赤き剣の指導者
城塞都市エブロストスの中心には、そこで生活している人々を見下ろすようにして重々しい雰囲気の巨大な城が聳え立っている。かつてその城は、この都市の住人にとって偉大な領主が居を構え、人々に安心を与える城だった。いつもその城から彼らの領主が鎧をまとって出軍し、勝利をもって凱旋するための場所だったのだ。
しかし今では、その城は恐怖を与える城だった。高く聳え立つ固い城壁は、もやは立ち向かうことなどできないと民の心を挫くには十分だった。そんな城の一室にて、一人の男が酔いしれる。
「ははは、ついに、ついにこの私が認められる時が来たのだ!」
そうクツクツと笑みをこぼしているのはザビノス子爵。現在このエブロストスを治めている貴族である。
ザビノス子爵は手に持っていたグラスを傍の机に置くと、その部屋にある小さな窓から都市を見下ろし、再びクツクツと笑みをこぼす。
「馬鹿な男だ。流れに身を任せさえすれば何も問題はないというのに、抵抗しようとするから苦しむのだ。なあ、コーラル伯爵よ」
ザビノス子爵は嘲るように目を細めて城下を見やる。そこに広がるのはいつもと変わらない、つまらない都市の姿だ。
「ほんとうに馬鹿な男だ」
コーラル伯爵。ザビノス子爵はその名前を昔から知っていた。
王国の国境を帝国の手から守り続ける、武勇に優れた人物であると。聞こえてくる話はそんなものばかりだった。ザビノス子爵はその評判が気に入らなかったが、だからと言って伯爵位を持つ中でも上位の貴族であるそんな男との関わりもなかったので、気にしないように過ごしていた。だが、あの宰相の話によってすべてが変わった。
『君に城塞都市エブロストスの統治を任せたいと思っている』
初めは耳を疑った。だが、本当だった。詳しくは知らないがコーラル伯爵の息子が罪人として処刑され、あの伯爵は領土のいくつかを失ったのだそうだ。そして統治者のいなくなったこの都市を、宰相はザビノス子爵に任せたいと言ったのだ。
その時の宰相の言葉を聞いて、ザビノス子爵は何とも言えない感覚を味わった。自分より上の貴族が落ちぶれて、その地位を自分が奪う。そのとこに、奇妙な幸福感が身体を駆け巡ったのだ。
結果、ザビノス子爵はその場で頷き、のちにエブロストスの統治を国王より認められた。問題を起こしたコーラル伯爵は、残った領地の中にある一番大きな町へと居を移されて。
そしてそれから月日がたち、現在そのコーラル伯爵はもう少しで爵位を剥奪される。そうすれば、現在コーラル伯爵が持っている領地までもが自分のものになるかもしれない。かつては自分よりも上に立っていた男の全てを奪ってやれると思うと、その瞬間が待ち遠しくなる。
ザビノス子爵は一週間前に見たコーラル伯爵の顔を思い浮かべながら、その口元を嫌らしく歪めた。
「失礼します。子爵様、ただいまよろしいでしょうか?」
ザビノス子爵が悦に浸っていると、それを邪魔するように扉の外から声がかけられた。ザビノス子爵は不機嫌そうに鼻を鳴らすと、扉に向かって入室の許可を出す。
すると、扉を開けて鎧をまとった若い男が入ってきた。
「なんだ?」
「報告したいことがございます」
鎧をまとった男はきびきびした動きで入室すると、ザビノス子爵の前で敬礼した。
「まず初めに、最近この都市の南部を中心に出回っていた貼り紙なのですが、犯人の手掛かりが見つかりました。どうやら貼り紙を貼っているのは黒いローブを纏った子供で...」
その報告を聞いた瞬間、ザビノス子爵は不機嫌に顔を歪める。
「それだけか?」
「は?」
間抜けな顔で問い返して来るその男に、ザビノス子爵は不満と怒りを滲ませた声で怒鳴った。
「それだけかと言ったのだ!私はその逆賊を捕らえろと命令したはずだ!その逆賊の特徴などどうでもよいわ!」
「も、申し訳ございません。それが、まだ捕らえることができておらず...」
「だったら、さっさと探し出して連れてこい!」
ザビノス子爵はその兵士を睨みつけると、机の上のグラスを持ち上げて口元に引き寄せた。
「それで、報告は以上か?」
「いえ、もう一つございます」
ザビノス子爵はさっさと済ませろとばかりに、その兵士に顎をしゃくった。
「実は、先日路地裏にて二人の兵士が殺害されていたことは報告したと思いますが、あれから新たにもう二人の兵士が何者かに殺害されました」
ザビノス子爵は静かに口を閉じた。つい先日、二人の兵士が殺されたと聞いたときは、その兵士が個人的な恨みを持たれて殺されたのだと思って気にしていなかった。しかし、あれからまた殺されたとなると問題だ。ザビノス子爵はグラスを手に持ったまま虚空を睨む。
「それに関係するかは分かりませんが、この都市の南部で子爵様に反旗を翻そうと扇動している人物がいるそうです」
「扇動だと?」
「どうやらその者は早朝に井戸の周辺で講演を開いていたらしく、賛同者もすでに出始めているそうです」
兵士がそこまで報告すると、あたりにガラスが割れる音が響いた。ザビノス子爵の手にあったグラスが地に落ちて、粉々に砕け散っていたのだ。
兵士がぎょっとしてザビノス子爵を見つめると、ザビノス子爵は手を強く握りしめながら、怒りをこらえるようにして震えていた。
「この大切な時期に、余計なことをしてくれる」
ザビノス子爵は地面に散らばったガラスの破片を踏みつけると、兵士の方を睨みつけ高圧的に言い放つ。
「兵を集めろ!」
「は、はッ!」
鎧の兵士がかけていく足音を聞きながら、ザビノス子爵は都市を見下ろす。その口元は、残忍なまでに歪んでいた。
「よくもこの私を侮ってくれたな。全員捕らえて処刑してやる」
***
まだ日が昇り始めたばかりで冷たい空気が支配するその場所で、しかし人々は静かなる熱狂をその身に灯していた。彼らが一堂に会して見上げているのは、一人の少女。黒色のローブを身に纏い不思議と人々を引き付ける、異彩を放つ少女である。
「怯える必要は無いの。あなたたちはただーーー」
少女はその小さな体で人々に訴えかけている。その少女の言葉は、今まで苦しめられてきたエブロストスの住民の心にするりと入り込み、無謀だと押さえつけていた怒りに油を注ぐ。
「俯いてるとその間にあいつらはすべてを奪っていく。家族も、自由も、生きる意志さえーーー」
なぜかと問われれば、きっとこの少女の言葉が熱を持っているからだろう。隠すこともない憎悪が、怒りが、怯えていた心を揺さぶるのだ。そしてその少女の傍で、レイラは思う。
この少女はやはりすごいと。
昨日この場所で行った演説は、その場にいた人々の心を掴んだ。あの後、その場にいた人々は反乱を起こすことに協力し、賛同者を集めることを約束してくれた。事実、今この場には昨日集まっていた人々だけでなく、さらに多くの人が集まっていた。昨日は広く思えたこの広場が、狭く感じられるほどに。
「だったら奪われないためにどうすればいいか、あなたたちは知ってるでしょ?」
「反乱だ!領主を殺せ!」
そして、昨日アイティラと言い合いをしていた初老の男は、今日では一番大きな声を出している。戦場のことを知っていると言ったのは本当だったのか、手には長い槍を携えてこの場に集まっている。さらに、その男の傍には同じように槍を携えたガタイの良い男たちが集まっていて、レイラが近づきたくないと思えるほどの威圧感を醸し出していた。
「そう。あなた達みんなが武器を手に取れば、あの兵士たちも領主も恐れることはないの。だからあなたたちも立ち上がって、一緒に領主をやっつけよう」
そして、この日も昨日のようにアイティラの話が終わった。この場に集まった彼らのまなざしには、初めにはなかった希望が宿っている。
レイラは彼らの顔を見て、やはりアイティラはすごいと思った。
この少女は、不思議と人々の視線を引き付ける。その言葉は、人々の心に入り込む。小さき少女の身でありながら何者をも恐れないその姿が、意思を砕かれたこのエブロストスの住民にはあまりにも眩しいのだ。
それ故にこの都市の人間は、その自信に満ちた姿を、光に吸い寄せられる虫のように求めてしまう。たとえその光が、その身を焦がす炎だとしても。
そして、だからこそレイラは思う。そんな少女の近くに自分がいて何か意味があるのだろうかと。
「ギャアアアアアー!!」
「!!」
レイラがアイティラの後ろ姿をぼんやりと眺めていると、すぐ近くから悲鳴が聞こえた。突如響いた悲鳴に、レイラははじかれたようにして声がした方向に振り返る。そしてレイラは目を見開いた。
そこには血を流して倒れている男と、血に濡れた剣を手に持っている鎧姿があったのだ。
「あ、あっあっ」
レイラは意味のない言葉を口から漏らし、後ずさる。目の前に広がるその光景を認めたくはなかった。
なぜなら日の光を反射して輝くその鎧は、一つではなかったからだ。
そこには見えるだけでも百はいるであろう、武装を整えた兵士たちが整然と並んでいた。
レイラは縋るように人々の顔を見た。先ほどまで反乱を声高らかに謳っていた民衆たちの顔をだ。
そしてレイラはその瞳をかぼそく揺らした。
彼らに先ほどまでの威勢はなかった。突然喉元に突き付けられた刃に、彼らもレイラと同じように恐れてしまっている。
「子爵様、お下がりください!我らがここにいる者たちを一人残らず制裁いたします!なっ、子爵様?」
「この者達を集めた奴の顔を見てみたい。そいつだけは後で見せしめとしたいからな」
レイラがこれから起こることに身を震わせていると、鎧をまとった兵士たちの中から一人だけ馬に跨った男が現れた。豪華な衣装に身を包み、口ひげを蓄えたその男は無遠慮にこちらを覗き込んでいる。
その男がレイラの方を見た。
「ひっ」
「貴様だな?」
レイラは身を跳ねさせたが、男の視線はレイラの頭の上へと向けられていた。木箱に立った黒ローブの少女アイティラにだ。
レイラには分からない。今自分の後ろにいる少女がどんな表情をしているのか。だかこの時ばかりは願ってしまう。いつものように、怯えを感じさせない姿でいてほしいと。
「あはは、やっと顔を見せてくれた。元気そうで良かったよ、領主サマ」
そしてレイラの願いに答えるように、余裕を感じさせる少女の声が聞こえてきた。根拠のない安心が、レイラの心にわずかばかりの安堵を与えてくれる。
「ん?その顔、どこかで...」
「不遜な口を利くな、逆賊どもめ!子爵様、こいつらを打ち殺す許可をお与えください!」
馬に乗った領主が何かを呟いていたが、前にいた騎士の声にかき消された。それに領主は眉をしかめると、こちらを忌々し気に見据えて口を開いた。
「いや、今はよいか。命ずる!そこにいるローブの小娘以外の全てを殺せ!私に逆らった罪を与えるのだ!!」
「「はッ!」」
兵士の声が一つに揃う。それはこれから行われる惨状の始まりの合図だった。
余りにも突然下された死刑宣告に、レイラの足はすくんで動けない。その間にも、兵士たちが統率の取れた動きで進んでくる。日の光に照らされて反射する、冷たい銀の輝きが無慈悲にきらめく。
兵士たちに近いところにいた人々が、恐怖に顔を歪めて後ずさる。もしこの中の誰かでも背を向けて走ろうものなら、すぐにでも一方的な蹂躙が始まってしまいそうな一触即発な状態が蔓延する。誰もが兵士から離れようとする中、しかし、民衆の中から数人が彼らの前へと進み出た。
「危険を承知で参加したが、こんなにすぐに訪れるとはな」
「お前はともかく、わしらは今日が初参加だぞ?まあ、連れてきてもらったことは感謝してるが」
それは槍を持った男たちだった。初老の男を先頭に、長い槍を携えた男たちが先頭へと躍り出たのだ。
兵士たちの動きが止まる。鎧をまとった彼らの先頭の一人が、それを見て嘲り声を上げた。
「槍一本で、それもその人数で立ちはだかるとは、逆賊の考えることはやはり理解できないな」
そして、すでに血に濡れている剣を構えてその男に視線を定めた。
それに対して、槍持ちの男が口元を歪める。
「俺たちゃ今まで逃げてきたがな、それでもあのお方と一緒に戦場駆け抜けてきたんだ。一人で二人は持っていくぞ」
男はそれだけ言うとこちらを振り向き、後ろのアイティラへと視線を送った。
「お嬢さん、昨日言ってただろう。たとえ戦死しても、その死に意味を与えてくれると。だったらこの反乱、絶対成功させてくれ」
男は言い終わると、レイラに視線を合わせた。そして一度顎をしゃくると、男の視線は再び前へと向けられてしまった。
言葉少ない合図、しかしレイラにはその意味が伝わった。この男は、自分にアイティラを連れて逃げろと言っているのだと。
レイラはそのことを察してしまい、強く唇を引き結んだ。
レイラはこの男と話したこともなかったし、知ったのは昨日が初めてだ。それでも、死を覚悟している人を残していくのはつらかった。まるで、あの時と同じ光景で。
「行くぞッ!」
男が声を上げた。男たちの槍が兵士達へと向けられる。それに合わせて、鎧の兵士たちも剣を構えて男たちへと迫った。いよいよ始まる。レイラはアイティラを逃がすよう言われたのに、それでもなお動けなかった。あの男たちが生き残るという、ありもしない希望を願って。
「お願い、助けて!」
だからこそ、レイラはその言葉を口にした。誰に向けたのかも分からない言葉を。
「分かってる」
そして、声が聞こえた。透き通った綺麗な声。
黒のローブが翻った。風によって広がり、その小さな姿を大きく見せる。
アイティラが、戦っている彼らに向けて駆け抜けた。
「なッ、なんでこっちに来る!早く逃げろ!」
男が声を上げるも、その速度は鈍らない。
そして、血が舞った。
「あ、が」
先頭にいた兵士が、その胴体を真っ二つにされていた。鎧など初めから無かったかのように、あっけなく人の身体が切り落とされた。
「確かに言った。それでも、こんなところで死なせるつもりはないよ」
少女の黒の髪に赤がかかる。そして少女の瞳は、すでに次の獲物を見据えていた。
突如起こった出来事を理解できていない兵士たちを、強引に剣でねじ伏せる。そこに美しさなどありはしない。獣がその爪で無理やり切り裂くような、ただの暴力のみがその剣に宿っていた。
「貴様は!コーラル伯の所にいた女か!なぜ貴様がここにいる!」
馬に乗った領主が、目を見開いて少女を指さす。
少女はそれに楽しそうに目を細めながら返答する。
「あなたから取り戻しに来たの。伯爵から奪ったものすべてを」
そして兵士の首が、また落ちる。兵士たちはその光景に動揺して、鎧のぶつかる音が響き渡る。
「くッ、何をやっている!もはや捕らえる必要は無い、その女を今すぐ殺せ!」
ザビノス子爵の叫び声に、兵士たちはアイティラめがけて剣を振り下ろす。しかしその剣は、横から現れた槍によって阻まれた。
「俺たちもいるんだ。忘れるなくそったれ」
そして、槍に阻まれた彼らの身体も少女の剣に切り裂かれる。血の色よりも鮮やかに輝く赤い剣によって。
辺りに血の臭いが広がった。兵士たちは、目の前の信じられない光景に、その足が一歩後ずさる。
鎧をまとった兵士たちは、この時間違いなく怯えていた。
「おい!お前たち、何をしているんだ!あんな小娘一人に、何を怯えているッ!」
ザビノス子爵は、馬の上から声を上げる。しかし、兵士たちの耳にはもはやその声は届いていなかった。
目の前の少女のみに、その意識が向けられている。
「命令だ!さっさとそいつを斬りころーーー」
「ねえ、領主サマ?」
そして、額に汗を流しながら檄を飛ばすザビノス子爵に少女が静かな声をかけた。
それにより、ザビノス子爵の声がぴたりと止まる。
「追いつめられるのはどんな気持ち?」
少女がそういった瞬間ザビノス子爵の目が大きく開かれ、少女と相対している兵士たちの震えが大きくなった。
彼らの顔は恐怖で歪んでおり、信じられないものを見たかのようだった。
「ば、化け物だ!化け物だ!」
兵士の一人が、そう叫んで逃げようと足を動かした。しかし、隣にいる兵士にぶつかり、彼らともども倒れてしまう。それを皮切りに、恐怖が限界に達したのか残りの兵士たちも次々と叫び声を上げ逃げ出そうとする。
馬上にいるザビノス子爵も、兵士たちの逆流に身動きが出来ず馬が荒ぶって嘶いている。
そして、混乱している兵士たちの命を赤い剣が一つ一つと刈り取っていく。
長い惨劇が終わった後、そこにはたくさんの兵士たちの死体と、呆然とその光景を見つめるエブロストスの住民の姿だけが残された。
少女がこちらを振り向き、残酷に笑んだ。
「言ったでしょ?私も協力するって」
血に濡れた黒を纏った少女は、その鮮やかな赤い剣を掲げる。
「私たちは、あの領主に反乱を起こした。そしてこれが、私たちの象徴」
レイラはこの少女と出会ったきっかけである貼り紙のことを思い出した。
たしか、こう書かれていたはずだ。
『悪い領主をやっつけよう。武器を手に取り、立ち上がろう。自由を求める人たちは、赤き剣のもとに集まれ』
人々は皆、息を呑みこみ少女の言葉を聞いていた。そして、次の瞬間爆発するような歓声が広場を駆け巡る。この日、赤き剣のもとに集った彼らは、初めての勝利をその身に味わった。
これからも忘れることがない、初めての高揚をこの日味わったのだ。




