若き正義感
「やっと、着いた...。たどり着いたんだ...」
エブロストスの城門がはっきりと見えるようになり、アイティラのすぐ後ろを付いて来ていた村人の少年が、思わずといったように呟いた。そこには、長く苦しい逃避行がついに終わったことによる安堵と、不安と恐怖で擦り切れる寸前までになっていた心の疲弊が多分に含まれていた。
開かれた城門の奥では、こちらに気づいたのか次々に人が集まってきていた。この調子だと、城門をくぐるときにはとんでもない数になりそうだった。
事実、村人たちを連れて城門の間近まで近づくと、アイティラのもとまで大きな歓声が聞こえて来た。事情はすでに知らされているらしく、逃げ延びた村人たちとそれを守り通した奇跡の少女への喜びと称賛の声が響き渡った。まるで戦いに勝利した勇士を讃えるかのような盛り上がりに晒された村人たちは、目を白黒させながらも歓迎されていることに安堵して胸をなでおろしていた。
そんな彼らに、歓迎者たちの中から一人が進み出て来た。それは、コーラル伯爵だ。
「よく帰ってきてくれた。道中、問題はなかったか?」
伯爵に声をかけられたアイティラは、伯爵を見上げて報告した。
「いろいろあったけど、誰も死なずに戻ってきたよ」
話すことは無数にあったが、ひとまず今はこれだけで十分だった。
伯爵が安心したように頷いたところで、村人たちの集団の中から禿げ頭の老人が飛び出してきた。
村長だという禿げ頭の老人は、伯爵に向けて丁寧な感謝の言葉を何度も繰り返した。それは、傍から見ていたアイティラがうんざりするほど繰り返された。
彼らはこれからエブロストス内に居場所を与えられ、そこで暮らしていくことになるのだという。ただ、村人たちの大半はそれを一時的なものだと思っているし、いつかは自分たちの元の村に帰るつもりでいるらしい。そのとき、帰る村がまだ残っているのかは、ひとまずこの瞬間だけは考えなくてもいいだろう。
村人たちの長い列の最後尾も、城門の下を潜り抜けた。
アイティラはシュペルのことを思い出し、伯爵に道中にあった襲撃のことを簡単に説明した。
頷いた伯爵は、エブロストスの歓迎に困惑している様子のシュペルのもとに向かった。シュペルも伯爵に気づいたようである。
「話は聞かせてもらった。道中、彼らを助けてくれたこと、感謝する」
伯爵の言葉に、シュペルの青い瞳が向けられた。
「...いえ、冒険者の一人として当然のことをしたまでのことです」
シュペルの声には冷たさが含まれていたが、伯爵がそれを気にすることはなかった。
直接会ったことは初めてでも、カナンの町で活躍していたシュペルのことを伯爵も知っていたからだ。
<雷光>の二つ名で呼ばれるこのSランク冒険者の活躍には、伯爵も信頼を置いている。
「このお礼は必ずしよう。何か、私が役に立てることはあるかね?」
伯爵はそう言った。
これは、今回のことに限らず長年カナンの町を守ってきてくれたことへの礼も含めるつもりだった。
それに加え、同じ町にいながら直接話したことが無かったSランク冒険者がどんな人柄か、少しの好奇心も含んだ質問だった。
だが、聞かれたシュペルは一瞬の逡巡も見せることなしに、即座に答えを返した。
「一度、貴方と二人で話し合える場をいただきたい。それが望みです」
「それだけで、いいのか?」
伯爵はこの答えに小さく驚いたものの、このシュペルの返答に好感を覚えた。
口を閉ざしたまま蒼い瞳を向けてくる若者に、伯爵は穏やかな声で言った。
「分かった。すぐに用意しよう。私も、君とは話したいと前々から思っていたんだ」
その後、二、三のやり取りが行われた後、伯爵はシュペルの元を離れることになったのだが、伯爵の背に向けられていたシュペルの目を伯爵は知らない。
シュペルは去り行く伯爵を、その凍えるような冷たい視線で追いかけ続けていた。
***
シュペルが伯爵の住む城に足を運んだのは、村人たちを迎え入れた次の日だった。
内側の城門の前にいた兵士に案内され城の正面扉に着くと、老いた執事が出迎えた。
執事は、シュペルを城の中に案内する前に、その手に持っている白銀の槍をちらりと見て穏やかに言った。
「そちらをお預かりいたしましょうか?」
「いや、悪いがこの槍は俺にとって何よりも大事なものなんだ。このまま持っていてもいいだろうか?」
シュペルの答えに執事の返答は遅れたが、やがて槍を持つことの許可が下りた。
このとき、執事のパラードとしては、シュペルの功績をカナンの町で聞いていたことに加え、主人である伯爵もこの若者を気に入っていたことを知っている。そのため、主人ならば問題ないと言うだろうと考え判断を下したのであった。
執事が案内した部屋では、伯爵がすでに待っていた。
部屋の奥では、暗色の執務机が窓からの明かりで白く照り輝いている。その手前には背の低いテーブルを挟み込むように質感のいい長椅子が置かれており、その片方で伯爵は待っていた。
伯爵は反対側に座るよう促すと、シュペルは伯爵へその蒼い瞳を向けた。
「コーラル伯爵、私の望みを叶えていただきありがとうございます」
「これで君が満足するというなら、このような場など何度も整えても構わなのだが」
シュペルが着席してからしばらくすると、ここまで案内してきた執事が紅茶を持ってきた。
伯爵は、「私は普段はあまり飲まないのだが、たまにはいいものだ」などと言っていたが、シュペルは紅茶には口を付けずに執事が退出するまで何も言わなかった。執事がいなくなると、部屋の中を観察するように視線を走らし、そして一か所で視線を固定した。
「伯爵、あちらにある置時計、とてもいいものですね」
「時計?」
伯爵がシュペルの視線を追うと、そこには棚の上に飾られた置時計があった。正確に時を刻むそれは、文字盤の外側に円を描くようにして小さな緑色の宝石がはめ込まれていた。一か所だけ宝石が欠けているようで、そこには窪みが黒い影をつくっている。伯爵はそれを確認すると、懐かしむように息を吐いて頬を緩めた。
「ああ、あれかね。あれは少し古いものでね、妻が私に贈ってくれたものなんだ」
「夫人がですか?」
「私と婚約した少し後だったかな。息子が生まれるよりも前だったことは確かだ」
シュペルの瞳は、真っすぐ伯爵を射抜いている。その視線は、少したりとも揺らぐことはなかった。
「...そうでしたか。今も大切にされていることを知れば、夫人も天上で喜んでおられるでしょう」
「そうだと良いんだが」
伯爵が懐かしむようにそう口にすると、シュペルが突然席を立ちあがった。
伯爵は不思議そうにシュペルを見上げることになる。すると、シュペルの蒼氷色の瞳と目が合った。
その瞳に宿っているものを感じて、伯爵は一瞬息を止めた。
「しかし、今の貴方の姿を見たら、夫人は素直に喜べないかもしれません」
「...どういうことかね?」
伯爵は突然の言葉に眉をよせて若者を見た。
それに答えずシュペルは懐から何かを取り出し、それを机の上に投げ落とした。
白い布は机の上で広がり、その中から八面体の緑色の宝石が姿を見せた。
「これは?」
驚く伯爵の目の前で緑色の宝石を摘まみ上げると、シュペルは置時計の方へ歩いていく。
そして、時計を飾る宝石たちの内、欠けていた一か所の窪みにそれをはめ込むと隙間なくぴったりとはまり込んだ。それを見たシュペルは、小さく肩を震わせて長い息を吐いた。
「やはりか...」
「どういうことだ。その欠片をどこで...」
シュペルの背中に、状況を理解できていない声がかけられる。それにシュペルが振り向き、伯爵は息を詰まらせたように固まった。その蒼い瞳には、怒りの炎が燃えていた。
「貴方...だったのか...」
「...何がだ?」
シュペルの言葉に伯爵が慎重に言葉を返すと、シュペルはすぐに答えを返さず、代わりに過去の出来事を語り始めた。
「カナンの町で起きた悪魔騒動、多くの死者が出たことを覚えているだろう。騒動を起こしたのは、悪魔崇拝しているどうしようもない奴らだった。悪魔に憑かれたそいつらは、手近な場所にいた人々を次々と殺して行った」
伯爵の顔が強張り、室内が一瞬にして張り詰める。
「その騒動は終結したが、最後には一つの疑問が残った。奴らはたしかに狡猾だったが、それだけでカナンの町の内部にあそこまで食い込めるものだろうか。俺は、奴らに手を貸した誰かがいるはずだと考え調べていた。...結局それは分からなかったが、一つの重要な手がかりを俺は見つけた。それが今の宝石だ」
伯爵の視線の先では、置時計にはめられた宝石がきれいな飾りの一つとして輝いていた。
「この宝石は、悪魔崇拝者の一人が所持していた。貴方の時計にはめられていた宝石を、どうして彼らが持っていた?」
シュペルの眼光からは、息苦しさを感じるほどの力強さが放たれていた。
彼がこの宝石を手に入れたときは、伯爵を疑ってはいなかった。伯爵のことを、他の貴族とは違った領民を思いやる人物だと思っていたためだ。しかし、この宝石を調べていくごとに、希少鉱石で広くは出回っていないこと、宝石のカットされた形が装身具よりは調度品に向いた形状であることなど、小さな情報が積み重なることで持ち主が少しずつ絞られて行き、ついには疑念を抱くに至った。実際に置時計を目にするまでは、シュペルも信じたくなかったが、こうなってしまえば信じるしかなかった。
「伯爵、貴方は彼らと関わりがあったのか?答えを聞かせてくれ」
それでも、シュペルはわずかに伯爵に否定してほしい気持ちがまだ残っていた。
しかし、伯爵は目を一度閉じると、若者を見上げて静かに言った。
「当時の私は愚かだったと思っている。息子をあの男によって失ってから、あの男を倒すことだけに執着してしまった。そのせいで、結果的に守るべき彼らを死なせることになってしまった」
「ッ!」
シュペルは息を吸い込み、白銀の槍を握りしめた。
そして、伯爵のもとまで近づくと、その切っ先を伯爵の首元に突き付けた。
「いずれ、罰を受けることは分かっていた。このことで殺されても、文句は言わない」
伯爵は落ち着いた様子で、言葉を続けた。
「ただ、もう少しだけ後にしてほしい。この反乱が、どちらにせよ決着を迎えるまでは」
「できるわけがないだろう」
シュペルは怒りを宿した声で答えた。
「貴様は一度彼らを裏切った。二度目が無いと誰が言える」
白銀の輝きが、伯爵の顎の下で光った。
「俺はこの反乱についても懐疑的だった。貴様は民を救うためと言っている。王と貴族の不当な支配から脱却するためだとな。だが、本当は民の為でなく自分の為ではないのか?自分が生き残るために民を扇動し、憎き仇であるあの宰相を殺すためだけに民を戦いに巻き込んでいるのではないのか?」
「...それは違う。信じられないだろうが、それだけは違うと言える」
「本当に違うと言えるのか?貴様が掲げる自由のために、これまで何人が死んだ?そしてこれから、貴様のために何人が死ぬことになる?」
シュペルの声には、信頼を裏切られたことによる失望と怒りがはっきりと現れていた。
しかし、伯爵は命の危機に晒されていながらも、この若者に対する怒りは微塵もなかった。それどころか、言葉に含まれる若々しい正義が、とても眩しいものに見えた。
「これ以上、何か言いたいことはあるか?」
シュペルに促された伯爵は、若者の蒼い瞳を真剣な眼差しで見上げた。
「私が居なくなった後のこの都市を、代わりに守ってもらえるだろうか?」
「...最大限努めよう」
伯爵は、シュペルの整った顔を見上げて最期を待った。
頭に浮かんできた考えは、アイティラとアレクのことだった。自分が死んだあと、仲の悪いあの二人は協力できるのだろうかと。しかし、それは心配ないように思えた。あの若い二人ならば、きっと大丈夫だろうと不思議に思えたのだった。
槍の穂先が一度離され、伯爵の首めがけて鋭く走った。
伯爵は、命が失われることを覚悟し目を閉じた。
痛みは感じなかった。
なぜなら白銀の槍は、伯爵に届く前に阻まれていたからである。
床から伸びる血のように赤い無数の槍によって。
シュペルの奥にある扉が開き、その少女は現れた。
 




