戦いの前の出来事
その日、エブロストスに住む人々は、その顔に不安げな表情を貼り付けながら、内側の城門前に集まっていた。空を覆う厚い雲は、彼らの心の内を表しているかのようだ。彼らが集まっている理由は簡単だ。兵士たちがエブロストス中を駆け巡り、この場所に呼び集めたからである。
続々と集まってくる住民は、出来るだけ前の方に行こうと懸命に身体を押し付け合い、押された住民はそれに対して怒鳴り声を返す。誰もが余裕なく、不安に心を支配されていた。
当然のことと言えば当然かもしれない。帝国が攻めて来たとの知らせは、すでに民衆にまで伝わっている。
彼らは、帝国の攻勢に対して伯爵がどう出るのか、それを教えてもらえることを切望していた。
だからこそ、兵士達が集合を呼びかけたとき、誰もが仕事すら投げ出してこの場に集まってきたのだ。
そして、閉ざされた城門前で、彼らは伯爵の姿を待っていた。
「おい、あそこを見ろ!」
集団の中から、誰かの叫び声が聞こえて来た。
誰の声かは分からないが、人々は周りに合わせるように視線を上げて、その姿を見た。
それは、高い城壁の上から見下ろす小さな影だった。
黒いローブが風にたなびき、まるで翼のように広がっている姿に、人々は困惑した。
それは、彼らが待っていた伯爵の姿ではなかったのだ。
あれは、誰なのか。
人々が心の中にその疑問を浮かべたところで、その人物が手にしたものを見て誰かが叫んだ。
「あれは、あの時の!指導者様だ!」
赤い剣を取り出した姿を見て、誰もがその人物が何者であるかに思い至った。
血のように赤い不思議な剣を持つ英雄。赤剣隊という集団を造り上げた創始者。
反乱の火付け役であり、象徴たる人物。
紅の騎士団との戦い以降、人前に姿を現さなかったその人物が現れたことで、人々の間に動揺と縋る様な期待が現れた。
人々が見守るなか、黒ローブの指導者は城壁のギリギリに立った。少しでも態勢を崩せば落ちてしまう位置であるのに、風が唸りを上げる中で平然と立っているその姿は、いつか見た強い指導者の姿だった。
見上げる人々は、フードによって見えそうで見えない指導者の顔に注目していたが、不意にその口元が笑みをかたどったように見えた。
「エブロストスのみんな、集まってくれてありがとう」
響き渡るその声に、初めてこの人物の声を耳にした人々は驚いた。その声は幼さを残した少女のような声だったからだ。しかし当の本人は、そんな彼らの動揺は気にしないとばかりに言葉を続ける。
「帝国が攻めてきてるのは、みんな知ってるよね? 帝国軍はいま、この都市の北の平野に居座ってる。 私たちのいるこの都市を襲おうとして、今もこっちを見張ってるはずだよ」
そして、いきなり告げられた事実に、人々は知らず知らずのうちに息を呑んだ。
すでに噂で聞いてはいたが、実際に言葉としてはっきり出されると、はやり彼らの心に重くのしかかるものがあった。
不安の表情が一段と強まった彼らに、小さい指導者は鷹揚もなく静かに続ける。
「帝国の連中は何を考えていると思う? 王国に敵対している帝国の人達は、私たちに何をするつもりなのかな」
不安交じりに誰かがこぼした。
「この都市を攻めてきて、支配しようとしているんじゃないか...」
指導者の瞳が赤く光った。
「支配。そう、帝国はこの都市を支配しようとしているの。でも、それだけじゃない。帝国は私たちに向けて一つの言葉を残したの。その言葉は何だったと思う?」
静けさの中に、いくつもの息を呑む音が聞こえた。
「戦わなければ、魔物を王国内に侵攻させる」
誰かが声にならない叫びを上げたとき、突然彼らの前にいた指導者の声の調子が変わった。
「帝国は、私たちを力で支配しようとしてる。私たちが多くの血を流して、紅の騎士団から勝ち取ったこの都市を、帝国はその上からつかみ取ろうとしているの。しかも、私たちの後ろにいる沢山の村や町を、魔物に食い荒らさせると脅してまで!帝国は全てを蹂躙するつもりなの!」
幼い声で、力強く話すその姿に、その場に集まった人々は叫んだ。そんなこと許せない、と。
帝国の非道な行いは、今すぐにやめさせるべきだ、と。
そこまで叫んだが、続く言葉に彼らは閉口した。
「だから伯爵は、帝国と戦うことを決めた」
彼らの怒りは本物だった。彼らの高揚は確かだった。
でも、いざ戦うとなると彼らは不安に思うのだ。はたして帝国に勝てるのか。
高みにいる指導者は彼らの不安に寄り添うように、今度は静かに話しはじめた。
「明日、伯爵の兵士達と赤剣隊は帝国と戦うことになる。その時に、どっちかが勝ってどっちかが負ける」
指導者の声は、最後はしりすぼみになっていた。
それによって人々の心は再び不安に染まる。そしてついに、一人が声高に叫んだ。
「勝てるのか!本当に、帝国に勝てるのか!?」
その言葉は、誰もが聞きたくもあり、恐ろしくて聞けなかったことだ。
人々は、指導者様が力強く「勝てる」と答えてくれることに期待した。
だが、返ってきた言葉は彼らの望むものではなかった。
「今のままじゃ、難しいかもしれない」
「そんな...」その場に居た誰もが絶句していた。
しかし、うなだれる彼らの何人かは、その声色に違和感を感じて再び上を見上げた。
そして見たのだ。
赤い剣が天に向けて掲げられている。指導者様の頭上で赤く輝いている。
その時、強く吹いた一陣の風が、黒ローブの指導者のフードを外した。現れた顔は少女の顔だ。
だが、その表情はあまりにも挑戦的で、見るものを魅了するような不思議な力を持っていた。
「今のままじゃ難しいけれど、道はあるの。ここにいるあなたたちが、立ち上がってくれたら」
赤い瞳が、人々の心を騒めかす。
「私はこの都市で、今の反乱を起こした。その時に掲げた言葉を覚えてる?」
幾人もが声をそろえて言った。その声には陶酔の響きがわずかに籠っていた。
『悪い領主をやっつけよう。武器を手に取り、立ち上がろう。自由を求める人たちは、赤き剣のもとに集まれ!』
後半になるにつれ、唱える数は多くなり、熱気を帯びてくる。
「そう。あの時もあなたたちは、血を流すことにおびえていた。でも、結果はどうだった?血は流れたけど、この都市を襲った紅の騎士団に勝った。あなたたちは、勝利の仕方を知ってる」
不敵な笑みを浮かべる姿に、人々は思い出した。紅の騎士団が人々を襲った時の怒りを。
一方的に逃げ惑うだけしか出来ず、怯えて家に閉じこもっていた時のことを。
そして、勇敢に戦って散っていったエブロストスの仲間たちを。
だが、それでも彼らは動かなかったのだ。剣をとって立ち上がった者は、すでに赤剣隊に所属している。
この場にいるのは、結局赤剣隊に入らなかった者たちなのだ。
ある意味、ここにいるのは戦えない人々だ。
そんな彼らが熱に浮かれ、自分も戦いに加わろうか悩み始めている。
そんなところに、黒ローブの指導者は優しく逃げ場を用意してやるのだ。
「そんなあなたたちにも一緒に立ち上がってほしい。剣を振る必要は無い。ただ、剣を握るだけでいいの」
その言葉がどういう意味なのか理解できない彼らは、頭を上げて指導者を見る。
黒ローブの指導者の上に、反乱の象徴たる赤い剣が浮かんでいた。その光景を、まるで現実離れした幻のように熱に浮かれた人々は見上げる。
最後に、期待をもって見つめられた指導者は、目を細めながらこう言った。
「あなたたちに、もう一度勝利を見せてあげる」
***
「伯爵様、本当によろしかったのですか?」
「無論だ」
城門前の人々に向けて語り掛けるアイティラの姿を、城の中からちらりと見た兵士長は心配げに尋ねる。
しかし、伯爵は一切動じることなく、言葉短く答えた。
「私としてもできれば避けたかったが、ここで勝たねばもっと悲惨なことになる」
「...心中、お察しします」
「よせ。私はもう、止まることは許されない。ここからは、非情な決断も下さればならない時がくるだろう」
「ご安心を。そうならぬように、我らが防いでみます」
伯爵の苦し気な言葉に、大柄な兵士長は胸を張ってそう言って見せる。
その様子に、伯爵は悲しげに答えた。
「できれば、お前たちにも無茶はさせたくないのだがな」
「ははっ。我々は無茶がしたいのです。あなたはただ、突撃と口にすればいい」
兵士長はそこまで言ってから、返ってくる答えが分かり切った質問をした。
「むしろ私としては、伯爵様にこそ無茶をなさらないでほしいものです」
「そうはいかん。前に出て戦わない指揮官に、誰が付き従おうと思うものか」
伯爵はそう答えると、城門前の人々を見ながら独語した。
「此度の戦い、勝つぞ」
時を同じくして、赤剣隊はエブロストスの外で集まっていた。すでに赤剣隊の数は二千五百にまで上っている。その人数が一度に集まるとなれば、その姿は壮観だった。
そんな彼らの前に、彼らの隊長が現れる。若い女の隊長は、皆の前で背を縮めながらおかしな挙動で前に立った。そばで成り行きを見守っている副隊長は、その様子を不安げに見守っている。
「え、えー!あ、わ、私が、赤剣隊の隊長のレイラ・レーゼです!」
うわずった声をあげる姿に、副隊長は額を手で押さえて頭を振った。
「あ、明日、北に見える平野で私たちは帝国と戦います!...帝国は、確かに強そうです。で、でもここにいる私たちだって、戦うことが出来る!」
レイラは集まった赤剣隊の前で、精一杯声を張り上げる。今までこんな大声を出したこともなかったから、はやくも喉が痛みを知らせていた。
それでもレイラは、必死になって叫ぶのだ。隊長を任せてくれたアイティラに、恥ずかしい姿を見せたくないと思って。
不器用ながらも大声で叫ぶレイラを見て、副隊長は目を見張った。
「赤剣隊は、わ、私たちを襲う敵に立ち向かうために、エブロストスの意思が一つにまとまったものだと思っています。み、みんなの剣についている赤い帯が、私たち全員がひとつの意思に紐づけられている証だと思います!」
集まった赤剣隊の表情は真剣なものだった。彼らの目に映るのは、きっと今の光景ではないのだろう。
副隊長は、レイラがなかなか頑張っていることに頬を緩めていた。
しかし、肝心のレイラはそろそろ限界が近づきつつあり、頭は真っ白で目の前がチカチカしていた。
「だ、だから、その、私たちじぇ、全員が立ち上がれば、て、ていこきゅにも、き、きっと勝てましゅ!」
だからこそ、最後の締めとでも言うべきところで、レイラは盛大に失敗した。
僅かな沈黙が起こり、レイラは顔を蒼ざめさせて、副隊長を見た。
副隊長は視線を向けられたため、仕方ないと嘆息しながら皆の前に移動しようとしたが、すぐに別の所から声が発された。
「何やってんだ、隊長ー!しっかりしてくれよー!」
赤剣隊の一人が発した言葉には、からかいの色がたっぷりと含まれていた。それに続いて、各所から笑いが起こる。
「おい、隊長に向かって失礼だろう!」
副隊長も一応そう言ったが、しかしその言葉もあまり本気ではなかった。
赤剣隊も、集まった時はどこかピリピリとした雰囲気があった。当たり前だが、ここにいるのは戦いに慣れていないエブロストスの民なのだ。緊張と不安で、誰もが顔をこわばらせていた。
だが、今は違った。緊張の抜けた顔で、誰もが笑っている。しかも、その笑いは嫌味のこもったものではなく、仲間へ向けるからかいだった。
レイラは恥ずかしそうに縮こまっているが、きっと赤剣隊のほとんどは彼女に対して好意的に見ているだろう。
副隊長は、戦前だというのにどこか締まらない平和な光景を前にして、小さく決意する。
この若い隊長のことは、なんとしてでも守って見せると。
***
「まったく、どいつもこいつも、熱に浮かれた連中ばかりだ。そう思わないか、シン」
「......」
「勝てるというなら見せてもらいたいものだな。まったく、見せてもらいたいものだ...」




