幼き日の記憶
アイティラとシュペルの前で、焚火が小さな音を立てた。
「感謝される資格がないって、どういうこと?」
シュペルの言葉に、アイティラは疑問を浮かべた。
シュペルが村人たちから感謝される資格がないとは、どういう意味で言ったのだろう。
その疑問に答えるように、シュペルが言葉を続けた。
「彼らは、クルーガー侯爵領の村から逃げて来たと言っていた。そして、その領地を治める貴族、クルーガー侯爵は俺の父親だ」
蒼い瞳が夜の闇の中に浮かび上がる。
「あの男と血縁の俺が、彼らの感謝を受けることなどできるはずがないだろう」
その目は、鋭く誰かを睨みつけていた。
シュペル・クルーガーはクルーガー侯爵家に生まれた。
父と母が居て、兄と姉が一人ずつ。だがその侯爵家の環境は、決して良いものとは言えなかった。
彼の父と母は、毎晩どこかの貴族の邸宅へ出向き、夜会に興じていた。華美な服装に身を包み、宝飾品を見せびらかすように身に付けて家を出て行く様を幼いシュペルは何度も見た。広い屋敷には、無意味な調度品が増えていき、その代わりに興味を失ったものは捨てられていく。両親はこれこそが貴族としての在り方として、幼いシュペルに自慢するように言っていたものだった。
片や兄の方は、宝石だとかパーティーだというものには興味を持つことはなかったが、使用人を酷く見下していた。標的としたのは若いメイドで、熱した湯の中に手を突っ込ませて苦しんでいる様を笑いながら見ているようなこともあった。
そんな侯爵家の中でシュペルが唯一慕っていたのが、二つ年齢が離れた姉だった。
「いいことシュペル。彼らを決して下に見てはいけません。もしお兄様が使用人を傷つけているのを見かけたら、あなたも止めるように言うのですよ」
姉は、この家の中では異端者だった。いや、この家の中だけでなく、貴族の中での異端者だった。
シュペルの見て来た姉は、他の貴族令嬢が求める宝石や服といったものを一度も求めたことが無い。パーティーにもあまり参加することはなく、他の貴族との交流より使用人たちとの交流を求めた。
さらに、一度ならずと両親の浪費に対して、そのお金を公共のために使うように言ったり、兄が使用人を傷つけた時には、兄を咎めて使用人を庇うことをした。
そんなことをしていたから、姉は両親や兄から当然恨みを買い、食事や部屋の待遇は使用人と同じくらいに落とされた。それでも姉は穏やかに笑みを浮かべ、こういったのだ。
「私は運が良かったんです。とても大事なことを、早々に知ることが出来たのですから。お父様も、お母様も、お兄様も、今求めているものがそれほど大事なものではないと、気づいてくれると嬉しいのですけど。せめて、シュペルだけは惑わされないように願っています」
シュペルが王国貴族に広がっている価値観に染まらなかったのは、間違いなくこの姉の存在があったからだ。
思えば、姉の存在は不思議だった。
シュペルよりたった二年しか長く生きていないのに、幼いシュペルにとって姉は、両親やほかの人よりもずっと大人に見えたのだ。すべての言葉には、それに基づく知識があり、経験があるように思えた。
だからシュペルはいつも姉とともに居た。両親が引き離そうとしても、シュペルは姉とともに居た。
だが、姉との別れは突然やってきた。
シュペルがいつものように姉の暖かく優しさに満たされた部屋に行くと、そこに姉の姿が無かった。
不思議に思ったシュペルが屋敷の中を探し回ると、白い騎士たちの姿が見え、それに囲まれるようにして姉の姿があった。姉はシュペルに気づいていない様子で、屋敷の出口の方に向かっていた。
これを見た少年は、姉をこのまま連れ去らせてはいけないと思った。
特に理由はなかったが、ここで姉と離れてしまえば二度と会うことはできないと直感したのだ。
追いかけたシュペルだったが、途中で一人の痩身の男がその前に立ちはだかり、シュペルはその男に向けて叫んでいた。
「姉さんをどこに連れて行くつもりだ!」
少年の幼い怒りを、背の高い男は眼鏡の奥にある陰険な目で受け止めた。
「あなたには関係のないことです。邪魔はしないでいただけますかな」
男の口元には嫌な笑みが張り付いていた。
その間にも、姉の姿はシュペルから遠ざかり、焦ったシュペルは男の横を通り抜けて姉の背中を追おうとした。しかし、男の手がシュペルの肩を強くつかんだ。
少年の彼に大人の力を振りほどくことは出来なかった。代わりに怒りを宿した蒼の瞳で、男を睨みつけるしかない。
「姉さんを返せ!」
幼い少年の言葉を、悪意を宿した笑いが迎えた。
「返すも何も、クルーガー侯爵とはすでに話はついております。不当でもなんでもありますまい」
男の言葉を聞いて、シュペルの動きが止まった。
少し考えを巡らせれば気づくことだったが、彼の父親はこのことを知っているのだ。ならば、ここでシュペルが喚いたとしてもなにも変わることはない。そのことに幼い彼は気が付いて、呆然としてしまった。
しかし、その彼に向けて、望んでいた優しい声が届いた。
よく知っているの優しいきれいな声だ。
「シュペル、落ち着いて」
少年の声が聞こえたのだろう。いつのまにか姉はシュペルたちの方へ近づいて来ていた。その後ろには、白い騎士たちもついてきた。
呆然とするシュペルの前まで来ると、姉は真っ白の繊細な手をシュペルの頭の上に乗せた。
「別れは誰にでもあることなの。寂しくても、それは必要なことよ」
少年は声を震わせて言った。
「もう、会えないの?」
優しい声が迎えた。
「私が居なくても大丈夫よ。シュペルは強い子だもの。どうかこの先、自分の道を自分で見つけてそこを進んでおいきなさい。私は遠くから、貴方のことを見守ってるから」
シュペルは言葉を返せなかった。
なんて言えばいいのか思いつかなかったし、思いつく前に姉の言葉が聞こえて来たからだ。
「お時間を取らせてしまい申し訳ありません。宰相様」
シュペルは瞬時に顔を上げた。姉が声をかけたのは、先ほどシュペルの前に立ちはだかった痩身の眼鏡をかけた男だった。男は嫌な笑みを浮かべると、シュペルを見下ろしながら言った。
「別に構いません。もう二度と会えなくなるのですからな。最後の別れくらいは許してもいいでしょう」
それから姉は、白の騎士たちに連れられ屋敷を出て行った。
父親のクルーガー侯爵に後から聞かされた話は、こうだった。
以前姉は、父親に魔物の襲撃があるから騎士団を要請するように懇願したらしい。しかし、父親はその話を信じずにいたところ、三つの村が魔物によって壊滅したらしい。そんなことが何度か起きたため、父親は夜会でそのことを他の貴族に話したそうだ。その話を誰も信じることはなかったが、ただ一人この国の宰相は信じたようで、シュペルの姉を欲しがったそうだ。それも、破格といえる金銭と交換で。
父親はその取引にすぐに応じ、そしてこの日少年の姉は、どこかへ連れ去られることになったのだった。
疎んでいたものが消えたことと、大量の金を得たことで気分を良くしていた父親は隠すことなくこれらのことを語ったのだった。
姉が消えた後少年は、その屋敷を逃げ出した。
話が途切れたことで沈黙が落ち、焚火のパチパチという音が異様に大きく聞こえた。
「...クルーガー侯爵のことを話すつもりが、余計なことまで話してしまったようだ」
シュペルはそう言ったが、別にそのことを悔やんではいないようだった。
アイティラは膝を抱えたままシュペルに聞いた。
「屋敷を出た後はどうなったの?」
「どうってことない。とにかく遠くへ離れようとして、カナンの町で力尽きた。そこでたまたま冒険者ギルドのギルドマスターに助けられて、冒険者として活動することになった。それだけだ」
シュペルの声はいつもと変わらない冷たさを帯びていた。ただ、口数はいつもより多いように感じた。
「...俺はいまでも、正しい道を進んでいるのかは分からない。これからやろうとしていることも、もしかしたら多くの人に不幸をもたらすかもしれない」
シュペルは静かに言うと、とあるものを取り出した。それは白い布に見える。
アイティラが興味を持ったようにその布を見ていると、それが広げられ、中から緑色の小さい宝石が現れた。宝石は八面体の中に、炎の明かりを取り込んで輝いていた。
「それは?」
「拾ったものだ」
「大事なものなの?」
「大事...そうかもしれないな。手掛かりとしては重要なものだ」
手掛かりとは一体何のことか分からなかったが、そういえばこの前会った時に何か言っていたことを思い出した。たしか前回あった時、シュペルは "今は言えない用事" をしていると言っていた。もしかしたらそれに関係するのかもしれない。
それにしても、と、アイティラは思った。
白い布の中心で光を取り込んでいるこの緑の宝石に、不思議と見覚えがある気がした。
どこで見たことがあるのかも思い出せなかったが、そこまで古い記憶ではないことは確かだ。
しかし、結局思い出すことは出来そうになかった。
「...長話になってしまったな。そろそろ寝た方がいい。明日に差し支えるだろう」
「ん、そうかな。だったらそうする」
アイティラはローブを地面に敷いて、寝床を作り始めた。
「ここで寝るのか?」
「私はどこでも寝れるからね」
「...そうか」
夜が明けた後、村人たちは再びエブロストスへ向かい始めた。
先頭はアイティラ、後尾はシュペルがそれぞれ守り、もし襲撃があっても対応できるようにして進んだ。だが結局、ここからエブロストスまでの道のりで、再び襲撃されることはなかった。
また、これまで村人たちの歩みは遅かったが、それが嘘であったかのように襲撃後は順調に進むことになった。
そしてついに、遠目にエブロストスの高い城壁が見えてきたことで、村からの長い逃避行が終わろうとしていた。エブロストスの大きな城門が、彼らの帰還を喜ぶように大きく開け放たれていた。
 




