はじまりの赤い剣
冷たい空気が広がる都市の中を、二人の人物が歩いていた。
「今日は寒いね。空も暗いし、この都市の雰囲気にぴったりだ」
一人は黒のローブを纏った少女だ。今はそのフードが外されており、肩のあたりで乱雑に切られた黒髪が、歩くリズムに合わせて揺れている。その手には十数枚ほどの、何やら紙束のようなものを持っている。
「ね、ねえ、アイティラ...さん。ほ、本当にやるんですか?」
そしてその後ろをついて行くのは、栗色の髪をした若い女だ。
常にあたりを見回しながら進んでいるその様子は、明らかに挙動不審で悪目立ちしている。
「あなただって同意したじゃん。それより、人が集まる場所ってまだ着かないの?」
「も、もう少しで着くから。みんな朝早くに水を汲みに来るし、きっと今ならいるはず」
二人がそんな話をしながら歩いていくと、やがて少し開けた場所に来た。
その開けた場所の中心には井戸があり、その井戸を中心に石畳が円を描くようにして模様を描いている。
そしてそこには、大きめのバケツを持った人々が二十人ほど列を作って並んでいた。
どの人物も、衣服は粗末でその顔は俯いている。
アイティラはその様子をしばらく見つめると、あたりを観察するように見まわした。
やがてある一点で視線を止めると、隅に置いてあった木箱へ近づき、その木箱を持ち上げた。そしてそのまま少女が持つにはいささか大きい木箱を運び、栗色髪の女の近くでそれを下ろした。
井戸の前で列をつくっている人々は、不思議な行動をする少女の方をちらちらと気にしている。
少女はその木箱の上に足をかけて乗ると、少女の方を見ている民衆の方へとその赤い瞳を向けた。
ーその瞳が妖しく細められ、紙が空を舞った。
辺りに大きな音が響き渡り、俯いていた人々は空を見上げた。
それと同時に強い風が吹き、空へと浮かんだ紙が高く押し上げられる。
見ていた人々は何が起きたのか理解した。少女が、その手に持った紙束を盛大に天へと投げたのだ。
人々の視線が少女のもとへと集中する。
しかし少女は木箱の上に乗ったまま、一言も口を開くことをしない。その少女の傍らに立ち、所在なさげに右往左往している栗色髪の女だけが忙しく動いているという奇妙な静寂が広がった。
やがて舞い上げられた紙が、風に運ばれて人々の元へと運ばれる。
「エブロストスの人たち、初めまして」
紙が人々の前に落ちたのと同時に、少女が透き通る様な声で話し始めた。
「私はアイティラ。今日はあなたたちにお話があってきたの」
そう語る少女の声は、幼さを残した高い声だったがどこか怪しい響きがあって人々の耳にするりと入り込む。エブロストスの民たちは、列をつくったまま横並びで黒を纏った少女を見る。
「まず初めに、そこにある貼り紙を見たことがある人はいる?知ってるでしょ?私はここら辺にもこの貼り紙を貼ったから」
人々の視線が地面に落ちた貼り紙へと向かい、人々のなかに小さなざわめきが起こった。
小さな動揺は人々に伝播し、あたりに困惑が広がっていく。
「見てわかるように、私は今の領主に反対する人を求めてるの。今の領主にあなたたちが苦しめられていることは知っている。だから一緒に立ち上がって、私に協力してほしい」
少女は片手を前に掲げて、彼らの方を見つめ続ける。
少女の言葉を聞いた彼らのざわめきが大きくなり、彼らは互いの顔を見合わせている。
その顔に浮かぶのは、明らかな疑念と恐怖。だれがこの少女に言葉をかけるか、互いに様子をうかがっていた。
少女の傍らに立っている栗色髪の女が、少女のローブを小さく引っ張り、慌てたように何かを話している。
「すまない」
顔を見合わせていた人々の中から、初老の男が声を出して一歩進み出た。
栗色髪の女がローブを離し、少女の赤い瞳がその男へと向けられた。
「お嬢さん。まず初めに聞きたいのだが、それは本気で言っているのか?」
「どうして疑うのか分からないけど、私は本気だよ」
その男は鋭い瞳で少女のことを睨みつけていて、明らかに友好的な雰囲気ではない。
少女はその男の問いに、小首をかしげて応じて見せた。
その様子に男の瞳が悲し気に揺れた気がしたが、すぐにまた鋭い瞳をたたえると再び口を開いた。
「だったら今すぐにそんなことはやめた方がいい。続けていても、お嬢さんが苦しむだけだ」
「私が苦しむ?あなたは何を言っているの?」
「お嬢さんには分からないかもしれないが、希望を語るだけでは理想は実現しないんだ」
その男は、静かに語り掛けるようにして少女へと口を開く。
その言葉に、エブロストスの人々の瞳にもどこか暗い影が落ちた。
少女はその様子に、苛立つように眉根を寄せた。
「希望を語るだけじゃない。その貼り紙に道は標してあげたもの。この都市にいる人たちがみんな武器を持って立ち上がれば、今の領主を追い出すこともできる」
初老の男は口を引き結び、その瞼をゆっくりと閉じた。
まるでどこか昔を思い出すかのように。
「俺ぁ、昔は戦場で戦ってたからよくわかる。今ここで、立ち上がっても無駄死にするだけだ」
「無駄死になんてしない」
「いや、する」
そう断言した男の言葉に、周囲の人々のざわめきがどんどんと消えていく。
ほんの少しだけあった興味も、どんどん薄らいでいっているようだ。
「無駄死にはしない。あなたたちが立ち上がるなら、自由な未来をあなたたちに見せてあげる。たとえ戦死するとしても、その死に意味さえ与えてあげる」
少女は落ち着いた声でそう言った。
その声は訴えかけるものでなく、熱情に彩られたものでもなく、ただ本当のことを言っているだけのように揺るぎがなかった。
その様子に初老の男は、少女を鋭く睨みつけた。
「戦場を知らないあんたなんかが、軽々しくそんなことを言うんじゃない」
もはや、それで終わりだった。
理想を語るだけの少女と、現実を良く知っている初老の男。
人々の目にはそうにしか映らない。
この少女は、ただ理想を掲げるだけで、その理想を成しえる力など持っていないのだ。
たとえその理想が素晴らしいものだったとしても、力のない少女の言葉は、駄々をこねる子供の言葉でしかない。
人々の目から興味がなくなり、彼らは再び視線を少女から外そうとする。
だが、そんな彼らは最後に見たのだ。
少女の口元から小さな笑いが漏れたのと同時に、その瞳が赤く輝きを帯びるのを。
「一つ言っておきたいんだけど、私も戦場のことは少しだけ分かってるつもりだよ」
「なに?」
初老の男が訝しがるように少女の顔を観察する。
少女の顔は先ほどまでと変わっていない。だがその表情が、少しだけ酷薄になったように感じた。
「あなたたちに告げる。首輪をつけられたあなたたちに」
それが第一声だった。
「あなたたちは今、とてつもない好機の前にいるの。ここを逃したら、あなたたちは二度と立ち上がることはできない」
少女の瞳は、そこにいるすべての人々へと向けられた。
その瞳はどこか軽蔑しているようであり、木箱の上に乗る小さな身体から見下されているように感じた。
「だから私はあなたたちに温情として、自分の意思で立ち上がる選択肢を与えたの。もう一度聞くよ、剣を持って立ち上がって」
その言葉に、人々は口を開けて見上げることしかできなかった。
しかし初老の男だけは、気を取り直して少女に向けて鋭く言った。
「立ち上がっても殺されるだけなら、だれが立ち上がるというんだ。たとえ首輪をつけられていると罵られても、剣を手に取ることはないだろう」
「そこに自由なんてない」
「だが生きていられる」
「自由がないのに生きてて何の意味があるの?」
初老の男は、なおも言い連ねる。
男はもはや周りなど見えてはいなかった。
男の目に映るのは、こちらを軽蔑した目で見ている少女であり、その不気味な赤の瞳だ。
「少なくとも、死ぬよりは幸せだ。生きていればいずれ良い事も!」
「生きていれば?ふざけないで。生きていればいずれ良くなることなんてない」
少女の声がだんだんと感情を帯びてくる。
「首輪が付けられた生活なんて良い事は一つもない」
それは少女の怒りだった。
「自分の意思が奪われて、自分の大切なものが壊されて、自分というものが消えて行って、最後はあっけなく死んでいく」
それは少女の憎悪であった。
「それのどこが幸せなの?」
だからこそ、少女は問うた。
初老の男は、声を出す事が出来なかった。
その怒りに赤く滲んだ瞳に見据えられて、男は息をすることも忘れてただ立ち尽くすことしかできない。
それはその男だけでなく、ここにいるすべての人々も同じであった。
「だから私は、首輪をつけられたままでいいなんて言ってる人間が大嫌い」
少女はそう吐き捨てる。
「首輪をつけられて、立ち上がる意思を奪われて死んでいくくらいなら、その首輪を壊す方がいい。たとえその首輪をつけたのが誰であっても」
そこに込められた熱情が、周囲に伝播する。
怒りと憎悪が、彼らの心へと入り込んでくる。
人々の目に映った少女は、もはや夢見る幼い子供ではなかった。
「悪い領主?だったら反逆すればいい。無能な国王?だったら首を斬り落とせばいい。傲慢な皇帝?それなら私が嚙み千切ってやる」
少女はそこまで言い切ると、片手を再び上にあげた。
手のひらを上に向け、立ち上がれないもの達の手を引き上げるようにして、彼らへとその手を向けた。
「これが最後。あなたたちに与える最後の好機。選ぶのはあなた達しかいない」
誰も声を上げられなかった。
そこには静寂が広がり、ただ少女の姿だけが鮮明に描き出されていた。
人々の顔に映るのは希望。そしてほんのわずかな疑念。
ただ時間のみが、静かに流れ出す。
「し...」
初老の男が声を震わせて、一歩、また一歩と少女の元へと近づいてくる。
「信じて...」
しかし、その歩みは止まる。少女まであと数歩というとことまで進んだが、それより先に進めなかった。
男は少女の元へと手を伸ばしたまま、わずかに離れた場所で立ち尽くした。
「そっか、また忘れてた」
少女がそういったのが聞こえた。
その途端、少女が木箱の上から飛び降り男の所まで飛んできた。ローブで隠されていた首にかけられたプレートが、ローブの中から飛び出し輝きを放つ。
少女は男の手を取ると、男を人々の元へと振り向かせて彼らの視線を一身に浴びた。
「あなたたちは、力がないから怯えてる。信じられる力がないから」
ローブから飛び出したプレートは、白くきれいな輝きを宿している。
これは力ある者の証。Sランク冒険者という信頼される力の証だ。
「私はアイティラ。コーラル伯爵に協力してここに来た」
彼らの瞳に希望が宿る。疑念はどこかへ消え去った。
「そして、今はあなたたちの力になってあげる」
少女は自身を見守るエブロストスの人々に向けて、妖しく微笑んだのであった。
***
レイラは、アイティラの消えた木箱の横で、ずっと隠していたものを取り出した。
「あ、合図したらこの剣を掲げてって言われてたのに。待ってたのに、合図がなかった」
レイラは人々とアイティラから離れた場所で、一人悲しく赤に輝く剣を掲げた。




