片目の従者、黄金の若者
エブロストス陣営から見て右方では、魔物の濁流と、それに対抗する赤剣隊の熾烈な戦いが続いていた。
どちらも大きな動きはなく、赤剣隊が徐々におされてはいるが戦線は拮抗している。しかし、その構図がたった一瞬の出来事で大きく変わってしまうことを、この時赤剣隊の誰もが予想してはいなかった。
終わることのない魔物との戦いによって、死亡した者は魔物の群れに飲み込まれ、負傷した者は後方に引き下がることで、赤剣隊はその人数を減らしている。
しかし、それでも当初二千を超える人数がいたこともあって戦線は崩壊することはなく、徐々に首を絞められる様な圧迫感と焦燥が彼らの身を包んでいた。
そして、焦燥に身を包まれている一人であるレイラは、額に汗を滲ませて息をあげながら、途切れることのない魔物の壁に絶望交じりの視線を向けた。
「いつ、終わるんでしょうか...。私たち、こ、ここから生きて帰れますかね...」
すでに疲弊の極みに達し、剣を持つ腕も上がらなくなってきたレイラはつい弱音を口にしてしまったが、それを咎める声はなかった。
なぜなら、赤剣隊の中では最上位の実力者である副隊長も、声に出さずとも心の中で思っていたことだったからだ。
副隊長は咎めることはなかったが、疲労の滲んだ声で代わりの言葉を口にした。
「ここから帰ったら、盛大な祝宴をしよう...。伯爵様も、あの指導者様も参加して、俺たちだけでなくエブロストスの全員で盛り上がるんだ」
レイラは返す言葉を思いつかないまま、口をつぐんだ。
副隊長の言葉は、不安を紛らわすために自分に向けて発した言葉であり、返答を期待してのものではいと感じ取ったからだ。だが、右隣にいた赤剣隊の隊員はからかうような声をあげた。
「その時はぜひ、隊長には格好いいスピーチをしてほしいですね」
「え、えッ!いや、それは...。うぅ、みんなが笑わないと約束してくれるなら、やってもいいですけど...」
「はは、それは無理でしょうね」
からかう声を上げた赤剣隊の一人は、わざとらしいほど明るい声で言った。それに気づいたレイラもこの危機的状況を理解していながら、からかいの言葉に反応した。
この両隣から聞こえてくる声に、副隊長は一言いってやりたい気分になった。
しかし、言葉を理解しない魔物がそれを許すはずもなく、飛び掛かってくる魔物に向けて鋭く槍を突き出すために、その言葉は一拍遅れて発された。
「そういった会話は、余裕が出来てからやってくれ」
副隊長はあきれた様子でそう言ったが、副隊長の心に沈む不安の黒い靄は、幾分か払いのけられていたことは事実である。
こうして、不安に包まれた空気の中に一時の安らぎが生まれたが、その安らぎはより深刻な事態によってかき消されることになった。
その絶望を告げたのは、突然聞こえて来たいくつもの風切り音だった。
「なんだ!」
槍で敵を牽制しながら振り返った副隊長が目にしたものは、およそ最悪なものであった。
それは、赤剣隊の集団の一部が、戦列を崩して逃げ惑い、苦痛に呻いている姿だった。
何が起こったのかは、彼らの身体に突き刺さっているものが教えてくれた。
矢だ!丘上から矢が降り注いだのだ!
しかし、凶報はそれだけにとどまらなかった。
矢が射かけられたと同時に、魔物たちの動きが変わった。
これまで真正面から向かって来るだけだったものが、一つの規則性をもって赤剣隊の側面に回り込もうと動き始めたのだ。
当然、正面にも魔物が張り付いているため、迂回する魔物に対応できる者など居ない。
その時、二度目の風切り音が響き渡ると、たった今魔物の群れが回り込もうとしている場所に矢の雨が降り注いだ。
ここに至って、副隊長は帝国がこれから何を成そうとしているかに気づいた。
そして、それを証明するように、弓矢によって開けられた戦列の穴にむけて、側面に回り込んだ魔物たちがその暴虐性を解き放ち喰らいついてくる。
矢の雨と魔物の攻勢で混乱している赤剣隊は、魔物に対抗するためのすべである統制を維持できなくなり、一人また一人と魔物の牙に倒れていった。
さらにインチキなことに、魔物の生命力は恐ろしいほどに高く、魔物に矢が突き刺さっても絶命するには至らない。これにより、矢は赤剣隊を一方的脅かす凶器となりえた。
「まずい、このままだと退路がッ!」
副隊長がそう叫んだ時には遅かった。
ついには、丘上から降り注ぐ矢によって、赤剣隊は胴の部分で分断された。
中央の分断に成功した魔物たちは、勢いのままにその内部を食い尽くし、とうとう赤剣隊の前半分は、魔物の群れのなかに浮かぶ孤島さながらになってしまった。
その悪夢を目の前で実現されてしまったレイラは、今度こそその顔を真っ青にして、声を出すことも出来なくなってしまった。
***
アレクは愕然とした表情で、目の前に広がる惨状を受け入れられずにいた。
彼の前には、密林の中に消えて行った伯爵たちと、分断され今にも魔物の渦に飲み込まれてしまいそうな赤剣隊の姿のみが映っている。
それは、王都から期待を込めてやってきたアレクには、あまりにも受け入れがたく衝撃の強すぎる光景だった。
アレクは体内にある空気を全て吐き出そうとして失敗し、浅い呼吸を繰り返した。
そこに、片目を隠した彼の従者が、心配そうにその背を支えた。
アレクは己の従者に、力なく問いを発した。
「なあ、シン。ここからどうやれば勝てるんだ?そもそも、この戦いに初めから勝機はあったのか?」
シンは感情を読み取れない顔をしたまま、何も答えない。
「僕は、僕は、こいつらに賭けていたんだ。こいつらなら、今の王国を少しでも変えることが出来ると思って。でも、ここで終わりなのか?」
「アレク様」
失意の表情で繰り返すアレクに、この時初めてシンは力のこもった声を出した。
その声に引きづられるように、アレクは黒く濁った緑の瞳を己の従者に向けた。
「アレク様。残念ながら、ここはもう終わりです」
「...シン?」
「ここに残っていては、自分たちまであの魔物共にやられてしまいます。ですから、どうかここを離れるご決断を。馬は...すでに用意してあります」
従者は隠れていない片目をそらしながら、アレクに言った。
しかし、困惑しているアレクに対して、シンは意を決したようにはっきりアレクの目を正面に見た。
「アレク様、貴方はこの国を立て直したいと、常々仰っていました。そして、そのためにコーラル伯爵に協力する気になったことは、ここにいる自分もよく理解しています。それでもあえて言わせていただきます。貴方がこの国の現状に責任を感じられる必要はありません」
「どういう...ことだ...」
「貴方は、王城でずっと冷遇されていました。周りの貴族たちだけでなく、貴方の父親である陛下にさえ。アレク様は、ここまでよく耐えて来られました。ですから、そろそろ自由の身になってもよろしいではないでしょうか」
アレクは呆然としたまま、己の従者を見つめている。
シンがここまでアレクに対して何か言うことはこれまではなかった。それは、従者としての分をわきまえていたからである。しかし、事ここに至っては、シンは今まで秘めて来た思いを口に出さずにはいられなかった。
「自分は、庶民としての生活を知っています。それどころか、貧民街での暮らし方さえ知っています。たとえ王都から追手が向けられようと、見つからずに二人で生き延びることが出来るでしょう。小さな町に身を隠し職に就くのもいいですし、放浪の旅をするのもいいでしょう。アレク様が望まれるなら、自分はどこまでもお供いたします」
シンの瞳には真剣なまなざしが宿っていた。
そのことにアレクはまず驚愕し、次いで彼が語った言葉をつい想像してしまった。
王城での蔑まれる生活でもなく、将来の国の姿を憂いて心をすり減らすでもなく、それらの責任から逃れて一人の人間として生きるというのは、なかなかに甘い夢に思えた。
もしかしたら、そういう生活の方が自分には合っているかもしれない。そうアレクは思ったが、アレクの返答は初めからすでに決まっていた。
「シン...」
「はい」
アレクはその顔に、挑戦的な笑みを浮かべた。
「あまり僕を舐めるなよ」
「は...」
シンは呆然として己の主人を見た。
するとアレクは、肩から掛けていた地味な土色の外套をはためかせながら戦場を振り返り、悪戦苦闘している赤剣隊に視線を向けた。
「なあ、シン。お前と僕は長い間一緒に過ごしてきたよな。だったら知ってるだろう?僕が、書物の中だけの輝かしい過去の王国を求めてやまないことも」
アレクの声には生気が宿っていた。それは、シンにとって久しぶりに聞いた、シンの好きな声だった。
「今よりも何代も前の王の時代は、素晴らしいものだったらしい。聡明な一人の王のもとに、誠実な幾人もの貴族が付き従う。貴族は暴力と恐怖ではなく、その人が持つ徳によって民を支配していた。そして支配される民も、その貴族の姿に敬意を表し、意志を持った強い民として国を支えていた。今とは真逆の姿だ!」
アレクはそう言うと、シンを振り返った。その黄金の髪が、光を通して輝いた。
「僕は、責任感だけで動いてるんじゃない。その輝かしい姿を、自分の目で見てみたいんだ。そして、その光景を見せてくれるかもしれない者たちが、今この瞬間に潰えようとしている」
アレクの目に、力が宿った。
王城を抜け出してこの場所に来てから、今まで一度も見せたことがない輝きだ。
それを正面から向けられたシンは、自分の命が終わる最期の瞬間までこの輝きを忘れることはなかった。
「シン。馬を用意してくれたんだろう?僕が前に向かうために。だったら、早くつれてこい。でないと、走って向かうことになる」
「...はい!」
シンは主人の意に沿うために、全力を尽くすことを誓った。
アレクから背を向けて馬を取りに戻ろうとしたとき、シンはアレクの手が震えていることに気づいたが、それには気づかなかったふりをしてシンは駆けだした。
シンの主人は、弱っている姿を人に見られたくない人だからだ。
かくして魔物によって分断され、彼らの信じるところの隊長や副隊長を失っていた赤剣隊のもとに、力強い声が響くことになった。
それは、不安に押しつぶされて恐怖に陥っていた彼らにとって、途轍もない救いとなった。
「聞け!僕は、フェルタイン王国第二王子、アレク・レイド・フェルタイン!ここで終わりたくなければ、この僕に付き従え!」




