従者の憂い
目の前に現れた赤い瞳の化け物によって、シンはダガーをとり落とした。
「たしか、シンって名前だよね。あの王子と一緒にいる」
少女の姿をした化け物が、硬直したシンに向けてそう語り掛ける。その落ち着いた声色が、シンにとっては何よりも恐ろしい。
化け物は地面に落ちたダガーを拾うと、シンの目の前に持ち上げて見せた。闇に目を慣れさせておいたためかろうじて見えたが、化け物の表情からは追いつめた獲物を前にした余裕が感じ取れた。
「今まで私の後をつけてたのはあなたでしょ? 持ってる武器が同じだもの」
問いかけではあるが、それは確信を持っている声だった。昼間に襲撃したのがシンであることがこの化け物にはバレている。それに、夜中に寝室に武器を持って忍び込んだところを見られた今、はぐらかしは通用しないだろう。
「なんで私を襲おうと思ったの? あなたは、私の敵?」
目を細めた化け物はシンに向けて明らかな敵意を向けてきた。シンの背中に嫌な汗が浮かぶ。
この少女を初めて見たとき、何か嫌な感覚がした。あの時は漠然としか感じていなかったが、いまその感覚は肌が粟だつほどはっきりと感じとれる。
これは危険だ。
はっきりとそう思ってももはや手遅れ。刻一刻と強まる敵意に、このまま何も話さなければただ殺されるだけだとシンは思った。
だからこそシンはとある決心をして、最後になるであろう嘆願をした。
「...お願いがあります。自分は殺されても仕方がありませんが、殿下の命だけは見逃してください」
シンはその場で膝をついて、頭を垂れた。主人であるアレク以外に跪くことは屈辱だったが、主人の命の為であれば厭うことはない。
「殿下は私の行動について何一つ知りません。全て自分の判断で行いました」
シンには納得できない。なぜこんな化け物がこんな場所にいるのか。自分が敵わない強者は何人か見てきたことがあるが、だからといって少女の姿をした目の前の存在は予想外にすぎる。
自分が死ぬのはこの化け物を殺せなかった罰だ。しかしその罰に主人を巻き込むわけにはいかない。その一心で、シンは目の前の化け物に嘆願をする。
化け物は一体どんな反応をしているだろうか。不安に心がさいなまれていると、頭上から冷酷な声が聞こえてきた。
「じゃあ、あなただけが私の敵なんだね。だったら、殺す前に聞いてあげる。あなたが私を殺そうとするのは、この反乱を止めたいから? それとも...私の正体について何か知ってるから?」
首筋に剣が添えられたのが分かる。あの時も、何処から現れたのか分からないこの剣によって敗れたのだ。シンはそれを忌々しく思いながらも、感情を抑えて答えようとした。
「あなたが殿下を殺そうとするからです」
答えながらもシンは怒りが湧きあがるのを止められなかった。自分が目の前の化け物を殺したい理由など、それしかないからだ。それ以外のくだらない理由のために行動すると思われるのが心外だった。
怒りによってわずかに恐怖が薄らいだシンは、このあと化け物は激高して自分を殺すだろうかと諦め交じりに考えた。
しかし、それを聞いた化け物にわずかな沈黙があった。
そして口を開いた化け物の声色には、シンの予想に反して困惑する響きがあった。
「...私があの王子を?...いつ?」
「室内で伯爵と話しているのを聞きました。殿下を追い出して、殺害すると」
違和感を感じつつも、シンはとぼけようとしている化け物にしっかりと答えてやる。すると化け物は黙り込み、シンから一歩離れたことが感じられた。首筋に当てられていた剣はいつの間にか消えていた。
「...それだったら、私はあの王子を殺すつもりはないよ。...気に入らないけど」
「!」
シンは驚いたように顔を上げると、闇に浮かぶ赤い瞳と目が合った。化け物はばつが悪そうに目をそらすと、手に持ったダガーをシンの前に差し出した。
「それとあなたも殺さないであげる。あなたに私を殺す理由はなくなったでしょ?」
シンは困惑したままダガーを受け取り、少女の顔と交互に見比べた。
先ほどまでシンに向けられていた敵意は嘘だったかのように消えている。そこには、化け物ではなく少女が立っていた。
「...その言葉が本当か、自分には信じられません」
「それでも信じるしかできないでしょ」
シンが呆気にとられながらこぼした言葉に、少女はもはや興味を失くしたかのように答えた。そして、開きっぱなしになっていたクローゼットを閉めると、シンの方を振り返った。
暗くて分からなかったが、少女は笑ったように見えた。
「私の邪魔さえしなければ殺さない。あの王子を守りたいんだったら、私の邪魔をさせないように見張っておいて」
少女はそれだけ言うと、部屋にあるベットの中に潜り込んでしまった。もうシンとの話は終わったと、その行動が伝えていた。
シンは立ち上がると手に持ったダガーを見つめたが、しばらくして腰のベルトに戻した。
ーシン。
ーーシン?
ーーーシン!
「シン!聞いているのか!...僕の話を無視するとは偉くなったじゃないか?」
あの夜の出来事について考え込んでいたシンは、近くから向けられた苛立つ声に意識を引き戻された。慌てて声の主に視線を向けると、敬愛する主人であるアレクがその端正な顔を不快気に歪めていた。
「申し訳ありません、アレク様。少し考え事をしておりました」
「はぁ、そうか。だったらもう一回言ってやる。こっちに来てから、まだ戦いらしい戦いが起きていない。これは明らかにおかしいと思わないか?」
アレクは椅子に背を持たれさせて、投げやりな感じで腕を放りながら言った。シンは主人の言葉に、いつもの無表情のまま答えた。
「戦いが無い分には問題はないのではないでしょうか。騎士団などが来てしまえば、分が悪いのは反乱勢力側です」
「だからこそだ。あの宰相なら、紅が敗れたと知った時点でほかの騎士団を動かしてもおかしくない。なのにここまで全く王都側の動きがないんだ。...不気味すぎる」
アレクは落ち着かない様子で椅子を立ち上がると、せわしなく部屋の中を歩き始めた。眉間にはしわを寄せながら、閉じられた室内をあてもなくさまよう。
「宰相が動かない理由は何だ...? 動かせる戦力がない?今は戦争中じゃないんだぞ。紅が全滅して警戒しているのか?ありうるが、反乱勢力を自由にさせ続ける方が危険じゃないか。あるいは宰相は、何かを...待っている?」
アレクは考えを口に出しながら歩いていたが、不意に足を止めた。シンが無表情のまま隠れていない片目でアレクを見つめていると、アレクはため息をつきもとの椅子に戻ってしまった。
「ああ、結局ここで考えていても分からない。何かが起こってくれないと、伯爵に協力するにしても何もできない」
アレクは不平を漏らすと、胡乱な目をシンに向けた。
「お前も何か意見があったら口にしろ。このまま無為に時間が過ぎて、伯爵と心中するなんて御免だからな」
そう言われたシンだったが、別のことに意識をとられていたため咄嗟に考え着かなかった。しかしそれを口にすればアレクは気分を悪くするだろう。
だからシンは、話を逸らすついでに確認しておきたかったことを口にした。
「それでしたら、アレク様にお聞きしたいことがあります。以前、あの少女には近づかないように注意いたしましたが、あれから接触はありませんか?」
シンはあの夜の少女の言葉を思い出す。あの少女は、邪魔さえしなければアレクに危害は加えないと言っていた。その言葉がどこまで信じられるか分からないが、いまさら王都に戻るわけにもいかないため、ひとまずは信じるしかない。そうなれば、アレクを守る一番の方法はあの少女と関わらせないことだ。
己の主人は、無意味な会話は好まない質だ。それに、まだこちらに来て日は浅い。
大した問題は起きてないと思いながらも、シンは一応の確認として問いかけた。
しかし、問われたアレクは椅子の上で動きを止めて沈黙してしまった。
「...まさか、何かあったのですか」
予想外の反応にシンが重ねて問うと、アレクは苛立たし気に話し始めた。
「なにもない。ただ、少し話をしようとしたら怒らせてしまっただけだ」
この言葉にシンはあの化け物が向けて来た敵意を思い出し、恐る恐る問いかける。
「怒らせた...。何をしたのですか」
しかしアレクは、従者の様子には気付かずに不満を漏らすように口にした。
「それがだ、あの少女がつけていたブローチを落としてしまったんだ。だが、ブローチと言っても安物だったし、わざとじゃないんだぞ?それなのに、あいつは今でさえ僕を見かけるたび睨んでくるんだ」
アレクはそこまでいうと、「まったく、器の小さい奴め!」と最後に付け足した。
シンは血の気の引いた顔になっていたが、アレクがそれに気づくことはなかった。
「だいたい、あいつは言葉遣いから失礼だ。血筋を引き合いに出すのは嫌いだが、仮にも僕は王子だろ?だというのに...ん?」
話しているうちに不満が湧いて来たのかなおも言い募ろうとしたが、扉の外から不意に聞こえて来た足音にアレクは耳を澄ませた。
それは城の中を駆ける音で、その音から焦りが伝わってくる。
「...今日はなにかあったか?」
「いえ、聞いていません」
シンは扉に近づくと、気配を消して扉の外の様子を見た。走って行ったのは、この城で働いている女だったと記憶している。そして、女が走って行った方向には伯爵と老齢の執事の姿がある。
伯爵は身なりを整えており、あまり見たことのない貴族然とした服装だった。
「アレク様。何やら伯爵の様子がおかしいです」
「それだけだと何もわからん」
シンが眺めていると、伯爵は廊下の奥へと消えてしまった。代わりに、鎧を身に纏った兵士の姿が現れた。城内に武装した兵士。その物々しい雰囲気に、シンは何か不吉なものを感じ取った。
そして、その兵士の前を小柄な影が通り過ぎる。
「!」
遠くを通り過ぎた少女は、一瞬シンの方を見たがすぐに伯爵の後を追って消えてしまった。
シンははねさせた心臓を落ち着け、動揺を悟られないように平静を装いながら口にした。
「アレク様、自分が調べてきます」
「まあ待て、僕も今回はついていこう」
アレクが椅子から立ち上がると、その透き通る様な金髪がさらりとこぼれた。それを煩わし気に指で押し止めると、アレクは従者を見て口を開いた。
「王城での僕は何もしていなかったかもしれないが、こっちでは少しは動くとしよう。断じて暇だからでは無いぞ」
シンの敬愛する主人は、にやりと笑った。




