囚われた思考
レイラ・レーゼは差し込む朝日で目を覚ます。
身体を起こすと、それに合わせて肩のあたりまで伸ばした栗色の髪が広がった。
レイラはしばらく何も考えずにただ虚空を眺めていると、視界の端に置いてある黄色い髪飾りが目に入った。
レイラは深く息を吐くと、小さなあくびをしながら粗末なベットから降り立った。
覚束ない足取りで狭い厨房まで進むと、固くなった黒いパンを口に含み、そのまずさに気分を悪くしながらもコップに入った水とともに流し込む。これだけでレイラのやることは終わってしまった。
前までは朝食も作っていたし、掃除もしていた。やるべきことはたくさんあった。でも今は、そんなことはどうでもよかった。
あとは昼食まで何もせずにぼんやりしながら、いつものように空想して有り余る時間を過ごすことになりそうだ。
「あっ」
まだやることは残っていた。どうやら先ほど食べたもので、最後だったらしい。
レイラは戸棚へ移動すると、下から二番目の戸を開いた。中には銅や銀のくすんだ輝きが残っている。
あまり使わないようにしているけれど、それでもどんどん減っていく。いずれ尽きるとわかっていても、どうにかする気は起きなかった。
レイラはその中から数枚とると、壁にかけられた革袋に入れて腰に吊り下げた。
気は進まないが、生きるためには必要なので、レイラは外に出ることにした。
外出用の扉へと手をかけて、お金が尽きたらどうなるんだろうとぼんやり考えてると、開きかけた扉の向こうから何かにぶつかった音が聞こえてきた。
「ぇ」
レイラの鼓動が早くなる。開きかけた扉が何かにぶつかったのだ。家の前には、何も大きなものは置いていないはずだ。だとしたら、いったい何にぶつかったのだろう。
レイラの頭に嫌な想像がよぎってしまう。新しい領主が連れてきた鎧をまとった兵士たちの姿が、レイラの脳裏に浮かび上がってきた。
足がガクガクと震え、自然と呼吸が荒くなる。この扉が開かれたら、自分がどうなってしまうのか、嫌な考えばかりが頭の中に広がった。
だからこそ、扉の向こうから聞こえてきた予想外の声に一瞬レイラは耳を疑った。
「わっ」
それは女の子の声だった。どこからどう聞いても、鎧をまとった兵士とは違う声だ。
レイラは恐る恐るといった様子でゆっくりと扉を開き、その先にいた人物を見た。
そこには黒色のローブを纏った、小さな女の子がいた。
「え、えっと。大丈夫?」
扉の先には兵士はおらず、レイラはこっそり安心した。
ローブを纏ったその子は、地べたに倒れてしまっていた。そしてそのフードの隙間から、驚いた目でこちらを見上げている。
その少女の周りには、たくさんの紙が落ちているので、おそらく開いた扉にぶつかり倒れてしまったのだろう。
レイラはこの少女が誰だか分からないものの、とりあえず心配して大丈夫か尋ねた。
「うん。大丈夫。気にしないで」
すると少女は立ち上がり、あたりに広がった紙を拾い上げ始めた。
レイラはまだ状況がつかめていなかったが、とりあえずこの少女が紙を拾うのを手伝ってあげることにした。そして一枚拾い上げたところでレイラの手が止まる。
拾い上げた紙には、全部何か文字が書かれている。レイラは若干の興味をそそられて、その紙に書かれている文字を読んでしまった。
そこには、こう書いてあった。
『悪い領主をやっつけよう。武器を手に取り、立ち上がろう。自由を求める人たちは、赤き剣のもとに集まれ』
そして文字の横には、血のような赤で描かれた、不格好な剣の絵が描かれていた。
「ッ!」
レイラは弾かれたように、扉の方を見た。するとそこには、外側から同じ紙が扉に貼り付けられていた。
レイラは心の底から冷たくなってくるような恐怖を感じて、扉に貼られた紙を急いで剥がした。
「あ、それ私が貼ったやつ」
そして、呑気にそんなことを言っている少女を家の中に引きずり込むと、急いで地面に散らばっている紙を集めた。最後に扉を閉める前に、あたりを見渡して誰にも見られていないことを確認すると、勢いよく扉を閉める。
レイラは息を乱しながら、扉の前でへたり込んだ。
「あなた、大丈夫?」
家に押し込んだ少女がそんなことを言って来る。この子は自分がしたことを何もわかっていないのだろうか。
レイラは剝がした貼り紙を少女の前に勢いよく突き付けた。
「こ、これ!これが!」
最近人と会話したことがなかったせいで、レイラの声はうわずっていたが、何とか伝えようと声を張り上げる。しかし少女にはこちらの必死さが全く伝わっていない。
「私がかいたの。よくできてるでしょ?」
小首をかしげて聞いてくる少女に、レイラはつい大きな声を出してしまう。
「こんなことしちゃだめ!悪ふざけでも、こんなところ見つかっちゃったら兵士の人に殺されちゃうよ!?」
レイラは少女の肩を掴んで、必死になって言った。しかし少女は、そんなレイラを不思議そうに眺めてから、何でもないような調子で言った。
「別に悪ふざけじゃないよ」
その様子に、レイラの動きが止まった。そして、大きく目を見開いたまま、神妙な様子で少女に問いかける。
「じゃ、じゃあ、ほ、本気なの?」
「うん。本気だよ」
レイラは愕然とした。少女の様子から、本気でそう言っているのだと感じてしまったからだ。
領主への反抗。この少女は、本気でそれを狙っているというのか。
確かに領主への恨みは大きい。領主に付いてきた兵士たちが、この都市で横暴な振舞をしているのをよく思っていない人も多くいる。
しかし、それでも都市の住民は反抗しない。反抗しようとしたとしても、すぐに殺されてしまうことを知っているからだ。明らかに無謀な行為。
「そ、そんなこと。できるわけない」
レイラは、かすれた声でそう言った。少女はそれを聞いて不満げな顔になる。
そして少女はレイラから紙を奪い取ると扉に手をかけて振り返った。
「忠告してくれるのは嬉しいけど、戦う意思がない人に用はないの」
そういった少女は、扉を開けて外へと出て行ってしまった。
扉が閉じた音が聞こえた。
「ぁ」
レイラは手を扉の方に伸ばしたまま、小さく声を漏らしていた。
***
アイティラは、いろんな場所に紙を貼って歩き回っていた。
与えられた時間は少ない。
伯爵は、あのザビノス子爵が手紙を持ってきた日から一週間後に爵位を剥奪されることになっている。
その時に、王城に登城しなければどうなるかわからない。伯爵が言うには、そうなったら王国が誇る騎士団のどれかが来て、王の命令を無視したとして処断されることになるだろうと言っていた。
だからこそ、それまでに事を起こす必要がある。
そんなことを考えながらアイティラは、慣れない都市の中を歩き続け、都市のいたるところに紙を貼りつけて行った。道行く人々は、そんなアイティラの姿を不審げな目で一瞥すると、また顔を伏せて通り過ぎる。
「うーん。どうして皆下を向いてるんだろう?」
その時、アイティラの耳にどこかから怒鳴り声が聞こえた。
「......」
声は別に小さいものでもない。周りを歩いている人たちも聞こえてるはずだ。
それなのに、道を歩いている人たちは、誰もが俯き何もないかのように歩いていく。
アイティラはその様子を一瞥すると、声が聞こえた方に進んでいった。
そこは何の変哲もない路地裏だった。
ただし、路地裏の入り口で立ち止まったアイティラからは、鎧をまとった人間の背中が見えるだけだ。
「おい。さっきこの俺を見て、笑ったよなぁ。何とか言ってみろよこのガキぃ」
鎧の男が何かを言うと、その下にある汚れた塊が動いた。どうやら生きているらしい。
「なんとかいえって言ってんだろうがよ!」
鎧の男が、装甲のついた鉄のブーツで、地べたにうずくまる少年を蹴り上げた。
少年は小さなうめき声を出しただけで、すぐに動かなくなった。
「ちっ。もしかして、死んじまったのか?おい、返事しねえとまた...」
男の言葉が途切れる。鎧の男は自分の腹に熱いものを感じ、下を向く。
そこには、真っ赤に染まった剣が腹から突き出していた。
「あ?あ...」
男はそれを認識したのを最後に、意識を失った。
「ねえ、生きてる?」
少年は、小さなうめき声をあげた。
アイティラは革袋を取り出すと、金貨を一枚地面に落とした。
そして貼り紙を少年の前に落とす。
「気が向いたら参加して?私はやることがあるから、じゃあね」
少年は虚ろな動作で顔を上げ、翻る黒ローブと赤い剣をその目に映して意識を失った。
アイティラは、再び貼り紙を貼りに路地裏から去っていった。
少女はこの都市の人間が下を向いて歩いている理由が分かり、安心した。
この都市の人間は、あの鎧をまとった兵士たちが嫌いなのだ。だから目を合わせないように、みんなしたを向いている。
それはアイティラに都合が良かった。アイティラは、再び貼り紙を都市に貼って行く。
暗い雰囲気を醸し出す都市の中、少女は夜が訪れるまでそうしていた。
「お城ってなんであんなに大きいんだろう」
そして夜も更けた頃、アイティラは立ち並ぶ建物の屋根の上で、とある場所を眺めていた。
立ちはだかるように都市の中を隔てている城壁の向こう側。そこには巨大な城が聳え立っている。
「今頃あそこで、いい気分になってるのかな。ねえ、小さな王様?」
アイティラは、斜面になっている屋根の上に横になった。
「でも、それは許さない。奪われたものは、取り返さなきゃだめだもの」
伯爵は言っていた。あのお城には残されてきたものがあると。
アイティラは、半分近く無くなった紙の束を一つ手に取って眺めた。
この暗闇の中でさえ、アイティラの目はそこに書いてある文字をはっきりと見る事が出来る。
『悪い領主をやっつけよう。武器を手に取り、立ち上がろう。自由を求める人たちは、赤き剣のもとに集まれ』
とてもいい言葉だとアイティラは思う。少なくともアイティラだったら、剣を手に取っていたと思う。
たとえ化け物でなかったとしても。
「あは」
アイティラは明日が楽しみになった。
昼に見たあの少年の姿を見れば、あの鎧の男たちがこの都市で横暴を働いていることはよくわかる。
それなら、この貼り紙を見た人たちはきっと立ち上がってくれる。
たとえ命を落とす可能性があるとしても、支配され続けるよりはずっといい。
思い出したくない過去の世界では、そんな考えの人たちばっかりだったもの。
「おやすみ」
アイティラはローブの上から、真っ赤なブローチを優しくなでて眠りに落ちた。
心は安らかだった。
しかし次の日、アイティラは屋根から降り立ち驚いた。
都市に貼られた貼り紙は剥がされており、あたりには無残に引き裂かれた残骸が残されているだけだった。




