帝国十傑 <傀儡>
帝国の本陣として用意された大きな天幕の前で、一人の青年が暗い瞳を騒がしい前方に向けていた。
彼から見えるのは、本来であれば恐ろしく強いはずの魔物の巨大な後ろ姿ばかりで、少し視線を正面からそらせば遠くで倒れた人間が魔物に踏みつぶされて悲惨な姿になっているのが見える。
それを眺めた青年は、目の下にクマを作った不健康そうな表情を俯け、苦し気に呼吸を整えていた。
「僕は強い...僕は強いんだ...。この力がきっと僕を守ってくれる。きっと大丈夫...」
そう呟いた青年は不規則に肩を上下させると、それに伴いくぐもった笑いが響く。
再び顔を上げた時には、垂れ下がった前髪の間から自分の駒である魔物たちを睨んでいた。
「だから、早く終わらせてよ...」
魔物たちはそれぞれの唸り声を上げながら、正面の人間に向けて強引に迫っていく。
正面の人間というのは魔物と対峙している赤剣隊のことだが、魔物を操るこの青年には相手が誰だってかまわなかった。彼らがどんな死に方をするのかもどうだってよかった。
人はいともたやすく死ぬ。力の持たないものは、力を持つものによって無慈悲に無感動に踏みつぶされるように殺されてしまう。どれだけの努力を積み重ねてきても、どれだけの理想があったとしても、理不尽なほどの力を持った化け物に一瞬で壊されてしまう。
それを知った今では、埋め尽くす魔物によって押しつぶされるように殺されていく人間の姿を見ても心を動かすことはない。心を動かすことと言えば、いずれ自分も同じように無慈悲に殺されてしまうのではないかという恐怖のみだった。
叫びが聞こえたような気がした。
遠くの方から、魔物に殺されることを恐れる叫びが。
それはもしかしたら幻聴だったのかもしれない。
しかし、その叫び声が傀儡と呼ばれるこの青年にとっては心を大きく乱すものだった。
傀儡は顔を上げると、力なく垂れ下がっていた腕を叫びが聞こえたと思った方に向けた。
「聞きたくない...。聞きたくない...。聞きたくない!」
かざされた手がいつの間にか強く握りしめられている。
「死んでしまえ!」
傀儡が叫んだ瞬間、視界の端で大きな動きが現れた。
人間と対峙していなかったはずの魔物の群れが、突然波打つように後退したのだった。
「え...?」
それは傀儡の意識のまったくの範疇外だった。
なにせ、人間と戦っているのはずっと先頭にいる魔物たちで、それも傀儡の正面から見て左側で起こっている。正面にいる魔物たちは、敵の誰とも戦っていないはずだった。
それなのに、傀儡が命令していないにも関わらず不自然な動きをされれば、傀儡はかざしていた手を下ろしてそちらに注意を向けるしかない。
その結果、傀儡にとって思い出したくもない記憶を覆っていた壁が音を立てて崩れていく。
それは一本の線だった。
魔物の群れの向こうから、斜めに空に向けて奔る赤い一条だった。
それは、傀儡の新しくも鮮烈な恐怖を呼び覚ますことになった。
暗い森、串刺しにされた死体、叫び、血の匂い、怒りを宿した赤い瞳。
今でも脳裏にべっとりとこびり付いているその光景が、空に向けて駆けて行った血のような赤の槍と重なった。
あの恐怖の夜、傀儡は逃げ出した。
同じ帝国十傑の<黄金槌>と呼ばれる老人を見捨てて、恐怖のままに逃げ出したのだ。
だってそうだろう。心臓を貫かれても生きているような化け物が、裂けた瞳から迸る怒気をこちらに向けて来たのだから。
その、恐るべき姿を空に放たれた赤の槍から思い浮かべた時、傀儡は我を忘れたように叫んでいた。
「来るな!僕を殺しに来たんだろう!」
その叫びは、周囲に誰もいない空間に消え去った。
ただ、魔物たちの巨躯がはっきりと分かるほどに活発になり、空気を振動させる雄たけびが幾重にも重なる。それと同時に、赤い線が天に伸びて行った箇所めがけて、周囲にいる巨大な魔物たちが殺到していく。もし、その場所に人間がいたならば、とっくに死んでいるだろう。どれだけ剣技が優れていても、どれだけ強力な魔術を覚えていても、踏みつぶされ、切り裂かれ、臓腑を地面にばらまいているはずだった。だがそれでも、傀儡は血走った眼で「来るな!来るなッ!」と叫び続けていた。
魔物たちは操り主の感情に影響されるように、互いを押しのけあい進んでいく。
赤い槍が見えたと思ったのはたった一度だけ。それからは、いつまでたっても化け物をあらわす赤の色は見えなくなった。
時間がたつにつれて、傀儡の頭の片隅に冷静な部分が生まれてくる。傀儡は叫びをやめると怒り狂った魔物たちを眺めたまま、力なく腕を垂らした。
「化け物は死んだのかな?」
傀儡は呆然としたように立ち尽くしたままぽつりとこぼすと、顔を俯けたまま肩を震わせた。
「そっか、きっと化け物は死んだんだ。もう僕を追ってこない!死んだ!化け物は死んだんだ!」
傀儡は目の下のクマと同じように目の色を暗くしながら叫んだ。
これまでずっと心にとりついていた恐怖によって、幾度も夢の中でうなされていた。
あの怒りを宿した赤い瞳に、何度震えていただろうか。でも、それももう終わり、だって化け物は死んだんだから!
その時の傀儡の瞳は現実を写してはいなかった。
だが、次の瞬間に身体を通り過ぎて行ったすさまじい風によって、その目は自身のすぐ横に向けられ、傀儡は息を呑むことになる。
「あぁ、ああぁ!」
それは紛れもなく、あの化け物の "赤い槍" だった。
それが、自身のすぐ横の地面に斜めに突き刺さっている。
その時、魔物の壁の一部が吹き飛ばされて、傀儡の正面に道を作っていた。
現れた道のずっと奥、その場所に赤黒いローブを身に纏った化け物がたしかに傀儡のことを見ていた。
傀儡の正面に現れた道は即座に両脇から閉じられたが、傀儡はその口をわななかせて気づいたら悲鳴に近い叫びを上げていた。
「すべての魔物で、あの化け物を殺せ!」
その時、この戦場にいる全ての魔物の動きが変わった。
操弾がいる丘に伏せていた魔物も、赤剣隊と戦っていた魔物も、全ての魔物が一瞬その動きを止めた後、傀儡の前にいる化け物めがけて駆けだした。
それでも、傀儡のほうに迫るように魔物が殺される音が近づいて来て、ついには飛び散った赤い血が光を受けて白く光るのすら見える距離になった。
傀儡に最も近い場所にいる魔物は、全てが上位冒険者でも苦戦、または全滅するほどの力を持っている。長い年月をかけて荒野の遺跡近くの危険地帯で捕えた、まさに化け物と呼ばれる者どもだ。しかし、それらの魔物すら徐々に数を減らしている。このままでは、傀儡のいる場所まであの化け物が来てしまう。
その時、傀儡に近い場所にいた魔物が、身体に怪しい蒼白い光を宿した。その魔物は希少な魔物で、強力な魔法を放つことが出来る種族だった。閃光が白く視界を埋め尽くし、次いで爆風が土を巻き上げて傀儡の身体を通り過ぎて行く。閉じていた目をゆっくりと空けると、あの化け物がいたあたり全てに魔法が叩き込まれたようだった。数十の魔物によって見えずらいが、地面が黒く焼け焦げた跡が隙間からちらりと見えた。
傀儡は言葉を発することも出来ずに、一歩下がった。あれだけの攻撃を受ければ、その場に居た魔物ともども消え去っているはずだ。だが、それでも不思議と一歩下がっていた。
魔法を放った魔物がなお有り余る力で再び蒼白く身体を光らせた時、不自然なことが起こり光が消えた。地面に赤い血が侵食するように広がっていき、傀儡に一番近い位置にいる魔物の足元まで血が伸びてきていたのだ。魔物たちはその血に気づいていても、特に危機感は抱いていないのか、足を上げてぴちゃぴちゃと小さな音が響いた。
それが最後だった。
次の瞬間、その地面の赤い血が鋭く地面から棘のように盛り上がって、下から魔物を串刺しにしていた。それは一つだけにとどまらず魔物の巨体を数十本の棘で貫き、生命力が高いはずの魔物を全て絶命させているようだった。貫いていたはずの血の棘が消え、宙に浮いていた魔物の巨躯が音を立てて地面に落下したとき、立ち上がるものは居なかった。
ぴちゃ、ぴちゃと水面を歩くような音が静かに響いた。
傀儡の視線の先では、小さな影が魔物の間をゆっくりとした足取りで歩いてくる。
一度聞いたことのある声が、傀儡の耳に届いた。
「思ったよりたくさんいて、時間がかかっちゃった。魔力もさっきのでずいぶん使ったから、はやく補充しないとだね」
横たわる魔物の巨体の陰から現れた影は小柄だった。
着ているローブにはいくつも切り裂かれた跡があり、いかにも満身創痍といった見た目なのに、その下にはなぜか無傷の白い肌が覗いている。ローブは元の色が分からないほど赤黒く染まり、そのぼろのような切れ端が隠している片腕は、どうやら無くなっているようだ。あの時見た赤い瞳は健在で、それが目の前の小さな影があの時の化け物だと教えてくれた。
傀儡は呼吸がまとまらないまま後ろに下がろうとして、躓いて後ろに倒れた。
それでも、目線は化け物からそらさないまま、必死に距離を置こうとした。
しかし、それよりも化け物が歩く速度の方が早く、血の湖から出た化け物が近づいてくる。
「僕を追ってきたんだろう!」
傀儡が血走った眼で叫ぶと、化け物の足が止まった。
「あの森で僕のことに気づいてから、ずっと僕を殺すために追ってきたんだ!」
「あの森...」
その瞬間、目の前の化け物は声を震わせたような気がしたが、傀儡はそんな余裕もなく血走った眼で睨み続けていた。
やがて、化け物は再び進み始めた。
「やっぱりそうだったんだね。あなたが、私の復讐相手だ。だったら、あなたの死に方も決まったね」
「死に...かた...?」
傀儡は呆然としたまま、化け物を見上げた。
「血を吸われて死ぬの。あなたにも、同じ苦しみをしてもらう」
その時、化け物のローブの下から、赤いブローチが怒りを湛えて傀儡を見ていることに気づき、傀儡は必死に後ずさった。
「来ないで!僕は死にたくない!来るな!」
その叫びはしかし、無慈悲で無感動に人を殺す化け物に届くことはなく、目の前まで迫られた時には叫ぶことも出来なくなっていた。
小さな手が、傀儡の頭の後ろに回された。縦に裂けた真っ赤な双眸が、傀儡のすぐ目の前にあった。
「すぐ殺すと思った?あなたには、一つやってもらうことがあるの。誰かを操るのはあなただけの力じゃないんだよ」
目の前の瞳が妖しい赤に輝き、傀儡の恐怖はついに限界を超えたのか、思考に靄がかかったように考えがまとまらなくなった。
それでも最後に、「助けて」と声に出そうとしたが、視界の端にまたもや赤い石のブローチが映り込み、それもかなわなかった。
真っ赤なブローチはそのひび割れた目で、傀儡に向けて「ざまあみやがれ!」と言っていたからだ。




