這いよる炎
ダリエルの町のとある宿屋に面する通りは、普段とは違いささやかな興奮に揺れていた。
そこには、行方をくらまして姿を消していた仲間を救出できたことで、純粋な喜びを示す赤剣隊の姿があった。
「お見事です。アレク殿下」
片目の従者が、一番の功労者である主人に声をかけると、どこか自慢気な青年の声が返ってきた。
「まあ、少しは活躍できただろう。これで、僕のことを役立たずなんて言ったあいつも、悪くは言えなくなるはずだ」
アレクの言うあいつとは、アイティラのことだ。
途中まで得意げに語っていたアレクだったが、ふとあたりを見渡すと、わずかに眉根を寄せた。
「それにしても、最後の一隊はまだ戻ってこないのか」
「何かあったのではないですか?」
「他がこんなに上手くいっているのにか? まあ、あと少し待って戻らなければ、向かうことにしよう」
その時、赤剣隊たちが騒めいた。
もしや最後の一隊が戻ってきたのかと思ったアレクは、そちらに目を向けて固まった。
そこにはこちらに向かって来る小さな影があった。
その身に纏っている黒のローブは、裂かれ、崩れ落ち、ところどころ肌色が覗いていた。
黒地でもはっきりと分かるように灰色に煤けたそのローブは地面に引きずられ、足取りに合わせて左右に揺れた。その少女の両腕に抱えられるようにして、少女よりも大きな女が、力なく腕を地面に垂らしている。
「な、何が. . .」
アレクは呼吸を思い出すと同時に呻くようにいい、それに少女が顔を上げた。赤い瞳が、アレクを見ていた。
「取り戻してきた」
「は? . . . あ、あぁ」
アイティラは、一定の足取りでアレクに近づくと、レイラをそのまま前に差し出してきた。
アレクは困惑するように、瞼が下りたレイラとアイティラを交互に見たが、アイティラはなおも差し出した姿のままだった。
「レイラのこと、任せていい?」
アイティラは、一度アレクの背後に視線を移してから、レイラをアレクに支えさせた。
アレクは両腕に乗った重みに態勢を崩したが、すぐさまシンも手伝うことで寝ている女を地面に落とさずに済んだ。
それを見届けたアイティラは、再び元の道を戻っていくように背を向けたため、アレクは慌てて呼び止めた。
「待て、どこに行く」
「決まってるじゃん。こんなことした奴を探しにいく」
アイティラは振り向かずにそのまま進んで行ってしまう。
「ちょっと待て、説明もなしか!?」
アレクがそう叫んでも、結局アイティラは止まらず、やがて姿が見えなくなった。
「何でもかんでも一人でやりやがって! 自分勝手な奴め!」
一通りの不満を並べ立てた後、両腕にかかる重みに気づき、アレクはため息をついた。
「とりあえずこいつを運ぶぞ。シン、そっち持ってろ」
赤剣隊たちに解散を言い渡し、アレクは宿屋の中にレイラを運び込むことにした。その途中で、アレクの視界に何かが揺らめき、そちらに視線を吸い寄せられた。
「ん、煙?」
町に比較的近い位置の丘陵で、黒い煙が天に向かって昇っていた。
「アレク様、どうかされましたか?」
「いや、何でもない」
***
アレクとシンの狭い部屋に運び込むと、邪魔な箱をどかしてレイラを横たえた。
赤剣隊の隊長は、特に怪我をしている様子はなく、少し煤で汚れているくらいだった。
「. . . 起きないな。本当に生きてるのかこいつは」
アレクがつま先で強めにつつくと、レイラはわずかに身じろぎした。生きてはいるらしい。
レイラの頬は煤で汚れていたが、そこに小さな跡が残っていた。指で頬をなぞったのか、灰色の頬に肌色の線が引かれていた。
アレクがそれに意識を吸いよそられていた時、シンに後ろから声をかけられて肩をはねさせた。
「な、なんだシン! 何か言ったか?」
「いえ、アレク様は聞こえませんでしたか?」
「何の話だ」
「悲鳴のようなものが聞こえた気がしたのですが」
シンは普段と変わらない表情で、壁の先を眺めていた。
「そうか?僕は気づかなかったぞ」
「自分の聞き違いでしたか。 . . . すみません、アレク様。一応外を見てきます」
シンの背中を見送ると、途端に部屋の中が静かになった。
シンがいたとしてもそれほど騒がしくなるわけではないが、あの無口な従者が居るだけで静寂を気にする必要がなくなるのだ。
赤剣隊の隊長は一向に起きる気配もなく、アレクは仕方なしに壁に背を預けながら不満をこぼした。
「まったく、なんで僕がこんなことをしなくちゃならないんだ」
しばらく無言のまま腕を組んだ。
外に行ったはずのシンはなかなか戻ってこない。何をやっているのだろうか。
寝ている赤剣隊の隊長を見ていると、不意にアレクも眠気を感じた。
ここしばらく、眠らずに赤剣隊の捜索に時間を費やしていたから、その疲れがやってきたらしい。
シンが戻ってくるまで寝ていようかと瞼を閉じた時、男のしわがれた大声が宿屋に響いた。
「大変だ! 全員下りてこい!」
アレクは飛び起きると、部屋を後にして声のもとに向かった。
そこでは、宿屋の主人が店のテーブルを持ち上げて正面扉の前に運んでいるところだった。
「何をして . . .」
アレクが問いかける前に外から悲鳴が聞こえた。
弾かれるように窓辺に近寄り外を見ると、この町の人間が通りを混乱したように走り回っていた。
「そこから離れろ!」
後ろから大きな声が聞こえてアレクが下がると、そこにもテーブルが立てかけられて窓を塞いでしまった。
「何が起きてるんだ」
たった今部屋から出て来たばかりの宿の客たちも、状況が分からないまま、呼び出した主人の様子を窺っている。大男の風格を持つ宿屋の主人は、その顔をしかめながら、自身も混乱した様子で話し出した。
「さっき、よく分からねえ連中が、外で人を襲ってたのが見えた。それも、一か所の騒ぎじゃねえようだ。反対側からも逃げて来た奴がいたからな」
客の一人が詳しく聞こうと大柄な主人に詰め寄っている。
誰が襲ってきた?何人くらいだ?今はどうなっている?
そういった事を聞いていたが、宿屋の主人もそれが分からないから、とりあえずテーブルで扉を塞いでいたらしい。
窓は塞がれてしまったが、隙間からわずかに外の様子がうかがえる。外ではなお、逃げ惑う人々の姿と声が混ざり合っていた。
「とりあえず、騒ぎが収まるまではここにいよう」
主人がそう言うと、客の一人が小さく呟いた。まるで、あの日の夜みたいだ。
皆が扉の前で彫像のように息を殺して立ち止まっていた。しかし、アレクはそこでとたんに不安を思い出し、宿屋の主人に声をかけた。
「その、僕の従者が外に出たままだ。戻ってきたとき、扉を塞がれてたら入ってこれない」
宿屋の主人は、従者という言葉に一瞬気を取られたもののすぐに言い返してきた。
「だからと言って、開けておくのも危険すぎる。その子だってきっと、別の場所で隠れているさ。だから君は、この場所で待っているべきだ」
他の客たちもそれに同意するようにアレクに頷いているが、シンならきっと自分だけ助かろうと隠れなどしないことは分かっていた。そうだ。シンなら大丈夫だ。あいつはそう簡単にやられる奴じゃない。
とはいえ、アレクの不安は簡単には拭えなかった。アレクには、命が直接危険にさらされる経験が少なかったし、その時も必ず隣にはシンがいた。頼れる従者が居ない状況は、アレクにとっては慣れていなかった。
「このままここでやり過ごせば. . .」
そう各人の心は思っていた。
しかし、それを許さぬ敵意が、煙の形を伴って視界に入ってきた。
驚いた主人が急いで厨房の奥に入り、次いで喉が裂けんばかりの声が飛んだ。
「火だ! 奴ら、火をつけやがった!」
地面から這い進んでくる煙に急かされるように、宿屋の人々はこれまで築いてきたバリケードを、今度は必死になって壊し始めた。地面に音を立てて崩れたテーブルは、その拍子に足が折れた。
それを見た主人はその棒を持つと、他の客たちに言った。
「身を守るための武器を探せ。何でもいい。焼け落ちる前に何か持って、外に出るぞ」
彼らは武器としてはあまりにも心もとない道具をそろえて、扉へ殺到した。
「あんたも、早く逃げろ!」
呆気に取られていたアレクに向けて宿屋の主人はそう言うと、外に飛び出していった。
慌ててアレクも後に続こうとしたが、その時部屋に残してきたレイラのことを思い出した。
「まずい!」
部屋に戻ると、相変わらず横たわっている赤剣隊の隊長がいた。
アレクはそれを下から持ち上げようと試みたが、重みに耐えきれずに持ち上げられなかった。
その間にも、煙は部屋の中に入り込み、アレクは焦りのままに叫んだ。
「おい、起きろ! いつまで寝てる! このままだと死んでしまうぞ!」
それでも、レイラからの返答はなかった。
「誰かいないのか! 手伝ってくれ! 一人じゃ運びきれない!」
外に呼びかけても、相変わらず悲鳴が聞こえるだけだった。
「シン! 何をしている! 早く来い!」
最後に己の従者を呼ぶも、片目の従者は居なかった。
アレクは苛立ちながらも、レイラの両腕を掴んで扉の方に引きづっていく。
それだと火が廻るまでに間に合わなくなる危険があった。それでも、アレクにはそうするしかなかった。
「くそっ、僕を巻き添えにする気か!」
最後に盛大にレイラを罵った時、大きな足音がこちらに向かっているのに気づいた。
「シン!?」
それが片目の従者だと思ったアレクは咄嗟に叫んでいたが、即座に違うことに気づいた。大きな足音は、大柄な男を連想させる力強いものだった。そして、剣と防具のかちゃかちゃという音が、アレクに危機感を募らせた。
アレクはレイラを離すと、部屋に置いていた操弾の弓に手を伸ばし、矢をつがえて構えた。
剣を持ってる奴なんて、騒ぎを起こしている奴らに違いない。アレクは開け放たれた扉の虚空に狙いを定めながら、息を殺してその時を待った。煙を吸い込みすぎたのか、それとも寝不足か、頭の中がくらくらしてくる。
やがて、その虚空に巨体が現れた。
その巨体は、炎の赤とは真逆の、蒼い獅子のエンブレムを纏っていた。
「アレク殿下、ご無事でいらっしゃいますか!?」
アレクは勢い余って矢を放たなかったことを安堵した。




