いなくなった吸血鬼
王城のなかの自身に与えられた一室で、その男はわけもなく部屋の中を右往左往していた。
普段の様子を知っている者であれば、この男のここまで落ち着かない姿に驚愕したであろうが、男の心情を考えればそれも仕方がなかった。
部屋の主であり王国宰相のロベールは、眼鏡の奥の目を細めて内心呟く。
長かった、と。
振り返れば、自身がこの王宮でしてきたすべてのことが思い浮かんでくるようである。
まだ一人の役人であったときから今に至るまで、いったいどれだけの同僚を追い落としたことか。
どれだけの貴族の要求を呑んで、彼らを破滅させてきただろう。
武力を持つ貴族を潰し、王の寵愛した女を殺し、邪魔な王子を追い出して。
そしてその集大成が、たった今から反乱軍鎮圧の報として知らされるのだ。
反乱軍鎮圧となれば、当然そこにいる第二王子も捕らえられるだろう。
そしたら王都まで連行して、民衆の前で大々的に処刑するのだ。
王の命を狙い反旗を翻した罪人として。
そして一方の王は、息子に殺されそうになったと知り、精神錯乱を起こしたとして引き続き離宮に閉じ込めて置けばいい。
後を継ぐのは当然ながら、長子のフィリップだ。
反抗的であるが単純なあの王子であれば、娯楽を与え続ければ懐柔することは容易だろう。
それでも反抗するならば、騎士団の力で脅せばいい。黒の騎士団はすでにこちら側であり、白の騎士団も無関心だ。
これで、
宰相は足を止め、静かに壁を睨みつけた。
「これで、この国は私の意のままということ。この国の支配者として、誰よりも上に立つことになる」
くく、くくっと肩を震わせたながら、宰相の目の奥に暗い光が宿る。
そうだ、ついに成し遂げた。
人生の殆どすべての時間を費やし、数十年間一日たりとも休むことなく歩み続けた。
常に他者を追い落とすことを考え、作った笑顔の裏で貴族の傲慢に耐え続け、ただ上へと登り詰めてきたのだ。
私が誰よりも優れていると奴らに証明するために!
くく、と続くおかしな笑いがそこで奇妙に引きつった。
いつの間にか老いていた顔から、表情がすとん抜け落ちる。
. . . 奴らだと?
自分は今、誰を思い浮かべていた?
考えてみても全く思い出せなかった。
いや、そもそも自分が誰よりも優れていると証明して、何がしたかったんだ。
初めにこの構想を考えたのは、ずいぶん昔のことだ。
何せ、王宮の役人になる前だ。
いや、そもそも役人になるために知識を得ようと、貴族の屋敷で働き始める以前のことだ。
そうなると、まだ子供と言われるような年齢になる。
その時から、ただ自分が優れていると証明したいがために、疑問など抱く暇もないほどここまで猛進してきたというのだろうか。
一体誰に、証明してみせたかったのだろうか。
「 . . . . . . 」
もう思い出せない。
昔の熱意などこの年月の中でとうに冷やされ、後には追い立てられるような焦りと執着があったのみだった。人をだまし、操る術に長けた顔色の悪い男だけがそこに残った。
「いや、ちがう」
違う。
私は誰かに認めてもらいたいがために、ここまで来てしまった弱い人間ではない。
この国の支配者になりたいという野心から、ここまでのし上がってきたのだ。
母親に認めてもらいたがる子供のような、そんな幼稚で単純な動機では決してない。
ひとつ深呼吸をすると、その顔に再び余裕を示す微笑が戻った。
「そうですな。手始めにふんぞり返っている領主共に騎士団を差し向けてみるのも面白いやも . . . 」
再びそう呟き始めた時だった。
にわかに城内が騒がしくなった。
どたどたと重い足音がそこかしこで聞こえ始め、何やら慌てたような声が聞こえてくる。
響く金属音が聞こえたことで、おそらく役目を終えて帰還した騎士団だろうとあたりをつけた。
「ずいぶんと騒がしいですな。 戻ってきたのは良いですが、凱旋式なら城の外でやってもらえますかな?」
外にもはっきりと聞こえる大きさで伝えたものの、騒がしさは一向におさまらない。
それどころかより大きく大胆になっていくことで、宰相の眉間にしわが寄る。
一体誰が私の言葉を無視して騒ぎ立てているんだ。この国の支配者は私なのだぞ。
そう内心で呟きながら扉を開けると、白のサーコートを纏った騎士がちょうど扉の前を横切るところで、開いた扉にぶつかりそうになっていた。
宰相は怒りをぶつけようと口を開きかけたが、相手の騎士の方が先に「早めにお逃げください」と口にして駆けて行ってしまった。
その後にも黒と白の騎士たちが幾人も続いたが、宰相の呼びかけに答えるものは誰もいなかった。
どういうことだと呆然とその背を見送っていると、一人の白騎士が宰相の傍で立ち止まり、何やら手渡してきた。見てみると、封蝋の押されていない手紙のようであった。
「なんですかなこれは? それよりも、逃げろとは一体何が . . . 」
白騎士は何を言うべきか迷うように眉を寄せていたが、何かを堪えるように一度口を強く結んでから話し出した。
「我々は壊滅しました。あれは間違いなく化け物です」
宰相は何を言われたのか咄嗟には理解できなかったが、今の状況と照らし合わせ目を見開いた。
「そんなはずはないでしょう? 最も警戒すべき吸血鬼を捕えたとの報告は聞きました。ならば、その化け物とは . . . 」
「団長も、ほかの騎士たちも皆死んでしまいました。今我々は逃げの準備の最中ですので、それでは」
騎士はそう言うと、おもむろに壁にかけられていた王の肖像画を外すと脇に抱えて持っていった。
「おい! それは陛下のものだ、何処へ持っていく!?」
背を向けたまま消えていくその姿を後に、宰相の内には尽きない疑問が渦巻いていた。
負けた?
そんなことはあり得ない。
一番厄介な吸血鬼は無力化したと報告を受けていたし、そこから黒と白の騎士団が負けることなど起こりえるはずがない。
何よりも、あの女が言っていたではないか?
吸血鬼を殺せると。
その予言が外れた?
「どういうことだ . . . !」
あの女は本物だった。
あの聖女の言葉は必ず実現していた。
未来予知が完璧であるからこそ、あそこまで重宝していたのだ。
だったら、今回のことはどう説明できる。
今回に限って予言が外れたとは考えられない。
考え着くのは一つだけ。宰相は肩を震わせ正面の壁を睨みつけた。
「裏切ったな。最後の最期で、一番大事なこの瞬間に」
これしか考えられなかった。
あの女はやはり、ずっとあの建物に幽閉していた自分を憎んでいたのだ。
宰相が怒りのままに力を込めると、手の中でくしゃりと音がした。
見てみると、先ほどの無礼な騎士から受け取った手紙だった。
誰からのものかも分からないそれを、宰相は無造作に引っ張り出す。
下らない内容ならすぐにでも破り捨てたい気持ちで目を走らせると、思わずその内容に固まった。
そして、何度もそこに書かれている文字を目で追った。
宰相は手紙から目を離すと、周囲に人がいないことを確認して部屋の中に戻った。
扉を閉めて誰も入れないようにすると、定位置である自分の机につき、再びその文字に目を戻す。
すっかりと冷え切っていた心が、あまりの動揺に今の状況を忘れていた。
その手紙にはただ一言。
『私だけは、あなたのことをよく知っていますよ』
意味が分からない。
署名も何もなく、誰が書いたか分からないそれが、手の中に納まっていた。
宰相は無言で自分がつけた皺を伸ばすと、それを机の上に置いた。
「おかしな奴だ」
そこにいつもの口調はなく、ただの一人の男の深いため息があった。
その時、騎士のものとはまた違った慌ただしい足音が近づいて来た。
宰相が顔を上げると同時に扉が開き、金髪の青年の切迫した顔が浮かび上がった。
「おい、どうなっている!? なんで騎士団が負けてるんだ!」
次の傀儡として目をつけていた、第一王子のフィリップだった。
「聞いてるのか!このままだと、アレクが王都まで来てしまう!どうにかして撃退しろ!」
フィリップの頭には王冠があった。
王は幽閉したとしても、まだ王なのだ。フィリップが王冠をかぶることはできない。
それなのにこの若者は、早くも有頂天となって王冠を載せては、ここしばらくご学友と王都内で好き勝手していたようだ。
宰相は無言のまま、若者のとりみだす姿を見ていた。
「そうだ! 俺は一度帝国へ逃げて、助けを求めてくる! エブロストスの都市一つくれてやれば、きっと軍を出してくれるはずだ!そうすれば . . . 」
そこで若者の口が止まった。
今まで無言を貫いていた宰相が、机の引き出しから何かを取り出し、フィリップの前に突き付けていたからだ。そこにはフィリップが見たことのない円筒形の筒のような道具があった。
「なんだそれーーー」
なんだそれは。
その言葉が言い終わる前に一条の光が走ったかと思うと、首のあたりにぬめりとした感覚があった。
手を当ててみると赤いものがべっとりと付き、それが何であるか理解する前にフィリップは仰向けに倒れていた。
どさりという鈍い音とともに沈黙した若者に対し、宰相はその道具を再び引き出しに戻すと、おもむろに席を立った。
「私たちの取引は終わり、ということですよ。フィリップ殿下」
***
討伐隊との戦いを終えたアレクは、多くの味方を引き連れながら王都までの道を進んだ。
一足先に逃げ帰ってきた騎士たちの言葉を聞いて、門を閉じて警戒していた王都の民だったが、反乱軍に身を賭していたはずの第二王子と王が共に居るのを目にし、驚きながらも門を開いて受け入れた。
集団の先頭を進む金髪の若者は堂々としたもので、以前の王都で見せた姿とは全く異なる雰囲気に、誰しもが反乱軍に味方していた過去を忘れて盛大に迎えたほどだった。
アレクの後には、腕に赤い帯を巻いた集団が続き、白地に赤い剣の旗がはためいていた。その旗を持つ女隊長は注目されていることに緊張しているのか、やけに硬直した動きで進んでいた。
その後に、蒼の騎士たちに守られながら、王冠のない王が続いた。
反目していたこの親子がいつのまにか和解して戻ってきたことに、王都の民は驚きつつも素直に受け入れていた。脅威にさらされたことのない王都の民は、どこまでも楽観的なのだ。
その数日後、王が退位を発表し、王位をアレクに譲ることが全地域に通達された。
次の王は長子のフィリップ王子ではないのかとささやかれたが、アレクの王都入りの少し前に病死していたと伝えられた。噂では、フィリップを亡くした王が後継者に困った末、アレク王子と和解を取り付けたのだと言われている。
真相はともかく、ここに一つの反乱から始まった争いは終結し、王国には新しい王が誕生した。
ここから、この新しい王による王国の統治が始まるわけであるが、この王には一つのある黒い噂があった。
それは、王は吸血鬼なる化け物と繋がっており、その力で王になったというものであった。
そして、王となった後もこの化け物とひそかに協力し合っているのだと。
しかしその噂はやがて人々の間から忘れ去られることになる。
なぜなら、王の周りには吸血鬼と呼ばれる化け物の姿はどこにもなかったからだった。




