過去の虚像
王国と帝国の戦いは新たな展開を迎え、それぞれの衝突は苛烈さを増していった。
しかし、それらの戦局の推移とは無縁に、たった一人開戦から何も変わることなく血を求めている化け物がいた。
「アは、アハハハハッ!」
その化け物は狂ったような笑いを上げて、操られているだけの魔物に向けて剣を振るっていた。
赤い剣が一閃するたび、周囲の魔物が数匹にわたって一刀のもとに両断され、吹き飛んだ上半分が少しの間をおいて地面に落下し、水の入った袋が破裂したような気味の悪い音を立てる。
それと同時に、赤黒く濁った血液が空中に舞い、彼らを殺した化け物を彼らの赤で染め上げた。
そこは、伯爵と老将との戦いとも、魔物と赤剣隊との戦いとも切り離された場所で、その惨劇を引き起こしているアイティラのみがここで起きていることを知るのである。
そして、この時のアイティラは自分でもおかしいと思うほどに高揚した気分を味わっていた。
「アハハ!次は誰?」
アイティラはその顔に歓喜を浮かべながら、血が滲んだような赤い目を鋭く周囲に走らせた。
初めはこんなはずではなかった。
アイティラは、自分から大切な少年を奪った帝国の人間に対する復讐と、伯爵やレイラといった今の大切な仲間に危険が及ばないよう、短時間で敵の首魁を探し出して殺すつもりだったのだ。
しかし、魔物を殺して血を浴びるたびに、少しづつ理性のたかが外れていき、次の血を求めるように思考は殺戮への衝動へと支配されていく。
そして、本人はその自覚もないままに、周囲すべてを敵に囲まれながら、血に酔ったように笑い声をあげていた。
アイティラの蛇のように裂けた瞳から赤の輝きが強まった。
次の獲物に定められた魔物は、小さく身体を震わせたものの、一瞬で殺気だちその大きな咢を広げた。
その一瞬で、血に濡れた剣が喉の奥深くまで差し込まれ、力一杯振り回されたことで強引に身体を切り裂かれる。
その姿にアイティラは、心の底から暗い安心と既視感に似た何かを猛烈に感じていた。
既視感?
アイティラは、段々と小さくなっていく理性の片隅で考えた。
こんな光景をどこかで見たことがあったっけ?
身体は自然に動きながらも、今度は急激な不安を感じてアイティラは思考の方に意識を割いた。
その瞬間だった。
アイティラの頭に、今まで感じたことのないような不快感と悪感情が流れ込み、頭を斧で割られた時のような痛みが走った。
「なにこれ...?痛い」
先ほどまでの高揚はもはや消え失せていた。
周囲にはまだ魔物がいるはずだ、しかしアイティラにはそれらにかまう余裕は無くなっていた。
そして、頭を押さえて下を向いていたアイティラが、次に顔をあげたときそこに広がる世界は違ったものになっていた。
「あれ?」
アイティラは、呆然としたように声を出した。
なぜならば、そこは先ほどまでいた魔物の群れの中ではなく、荒廃した地に広がる無数の人の死体の中だったからだ。空は厚い雲で覆われ、世界全体が薄暗さに包まれているようだった。
アイティラの中で消滅寸前まで追いつめられていた理性が、急速に息を吹き返した。
「どこ、ここ? だって、さっきまで...」
アイティラが呟きながら後ずさると、何かに足をとられた。
瞬間的ともいえる速度で、アイティラは振り向きつつ飛び退ると、その正体が分かった。
それは死体だ。白銀の鎧を着こんだ人間の死体。顔を兜で隠しているため、その表情はうかがい知れない。
そこまでは、アイティラを驚かすことはできない。状況を把握していなくても、アイティラにとって死体は見慣れないものではなかったからだ。
だが、アイティラの目はその兵士の胴体に突き立った旗槍の一点に吸い寄せられ、次第にその目が大きく見開かれていく。
それは、アイティラにとっては見慣れていたものであり、同時に見慣れぬものであった。
アイティラが、大切な少年の友人と出会う以前、老魔術師に今の世界へ解き放ってもらう以前、二度と戻りたくもないあの世界で、自由を奪われていた吸血鬼と呼ばれる少女が戦っていた相手の旗だった。
そのことに思い至った時、アイティラは久しく感じることが無かった恐怖に支配されて、無意識のうちに首元に手を伸ばし、硬質な感触を感じて小さく身体を震わせた。
「夢から醒めたか」
その時、熱を失った声がアイティラの耳に届いた。
「さぞ幸せな夢を見ていたのだろう。 死体に囲まれた場所で悠長に立ち止まっているほどだからな」
「......」
アイティラはすでにない心臓が止まったのを感じた。
それは、ここにいるはずのない人物であり、アイティラが最も憎んでいた相手だったからだ。
過去のアイティラから全てを奪い、アイティラが自由を執拗なまでに求めるようになった元凶でもある人物は、硬直しているアイティラに向けて濁った瞳を細めた。
その瞬間、アイティラの中に渦巻いていた動揺は、荒れ狂うまでの憎悪に支配され、その手に赤い剣を持つとその人物めがけて飛び掛かった。
「剣を下ろせ。我に危害を加えることは許さん」
目の前の人物が口にした言葉に意識を向けることもないまま、アイティラは剣を突き立てようとしたが、その瞬間赤い剣が粒子となって霧散しアイティラの身体はよろめいた。それでもなお憎悪の炎は赤く燃え続け、アイティラは感情を抑制することなく叫んでいた。
「あなたが、お前がなんでここにいる! 過去の世界の人間であるお前が!」
その人物は、その叫びにいささかも心を揺さぶられた様子もなく告げる。
「過去の世界? 何を言っている。ここが貴様の世界であろう」
無情に告げられた言葉は、アイティラの心を凍らせた。
アイティラは、その名を老魔術師に与えられる前、戦いに敗れて吸血鬼として封印された。
その封印された前の世界が、今立っているおかしな死体の広がる大地だ。
そこで、吸血鬼と呼ばれることになる少女は、目の前に立っている皇帝陛下と呼ばれる男に、血縁者殺しをさせられた挙句に、人として生きる道すら奪われてしまった。自由もなく、憎むべき相手のために憎んでもいない人間を殺す。
その世界は、間違いなく狂っていたし、アイティラにとって忌避する記憶だった。
だが、それらは全て気づいたときには終わっていたことで、だからこそアイティラはこの世界を過去の世界と呼んでいた。もう二度と戻ることのない、記憶だけの世界。
しかし、それに対して憎むべき男は、ここがアイティラの世界だと言ってのけたのだ。
それは、アイティラの怒りをさらに引き立てることになる。
「こんなところ、私は嫌い。 私はやっと自由になって、大切な仲間も出来て、それで自分のために戦ってる」
それはアイティラの本心だった。
「だから、またあなたの命令を聞くのは死んでもいや。私はあっちの世界で、安心できる場所を作るの」
睨みつけながら、アイティラは自分の首にはめられた首輪に力を籠める。しかし、首輪はびくともしない。
相手の瞳に鋭い光が宿った。
「仲間が出来たとは面白い。今の貴様にいったいどんな仲間が出来たのだ。その姿を見せて、その仲間とやらはどんな反応を示した?」
アイティラは何も言わずに睨み返すと、皇帝陛下はつづけた。
「答えられぬだろう。無理もないことだ。その仲間とやらと貴様とは、人か人でないか以前にもっと深い部分で違っているのだ」
アイティラは、その言葉に心の中にわだかまっていた何かを鋭く指摘されたような気がして、それを無意識のうちに隠そうと声を張り上げていた。
「見てきたわけでもないのに、そんなことーーー」
しかし、そこで足を進めたアイティラは、何かにぶつかり声が途切れた。
ぶつかった何かは、金属音を響かせて転がった後、兜の隙間から光を失った恨めしそうな目をアイティラに向けている。
そこに、再び無感動な声が聞こえて来た。
「貴様は、血を欲している。たとえ表では平穏な日々を望んでいても、その裏には血を求める衝動があるはずだ。それは、命あるのものに刻み込まれた本能といえるほどに強く、抗えないものだ」
アイティラは、自分を憎悪を込めて見上げている視線から一歩退いた。
しかし、その視線からはどこまで離れても逃れることは出来そうにない。
アイティラはそれから視線をそらし、声の主を睨みつけた。しかし、続く言葉には勢いが欠けていた。
「そんなことない。わたしはあっちで、大切な仲間が出来たの...。その人たちと一緒に過ごせるように、その為だけに戦って...」
「それが嘘でないと誰が言える。血を求める理由が欲しかったから、仲間を守るという建前をつくったのではないのか?」
アイティラが憎悪を込めた目で、声の主を見た。しかし、その瞳に込められた感情には揺らぎがあった。
「違う」
「仲間などと言う幻想からは、早々に離れた方がよいぞ。貴様には、家族や仲間と共に過ごし笑いあう姿よりも、躯の上で無慈悲に佇んでいる姿の方がよほど似合っている」
「違う!」
言い返したアイティラの勢いは、ひどく弱々しかった。
この時だけは、周りに死体さえ転がっていなければ、か弱い少女が衰弱しているように見えたかもしれない。
少女の悲痛な叫びは、残響を虚空に響かせた。
ここまで少女を追いつめた人間は、しかし勝ち誇るわけでもなく、同情の視線を向けるのではなく、ただただ沈黙していた。空を覆う不気味な黒雲が、いっそう厚みを増したように思える。
憎むべき皇帝陛下は、アイティラに向けて一歩近づいた。
アイティラの瞳が、憎悪を不安の間を行き来する。
「我は全ての国家が帝国のもとに服従することを求めている」
生気を帯びた声が、遮ることのない空間に広がった。
「そして、わが帝国の繁栄を願っている」
また一歩、アイティラとの距離が縮まった。
「貴様は我を憎んでおるだろう。だが、我は貴様を憎んではおらん」
足音がアイティラの前で止まった。
「化け物よ、いや我が国の英雄よ。貴様の言っている仲間とやらは、その血濡れた姿を見ればたちまち貴様を裏切るであろう。いや、その仲間だけがそうではない。ひどく弱い種族である人は、貴様のような者を恐れ憎むのだ」
「......」
「貴様が、敵である聖王国の連中だけでなく、味方である我が国の者からなんと呼ばれているか聞いたことはあるか?」
アイティラの頭上から、一つの視線が見下ろした。
「連中はお前をこう呼んだ。<吸血鬼>と」
アイティラは俯いたが、その視線の先にしわのある手が差し出された。
「だが我はそう思わん。わが帝国を救ってくれるお前を、仲間だと思っておる。帝国がすべての国を服従させた後、その首輪を外してやることを誓おう。この手をとるがいい」
全ての言葉が告げられた後で、アイティラは顔を上げた。
その瞳には、憎悪はなく不思議と色のないガラスを思わせるものだった。
「...わたしね、とても悩んだの」
透き通った自然な声が少女から出た。
「わたしが皆を戦いに巻き込んで、もしかしたら皆から幸せを奪ったんじゃないかって。レイラや伯爵は大切な人のはずなのに、自分の本当の姿を隠してるのは、二人のことを信じられてないからなんじゃないかって。いろんなことで悩んで、結局答えも分かってない」
「でも...」
少女は一度目を閉じて、再び開いたときには、瞳の奥から暗い赤が滲んでいた。
「それはお前に言われることじゃない。私はあなたが嫌いだから」
その時、周囲の聖王国の兵士たちの死体が動き出した。
引きづられるように動き出した死体から、流れ出ていた赤い血が引き寄せられるようにアイティラに向けて進みだす。
濁った瞳を向けてくる憎悪すべき相手に、アイティラは目を細めた。
「私、この世界でやり残したことがあったのを思い出した。ずっとあなたのことを殺したかったのに、結局殺せてなかったもの」
アイティラの首から、重い首輪が溶けて消えた。
そしてその手には、赤い剣が握られている。
アイティラは鋭く前を見据えた後、その剣を過去の世界の人間の心臓に突き刺した。
「......」
その瞬間、世界に音が戻ってきて、鮮血が舞った。
それと同時に、剣を突き出した格好のアイティラの前に、身体の一部を削り取られて苦しんでいる魔物が、地面でのたうち回っていた。
周囲は殺気立った魔物で埋め尽くされ、その中でアイティラは冷めた視線で、苦しむ魔物を見つめていた。
アイティラは一歩、一歩とその魔物に近づくと、剣の切っ先を鋭く下に向けて、魔物の首を刎ね飛ばした。魔物は首を失った後、しばらく痙攣したように身体を震わせて動かなくなった。
「とってもいやな夢」
そう独り言ちると、周囲に赤い槍を無数に生み出し、いくつもの魔物の生命を刈り取った。
それでもまだ、心の奥底にわだかまった不快感と不安をすべて吐き出すことはできなかった。
アイティラは、魔物の群れのさらに奥にいるであろう敵の姿を睨みつける。
「伯爵も、レイラも今どうなってるんだろう。早く終わらせなきゃ」
倒れた魔物から地面に流れる血が、アイティラに向かって這うように伸びてくる。
そして、その血が各所から合流して川をつくると、その先端が形を変えながら持ち上がり、アイティラの周りを取り巻いた。
鋭い切っ先は、倒しても倒しても減る様子のない魔物たちへと向けられている。
「私の邪魔をするんだもの。絶対に許さない」
吸血鬼の瞳が、残酷に細められた。




