エブロストスへ進め
洞窟を出発したのは、地平の果てにほんのりと赤みを帯びた光が見え始めた頃だった。空気は肌を刺すような冷たさで、薄っすらと霧があたりを包んでいて白っぽい。湿った清涼な空気が、息をするたびに身体の中に入りこむ。
出発の準備というものはほとんどなかった。荷物といえるものもなく、各自が少ない食料を手にしているだけだ。寒さのわりに服装が寂しく薄汚れたものしかないのは、着の身着のまま避難してきたからか、もともとそれしか服を持っていないのかは分からないが、痩せた肉が見えるのはあまりいいものではない。
エブロストスへ向かう道は、アイティラ達が洞窟まで向かってきた道程を逆戻りすることにした。道は険しいものの、それだけエブロストスに早く着く。それに襲撃者たちが何者かは分からないが、町へとつながる街道に待ち伏せされている可能性も考えられたためであった。村人たちの行列は、アイティラを先頭にその後ろをぞろぞろとついて来た。
出発してから間もなくしないうちに、禿げ頭の老人がアイティラに話しかけて来た。
「少し休憩しませんかな」
老人の顔は優し気だったが、その口調はあまり優しさを感じられなかった。
「何かあった?」
アイティラは老人を見上げながら言った。
「ここまで歩くことは普段はありませんからな。皆そろそろ疲れてきております」
「でも、あんまりのんびりしてる時間もないんじゃない? 食料もいつまでもあるわけじゃないし、時間がかかれば敵に見つかる可能性も大きくなる」
「そうですな。しかし、休むことなしに進み続けられる距離でもありますまい。少しくらいはいいと思いますがね」
アイティラは老人の言葉に頷いて、休憩させることにした。行進は止まった。
やがて、アイティラも十分時間がたったと思い、再び歩き始めようとしたところ、今度は別の人物がアイティラと老人のもとに訪れた。どうやら、気分を悪くして女が一人気を失ったらしい。その為、出発の時間はさらに引き延ばされることになった。
ようやくその場を動き出したのは、太陽がその全身をきらびやかに見せ、霧が消えたころだった。
アイティラはこの時、長く時間を拘束されたことに不満はあったが、仕方ないものだと思い気にしないことにした。しかし、進み始めるごとに何度か休憩をはさんだり、小さな問題が積み重なったことにより、この日に進めた距離は予想の半分ほどだった。
二日目も変わらずに、遅々とした歩みだった。村人たちの歩みは遅く、そこには倦怠と無気力が常に付きまとった。また、まったく前に進まない彼らにアイティラは徐々に苛立ちを覚えていき、禿げ頭の老人にそのことを言ったが、老人はただ頷くのみでどう感じたのかは分からなかった。
そして三日目がやってきた。
この日は、いつもよりも足場の悪い岩場を通ることになる。地面の各所が隆起している岩道の左右には、崖のように壁がせり出してきている。
アイティラの後ろについてくる村人たちの顔には、表情がないように見えた。特に後ろの方は酷く、どんどん歩みが遅くなってきている。その為、この行列は最前列と最後尾の距離が大きく離されてしまっていた。
「雨だ」
アイティラの頬を掠めるようにして、冷たい雫が落ちて来た。冷たい雨だった。
濡れるのはあまりよくない。もしこの雨に体力を奪われたら、もっと村人たちの歩みは遅れるだろう。
だが、村人たちは雨が降り始めたのを気にした様子もなく、その表情には引き続き無気力さだけが残っていた。彼らは村を襲われた時に、命は守ったが生きる気力は一緒に奪われてしまったのだろうか?
このままでは、アイティラまで気持ちが沈んできそうだった。
唯一、助けを呼びに来た三人組の少年だけは、初めから一貫して最前列にいて、他の村人のように無気力に染まることが無かったのが、アイティラにとっての救いだった。
雨は強まることはなかったが、止むこともなかった。
いつまでも身体を打つ雨粒にアイティラはうんざりしていたが、そのアイティラの気分を吹き飛ばすような声が後ろから聞こえて来た。それは、無気力や倦怠とは無縁の鋭い叫び声だった。
アイティラが視線を巡らせると、離れてしまった最後尾に剣を持った十数人の男が見えた。彼らが襲撃してきたことは、一瞬で分かった。
「み、見つかった!逃げ...えっ」
少年が怯えたように声を出した瞬間、アイティラは後ろに向かって駆けていた。両側は壁で囲まれていて幅が狭いのに加え、村人たちが邪魔だったため傾斜した壁をアイティラは駆けた。蹴飛ばされた壁から小さな石が音を立てて転がり落ちる。
アイティラの動きに驚愕したのは、剣を持った襲撃者たちだった。装備はバラバラで、防具も質の低いものをツギハギのようにつけているだけだ。動きも緩慢で、迫りくるアイティラに目を大きくして戸惑っているところを見れば、たいして技量があるようには見えなかった。
アイティラは壁を蹴って飛びあがると、態勢も整えないうちに空中で赤い剣を生み出し、先頭の一人に着地と共に振り下ろした。雨に交じって、赤いものが地面にこぼれた。
「な、なッ」
仲間の血を浴びた一人が、顔を引きつらせながらアイティラに剣を振り上げると、その腕が根元から切断され、飛び掛かってきた小柄な黒ローブに正面から貫かれて絶命した。
一瞬の流れるような出来事だった。
残った男たちはアイティラから離れるように後ろに退いたが、アイティラが彼らを見据えると逃げられないと感じ取ったのか、剣を向けながら強張った表情になった。
「襲って来たってことはあなた達は敵。敵は殺しても問題ない」
フードの下の瞳が赤を宿していくのを、彼らは喉を鳴らして凝視していた。
しかし、そこに再び悲鳴が轟いた。今度は、先ほどまでアイティラがいた列の先頭からだった。
そこには、先ほどまでいなかったはずの男たちが居た。アイティラが対峙しているこの男たちと同じ雰囲気をしている。どこから現れたのかという疑問には、すぐに答えが見つかった。彼らは、両側にある壁から降りてきていたのだ。岩の壁が彼らの姿を隠し、アイティラにここまでの接近を気づかせなかった。
アイティラは前列の村人たちを救う方法を瞬時に考えようとした。しかし、今アイティラが対峙している男たちを倒して即座に先頭に向かっても、数人は犠牲になるだろう。いくら敵を倒すことは得意でも、守ることは苦手だということをこの瞬間、アイティラは思い出した。そして、次の瞬間に起こるだろう村人たちへ剣が降りおそされる様を、アイティラは想像した。
しかし、現実にそれは起こらなかった。
襲撃してきた男たちのさらに奥で、鋭い音が響いた。アイティラからは見えにくかったが、それは白銀の輝きを持つ細い何かが地面に突き立つ音だった。襲撃者たちも気づいたのか、村人への攻撃を止めて振り返った。
アイティラからは、村人たちと襲撃者に隠されて、その先で何が起きたのかは分からなかった。ただ、襲撃者たちの動きが大きく乱れ、鋭い白銀の輝きが光の帯をつくったように見えたのは、間違いなかった。
状況は分からなかったが、村人の血を見ることが無くなったアイティラは、怯えたように剣を向けている十数の男たちに視線を戻した。
彼らに向けて伸びる赤い軌跡を最後に、その男たちの意識は永遠に途絶えることになった。
吹き上がる血を見ることなく、アイティラは振り向くと今度は先頭へと駆けていく。
呆然と口を開けている村人たちの視線に追われながら、アイティラは前方の混乱に目を凝らした。
そこにあったのは白銀の輝きだった。綺麗な金の頭が揺れ、剣による攻撃を槍で巧みに受け止めていた。周囲を囲まれ、あらゆる方向から襲撃者たちは襲い掛かったが、それでも余裕をもって流され、反撃の一撃を加えられたことで、戦力差を悟った彼らは背を向けて逃げ出し始めた。
彼らの背を、白銀の槍の持ち主は静かに見送っていたが、やがて彼に近づく気配に気づいてそちらを向いた。
「これほど早く出会うことになるとは思わなかった。今度は護衛任務か?」
シュペル・クルーガーの青い瞳が、同業者の少女の赤の瞳と交わった。
***
夜の寒さと暗さに対抗するように、アイティラの前で焚き火が音を立てて自らの存在を主張した。
炎の中に崩れていく木の枝をぼんやりと眺めながら、アイティラは退屈な時間を過ごしている。
日中襲撃を受けた村人たちは、誰一人欠けることはなかったものの襲撃されたことで精神的に衝撃を受けたようだ。もしかしたら、村を襲われた時の記憶が蘇ったのかもしれない。そのため、これまでよりは早く休ませることにした。ただ、休むにしても夜間に再び襲われないとも限らない。そこで、アイティラが見張りを引き受けることになったのだ。
アイティラが見張りとして頼りないといった声は一つもでなかった。
アイティラが木の枝の先で、炎を意味もなくつついていると背後から足音が聞こえて来た。振り向くより先に、若さを宿した冷たい声が聞こえて来た。
「交代の時間になった。君も早く休むといい」
シュペルの端正な顔が焚火の炎に照らし出された。
アイティラは一度顔を上げたが、再び焚火に視線を落とした。
「うーん」
「どうした?」
「やっぱりここにいる」
アイティラの言葉に返答はなかったが、シュペルは近い位置まで来ると腰を下ろした。白銀の槍がその傍らで音を立てた。
「彼らから話を聞いてきたが、まさかこんなことになっていたとはな」
シュペルがこぼすように言った。
これに疑問を感じたアイティラは、シュペルを見た。
「知ってて助けに来たんじゃないの?」
「いや、俺はあくまで盗賊の後を尾行していただけだ。彼らの後を追えば本拠地の場所が分かるだろうと思ってな。だが、奴らの向かった先にあったのは本拠地ではなく君たちだった」
「じゃあ、偶々だったってこと?」
シュペルは静かに頷いた。
「...それより、聞きたいことがある。彼らはこのままエブロストスに向かうと言っていた。コーラル伯爵のもとまで。君は、彼らの護衛を務めるようコーラル伯爵に依頼されたのか?」
"依頼"という言葉に引っ掛かったが、シュペルの言ってることは正しかったためアイティラは頷いた。
するとシュペルは、興味を持ったようにさらに聞いて来た。
「ならば、エブロストスまでたどり着いたらコーラル伯爵が直接彼らを出迎えるのか?」
「うん、そうだと思う」
「...そうか」
シュペルはわずかな沈黙ののち、胸の内を吐き出すようにそう言った。
なにか伯爵について気になる事でもあるのだろうか?
疑問には思ったものの、結局アイティラはそのことを聞かなかった。
アイティラが代わりに質問したのは、今日あった出来事で印象に残っていた別のことだった。
「そういえば、あの時どうして村の人たちと話さないようにしてたの?」
「ん?」
あの時とは、襲撃者たちを撃退した後のことだ。初めは突然現れたシュペルに村人たちは困惑していたが、彼が自分たちを守ってくれたことを思い出したのか、すぐにシュペルの周りに集まった。
そこでは感謝と共に、いろいろと村の人たちは話し始めたが、シュペルは途中から突然、何も答えることはせずに冷たい反応を見せたのだ。アイティラは、カナンの町でのシュペルの様子から、表情と声は冷たく見えても罪のない人を邪険に扱うことはないと思っていた。それだけに、違和感を覚えたのである。
シュペルはアイティラの言いたいことを理解したのか、悩むように沈黙を作ったあとに答えた。
「彼らが、俺に感謝の言葉を言ってきたからだ」
「どういうこと?」
アイティラは意味が分からずに首をひねったが、シュペルは冷たい瞳でアイティラを見た。
「彼らに感謝される資格を、俺はもっていない。そのことを知ったからだ」




