慟哭は届かない
帝国と王国の間に広がる広大な平野にて、帝国の異形な軍勢と、伯爵らエブロストスの集団は距離を離したまま向かい合っていた。帝国側は、巨大な帝国旗をひるがえしながら意気揚々と叫びを上げている。対して、エブロストスの集団はその勢いに押されていた。
その様子を目にした伯爵は帝国の軍勢を鋭く睨みつけたまま、微動だにせず黙していた。
伯爵の頭を駆け巡るのは、ここで戦った場合こちらに勝算があるかだった。そして導き出された答えは、勝利は絶望的だというものだ。
そして、ここでの勝利が望めないと考えた伯爵が次に考えたのは、エブロストスに撤退して城門を閉ざすことだった。帝国の進行を食い止めるために建てられたあの都市ならば、いくら帝国がこちらに倍する数をそろえていたとしても追い返せる。帝国も、過去の長い軋轢からあの都市の堅牢さは理解しているはずだ。だから、多大な損害を出してまで都市を陥落させることはないだろう。
そこまで考えた伯爵は撤退する決断をし、それを伝えるべく兵士長を呼ぼうとした。
その時だった。
突然、横陣の最前列にいた兵士たちからざわめきがあがった。始めに上がった小さな声は、周囲へとさざ波のように伝わっていき、やがて各所から動揺した声が聞こえて来た。
事態に気づいた伯爵は、視線を上げるとその原因を見つけた。それは帝国の陣営から駆けてくる一匹の馬だった。
たった一騎で向かって来るとなれば、その意思は一つしかない。
伯爵は兵士達を押しのけて、一人前へと向かっていく。その時後ろから大きな制止の声が掛けられ、大柄な兵士長が慌てて伯爵に付き従う。
その様子に伯爵は小さく苦笑しながら、兵士長に向けて言葉を放った。
「あそこに広がる軍勢を相手に、勝てると思うか?」
兵士長はその言葉を聞くと、苦笑しながら答えた。
「厳しいと思いますね。しかし、戦えと仰るのであれば我々は戦います」
その声を聞きながら、伯爵は向かって来る一人の帝国人を待った。
馬に乗った帝国の兵士は、伯爵のことを視認すると馬首を変えて真っすぐに伯爵に向かってきた。
「そこで止まれ!!」
帝国の兵士の表情がはっきりと分かる距離になったところで、兵士長が大声を上げた。
その声に答えるように、帝国の兵士の馬は砂埃を巻き上げながら急停止した。
「用件は何だ!」
「我々の指揮を執っている≪老将≫様より、伝達がある!」
帝国の兵士も声を張り上げて答えた。
兵士長は伯爵のほうをちらりと見てから、帝国の兵士に言葉の続きを促した。
「ならばそこから伝えろ!これ以上こちらに近づくことは許されない」
「......」
帝国の兵士は一瞬の間があってから、伝達することを口にした。
「老将様のお言葉だ!
『コーラル伯レイモンド、再びこの地で出会えることを儂は十年も待っていた。せっかくの再会を、つまらない形で終えるのは望まない。そこで、一つの制約をさせてもらう』」
「制約?」
伯爵は眉を寄せながら、言葉をこぼした。
帝国の兵士はあくまでも伝令としての仕事を守り、淡々と恐ろしい言葉を発した。
「『もし、兵を引きエブロストスに籠るのであれば、こちらにいる魔物を全て王国内に解き放つ』」
「なに!?」
伯爵は思わず声を上げていた。
魔物を...王国内に解き放つ?そんなことになれば、一体何人の命が失われることになるだろうか。
伯爵は、魔物が王国内に入り込み農村や町を蹂躙していく惨劇を幻視して凍り付いた。
「『もし、これを望まないのであれば逃げることなく戦うことを勧めよう。また、此度の戦いにおいてそちらは戦準備ができていないものと思われる。その為、帝国は明日の太陽が真上に昇ったころに行動を起こす。それまでに準備を済ませ、必ずこの場に布陣せよ』...以上となります」
帝国の兵士はそう言葉を閉じると、伯爵の反応を伺うようにその場に立ち止まった。しかし、伯爵からの言葉が無い事を悟ると、馬首をかえして帝国の方へと戻っていった。
兵士長は、帝国の兵士の遠ざかる背をしばらく見送っていたが、ふと我に返ると伯爵の方を向いた。
「伯爵様、大丈夫ですか?」
「ああ、すまない。ただ、これは嫌なことになった」
伯爵は生気の乏しい声でそう言うと、続けて兵士長に告げた。
「兵士長、この場に三百の兵を残して、後は全てエブロストスに帰還させる」
「これから、どうなさるおつもりで?」
兵士長の心配する声に伯爵は一度目を閉じる。そして再び目を開けたときには、鋭い視線で帝国の陣地を見据えていた。
「決まっている。戦うしかないだろう」
***
「戦う?本気で言っているのか!?」
室内に広がる怒鳴り声は、第二王子アレク・レイド・フェルタインがあげたものだった。
アレクは、信じられないとばかりに、帝国と戦う判断を告げた伯爵に詰め寄った。
「コーラル伯、お前にはあの敵が案山子にでも見えたのか!それとも紅の騎士団を倒せたことで調子に乗ったのか!?」
アレクの手が、伯爵の胸倉をつかんだ。伯爵の隣にいるアイティラが、それに対して不快そうに目を細めたがアレクはそれをものともしない。そして、胸倉をつかまれたままの伯爵は、特に不快を示すこともなくただ一言口にした。
「私の意思は変わらない。帝国と戦い、王国を守る」
「そんなバカなことをッ!」
アレクは怒りに任せて叫んでいた。
「王国を守る?その王国を立て直すために、お前たちは反乱を起こしたんだろう!こんなところで反乱を終わらせるなんて許さないぞ!たとえ、この都市の連中が許しても、僕が許さない!」
「殿下...」
アレクは息も切れぎれになって、老いた伯爵に必死に言い募る。その様子に、従者のシンは悔しそうにそう呟いていた。
アレクの端正だった顔には、今は焦りと怒りが浮かんでいた。それを間近で見てしまった伯爵は、アレクの悲痛の叫びがどこまでも真剣なものだとわかってしまっただけに、再び口にせねばならないことに心を痛めた。
「たとえアレク殿下といえども、この判断だけは譲れません」
「ーッ!」
アレクの目の奥に、わずかに失望の色が混じった様な気がした。アレクはそのまま伯爵から手を離すと、今度はその横で成り行きを見守っていた少女へと矛先を変える。
「お前もこのままでいいのか!これまで見て来たから分かる。お前は、コーラル伯や赤剣隊の奴らのことを大事に思っているだろう。そいつらがこの無為な戦いで失われるかもしれないんだぞ!?」
その言葉を聞いたとき、アイティラがわずかに動揺したように見た。そして、「失う...」とか細い言葉を残したあとに黙り込んだ。
だが、しばらくするとその赤の瞳が色濃くなり、その小さな口から言葉が漏れた。
その言葉には、怒りにとりつかれたアレクでさえ、一瞬背筋が粟立つような暗い響きが込められていた。
「帝国は敵だから、絶対に生きて返さない。それに、今度は失わない。そうなる前に、殺せばいいんだから」
アレクは一瞬声を失ったが、我に返るとアイティラに向けて怒鳴りつけた。
「この分からず屋!そもそも勝てないって言ってるんだ!兵士の数、質、士気の全てにおいて負けてるんだぞ!感情論ですべて片付ければ、いいってものじゃない!」
「そんなに戦いたくないんだったら、逃げればいいじゃん」
「こいつッ、やっぱり僕はお前が嫌いだ!」
アイティラの言葉にアレクは苛立った。アイティラの言葉は全てが無責任で、楽観的なものだ。その様子が、国王でありながら何を企んでいるか分からない宰相にすべてを任せて、それでもなお平然としている父を思い起こさせて、アレクは無意識にアイティラを敵意交じりに睨んでいた。
そして、ついに説得が出来ないと悟ったアレクは、最後に伯爵に諦観交じりの言葉を向けた。
「最後に聞きたい。コーラル伯、お前は本当に帝国と戦うつもりか?」
「はい、アレク殿下。やはり私は、王国の貴族であったようです」
伯爵の答えに対し、アレクは目をまばたかせると小さく呟いた。
「王国の...貴族か...。そうだったな」
怒りに震えていたアレクの身体は、その呟きとともに力が抜けたようだった。そして重い足取りで、伯爵たちに背を向けると扉の方に力なく歩いて行った。
「僕は、少し休んでくる。シン、ついて来い」
シンはしばらく逡巡していたが、扉の先にアレクが消えてしまったため足早に後を追いかけた。
そして、部屋を出る際に伯爵とアイティラの話し声が聞こえたのを最後に、その場を後にした。
その時に聞こえた言葉は、
『伯爵、帝国に勝てる方法は何かあるの?』
『...成功率は低いが、追い返せるかもしれない策はある。すまないが、少し協力してくれないか』
『もちろんだよ。何でも言って?』
といったものだった。
アレクはあてがわれている自室に向かうと、崩れ落ちる身体を支えるように椅子に深くもたれかかった。
そして、片腕で目元を隠し、吐き出すように呟いた。
「せっかく見つけたのに」
アレクのその言葉に込められた思いが良く分かってしまうがゆえに、シンにはそれが痛ましく思えた。
シンは良く知っている。
アレクは、自分の父である国王、腐敗した醜い貴族、そして支配されることに慣れた国民すべてを軽蔑しているということが。
王城で、アレクと常に離れずに過ごしていたシンは、アレクが周りから疎まれていることを知っている。
父親である王自身がアレクを忌避しているからだ。そして、周りから期待されず、侮られ続ける生活は、純粋だった少年の心を少なからず蝕んでいた。
だからだろう。アレクは書庫に保管されている歴代の王たちの偉業が記された本を、何度も何度も読み返している。その本は、必ずしも本当のことが書かれているとはシンには思えない。かなりの脚色がされているだろうとシンは思うが、聡明なアレクは珍しくその本だけは信じていた。
そして、それゆえにアレクは、そこに記された輝かしい王国の姿と現実の脆くなった王国を比べ、少年のころから今に至るまで悲し気な顔でこう言うのだ。
『貴族も王も、今は高貴さを忘れてるんだ』
シンは思う。この崩れゆく王国を一番憂いているのは、国王でも貴族でも国民でもなく、周囲から疎まれ期待されていないこの人ではないのかと。
そんなアレクを知っているからこそ、この反乱に対するアレクの期待がシンには分かる。
反乱が成功するかは分からない。むしろ、騎士団の強さを知るアレクは成功しないだろうと思っていたはずだ。だが、それでも、このまま崩れる王国に対する希望になりえると思えたからこそ、アレクは無理だと思いながらも、心の中ではこの細い糸に縋っていたのだと思う。
そのか細い糸が、たった今帝国というナイフによって切られようとしている。期待することを躊躇っていたアレクが、ようやく手を伸ばした糸がだ。
「...ふざけるな。ここで負けるなんて、僕は認めない」
アレクの震えた声が聞こえてくる。いつもは光を受けて輝く金髪も、いまでは不思議とくすんで見えた。
敬愛する主人の姿を見て、片目を髪で隠した従者は静かに願う。
神でも悪魔でもいい。この不幸な青年を助けてくれと。
そう願ったシンの頭にふいに浮かんだのは、不敵な笑みを浮かべた化け物の少女の姿だった。




