秘密事
夢には二種類ある。
いい夢と悪い夢。
今私が見ているのは、悪い方の夢だ。
最近は見ていなかったのに。
目の前に広がるのは、荒涼とした風景の中に浮かぶ砦と、それを埋め尽くす人たち。
彼らは怯えた表情でこちらを見ている。
ただ一人彼らの前に立ち尽くす、小さな私を見て。
砦の外周に一列に並んだ弓兵が、弓を精一杯引き絞る。
一人の怒号に合わせた矢が、一斉に私めがけて飛んでくる。
しかし、その矢は一つとして当たることはない。
なぜなら彼らは人間で、私は人ではないから。
翼を広げて彼らの中に入り込み、ただ殺すためだけに爪を振るう。
兵士の悲鳴と、あふれ出る真っ赤な血が、人を殺めている感覚を私に与えてくれる。
逃げ出そうとする彼らの背に真っ赤な槍を突き立てて、彼らが大事にしている聖王国の旗を踏みつける。
彼らは人間で、私は化け物だから。
彼らは国を愛し、家族を思い、友のために戦っている。
死の恐怖に向き合って、簡単に消えてしまう命をもって、戦っている。
断じて、目的もなく、愛もなく、理想もない化け物に奪われてはならないものだ。
それでも私は殺さなくてはならない。私を縛る首輪が存在し続けている限り。
私は笑った。嗤って殺した。
そうでないと、とっくに心は壊れていただろう。
血に濡れた手を振りかざし、次の獲物に視線を定める。
地面に尻をついて後づさりしているその男に、私は小さな高揚を覚えた。
私はその男の首を一切の躊躇もなく切り捨てた。
吹き上がる血が、とても美しいものに思えた。
もっと、もっと。
私は高揚を押さえきれずに、開いた瞳孔で後ろを振り向いた。
ーーーするとそこは、砦ではなく静かな森の中だった。
そこには、私の良く知っている、二人の人物の姿があった。
一人は古風なローブを身に付けた白髪の老人。もうひとりは黒髪の少年だ。
二人はその顔に恐怖を浮かべて、こちらを見ていた。
私が自身を見下ろすと、身体は真っ赤に濡れていた。
まって、違うのと口からこぼれるが、二人は後ずさる。
二人の恐怖に歪んだ口元が、声もなく言葉を語った。
『近づくな、化け物!』
「...あ」
アイティラは真っ暗な部屋の中で目が覚めた。
***
殺風景な城の中を、アイティラはのろのろとした足取りで歩いていた。
この城の前の主人であるザビノス子爵は、この城を飾り立てることはせずに、調度品も最低限のものしかなかった。そのため、石材で出来たこの城は、なおのこと物寂しい雰囲気を抱かせる。
通路の角を曲がると、その先に一人の若い女がいた。この城で働いている女中だ。
彼女はこちらに気づいていない様子で、せっせと掃除にいそしんでいる。
アイティラはそのまま進んでいこうと一歩踏み出しかけたが、不意に今朝の夢を思い出して動きを止めた。
特に理由はなかったが、今はあまり人と会いたくはなかった。
アイティラは来た道を戻ろうと振り返る。しかし、そういう時に事は上手くいかないものだ。そこには執事のパラードが遠くから歩いてきていた。パラードもアイティラに気づいた様子だったので、アイティラは仕方なくその場に立ち止まった。
「おや、お嬢様。どうされたのですか?」
「...何でもない」
アイティラは心を悟られないように言葉を返すと、パラードは特に怪しむこともなく「そうですか」と頷いた。
「そういえば、お嬢様にお伝えすることがありました。旦那様が、お嬢様にお会いしたいと言っておりましたので、時間があるときにでも会いに行ってあげてください」
「伯爵が?」
アイティラが小首をかしげて聞くと、パラードは頷いた。
パラードは今日もいい事があったのか、とても上機嫌に見える。
パラードと別れたアイティラは、伯爵がいるであろう部屋の前まで来た。
少し前まで伯爵は、都市の中を駆けまわって忙しくしていたが、最近は落ち着いて来たのか城に戻ってくることも増えていた。食事なども共にとるようになったので、別に会う機会がないわけではないが、一体何の用だろうとアイティラは扉を叩いて中に入った。
「伯爵、入るよ?」
部屋に入ると、中央にある机に向き合って座っている淡い茶髪の男がいた。新しい城主のコーラル伯爵である。コーラル伯爵は顔を上げると、手に持っていた紙を机に置いた。
「来てくれたか。急に呼び立ててすまない」
伯爵は穏やかな声でそう言った。
アイティラは、その様子にどこか違和感をもった。
違和感というほどではないのかもしれないが、カナンの町にいたときと比べて、あまりに落ち着いている様子なのだ。とはいえ、悪い事でもないのでアイティラは気にしなかった。
「暇だったから良いよ。それより、何かあったの?」
アイティラは目を細めて静かに問いかける。話と言われて思い浮かぶのは、これからのことだ。
反乱は成功した。それは間違いない。
だが、成功したのはこの都市を取り戻しただけで、王都には騎士団がまだ残っている。
反旗を翻したこの都市を見逃すことはないだろう。
だが、アイティラの予想に反して、伯爵は小さく首を振ると立ち上がった。
そして、部屋の隅に置かれていたクローゼットを開くと、その中から一枚の服を取り出した。
「君に渡したいものがあってな。ようやく完成したから早く渡してやりたかったんだ」
アイティラに手渡された服は、刺繡の入った純白の服だった。裾のあたりがひらひらと波打っており、富裕層の子女が着ているような服だった。
アイティラは、その服を手に持ったまま困惑して伯爵を見上げる。
伯爵はまた机に戻ると、静かに席に腰掛けた。
「いつものローブも似合っているが、たまにはお洒落もすべきだろうと思ってな。少し前から用意させていた」
アイティラは手に持ったそれを眺めると、小さく握りしめた。
そして、慣れないながらも、最後に言ったのはいつだったか分からない言葉を口にした。
「えっと、ありがとう...」
***
真っ白な服に身を包み、胸のあたりを真っ赤なブローチで飾り付けたアイティラは、とある場所に向かっていた。この都市を取り戻してからまだ会っていなかったので、様子を見に行こうと思ってのことだ。
場所は城から近く、内側の城壁に囲まれた中に存在する。大きな倉庫のような建物の前に、その集団は集まっていた。
そこは、赤剣隊の訓練場になっている場所だった。
アイティラは赤剣隊の面々が集まっているその場所に向けて、迷いのない足取りで進んでいく。すると、粗末な丸太に向けて槍や剣を突き出す訓練をしている人や、地べたに座って休憩している人々がアイティラに気づいてちらりと見た。
「あの子こっち来てるけど、誰だか分かるか?」
「あれじゃないか?隊員の誰かの子供で、こっそり父親に会いに来たとか」
「ああ、なるほどな。...でもあの子、どっかで見たような気がするんだよな」
アイティラは赤剣隊の隊員たちの傍を通り過ぎて、見知った人物のもとまで進んでいく。その人物は、自身に近づいてくるアイティラを見て、眉をしかめて困惑している様子だ。
「ええと、お嬢さん。ここは赤剣隊の訓練場だ。どうやって入ってきたのか分からんが、お嬢さんが来るようなとこではないよ」
そう言ったのは、赤剣隊の副隊長だ。副隊長はアイティラに気づいた様子もなく、膝を折って視線の高さを合わせると優しげな声で言った。
それに対してアイティラはわずかに目を細めると、その手に赤い剣を作り出す。
すると副隊長はぎょっとして、手に持っていた槍を取り落としそうになった。
「まさか指導者さまだったなんてな。いつものローブ姿じゃないと分からん」
副隊長はそうぼやくと、改めてアイティラの姿をまじまじと見た。
アイティラは剣を消すと、後ろの方で訓練をしている赤剣隊の面々を振り返って言った。
「赤剣隊の人数、なんか増えてない?」
「ああ、それか」
副隊長はどこか疲れたような声でため息をついた。
「反乱の最中に赤剣隊でも大勢の死者は出たが、終わった後に入隊したいってやつが多くいてな。死んだやつよりも、新しく入ってきたやつの方が多かったって話だ。...まあ、紅の騎士団が一切の容赦もなく俺たちこの都市の人間を殺すものだから、伯爵様が負ければ自分たちがどんな目に合うか分かったもんじゃねえからな」
副隊長は、未熟な動きで槍を突き出す彼らを見ながら小さくこぼした。
「俺たちも、死にたくねえからよ」
アイティラは副隊長の横顔を静かに眺めていた。
しばらく反乱後の様子を副隊長から聞いた後、副隊長がレイラのもとに案内してくれることになった。
副隊長の後ろを付いていくと、先ほどからずっと見えていた大きな倉庫のような建物へと進んでいくようだった。僅かに埃っぽい匂いがするその倉庫の中を進むと、こちらに背を向けたままの栗色髪の人物の後ろ姿が見えてきた。
足音に気づいていない様子の彼女に、副隊長が声をかける。
「隊長」
「ひゃあ!」
レイラは肩をはねさせて奇声を上げた。その拍子に、レイラのすぐそばに立てかけてあった沢山の剣の塊が倒れて、やかましい金属音が建物内に響き渡る。
副隊長が眉を寄せていると、涙目のレイラがこちらを振り向いた。
「い、いきなり声をかけないで...」
レイラがそこまで言い募ると、副隊長の横にいたアイティラと目が合った。
レイラの目が見開かれる。
「あ、アイティラさん!え、えっと、久しぶりにお会いしますね!」
レイラは手をワタワタさせながら口早に言った。
アイティラは、レイラの様子が変わっていないことに不思議と安堵し、レイラの方へ一歩進みながら建物内を見渡した。
この建物はどうやら武器庫のようで、剣や槍が大量に保管されている。またそれだけでなく、鎧や弓、それと大量の盾まであった。
「レイラはここで何してるの?」
「あ、はい、えっと。これです」
レイラは手に持っていた紙をアイティラに見せた。
紙には剣や槍などのそれぞれの絵が描かれていて、その横に数が記されている。アイティラはいまいちよく分からず、レイラを見た。
「え、えと、赤剣隊も人数が増えたので、ここにある武器を皆に渡そうと思ってるんです。あ、もちろん許可は取りました。は、伯爵様に。緊張しましたけど」
「へえ」
レイラは指を突き合わせながらも、誇らしげにそう言った。
その後、レイラが武器を数えているところを、アイティラは朽ちかけた木の椅子に座って眺めていた。
副隊長は自分の持ち場に戻ると言って消えてしまったので、この広い倉庫にいるのはレイラとアイティラだけだ。この時に、主にしゃべっていたのはレイラだった。
赤剣隊の隊長として隊員たちの前で話すのが初めは怖かったが、最近は話せるようになってきたこと。伯爵に会った時には緊張のあまり気絶してしまったことなど、最近の様子を取り留めもなく話していく。
それらの話の中では、レイラが失敗する話が多かったが、話の最後には必ず前向きな言葉が入っていた。
そこにはアイティラの良く知っている悪意など微塵もない。楽しそうに話すレイラの姿に、アイティラはいつしか返事を返すことも出来ずに俯いてしまっていた。
「......」
アイティラに背を向けて話続けていたレイラだが、アイティラからの返事が無くなったのを不思議に思い振り返る。そして、俯いた姿のアイティラに驚いて目を見張った。
「え、あ、アイティラさん?どうしたんです?もしかして、何か悪い事言っちゃいましたか!?」
レイラは慌てた様子で戸惑いながら、自身の言葉を振り返る。
そして、見当違いな謝罪をし始めた。
しばらくして、レイラが戸惑って意味を成していない言葉を口にし始めたとき、ついにアイティラは椅子から飛び降り、コツコツと音を鳴らしながらレイラの前まで進み出た。
突然近づいて来たアイティラに、レイラの混乱はさらに加速する。
しかし、それはアイティラがレイラの服の裾を掴みながら、見上げて言った言葉によって消えてしまった。
「ねえ、レイラ。私、吸血鬼なの」
レイラはぴたりと動きを止めて、アイティラを見た。
アイティラの真っ赤な目は、真剣な色をたたえていた。
「え...」
レイラの口元が、言葉を紡ぎだす。
「え、きゅうけつ...えと、な、なんですか、それ?」
レイラは初めて聞いた言葉に困惑した表情で答えた。
その様子にアイティラは静かに服を掴んでいた手を離すと、レイラからくるりと背を向けた。
「なんでもない。私もう行くね。また会いに来るから」
確かな足取りで帰っていくアイティラの背を、レイラは困惑したまま見送っていた。




