界に男の姿ははっきりと収めている。
しかし、動いたのはシュペルだけでなく目の前の男も同じだった。視線が槍に向いた瞬間、即座に扉の奥に消えたのだ。標的を失ったシュペルだったが、槍を片手に男を追おうと駆け出した。足はシュペルの方が圧倒的に早く、間違いなく追いつけるはずだった。しかし、扉を超える寸前で危機感がかつてないほど高まり、シュペルは足を止めた。瞬間、風切り音が聞こえ、シュペルの手に重い衝撃が伝わる。直感だけを頼りに防ぐように前に出した槍が、強烈な力によって跳ね上げられたのだ。そのことを認識したシュペルは、後ろに押し込まれないように足に力を力を込めようとした。しかし、それは失敗に終わり、崩れた態勢を立て直すことは出来なかった。この時、治るどころか悪化していた腹部の傷が、シュペルを窮地に陥れたのだった。
シュペルは、腹部の痛みを感じた。それは、もともとあった傷よりも遥かに鮮烈で、焼けるような痛みだった。身体から引き抜かれる血に濡れた剣を最後に身体の感覚を失ったシュペルは、重力に従って地面に倒れる。最後に見えたのは自身を殺した人物の、白のサーコートに描かれた一角獣の模様だけだった。
先ほどまで自分の命を危険にさらしていた息子の動かなくなった姿を、侯爵は口を開けたまま見ていた。
その老いた手を、地面に横たわる息子に伸ばそうとしたところで声がかけられる。
「クルーガー侯爵、これはどういうことですかな? もう少しで私は死んでいたところだったのですぞ」
クルーガー侯爵は動きを止め、その人物に向き直った。
相手の眼鏡の奥には、暗く危険な光があった。
「まさかとは思いますが、私を殺そうと企んでおられたのですかな」
「まさか!」
侯爵は大げさなほど声を張りあげた。喉の水分が急激になくなり、回らなくなった舌を必死に動かす。
「宰相、貴方も私がこの者に殺されそうになっているのを見たでしょう!」
「ならばこの者は誰なのです?」
「さあ、まったく知らぬ者です」
侯爵は動かなくなった息子の姿を見て、もう一度言った。
「...まったく...知らぬ者です」
***
静かで停滞した部屋の中、美しい金髪と輝く青い瞳が窓辺の青白い光に照らされる。
そこに飾られた一輪の白薔薇を手に取り、その人は窓に広がる夜空を見上げた。
「シュペル、私の可愛い弟」
空には青白い月が浮かんでいた。




