はねの折れた鳥
炎が晴れた先、そこにいたのは剣に炎を纏わせたイグリスの姿だった。
剣から吹き上がる炎はゴウゴウと音を立て、形を変えながら揺れている。
そして、そのすぐ傍にいる少女の姿をした化け物は、裾が焦げて綻んでいるローブを手で押さえていた。
それを馬上から見下ろしていたイグリスは、顎を上げて吠えるように叫んだ。
「もはや貴様を、ただの小娘だと侮ったりはしない!蒼の騎士団が取り逃した吸血鬼と断定して、ここで討伐するッ!」
イグリスは馬上から軽やかに飛び降りると、少女の前に立ち対峙した。
少女が顔を上げ、イグリスを睨みつける。しかし、イグリスはその様子を鼻で笑ってやった。
そして、先制攻撃を許さないと言わんばかりに剣先を少女へと向け、飛び出した。
炎を後ろにたなびかせて、鋭く断ち切る一撃が少女へと襲い掛かる。
少女はその剣を受け止めようとし、その直前で何かに気づいたように大きく後ろへと避けた。
イグリスの剣に纏わりついていた炎が、燃え上がる様な勢いで少女の左手の方へと伸びて行ったのだ。
身をそらして着地した少女に対し、イグリスは口の端を持ち上げた。
「ふんッ!その手の中の物がよほど大事なようだ。魔道具か?だが、使わせる隙も与えん!」
それはこの少女が大事そうに持っていた、赤い石が埋め込まれた何かだ。それが何かは分からないが、手に持っているのには何か理由があるのだろうとイグリスは考えた。
そして、実際に大げさなほど避けた姿から見て、その手の中の物は重要なもののようだ。
もし魔道具なのだとしたら、下手に使わせることは危険だ。ならばその隙すら与えないとばかりに、イグリスは剣を振るう。
剣から迸る炎が少女のローブの端を焦がしていく。
左手のものを狙えば、この化け物は大げさなほど回避するのだ。
だからこそ、イグリスも執拗に狙って追撃を加えていく。
「どうした吸血鬼!逃げてばかりでは、私は殺せないぞ!先ほどの大言壮語ははったりだったのかッ!?」
わずかに届いた炎が、吸血鬼の頬を焼いた。しかし吸血鬼は、翼をはためかせて後ろに下がっていく一方だ。そして、後ろに下がれば当然、そこには騎士たちが控えている。
背を向けたままの吸血鬼めがけて、二人の騎士が声を出さずに必死の表情で剣を振るった。
しかし、それに対して吸血鬼はぐるりと半身を回転させると、流れるような滑らかさで二人の胴体を真っ二つにした。
イグリスは舌打ちして、吸血鬼との距離を詰める。
「お前たちは手出しをするな!後は私がやるッ!」
そして吸血鬼へと肉薄する。その時、吸血鬼の顔が間近に迫り、イグリスはフードの下に隠されていた吸血鬼の顔を見てしまった。
その幼い少女の顔は、目は鋭く細められ、強い苛立ちをこらえるように歯を噛みしめていた。
その表情は、強い苛立ちを現していた。
それを視認した瞬間、イグリスの腹に鈍器で殴られたような衝撃がはしり後ろに吹き飛ばされた。口から空気が吐き出され、吐き気が喉元までこみあげてくる。そして気づいたら、目の前にはひびの入った石畳の地面が映っていた。
「...!...!?」
理解が遅れてやってきて、何が起こったのかイグリスは感じ取った。吸血鬼がイグリスの腹を蹴ったのだ。
だが、ただの蹴りでもその威力は異常だった。サーコートの下にある鎧はありえないほどにひん曲がり、内臓がかき乱されるような痛みが全身を襲っている。
吐き出された空気を取り戻そうと乱れた呼吸で必死に意識を保ちながら、イグリスは吸血鬼のほうをみた。吸血鬼は倒れているイグリスを見下ろしながら、ゆっくりとこちらに近づいてきている。
イグリスは地面に剣先をつけて立ち上がろうとしたが、石畳に剣は突き刺さらずに前のめりに倒れこむ。
そして、近づいてくる吸血鬼の足音を聞いて顔を上げた。
先端からぽたぽたと血を滴らせている赤い剣が、その目にはっきりと映し出される。
イグリスは歯を噛みしめながら、血走った眼で化け物を睨んだ。
見下ろす瞳はどこまでも冷ややかだった。
「こっちだ、化け物!」
「!?」
しかし目の前まで近づいていた吸血鬼の姿は、大きな影と共に横に流れて消え去った。次いで何か重いものが倒れた音と、硬質なものが石畳の上をはねる高い音が遅れて聞こえてきた。
「イグリス様ッ、早くお逃げください!」
「ハイ...リ...」
そこには乗りかかるようにして吸血鬼を押さえているハインリヒの姿があった。馬も一緒になって倒れている。ハインリヒが馬ごと吸血鬼に向かって突進したということだろう。
その間に生き残りの騎士たちも駆けてきて、イグリスは助け起こされる。
どうやら自分は助かったようだと、イグリスは回らない頭の中で考えた。
しかし、イグリスがよろめきながら立ち上がった時、三つの悲鳴が飛び交った。顔を上げた先には、ハインリヒを助けようと向かった騎士たちが、何処から現れたのか分からない赤い槍に貫かれているところだった。
「早くお逃げくださいイグリス様!この化け物は、我々の手に余ります!」
崩れ落ちた瓦礫と立ち昇る砂埃から、ハインリヒの叫び声が聞こえる。イグリスは乱れた呼吸を押さえつけて、自分の中に芽生えた恐怖心を奮い立たせるように言った。
「待ってろッ、ハインリヒ!いま、わたしがーーー」
「来てはいけませんッ!今ここで一番まずいのが、我々が全滅することです!そうしたら誰が、この化け物のことを報告するのですかッ!」
イグリスは、苦痛と悔しさで顔を歪めた。
「私に逃げろというのか!お前を見捨てて逃げろだとッ!」
「ここは誇りよりも義務を優先するべきです!どうか正しきご判断をッ!ぐッ...」
「ハインリヒッ!」
痛みに呻くくぐもった声が聞こえたことで、イグリスはハインリヒの名を叫んだ。しかし、声は返ってこなかった。
舞っていた砂埃が風に流され、その奥の惨状が見える。そこには、腹に赤い槍を生やして血を流しているハインリヒの姿と、その横で不気味な翼を大きく広げている吸血鬼の姿があった。
それを見た瞬間にイグリスの頭には血が上り、痛みすら感じなくなっていた。
「貴様アアアッ!」
イグリスは、もはや炎すら消えた剣を力任せに振りかぶる。しかし、その剣はいともたやすく防がれてしまい、傷一つつけることは敵わない。こちらを見据える吸血鬼の瞳は、冷たい色をしていた。
そして、力任せの剣は簡単に態勢を崩される。胴ががら空きになったイグリスは、こちらに向けられた剣先を見て自らの失態を思い知った。この距離ではもはや避けることすらできない。
だが、血を流したのはイグリスではなく、その前に滑り込んできた騎士だった。
イグリスの頬に生暖かい血がかかり、イグリスは目を見開いた。
「団長ッ!」
後ろか聞こえる騎士たちの怒号に、イグリスは歯を食いしばった。
そして、飛びのくように吸血鬼から距離を取ると、彼らに向かって空気を震わすほどの叫びを上げた。
「撤退ッ!即座に撤退だッ!王都へ戻るぞ!」
「「ハッ!」」
イグリスは近くに駆けてきた愛馬を見止めると、即座に飛び乗った。生き残った騎士たちは、その後ろを守るようにして並び立つ。馬に飛び乗ったイグリスはぬぐい切れない不安から後ろを振り返り、恐ろしい化け物の姿を見て息を呑んだ。
吸血鬼のすぐ横に、あの悍ましい色をした槍が浮かび上がってきていたのだ。まるで影が光を侵食するかのようにゆっくりと、光の粒子から槍が作り出されていたのだ。
そして吸血鬼は間違いなく、イグリスの方を見据えていた。
あの槍がどんな光景を生み出したのか、ここにいる皆が知っている。
イグリスも、騎士たちも、これから起こるであろう惨状を思い浮かべ、血の気が引いていった。
あの槍が射出されれば、おそらく防ぎようがないだろう。
緊迫感の漂う中、小さなうめき声が聞こえた。
「ッ!」
イグリスからは見えた。先ほど腹を槍で貫かれたと思っていたハインリヒが、吸血鬼に向かって地面を這って進んでいるのを。片手に赤い槍を持って、もう片方の腕で地面を進んでいる。
口からはおびただしい血が流れ、血走った眼は吸血鬼のみを見据えている。
そして、ズルズルと引きずる音に吸血鬼は気づいたのか、後ろを振り返ろうとした。
イグリスはその瞬間しかないと思い、馬首を城門へと向けた。
「...くそッ!」
イグリスは吐き捨てると、ハインリヒから目を離し一直線に前を見据えた。
馬が高く嘶きながら、高らかに蹄の音を響かせる。
その後ろに続くように、幾重にも重なった蹄の音が地面を踏み鳴らす。
後ろから風切り音が聞こえてきた。不気味な唸りを感じさせるそれは、鋭い音と、地面に崩れ落ちる鈍い音を背後に残して消え去った。イグリスはその音について考えないようにして、ただ馬を駆る。
来た時の同じように死体の転がる静かな道を駆ける。明るく照らし出された、あまりにも異質な道を。
そして、ついに遠くの方に城門が見えてきた。
そこには紅を纏った騎士たちが慌ただしく動いていた。
一人の騎士が駆けてくるイグリスに驚き、声を上げようとしたがそれより先にイグリスが告げる。
「お前たち、撤退だ!今すぐ反乱の鎮圧をやめさせ、王都まで撤退させろッ!」
突然の指示にその場にいた騎士たちが驚いているのが分かったが、イグリスはそのまま城門へと駆けていく。そのまま跳ね橋の前まで駆けて、イグリスは急いで馬を止めさせた。
跳ね橋は半分以上あがっており、今もなお上昇を続けていたからだ。
「なっ、なぜ跳ね橋を上げている!?すぐに下ろせ!」
そこに城門前にいた一人の騎士が駆けてきて、焦った様子のイグリスとその後ろに連なる鬼気迫った表情の騎士たちに困惑しながらも、口早に伝える。
「それはできませんッ」
「なぜだッ!」
「どこのものか分からない集団がこの都市へ向かって来ているからです!あちらをッ」
その騎士が指さす先をイグリスは見た。
そこには馬に乗ってこちらへ向かっている集団があった。
統一された鈍い銀色が光を反射している。長く伸びたその特徴的な槍がイグリスには見覚えがあった。
「なぜ...ここに...。それに、今あの人物は王城にいるはずだ。どうしてここにいるんだ!」
そこにいたのは、かつては国境の護り手として名を馳せていたが、今は凋落している貴族の軍だった。
「コーラル伯爵...」
彼らは槍を携えて、一直線に城塞都市エブロストスへと向かって来ていた。




