エピローグ
まだ修復が終わっていない王城の中を、一人の若い青年が歩いていた。
何度も通った事があるというのに未だ慣れない様子であたりを見回せば、ところどころの壁に傷や穴ができているのが目に入る。アレク王子が入城を果たしたときは、騎士たちの略奪にさらされあまりにもひどい有様だったと聞いていたが、それを考えれば今はだいぶ良くなってきたと言える。
もう一月が経ったと思えばそんなものだろうか。
青年はそんな感慨にふけりながら、とある場所を目指していた。
そこは、王城の中でも一際広く、青年にとっての仕事場といえる場所だった。
青年の仕事とは、王位についたアレクが新しく組織した官僚団の一人として、王を支えることである。
新王は従来まであった宰相位を廃止し、十人からなる集団をそれに代わるものとしていた。
この官僚団は五人を貴族出身から、もう五人は主要な都市の平民から集めて出来ていた。
青年の立場は後者であり、新たなエブロストスの統治者となったラファイエットに推薦されて、官僚の一人になったのだった。
青年はひと月前までは決して見たことがないほどの豪奢な扉の前まで来ると、一つ深呼吸をして扉に手をかける。
いつだってこの扉を開くときは緊張する。
なぜなら扉を開いた先には、いつだってあのお方の姿があるのだから。
扉が開くと、中央に設けられた大きな円卓の一つの席に座っていた黄金の髪を持つ人物が、ちらりとこちらに視線を向けた。しかしそれもわずかなことで、すぐに手元に視線が戻ってしまう。
円卓の席は三つが埋まっていた。一人は王で、残りの二人は青年の同僚だった。
本来の仕事が始まる時間まで、あと半刻ほどもある。
青年はいつもこのくらいの時刻に来るが、決まって王が先に仕事を始めていた。そして、一番最後までこの部屋に残っているのも王だった。一体いつ寝ているのか不思議に思えるほどだ。
青年は自分の席に着くと、早速作業に取り掛かる。
まず一番に目に入ってきたのは、ある貴族が反乱を起こしたとの報告だった。
(また反乱か、一体これで何度目だろう?)
頭が痛くなってくるが、これも仕方のない事だった。
アレクは元々、王宮の中では注目されてこなかった。すでに引退し、今ではすっかり離宮で園芸に夢中になっている先代の王からも、長い間疎まれてきたという過去がある。
そのせいで多くの貴族から侮られており、即位直後など五人の貴族が連合して反乱を起こしたほどだった。しかし、反乱を起こすと言っても脅威になるほどの武力を持っているわけではない。それは、先代王の治世のなかで宰相だった男が長い年月をかけて貴族の力を削いでいったこともあり、蒼の騎士たちが警告するだけですぐに収まった。
それでも、まだまだ反抗を企てる連中はしばらく出てくることだろう。
「あの、陛下。これはどちらにした方がよろしいでしょうか?」
対面に座っている同僚が、王に声をかけていた。
王は顔を上げ席を立つと、その同僚の手元を覗き込む。
そして、一緒になって思案顔になった。難しい案件なのだろう。
「少し待っていてくれ」
王は自分の席に置いてあった一冊の分厚い本を持ってくると、ぱらぱらとめくり始めた。
そして、あったと声を上げると、その本と見比べながら指示を出し始める。
あの分厚い本を、王は常に肌身離さず持ち歩いていた。
青年は王にその本は何かと聞いたことがあったが、その時の返答は"厄介な男の置き土産"とのことだった。それ以上詳しくは教えてくれなかったが、国政に関するあまりにも広い内容を網羅していることを考えると、あの本を書き記した男は相当長い間国の中枢を担ってきたようである。そう考えれば、王が厄介な男と呼ぶ人物は一人しかいないように思われた。
「こちらの方がいいのではないか?」
「しかし、今はそんな余裕ありませんよ」
「余の考えでは . . . 」
会話が聞こえてくる。
アレク王子の、いや陛下の顔には、すっかりと深い労苦が染みついているようだった。
年齢で言えば自分と同じくらいのはずなのに、常に眉間にしわを寄せ国を立て直そうとする姿は、頼もしくはあっても心配ではあった。
常に背伸びをして、早く一人前の王になれるようにと、あまりにもいき急いでいるようでそれが自分たちにとっても少しのプレッシャーとなっている。
いつしか自らを"余"と呼ぶようになったのも、この若い王の焦りを表しているようだった。
対面に座る同僚も同じことを感じているのだろう。
王は笑うことをせず、怒ることをせず、強く感情を表に出すことはしなかった。
常に王として正しくあろうとする姿は、王として正しくはあっても、私人としては関りずらい。
気後れしている様子だった同僚だったが、ちらりと扉の方を見てにわかに顔色を明るくした。
そして高い声で言った。
「あっ、陛下。またあの子が来たみたいですよ」
青年が扉の方を見てみると、まだ少女と言える年齢の子がこちらを覗き込んでいた。
王もそちらに気づくと、少し不満を込めるような口調で言った。
「なんだ、余は忙しいんだ。用があるなら早く言えよな」
どこか子供っぽい口調だった。
対する少女はどこか考える様子を見せ、いたずらっ子のように笑みを見せた。
「その余って呼び方、似合ってないよ。とっても変」
王はピタリと固まると、途端に顔を真っ赤にして怒鳴りだした。
「うるさい! 僕に用事がないなら出ていけ!」
ピュンと姿を消した少女と、扉を睨みつけたまま顔を赤くしている王のやりとりに、青年は思わず吹き出してしまった。
怒ったままの王の視線がぎろりと向けられ、思わず言い訳めいた言葉が口をつく。
「も、申し訳ありません陛下。 その、陛下のそのような姿をあまり見たことが無かったもので」
見れば他の二人の同僚も思わず笑ってしまっていた。
王はふんと鼻を鳴らすと、どっかりと自分の席に着いた。
「お前ら、笑ってないでさっさと仕事を進めるぞ。 早く立て直しを終わらせなければ、やりたいことが一つも出来ずに終わってしまうからな」
はい陛下と答える声には、さきほどまでの重たい空気はかけらもなく、どこかあたたかな空気が部屋を包み込んでいた。
たった今到着した同僚は、普段と違ったどこか緩やかな雰囲気に小首をかしげながら席に着いた。
せっかくだ、後にあいつにも今の出来事を教えてやろうと、青年は心に決めたのであった。
***
背後の怒鳴り声から逃げるように、タッタッと廊下を駆けていく。
やがて、声もすっかり聞こえなくなってくるとその歩調がゆるやかになり、やがて足を止めた。
のんびりと散策するように王城の外に出ると、一際強い太陽の光が少女の顔を照らし出し思わず目を細める。
アイティラが思い出すのは、あの最後の戦いのことだった。
あの声は言っていた。
今後、どんなことがあろうとも決して人を殺してはならないと。
その約束を受け入れた結果、今のアイティラがここにいる。
これまでは、自分を制限する"首輪"と言うものを何よりも憎んでいた。
過去、その首輪によって周囲の全てを失い、自分自身すら壊された少女にとって、自分の自由意思を奪う命令や拘束といった鎖は何よりも恐ろしいものだった。
人を殺してはいけないという約束は、一種の鎖だ。
しかし、その鎖はあまりにも弱く、いつでも壊せてしまうほど脆いものだ。
壊そうと思えばいつでも壊せる。
そのはずなのに、どうしてかこの鎖を壊す気は起きなかった。
そして、鎖はもう一つある。
あの時代、アイティラにとって目をそらしたいほどの醜い時代。
その時代に自らを打ち負かした男に託された役目。
その役目を無視することなど簡単だ。後から一方的にされた頼みなど、わざわざ守る必要はない。
そのはずなのに、結局その役目を引き受けようとしている。
鎖を、首輪をみずから望んで受け入れているのだ。
いや、今のアイティラにとってそれは鎖でも首輪でもなかった。
それは人と人とをつなぐ一本の糸だった。
アイティラが天を見上げると、太陽が強く輝いていた。
吸血鬼は殺された。
人の優しい意思によって、邪悪な化け物は死んでいた。
アイティラは天を仰ぐのを止めると、前を向いて歩きだした。
もう赤剣隊の隊長ではなくなった臆病だがちょっぴり強い人と、会う約束をしているからだ。




