夜の女王
沈みつつある太陽の最期の光が浮かび上がらせた光景は、あまりにも酷なものだった。
反乱軍の最期の砦が、あのエブロストスが、敵の軍勢によって攻囲されていた。
「もうここまで来てるのか . . . 。僕らが魔術塔で過ごしていた内に、ここまで . . . 」
全身を風に包まれながら、遥か下方に小さく見える光景を見て、アレクは呆然とこぼした。
アレクを抱え上空を飛ぶ少女も、同じような衝撃に駆られているはずだったが、アイティラがこぼした一言はアレクのものよりも切羽詰まっていた。
「いない。どこにもいない . . . 」
この距離からでは、都市が囲まれていることがかろうじて分かるのがやっとで、一人一人を見分けることなど不可能なはずだが、それでも少女はいないと叫ぶ。
誰がいないのかとアレクが問いかける前に、突如飛行速度が上がりそれどころではなくなった。
みるみる近づいてくるエブロストスに、アレクにもその全貌がはっきりと見て取れるようになっていた。
城壁の上で防衛している味方、そしてそれを攻め落とそうとする敵方、その双方が空から飛来してくるアイティラたちを驚きに見上げていた。
アイティラは多くの注目を集めながら、城壁の上にある一人の男がいることに気づき、その前に軽やかに着地した。その男、赤剣隊の副隊長だった男は、少女の背後に見え隠れする黒い翼を凝視し、今起こっている出来事が信じられないようすだった。
「あ、あんた、その姿はいったい . . . 」
しかし、アイティラは構わずに、即座に鋭い声を返した。
「レイラは . . . 。あの人の姿はどこにあるの!?」
副隊長はその言葉に自らの疑問を吹き飛ばされると、少女から目をそらして口ごもった。
「どこにいるの! 答えて!!」
少女の鋭い気迫に押されたのか、副隊長は歯を食いしばって堪えた後、静かに語りだした。
「 . . . 戦いの中で、見失ってしまった」
少女は閉口した。
「途中まで、あの子が持っていた旗が見えていたのだが、攻め込まれ逃げる段階になった時にはもはや旗はどこにも見えなかった。そして散り散りにエブロストスへ逃げ帰った後も、まだあの子は戻ってきていない」
音が消えた空間で、少女が息を呑む音が聞こえた。
副隊長は少女の様子に酷なことだと思いつつも、もう一つの話をした。
「 . . . もう一つ、伯爵様のことだが、酷いけがを負っていて今は城で休まれている。だが、あれから発熱がひどく、かろうじて息はあるものの、おそらくは . . . 」
アレクにも、その後に続く言葉が容易に分かった。
この一瞬にして二人を失うことになった少女は、何も言わなかった。言えなかった。
少女はゆらゆらと身体をゆらし、ぐるりと背後を振り返る。すると眼下には、こちらを見上げ騒いでいる敵軍の姿があった。
「あいつらが . . . 」
あまりにも小さく呟かれた言葉に、アレクは少女に顔を向けた。
その瞳が赤く黒く濁っていく。まるで世界全てを憎むかのように、その目はおぞましく彼らを睨みつけ、人ならざるものに変容していく。
不幸にもそれを目にしてしまった副隊長は、動揺を隠せずに一歩下がろうとして、音を出してしまったことに肩をはねさせていた。副隊長だけではない、徐々に集まりつつあった城壁の防衛たちが、初めて目にするそのおぞましい姿を見て、明らかに怯えていた。
少女はそれに見向きもしなかったし、気にしてもいなかった。
もはや恐れられようと、どうなろうと構わなかった。
これから自分たちにどんな事が起こるのか、未だ悟れない愚かな敵対者を殺すこと、それだけしか頭になかった。
その考えに思考を囚われるようにして一歩、彼らの方に踏み出したところで、腕を引かれて踏みとどまった。振り返れば、アレクが引き留めたことを自分でも驚いているかのように目を丸くしていた。
「 . . . どうするつもりだ」
「決まってるでしょ」
アレクはその言葉に、腕を掴む手にさらに力を込めた。
だが、それ以外は何も言葉にできなかった。アレク本人でさえ、自分の本心が分からなかったからだ。
その煮え切らない態度に、アイティラは苛立ったようにして腕を振り払った。
そして駆け出すと、城壁の上から外へ身を投げた。
アレクが呆然とそれを見送ると、いくつもの悲鳴が聞こえた。
それは、アレクと共に見ていた防壁の守り手たちであり、この高さから落ちた少女が助からないと思ったからだろう。しかし、アレクはそんなことにはならないと知っている。
突き動かされるように胸壁を掴み、身を乗り上げて下を覗き込もうとする。周りはそれを、少女の後を追って身投げするものだと勘違いして止めようとしたが、それよりも先にアレクは見た。
まるで風に支えられるように軽やかに地面に落ちた少女が、敵の軍勢を前にして、妖しくもおぞましく立ちはだかる姿が。
***
. . .
. . . . . .
はたして、どこで間違えたのか。
「ひぃ、来るな! 来るな化け物!」
「どうしてこんな目に、この私がどうして . . . 」
何が正解であったのか。余はそもそも間違えていたのか?
「化け物だ、悪魔だ、死神だ!」
「どうして神は助けに来ない!?」
ひとつやふたつどころではない。
一瞬の間に、数十が一度に命を奪われる。
あるものは、飛来する無数の槍に貫かれ、あるものは地面を這う赤い血の渦に飲み込まれ、あるものは化け物自らの手で殺される。
空に浮かび、殺戮の宴に歓喜しているかのように、赤々とした邪悪な瞳を闇に浮かべるそれは、逃げ惑う人々をすべて根絶やしにでもするかのように追いかけ殺す。
命の価値を知らぬ化け物。神の敵、ひいては人間の敵。
こんな恐ろしい存在に出くわすことなど、もはや口伝でしか伝えられない神話の世界か、悪夢でしかありえなかった。
誰もが、こんなことになるとは予想しえなかった。
西より飛来する巨大な鳥の正体が人のようであり、それが敵の根城に入ったかと思うと、翼の生えた一人だけが降りてきた。
翼の生えた人間などもちろんいない。城壁の上から飛び降りて無傷な人間など存在しない。
だから皆が、その不思議な出来事に気を取られ、幻覚の魔術を受けているのかと思ったほどだった。
しかし、それが幻覚などではないことはすぐに分かった。
あの邪悪な夜の支配者は、見たこともないほどの魔術を使った。天を埋め尽くすような光の槍が、いつの間にか昇っていた月の光を受けて露のように輝いていた。
美しい光景は、次に訪れる死の宴をより神秘的に見せた。
人々が、軍勢が、ただの一撃で崩れた。その赤い星々が地に落ちるたびに、人が死んでいくのだ。
王は繋ぎ止められた白馬に飛び乗ると、振り返ることなく真っ先に逃げた。
だが、考えることは皆同じのようで、その後に大勢が続いた。
化け物は逃げる人々を追いかけ、王の背後にいる弱者たちは悲鳴を上げて沈黙する。
その悲鳴が、徐々に近づいて来て、王は恐怖のまま振り返る事すらできずに逃げ続けた。
「ディアーク、ディアーク! どこにいる!? 早く余を助けるのだ!」
黒の騎士団の姿はいつの間にか無くなっていた。
逃げ出すときにはすでにいなかったから、それよりも前に消えていたのだろう。
無我夢中で叫び続けていた王であったが、その時背中から強い衝撃を受けて落馬した。
地面を何回も転がり、赤のマントも、その下の服も、ぬかるんだ泥にまみれた。
顔を上げると、暴れながら逃げて行く白馬と、その手前に赤い槍が弾かれたように転げ落ちて消えていくのが見えた。
王は首に下げていた宝石を見ると、普段は強い光を放っている、歴代の王たちが継承してきた魔道具が光を失っていた。一度だけ攻撃を防ぐ守りは、もはや機能しなくなっていた。
「な、なな . . . 」
背後から逃げる人々の悲鳴が近づいてくる。
命の危機を感じた王は、頭から転げた王冠を泥で汚れた手でつかみ、そのまま自らの足で駆け出した。
もはやまともに考える頭はなかったが、それでも人としての本能か、開けた場所はまずい事だけは分かっていた。
そのため、自然と身体は深い森の方へと向かっていた。狼が出るかもしれなかったが、そんなことは考えには無い。
「だれか、誰かおらぬのか! 助けておくれ!」
暗い森では何も見えずに、飛び出した枝が頬を傷つけ、足を引っ張る。
普段は泥ひとつついただけで処罰の対象とする赤のマントは、枝に切り裂かれ姿を残していなかった。
「だれか!だれか!誰でもよい、救ってくれるなら褒美をやる!だから . . . 」
無我夢中で走り回っていると、ふと足がつかなくなった。そのまま、前に倒れこむようにして、森の中に大きく空いた窪地まで転げ落ちて行った。
転げ落ちる際に頭を強く打ったのか、途轍もない頭痛を後に残しながらうっすらと王は目を開く。
すると、目の前に火があった。そして、三人の人影があった。
王は救われたとでもいったように、心からの歓喜を覚えて、頭の痛むまま目を開いた。
「そ、そなたたち、余を助けてくれ。 途轍もない化け物がうしろから . . .」
しかし、王の目が完全に開いたとき、彼らの腕に巻かれた赤い帯に気づいた。
それは、あの化け物と同じ陣営の、赤剣隊とかいう反逆者どもの証ではなかったか。
王が続いて目を向けると、彼らの内の二人は銀色に光る剣をその手にきらめかせているではないか。
「ひ、ひぃ! 来るでない、反逆者共!」
王はそう叫んだきり、恐怖が限界に達したことで気絶した。




