人でなし
アイティラの耳に風切り音が聞こえた。
それが何の音であるか、聞いたことのあるアイティラにはすぐに理解できたが、それに対処することはできなかった。その音は、アイティラの左右前後どの方向からも聞こえて来たからだ。
視線を向け、いくつかの矢を目にした途端、それを避けるようにアイティラの身体は動いた。それにより、ほとんどの矢はアイティラから外れたが、視認できなかった背後から衝撃が伝わりアイティラは前方によろけた。
視線を上げると、祭壇から見下ろして来る冷たい怒りの表情に出会った。
「俺たちを大したことのない存在だと侮っている、その傲りが、お前自身を殺すだろう」
アイティラはそちらから視線を外し、素早く周囲を見回した。
すると、教会内部に等間隔に並ぶ白い柱の影から、すでに弩をこちらに向けている人間の姿が見て取れた。
柱一つにつき二人ずつ、その柱が中央のアイティラを包囲するように立っていた。
二射目が放たれた。
今度こそアイティラは全てを避けた。見事な動きだった。
わずかに目を見開いている弩兵たちに対して、アイティラは順に倒していこうと柱の一つに向けて駆け出した。しかし、その足はすぐに止まってしまう。
まず感じたのは、何かが足に引っ掛かり切れる感触。そして、地面に着いた瞬間に滑る感覚があり咄嗟に身を引いた。即座に訪れたのは、矢が一本その場所目掛けて飛んできたことだった。
「どこから . . .」
それは、考えずともすぐに視界に飛び込んできた。
左右に並べられた礼拝席には細い糸が張り巡らされ、それが切れたとたんに巧妙に隠されていた設置型の弩が矢を放つというものだった。そして、地面には油か何かが撒かれており、柱にいる敵に近づけさせないように苦心した結果が見て取れた。
「くくッ. . .」
喉を鳴らすような笑い声が、隻腕の男から聞こえた。
「俺はあの時から、お前に報復する時を望んでいた。とんでもない力を持った化け物を、どうやったら追い込められるかを。そして、その時が来た」
祭壇から説教をする聖職者のように、隻腕の男は仲間の仇相手に教えてやった。
「背中に刺さっているその矢に何が塗られているか知っているか。普通の人間なら、すぐに身体が麻痺したように動かなくなり、死に至る毒だ。もうお前には、その毒が廻っている。動けなくなるまで、時間はそうかからないだろう」
男がすべてを語り終える前に、弩はすでにアイティラに向けられていた。弦を引く時間をかけないために、あらかじめ矢をセットした弩を柱の陰にいくつか隠しているらしかった。
「全て準備が整っている!後はお前さえ倒れれば!」
隻腕の男がたまらずといったように声を上げた。
それに対してアイティラは、弩を構えた彼らから目を離すと、隻腕の男に目を向けた。
「な、なんだ」
その目は何を訴えていたのだろう。
ただ、焦りや恐怖だとかではないことだけはたしかだった。
なんとなく浮かんだ”同情”という言葉が、形を成した瞬間に消えていった。
それは男の記憶にもある、赤い槍の形をした輝きだった。
空中に靄のように浮かんだものは、やがて一つの形に収束していき、その禍々しい色の塊となった。
鋭くとがった先端が柱の一つに向けられて、少女が小さな身体で振りかぶると同時に、教会内部を強い突風が過ぎ去った。
そこには、粉々に粉砕された白い柱と、それに埋もれて覗いている赤い肉塊があるだけだった。
「. . . な」
呆けたような声が祭壇から聞こえたが、その次の瞬間には弩の斉射が行われていた。
しかし、先ほどまでの正確な狙いとは裏腹に、手先がぶれた状態で放たれた矢はでたらめな方向に飛んで行く。
その直後には再び赤い槍が柱の一つを破壊して、教会の支えを一つ減らした。
それは撃ち合いだった。数十の矢と、一つの槍による撃ち合い。
一回行われるごとに、狙いが外れて壁や地面に突き刺さるいくつもの矢と、柱の残骸がひとつ生み出されるだけの行為であった。
「くそッ、なんだこれは!」
目の前の光景が信じられないというように、順番に壊されて行く柱に次は自分だと思った射手が、吐き捨てながら逃げ出した。それにつられて、恐怖の限界に陥った彼らは、役目を放棄して扉へ向けて殺到した。
赤い瞳が、教会に残った最後の人物に向けられる。
「残りは . . . あなただけ」
はっと正気に戻った隻腕の男は、未だに信じられないように荒れ果てた教会内を見回した。
しかし、何度見ても結果は変わらず、その顔が苦痛に歪められた。
「まさかここまで一方的だとは思わなかった。それに、毒は、どうしてまだ動けている」
「その答えはあなたが口にしていたと思うけど」
アイティラは隻腕の男に向けて近づいていく。
今度こそ、男は終わりだった。男は口を閉じ、化け物の歩みを息を呑んで待っている。
冷静に、心を落ち着けて、そこに足を踏み入れる時まで、待っていた。
ーーそして、ついにその位置まで、恐怖に耐えきった。
教壇に隠された足元で糸が切られ、シャンデリアの様に天井に吊り下げられた木の杭が少女の頭上に落下する。
それは、咄嗟に避けるには広く大きく連なっており、上を見上げたアイティラに避ける隙なく降りかかった。
地面に木の杭が突き刺さり、砕け、教壇に身を隠した隻腕の男をも、その教壇ごとしたたかに打ちつけた。何かが破裂したような大きな音が、飛び散る木片が、広がる土埃が、隻腕の男の感覚を麻痺させた。ぐぅ、と呻きを漏らした男は、地面に這いつくばった身体を起こすと、ふらふらと立ち上がった。そして、晴れた土煙にあったものを見て、思わず肩を震わせて笑った。
そこには、杭の一つにはっきりと貫かれているあの化け物の姿があった。
杭は化け物の胴体を貫き、地面に突き立っていた。
化け物の胸から上は、重力に従って力なく垂れ下がっており、足は宙に浮いていた。
それはまるで、おかしな恰好のままピンでとめられた何かの標本のようだった。
「くくッ、ああ、そんな。俺は殺したというのか、この化け物を。忘れられなかった恐怖を」
片腕の男は、おぼつかない足取りで化け物へと近づいたが、やはり化け物は動かなかった。
当たり前だ。たとえ化け物でもそれが生きている限り、心臓を壊されれば死ぬし、生き返ることなどない。その事実に、男は歓喜し、また安堵した。俺の仲間は、生者に殺されたんだ。たとえ力を持っていたとしても、生あるものに殺されたんだ。
それを想えば、先ほどまで感じていたこの化け物に対する怒りは消え、代わりに高揚と疲労が身体を襲った。
片腕の男はそのまま化け物を通り過ぎ、教会の出口へ向けて歩き出した。
覚束ない足取りで、設置した罠を自分で起動しないように慎重に歩いていた、その時だった。
背後で木材の乾いた音がした。
肩をはねさせ背後を振り返ると、そこには黒いローブの背中が見えた。
だが、それはおかしい。
彼女の身体は木の杭で貫かれていたはずだ。それなのに、貫いていたその杭が切断されて地面に落ちているのはどうしてだろう。
「え?あぁ?」
男の呆けた声に反応したように、背を向けていたものが振り返った。
生きているとしか思えない真っ赤な瞳が、片腕の男に向けられた。
「すごく、痛かった」
化け物が声を発したとたん、片腕の男の顔から血の気が失せていく。
そんな、はずは。男はうつろに繰り返した。
「ここまでやられるなんて、思ってなかった」
そうだ、傷は!
男は血眼になって、杭が貫いたはずの場所を見た。
たしかに、痕跡はあった。それは、ローブの中心に大きな円形の穴が開いていたからだ。
しかし、そこにあるのは素肌の白さだけで、傷一つない肉体が姿を覗かせている。
「こんなッ」
悲鳴に似た声が出た。
「こんなことが、あっていいはずーー」
化け物の手には、いつの間にかあの赤い槍が握られていた。
男の片腕を吹っ飛ばした、あれだ。
ふざけている。
そう、男は思った。
初めてこの化け物に出会った時以上の怒りが、憎悪が湧き、それが一時的に恐怖を忘れさせた。
「こんなことが、あっていいわけがない!」
「 . . .?」
化け物は怪訝そうに目を細めながらこちらを見ている。
それが、なお怒りを煽った。
「どうして俺たちを殺すんだ!」
「決まってるでしょ。敵だから」
「敵?敵だと!?俺たちがお前に何をした!俺たちはただ、盗みをしていただけだろう!」
「盗みだけだとは限らない。あなたたちは、私の大切. . . 味方に危害を加えられる立ち位置にいた。だから、奪われる前に殺した。それだけ」
目の前の化け物は、それが当然の理であるかのように話した。
奪われる前に、奪う。殺される前に、殺す。
それは男にとっても、理解できる理屈だった。そして、理解は出来ても納得のできない事でもあった。
「あんたの言ってることはよく分かる。もしあんたが、普通に生きている人間で、生きるのに苦しくなっただとか、奪われるかもしれないと思って俺たちを殺したんなら、恨みはすれど納得ができる。俺たちだって、人を殺したことがあるからだ」
アイティラの歩みが止まった。
「でも、あんたは違うだろ!あんたは初めから死ぬ心配がなかったんだ!杭に胴体を貫かれても死なない化け物が、抗うすべのない俺たちから一方的に奪っただけじゃねえか!」
「それは違う。私は、私は奪われないためにーー」
「何が違う!あんたは略奪者だ!自分勝手な理由だけで人を利用し、殺してしまえる化け物だ!」
片腕の男は目を血走らせて叫んでいた。
そしてアイティラは、その言葉に目を見開いて固まっていた。赤の瞳孔が縮小している。
「そんな、だって、私はあんな奴らとは違う。私から全てを奪っていった、あいつなんかとは!」
「お前は化け物だ!化け物が人の世界で暮らしてていいわけがないだろう!人の世から出て行け、このーー人でなし!」
「 . . . 」
片腕の男は肩を上下させながら、化け物を見た。
化け物は怯えた表情で片腕の男を凝視していた。
ここまで言ってしまっては、男はこの後殺されてしまうだろう。いや、たとえ言わずとも殺される結末になることはあきらかだった。それが分かっていても、この化け物がここまで苦しそうな表情を見せてくれたのであれば、男にとっては満足だった。
「化け物め、俺を殺すんだろう。俺の仲間たちと同じように、小石を蹴飛ばすみたいな感覚で殺すんだろう!ならばやれ、この略奪者!人間から奪い続ける、赤き血に濡れた怪物よ!」
その瞬間、男の頬に一気に膨れ上がった熱気が触れた。
壁面側から伝うように、炎が一瞬にして教会内部を包み込んだ。
地面に撒いていた油によって、片腕の男とアイティラを囲うようにして、一面が炎の海と化した。
突然のことに、片腕の男は先ほどまでの蛮勇が消えうせ、代わりに冷静さが戻ってきた。
「まさか、俺ごと燃やすつもりか?この化け物を殺すために、俺ごと」
一体どうして。
そう口にしようとした時、帽子の下で笑うあの男の目が思い浮かんだ。
そういえば、弩による斉射も、杭を使った罠も、全てがあの男の考案だった。地面に撒いた油は、化け物の足を取るためだと言っていたが、それにしては量が多い気がしていた。
あの男だったらやりかねない。目の前の化け物と、もう一人を殺すためだけに、この町と自身の傭兵団の殆どを犠牲にする作戦を考えたあの男なら、片腕の男を切り捨てたとしても全くおかしくなかった。
うかつだった。化け物への報復に気を取られすぎて、今更ながら冷静さを失っていたことに気づいた。
「くくっ、まあ、どちらにしてもいいか」
どうせ火を放たれなくても死んでいた。
だったら、気にする必要などない。あの男はあの男で、勝手に切り捨てた気になっていればいい。
片腕の男に残された道は、すでに目の前に示されているのだから。
化け物は、手に赤い槍を持ちながらも、なぜか男にとどめを刺しには来なかった。
先ほどの話が、よほど堪えたのだろうか。いや、それは無いだろう。
目の前の化け物は、人を殺したところで何も感じない化け物だろうから。
視界が赤に彩られる。炎の赤。逃げ場のない、化け物との一対一。
「畜生!俺は逃げも隠れもしねえ!」
片腕の男は勢いよく短剣を引き抜くと、残された片腕を振り上げて化け物めがけて戦いを挑んだ。




