Point the camera
写真を撮るのが好きだ。スマホでもカメラでも、何でも。古ぼけた物置のところで、ぼくは足を止める。自転車に積んでいたリュックを下ろし、中をまさぐる。虫かごの下――スマートフォンを取り出して、いつものようにカメラモードにする。
ぼくはスマートフォンを草むらに向ける。写真を撮ることは好きだが、三脚だとかレンズだとか数万円もするカメラだとか、そういうものには興味が無かった。まあ、カメラなんか買えないんだけど。おじいさんの家には高級なカメラがいくつも棚に飾られていたけど、それらを使ったことは一度も無い。せがんだこともない。ぼくは高校一年生の春にスマートフォンを買ってもらって、それで満足していた。
物置のすぐそば――この草むらにはキリギリスやカマキリがいる。今は六月。そろそろ、キリギリスが大きくなって来る時期だ。真夏ほど虫たちは成熟していないが、このぐらいの暑さの方が写真を撮るには好都合だった。
写真を撮るようになったきっかけは小学三年生の時の生物観察の授業だ。班に一つ学校のカメラを貸し出してもらうのだが、そのとき撮った写真の評判がよかったのだ。
「面白い写真だね」――先生の言葉だけは頭の中に今も残っている。
何を撮ったのかは覚えていない。小学生のぼくに写真を正確に撮る技術があったわけがない。それでも、褒められて嬉しかったことは確かな感覚だった。
その日からぼくは母にせがんで携帯を貸して貰い、たびたび写真を撮るようになった。家の近くにあった空き地の廃車、自転車のさび、蜂に刺されて腫れ上がった自分の掌に至るまで片っ端から撮影した。あれから今日に至るまでレンズを向け続けている。写真だけじゃなく動画を撮るのも好きだ。ハラビロカマキリが孵化する光景――薄い黄色の塊が一斉に蠢く姿は、なんとも神秘的だった。
写真を撮り過ぎてスマートフォンの容量がすぐ無くなるから、新しいSDカードが必要になってしまう。千枚まで写真がはいるフォルダーも五十を越えていた。カマキリの脱皮、餌を加えて走っている蜘蛛――草の根を分ければ、被写体には事欠かない。虫を逃がさぬように、しゃがんで音を立てないよう柔らかく尖った雑草の葉を捲っていく。緑の粒が密集して葉にくっついているのを見つけた――動きを止め、スマートフォンを近づける。アブラムシだ。そこにアリが群がっている。クロヤマアリ――最もよく見るアリだ。それからしばらくしゃがみながら草むらをまさぐり続けた。
一通りめぼしいものを撮り終わった。額を掌で拭うと、想像以上に汗ばんでいた。スマートフォンの画面――デジタル表示は三時半を差している。次は商店街だ。今日は好きな作家の新しい文庫本が出るんだった。
写真を撮る――その行為は一人で完結させられるという利点がある。人と関わることが苦手なぼくにとって、それに依存するのはある意味必然のことだった。小学生の頃は友達がいたような気もするが、中学生になってからはなんとなく一人だった。いつも話していたクラスメイトが休んだ時、誰にも話しかけられなかった。その時ようやくそのことに気づいた。自分には友達なんていなかった。漠然と感じていた孤独を理解した。
高校生になった今も変わらない。同級生と遊びに行ったこともない。誰もが当たり前に経験していることがぼくには何もない。そのことから逃げるように、ぼくは日常の風景を撮り続けた。何か形になるものを生みだすことで自分の人生に価値を見いだしたかった。
――写真ばっかり撮って勉強はどうなってるんだ。
――やっぱりスマートフォンは早かったかもね。
――いつも遊んでばかりだからな。
たまに言われる、ぼくに対する嘆き。ぼくにはどうすることもできない。一人では、写真を撮ることしかできないのだ。本当は家族や先生が言うように、将来を見据えた勉強ができればいいんだけど。
写真の数だけが増えていく毎日。
商店街まではなかなか遠い。おまけにこの暑さだ。太陽が突き刺すように照りつけるあの暑さはないが、一息ついたときに襲い来る蒸し暑さは真夏のそれとは違って陰湿だった。そのせいかあまり人はいない。アーチ型のガードの中心で、標識が威圧している――この先自転車の乗り入れ禁止‼ アーチの向こう側に進むと途端に人が増える。人混み――眩暈がした。集団の中に分け入るのは苦手だった。ぼくは臆病で、弱くて、どうしようもなく小さかった。その事実を頭に浮かべさせるからだ。
ぼくは自転車を標識のすぐ近くに停めた。そこには折り重なるように自転車が連なっている。自転車の半分以上は黒で、よく見ないと区別が付かない。本当は本屋の前で自転車を停めるべきだが、本屋は商店街のかなり奥の方にある。正直自転車を押しながら人混みの中を進むのは面倒くさかった。
唐突に喉が渇きだした。この渇きを抱えたまま本屋に行って帰ってくる――かなり厳しい。ぼくはいったんアーチの外に出て、人の少ない右側を歩き出した。真っ直ぐ向かった先のコンビニがここからは一番近いはずだ。人が少なくなった代わりに、今度は高いビルが顔を見せ始めた。塾のテナント、商社、古書店、また別の塾テナント――
「高いビルばっかだなあ」
ふと気配がして、空を見上げる。褐色の点が空を駆け抜ける。
「珍しい。トンビじゃん」
トンビがスピードを落とした。点が鳥になった。地上からかなり近い。ぼくはスマートフォンの画面――カメラを向けた。画面の中に交差点が広がった。ちょうど向かいのビルがすっぽり映り込んでいる。しかし、このままではスマートフォンの位置が低すぎてトンビは映らない。しかし、太陽が眩しすぎてスマートフォンでトンビを追えない。効果音――間違って、ムービーモードにしてしまったみたいだ。
ふと画面を見ると、ビルの上で、女の人が立っている。景色でも見ているのだろうか?ぼくは、スマートフォンの画面越しにぼんやりと女の人を眺めた。女の人が屋上の柵を越える。
僅かに鼓膜が揺さぶられた。遅れて結構な音がしたことに気づいた。
「え?」
スマートフォンのムービーモードを終了し、視線を交差点からビルの上、ビルの上から真下の道路沿いに移す。
深紅が道路に広がっていた。目が覚めるようなどす黒い赤だ。中心に固まりがある。見覚えのある色彩――スマートフォンの画面を確認する。さっきの女の人の服装。程なくしてどよめきが湧き上がる。死んでるぞ。飛び降りたのか。救急車!
様々な緊迫を含んだ声が、ぼくを飲み込み、通り過ぎていく。深紅はすぐに人混みに覆われぼくの位置からは見えなくなった。
しばらくの間、ぼくは立っていることしか出来なかった。
普段意識することのない母が洗う食器の擦れ合う音がやけに耳に障る。ダイニングテーブルにいるのはぼくと妹。父とは母は既に晩ご飯を食べ終えていた。母は片付け、父は寝転がりパソコンの画面を見つめている。我が家は何も変わりない――いつもと違うのはぼくだけ。
「そういえばうちの近くで、飛び降りがあったみたいじゃないか」
飛び降り――今日商店街の近くで起きた。心臓が軋んだ気がした。
「怖いねー」
「そういや陸久、おまえが今日遊びに行った近くじゃなかったか?」
「うん……でもぼくは、見なかったから」
「そうか――でもよかったな。人が死ぬ所なんて、いざ目にしたらお父さんでもきついだろうからな。陸久が出会わなくてよかったよ」
「確かにそれはそうね」
「お母さんジュースおかわり」
いつもはぼくが家族の会話の中で妹にちょっかいを出し一悶着あるのだが、今日に限っては何も言うことができなかった。
あれからすぐ、警察が来た。遠目で見ても即死だろうことは明らかだった。ぼくは後ろめたくなり、涼しくなる前にその場を立ち去った。
ぼくは現場からはある程度離れていたので、誰もぼくがカメラを向けて動画を撮影したことに気づかなかったのだ。警察に目撃者として呼ばれることもなかった。家族にぼくの嘘はばれていないままだ。
「明日の課題めんどくせー。ごちそうさま」
「おかわりいいの?」
「今日はもう腹いっぱい」
「そう」
ぼくは二階に上がっていった。自分の部屋に入ってひとりきりになった瞬間に、身体の力が抜けた。明日の課題――全く手つかずだった。明日の朝に急いでやればいい。何もやることがなくなり、本棚に手を伸ばした。文庫本を買うことをすっかり忘れていたことに今気づいた。
自分の部屋で一人、何回も動画を見返した。再生する度に、喉の奥がひりついた。その感触が気持ち悪くて何度も唾を飲み込んだ。スマートフォンで撮った、しかも偶然映り込んでしまっただけの動画だから、手ぶれは酷いし画質も荒い。それでも、人が死ぬ瞬間が映っている。この世から一人消えた、その事実が余すことなくこびりついている。ぼくはその事実に、それを目の当たりにして記録してしまったことに戦慄せずにはいられなかった。
なぜだか分からないけど、ぼくは動画のことを誰にもいえなかった。
夢には見なかった。当たり前だった。ぼくはあの人のことを何も知らない。ニュースで見た名前――五十嵐秀美。遺書などは見つかっていない。自殺の線で間違いない。
それだけの情報しか持っていない人間のことが、夢に働きかけるのは無謀といってもよかった。それなのに、ぼくが自分の目で見たこと――彼女が死んだことは、恐ろしいほどぼくの頭を容易く占領した。
曇りだからあの時ほど暑くはない。雨が降りそうな空模様だからか、人もまばらだった。ぼくはビルを見つめた。
またここに来てしまった。あの女の人が死んだ日――ちょうど一週間前の、先週の土曜日。あれ以来、もうそのことしか考えられなくなっていた。死を納めた動画を寝る前に食い入るように見て、そのたびに窺い知れない気味の悪い感情を抱え続ける。誰にも相談できない苦しみ。あらゆる感情が湧き出し、形になる前にぐちゃぐちゃになって消えてゆく。こんなことをしてはいけないと分かっていた。こんな思いを抱いてはいけないと分かっていた。それでもこの動画を消すことは出来なかった。死に中毒している。何かがぼくの中で変わってしまった。実感のない実感――代わり映えしない日常を写真撮影で満たしていた日々は容易く瓦解した。この感情にどう整理をつければいいのかわからなかった。別にぼくがどうしようと、何かが変わったわけじゃない。女の人を助けられたわけじゃない。それに、あんな高いビルから飛び降りるほど追いつめられていた人を、もしぼくがすぐそばにいたとして救えるとは思えないし、全くの他人を多少の会話で救えると思うこと自体、薄っぺらい思い上がりであることのように感じられた。
ぼくの前を人が通り過ぎていく。ぼくより年下の子供だったりサラリーマンだったり髪を染めたは派手な人だったり、様々だ。何も変わらず、人は日常を過ごしている。当たり前。
「きみ」
背筋がびくついた。振り返ると、黒いシャツを着た男の人が立っていた。一瞬別の人に話しかけているのかと思ったが、どう見ても僕の方を向いている。ぼくよりも年上――大学生くらいに見える。ぼくに大学生の知り合いは思い当たらなかった。
「え――あの、どうかしました?」
「前、ここで女の人が飛び降りたじゃん」
動画のこと――頭をよぎる。なんで?――疑問よりも焦りが膨らむ。
「それは知ってますけど……」
「きみさ、そのとき写真撮ってなかった?」
見ていた人がいたのだ。ぼくは言葉に詰まった。
「え、あ、いや……」
「映ってるの、死んだとこ?」
「画質粗いですけど、動画に映ってます」
「動画? 写真じゃなくて?」
男の顔つきが変わった――眉間に深い皺が刻まれる。
「ちょっとですけど、はい――いや、本当はトンビを捕ろうと思って、スマホ向けたら偶然、女の人が飛び降りるところが映り込んじゃったんです。ぼく、写真撮るの好きなんで……」
「じゃあ、撮ったのはわざとじゃなかったってこと?」
男は目を丸くした――表情がそれまでの険しいものから毒を抜かれたように変わる。
「はい――ごめんなさい」
「そりゃそうだ……写真ならともかく、動画だからな……ビルから人が飛び降りるなんて、事前に分かるわけない。超能力者でもないのに」
男は顎をなぞり、呟いた。それはほとんど独り言のような響きがあった。
「その動画、まだあるの?」
「一応あります」
「後で見せてもらえる?」
「全然大丈夫です」
「ありがとう」
男は微笑んだ。
「なんで、ぼくのこと知ってたんですか?」
男の態度の軟化を感じ、ぼくは焦り一色だった頭の中から、疑問を取り返すことが出来た。
「おれ、あの日姉さんを迎えに来てたんだよ。君と同じでこの商店街にいたんだ。だから、本当に偶然、きみのことを見たんだよ」
加えて男は飛び降りた女の人――五十嵐秀美が自分の姉であることを語った。ぼくは話を聞きながら、自分の呼吸を整えるために大きく息を吸い込んだ。心のどこかで、府に落ちている自分がいた。男とニュースの写真に写っていた秀美は、何となく雰囲気が近かったからだ。
「そうなんですか……」
「野次馬みたいなやつがいっぱいいたからね。きみがぼくに気づかなくても無理ないさ」
一息に喋った後で、男は口を閉じた。したがって、ぼくも何も言えなくなった。僅かな静寂が流れた。
「いつもと変わらなかった、なにも。なのに、あんなことが……」
絞り出すような呟き。口に出したと言うよりは漏れたという感じだった。自分の言葉の一つ一つに、男は絶望しているようだった。言葉を発することによって絶望を吐き出し、吸い込んでまた悲観する。ぼくの退廃的なそれと比べると、男の絶望は新鮮で、より深刻に思えた。当たり前だった。ぼくはこの人のように身内を無くしたわけではない。ずっと一人でいるだけ。自分が辛いのかすらもおぼろげに感じられた。
「ちょっと近くのスタバでも行こう。そこで話しようぜ。おれが奢るから」
男はぼくに背を向けて歩き出した。ぼくは覚束ない足取りで後を追うように歩いた。
スターバックスは商店街の中――写真を撮った場所から歩いて十分程度の所にあった。建物は商店街の中にあるにしては割と大きめで、二階は別のテナントを兼ねているようだった。
ぼくはスターバックス――スタバに来たこともなかった。何だか居心地が悪かったが割と空いており、苦痛というほどでも無かった。ぼくはクランチアーモンドチョコ、男はコーヒーとドーナツを頼んだ。
「でも、偶然自殺が映っちゃうなんてな」
男は席に座ると口にした。
「全部、映ってるの?」
「お姉さんがビルの屋上にいて、飛び降りるところまで……ほんとに偶然なんで、綺麗には映ってないですけど」
「ちょっと、見せてくれる?」
スマートフォンを翳し、男に見せる。男は直視する。
「こんな高いとこから……辛かったよな」
奇妙な感覚を抱いた。自分だけが知っていたという、特別感が抜け出していったような。それでも、どこかでほっとしている自分がいた。
「ニュースで見なかった? おれの姉さんについて」
「見ましたけど、ほとんど何も……自殺としか」
「だろうな。でも、本当は姉さんは遺書を残していたんだよ」
「え――じゃあなんで」
「遺書はおれが隠した。家族に触れないようにな」
「どうしてそんなことを……」
「犯人に復讐するためだ。目星は付いてる。姉さんの彼氏だ」
「なんで分かるんですか?」
「これを読んでくれ」
男は自分の横の椅子に置いていたリュックから、折りたたまれた紙を取り出した。それをぼくに渡した。
お母さん、お父さん、秀樹へ
ありがとう。そして、こんなことになることをごめんなさい。
言ってなかったけど、わたしには彼氏がいました
新野義隆っていう、同じ大学の学生です
優しい人だと思っていました 最初のうちは本当に優しくて わたしを気遣ってくれていました
でも、だんだん態度が変わってきて
「おまえなんかおれの数ある女の一人」だって
平然と浮気してるって告げられました
彼にわたしのことだけ愛して欲しいって伝えても「うるさい邪魔だ死ね」
酷い言葉ばっかり
いっぱい、酷いことを言われて
何回も説得したのに最後は蹴られました そのときのことは忘れられません
頭の中が本当に真っ白になって何も考えられなくなりました
もう辛くて
彼のことを嫌いになりたくないけどどうしようもなくて
考えても考えても辛いことだけ浮かびます
それがなおさら辛いです もう耐えられません
自殺なんてだめだって分かっているけど、本当に辛いです
お母さん、お父さん、秀樹へ
今までありがとう。本当にごめんなさい
動悸が激しくなった――文章を直視しているのに、視点がぼやける。自然と目が滑っていた。あの時のこと――頭を締め付ける。こんなふうに悩んで、人が死んでいったんだ――人の死が急速に現実感を持って立ち現れてくる。この人の暮らし、この人の苦しみ――ぼくは何も知らないからと考えもしなかった。ただ、死を目撃してこの手に収めてしまったという現実に恐れおののくばかりだった。
「これ、隠したってことですよね……お父さんとお母さんには、見せてないってことですか」
「うん」
「なんで……」
「そのことを言ったら、親は彼氏を警察に突き出すだろう。そうなっても、どうせ数年で釈放だ。そんなのおれは許せない。絶対に、自分でやってやるんだ。姉さんの死に見合った、正しい罰を」
男――秀樹は怒りに打ち震えていた。
「どうするんですか、これから」
「もちろん、復讐してやるのさ」
「ぼくも、なんか手伝いたいです。何か、できませんか」
ぼくは自分の言葉に微かに驚いていた――平凡な暮らしに甘んじることしか出来ないぼくが、こんなことを言い出すなんて。
「ありがとう。きみ、写真好きなんだって?」
「はい」
「じゃあ、おれと新野……姉さんの彼氏を見つけ出す手伝いをして欲しいんだ。姉さんと同じ岸浜文化大学だから、おれが探ればすぐ分かる。そして新野に姉さんの死の原因になったことを自白させるから、きみはそれを動画にとって欲しいんだ」
秀樹はまた、一息にまくし立てた。自分の言葉の響きに彼がとりつかれているように、ぼくには感じられた。
「ぼくが?」
「ああ」
「あと、新野はおれのこと知ってるかもしれない。だから、そこんとこ、きみに協力して欲しいんだ」
喋った後、秀樹は自分のコーヒーを全て飲み干した。ぼくはなんとなく何も言えず、目を伏せて彼の表情を窺った。
「姉さんがビルから落ちて死んだ以上の苦しみを与えてやる。姉さんの死を見せて、おまえはこれ以上に無残な目に遭っていくんだって教えてやるんだ……」
秀樹は呟いた。秀樹の表情、声色――危険な香りがした。
あのあとぼくの名前を聞かれ、しばらく話してLINEを交換して帰った。晩ご飯はカレーだった。
ぼくはベッドで今日のことについて考え続けた。秀樹は完全に己の言葉にとりつかれていた。それは終末の予感を漂わせており、もしかしたら今までの日常を瓦解させてしまうような力を持っているかもしれないという懸念をぼくに抱かせた。思いも寄らない方向に事態は向かっている。何だか怖い。やっぱり断ろうか――頭の中を言葉が浮かんでは通り過ぎる。別のことを考えようとすると、また同じように言葉が浮かぶ。堂々巡り。友達もいなくて、写真を撮ることでしか時間を潰せないぼく――時間は有り余っていた。何も考えず、これからも同じように暮らしていく。それが一番望ましいのか。ぼくには分からなかった。
ぼくは昨日のことを考えてみた。
金曜日――。六限目の後に一斉清掃があった。誰に言われるでもなく、ぼくはずっと教室の隅に溜まった埃をちりとりに集めていた。チャイムが鳴って清掃が終わり、ゴミ袋の所にちりとりを持って行った時、担当の井上に言われた。
――あ、おまえいたんだ。
たった一言。それ以上は何もなかった。それはクラスメイトとぼくの三日ぶりの会話だった。彼の言葉――侮蔑や嘲笑ではなかった。ただ、ぼくがひとりぼっちという事実だけがあるだけだった。井上は学級委員長だった。本人は投票結果に文句を垂れていたが、誰に対しても面倒見がよく、クラスの雰囲気をよく盛り上げている彼が委員長になるのは当然の成り行きだった。彼はふて腐れることもなく、きちんと委員長の仕事もやっていた。
別にぼくが、彼に対して何か思うことはなかった。彼とぼくではあまりにも見ることが出来る世界が違っていた。それでも、彼の言葉をぼくは忘れることが出来そうにない。
ぼくは階段を降りて、リビングに向かった。手足がぎこちなく動いた。ぼくはなぜか緊張していた。
父はテレビを眺めていた。母と妹は既に寝てしまったようだった。
「まだ起きてたのか」
「まあね」
言葉が途切れた。ぼくは唾を飲み込んで、口の中を湿らせる。
「今日も疲れた。どうせいいことなんかないし」
ぼくは口にする。あくまでも軽口というふうに。しかしこの発言は、口にするのに多大な緊張をもたらした。
「辛いのか?」
父がぼくの顔を覗き込む。
「そういうわけじゃないけど……とにかく退屈で、疲れる」
「珍しいな。陸久がそんなことを言うなんて。いつも楽しそうにしてるのに」
父は再びテレビに目線を戻した。ぼくは目を見開いて、そして伏せた。
「そうかな――そんなことないよ」
ぼくは言葉を絞り出すのにしばしの時間を要した。自分が戸惑っているのだと言うことに気づいた。
「それに退屈なだけましじゃないか。おとうさんなんかな、会社の上司がまた休んだせいで……」
父が会社の不満をつらつらと口にする。ぼくは下を向き、落ちていたボタンを指先でいじる。
「陸久はいつも好き勝手に遊びに行って写真を撮ってるし……陸久みたいにおとうさんも過ごしたいよ」
思い出したように父は告げた。ぼくは投げ出した足の指先が冷たくなっていくのを感じた。
「そうだね」
「社会人になったらメリハリをつけて、いろんなひとの――」
「ちょっとトイレ」
父の話を遮り、ぼくは洗面所へ向かった。いつものように顔を洗い、歯を磨く。眼鏡をかけ直し、鏡を見た。部屋の明かりは付いているというのに、ぼくは鏡の中にある自分の顔がよく見えなかった。
指定された場所――岸浜文化大学、そのすぐ近くのコンビニ。そこで炭酸飲料だけを買って、外に出る。ぼくは大きく息を吐いた。
結局来てしまった。
――岸浜文化大学はこの駅で電車に乗って、終点まで行けば見えるところにあるから。
ぼくは初めて電車に乗ることになった。不安だったので、昨日の夜は時刻表を布団にくるまりながらスマートフォンの画面で何度も確認した。が、いざ乗ってみると切符を買ってしまえば何もする必要が無く、思ったより簡単なのだと知った。
――真面目そうな服にした方がいい。少し高価そうな方がいいかな。
秀樹はぼくに服をくれた。ブランドなんか、ぼくには分からない。ただ、家族以外に何かをもらったのは初めてだった。
――とりあえず、これから活動するときはこれを必ず着てくれ。いざというときこっちから見つけやすいから。
ぼくは硝子に映る自分の姿を見た。確かに、少し高級そうにも見える。窓硝子に向かってポーズをとってみる。着ていると少し暑かった。
――新野本人に直接会うのは危険だから、他の人から新野について探ろう。普段どこにいるとかについて分かれば、そこから自白をとるための計画が立てられる。
大学の敷地に入り五人に話しかけたが、新野について知っている人はいなかった。誰かに話しかけるのは苦手だ。それでも、初対面の人たちなのでまだ気が楽だった。同じ集団の中で一人、暮らしていく息詰まる空間――普段の高校生活よりは。きっとこの人たちと二度と会うことはないので、ぼくの人生にほとんど影響はないだろう。
ベンチに座っている女の人に話しかける。これで六人目。
「すいません。ちょっとよろしいでしょうか」
「何?」
「ぼく、この大学を志望しているんですが」
「あ、そうなの!是非頑張って。おすすめだよ」
女の人は溌剌とした笑顔を見せた。声色、仕草――学生生活が充実しているのだろう。それはぼくにはないものだった。だが、どんなにいい大学でも、誰もが充実しているなんてことはあり得ない。現に、秀樹の姉――五十嵐秀美は、自ら命を絶った。
「ありがとうございます」
ぼくは微笑みを返した。
「あの、新野先輩ってご存じですか?」
「え、なんで?」
「ぼく、あの人に憧れてここを目指してるんです」
でまかせ。
「嘘! だって彼、めっちゃ雰囲気悪いよ。きみとは全然タイプ違うし」
ぼくは曖昧な笑みを浮かべた。
「聞いた話だけど、なんか、新野って不良と連んでるって噂だよ。どっかでタトゥーあるやつと煙草吸ってるの見たって」
女の人は喋り続ける。
「新野さんって何処で会えるか知ってますか」
「ごめん、それはよく分からないけど――でも、絶対、関わらない方がいいって」
それから五分程度談笑した。どれも、取るに足らない話だった。
「ありがとうございました。あと、最後にどうでもいいことなんですけど、五十嵐秀美さんってご存じですか」
――姉さんの話は出さない方がいい。姉さんは家族にも新野との交際について一言も知らせていなかったし、大学に対してもそれは同じだろう。どうせ無駄さ。それに、そこまで話したらいろいろ勘ぐられるかも知れない。新野と違って、何度も聞ける話じゃない。大学にとっても学生の自殺はセンシティブな話だろうから。
秀樹からは秀美については聞かなくていいと注意されていた。それでも、屈託のない明るさをもつこの女の人に、何故かぼくは疑問を――彼女の死をぶつけてみたくなったのだ。
「その人……! つい最近、自殺したんだよ」
「え――そうなんですか」
寝耳に水――と言ったふうの驚いた表情をぼくは作った。また、でまかせ。
「私はその人……五十嵐さんと話したことなかったからよく知らないけど、おとなしめな人だったらしいよ。だから、あんなことになったわけが分からなくて……遺書も何も、無かったらしいし」
「わかりました」
遺書――秀樹が隠した。新野に復讐するために。そしてぼくは、彼の言うとおりにここに来て、新野について調べている。
この人の何気ない話――ぼくの心の中で、蠢くものがあった。おとなしめで、自殺する心当たりを誰も知らない秀美。誰にも新野との関係を告げていなかった秀美。
ぼくが自殺したら世間は同じような反応をするだろうか。
「今日はわざわざありがとうございました」
ぼくはお礼を口にし、頭を下げた。歩き出す。
「頑張ってね」
女の人は最初と同じ、溌剌とした笑顔をぼくに返してくれる。ぼくは笑顔を向け、その場を後にした。一旦校門を出る。割れたアスファルトに出来た水たまりにゆらゆらと浮かぶぼくの顔――冷たい顔をしていた。
大学から最寄りのガストでぼくらは向かい合わせでご飯を食べた。秀樹はハンバーグを頼んだが、ぼくは晩ご飯があるからと言い、一番安いパンケーキを頼んだ。今回はぼくがお金を出しますと言ったが、「付き合わせてるお詫びだから」と秀樹は聞かなかった。
「そうか……新野についてあんまり分からなかったんだな」
「はい――素行が悪いとか、不良と付き合ってるとか、それぐらいしか」
「もっといろいろ、聞いて回った方がいいな。おれはその間新野を追い込めるように、準備してるから」
ぼくは何も言わず、パンケーキを切って口に入れた。頑張ってください――何故かその言葉は言いづらかった。既にぼくも彼の計画の片棒を担いでいるというのに。
「ありがとうな。おれの事情なのに」
「いえ……大丈夫です。どうせ暇なんで」
それからぼくたちは、黙々と食事にいそしんだ。思い詰めたように一点を見つめる秀樹を見て、ぼくは不安になった。秀樹から感じる危うさは最初にあったときと変わらなかった。
晩ご飯は鯖の塩焼きだったが、当然お腹は空いていなかった。宿題をしてからシャワーを浴び、自分の部屋でベッドの上に転がる。
日曜日は終わり、またいつもと同じような一週間が始まる。秀樹周りのこと以外、ぼくの日常に変化はない。今日もまた、ベッドの中で、五十嵐秀美が自殺した動画に見入る。これはどう考えても異常だと、ぼくには分かっている。それでも、あの日目にしてしまった光景は脳味噌にこびりついたままだ。
秀樹はどうするつもりなんだろうか――絶え間なく浮かぶ疑問。まだきみと同じく途中だから――ガストの帰りに質問したが、そう言って彼ははぐらかした。秀樹の復讐が達成されたとして、ぼくはそれをどう目の当たりにして、何を思えばいいのか――
考えても何も分からない。そのうち頭が痛くなってきた。早くこの糸がほつれたような感情から解放されたかった。何に対しても整理をつけられないまま、ぼくは眠りに落ちていく。
土日の出来事が嘘のような、週の始まり。余りにも長閑で退屈で、空疎な日々。
体育の授業は自習。皆喜んでグループを作り、それぞれのスポーツをやる。ぼくはバスケットボールを倉庫から取り出し、ひたすら一人でゴールに向かって投げ続ける。やっているふり――バレーボールやバドミントンは、皆と違ってひとりぼっちのぼくには出来ない。ひとりぼっちであることは誰にも知られたくなかった。バスケットボールをしていれば誰にも気づかれることはない。
昼休みを挟んで座学が続く。四限目――五限目――何も言わず座っているだけのぼくには、授業中も休み時間も変わらない。学校ではそれまでのように退屈を埋める写真撮影もできない。
眼鏡をかけた国語の先生が教室に入ってきた。六時間目――ようやく最終授業。授業の最中、ふとしたとき、ぼくは自分がカレンダーを見つめていることに気づいた。
秀樹に言われた格好の通りに、岸浜文化大学に今日もやってきた。
――新野はごろつきだから、何をしてくるか分からないからね。これを持っていた方がいい。
秀樹はぼくに折りたたみ式ナイフを渡してきた。ナイフ――ファミレスでかっこつけてハンバーグを切るときにしか、使ったことはない。全く新しい感覚に、ぼくは打ち震えた。同時に、こんなものを持たせようとしている秀樹の神経を疑った。とりあえず、ズボンのポケットにそれをしまった。
今日で聞き込みは三日目。先週の土曜日を含めれば、四日目となる。ここ二日は文化祭の準備か何かで、午前中授業だった。そのため、木金と平日に連続で聞き込みをすることが出来たのだ。文化祭に、どうせぼくの役割なんてない。
――十日ぐらい、聞き込みをしてくれればそれでいいから。もちろん、学校あるだろうし日が開くのは全然いいから。
秀樹はこう言っていたが、ぼくはなるべく早く新野の溜まり場を突き止め、秀樹に報告したかった。
今までの三日間に三十人ほどに話を聞いたが、新野の溜まり場について知っている人はいなかった。質問した半分以上が新野は不良じみていて近寄りがたいと述べていた。
先週の土曜日よりもさらに暑くなっていた。日差しは強力さを増すばかりだ。
「あつい……」
太陽を直視できず、ぼくは掌で影を作った。歩く度に服の中が汗ばんで気持ちが悪かった。
「飴、入れてたはず」
ぼくは上着のポケットのボタンを外す。中には紙くずと、長方形の黒い物体が入っていた。ちょうどぼくが普段使っている、消しゴム程度の大きさだ。
「いけね。これ自分の服じゃなかった」
ぼくはまた渇きに耐える必要に迫られた。渇いた喉を震わせながら、木陰のある場所を探す。また、校門を出た近くの屋根付きベンチに向かう。
「えーと……とりあえず」
「おまえさ、何してんだよ」
ぼくの独り言を遮る、低い声。急なものだったのでぼくは凍てついた。振り返る。屈強な髪を金に染めた男がぼくに密着した状態でこちらを睨みつけていた。毛根のあたりは金髪がはげており、素の黒髪が顔を覗かせている。金髪男――聞いていた話からどう考えても、新野義隆だった。新野の両脇には不良仲間と思しき目つきの悪い大学生ぐらいの男が二人、立っている。
「ちょっとこいよ」
新野は言った。背中に突きつけられる、硬い感触――おそらく刃物、ナイフ。
ぼくの足は途端に動かなくなった。
そこから先は全て言いなりだった。通りから少し離れた場所まで歩かされた。次第にビルやファストフード店が見えなくなり、木造の小屋がまばらに現れるようになった。古ぼけた空き家の前で一行は止まり、中に入っていった。ぼくは突き飛ばされ、和室と思われる部屋で転がった。埃がひどく、激しく咳き込んだ。
「どういうつもりだ、おまえ?」
新野がぼくの前で座り込み、威圧的に問いかけてくる。ぼくは息が苦しくて何も言えなかった。
「こいつ、大学でいろいろ聞いて回ってたらしいですよ」
新野の左側にいた男が口を開いた。薄紫色に髪を染めており、軽薄な印象を受ける。
「みてえだな」
新野は腕を組み、束の間思案した。
「おい、誰に頼まれた?」
「え――」
まともに言葉が出ない。
「おまえみたいな気の弱そうなガキが、一人でどうこうできるわけねえだろ」
全てその通りだった。
ぼくは殺される――なんとなくそう思った。その直感は確かなものだった。新野はナイフを舐め回し、他の二人はしきりにバットで素振りをしている。
ぼくはポケットを触ってみた。折りたたみ式ナイフ――取り出して、こいつらを刺して逃げる。そんなことが出来るとは思えなかった。人を刺すのも怖いし、刺されるのも当然怖かった。
「誰に頼まれた? 何が目的なんだよ? 女子高生孕ませて不登校にしたことの恨みか? よく考えたら、おまえと同じぐらいの年じゃん。恋人だったか? もしかして」
「え」
「違うのか。じゃあ何だ?社会人薬漬けにして廃人にした話か? それとも同学年の女自殺させたことか? くだらね。全部親父に頼んで、握りつぶさせたからな」
「義隆さんとこの親父さん、めっちゃ偉い人で警察関係にも顔が利くんでしたよね」
「クズだけどな。だから利用しても罰とか当たんねえだろ」
新野はおかしそうに唇を歪めた。同学年の女の自殺――秀樹の姉。だが、それだけではなかった。新野は想像以上に人を壊していた。途端に全身が痺れだした。自分の身体が震えているのだということに気づいた。ぼくは怒りよりも恐怖に支配されていた。こんな人間と関わってはいけなかったんだ――関わってしまったら最後、精神も肉体も完全に壊される。
「今の二人のどっちかだな。誰に言われた」
新野の顔から表情が消えた。全身を鳥肌が埋め尽くす。言葉を発することもままならないほどの、心臓を押しつぶす恐怖。秀樹の顔が浮かんでは消える。
「ぼくひとりでやりました。ごめんなさい」
ぼくは震える声を出した。
「嘘つくなよ」
新野がぼくに顔を近づける。酒臭かった。ぼくは泣きそうになっていた。
「本当です」
「嘘つくなって」
「本当に一人なんです」
「ふざけんな‼」
耳が聞こえなくなるかと思うほどの大声。ぼくは目を閉じ、肩をすくめた。頬を張られた。ぼくは頬を押さえて転がった。
「新井」
新野が呼びかける。無造作に伸びた髪をかき上げ、長髪男――新井が近寄ってくる。ぼくは逃げようと身体を捩った。直後、左手――焼けるような鋭い痛み。ぼくは悲鳴を上げた。頭の中で閃光が弾ける。左手の甲がひりひりと痛む。焼け跡が着いていた。新井がへらへらと笑った。手に握られた細い棒――煙草。痛みに支配され瞬間的に失われていた意識が舞い戻る。煙草を手の甲に押しつけられた――遅れて理解する。全身が痛みに緊張し、汗ばむ。
「痛い目に遭いたくないだろ。誰なんだよ。誰に命令されたんだ、おい」
新野の声が低くなる。恐怖が隅々まで染み渡ってゆく。
「されてません」
「ざけんな!」
罵声を浴びせられた。ぼくは目を閉じ、歯を食いしばる。腹を蹴り飛ばされた。息が詰まった。背中を硬い床に打ち付けた。土だらけの床に吐瀉物をぼくは撒き散らかした。
入り口のあたりから物音がした。三人が一斉に振り返る。
「おい、長尾ちょっと見てこい」
「わかりました」
新野の右で煙草を吸っている、薄紫色に髪を染めた青年――長尾が腰を上げ、玄関の扉を開けて外を覗いた。
籠もった硬い音がした。呻き声。何かが潰れる音――長尾が背中を丸めて動かなくなった。
「何してんだよ?」
新井が長尾に近づき、声をかける。長尾の顔、の横を風を切る音がした。新井の顔が青褪めた。バットを構えて走り抜けてくる黒いシャツの男――秀樹。
「なんだおまえ⁉」
「このガキの連れか⁉」
「ふざけんな。このガキ殺すぞ!」
新井が叫びながら後ずさり、ぼくの首にナイフをあてがった。殺す――あまりにも鋭利で、ちっとも現実感のない言葉。人が死ぬのを見たし、自分が殺されかけたというのにだ。ぼくは自分が人質に取られているこの状況が全く飲み込めなかった。全てが靄の中にあるような感覚――ただ、身体がだるかった。
「くたばれクズ野郎!」
秀樹の罵声とほとんど同時に、硬い音が響いた。金属バットを降り回し、新野に向かってくる秀樹。バットの先は新井の顔面を打ち抜いた。喉に激痛が走った。喉に手を押さえ、呻き声を上げながらぼくは倒れた。秀樹が新井を殴った衝撃で、ナイフがぼくの喉に突き刺さったのだ。痛みと痺れが喉仏に雪崩れ込む。新井は裏返った悲鳴を上げてへたり込み、崩壊した顔面を掻き毟る。ぼんやりとした脳味噌で考える――何で秀樹はここが分かった? ぼくに渡した服――おそらくGPSでもつけられていたのだろう。消しゴム程度の大きさの四角い塊――思い出す。多分あれだ。
空気を切る音――秀樹は再びバットを構える。振り上げ、振り下ろす。新野の肩にバットのヘッドが打撃を与える。バットは秀樹の手からすっぽ抜け、乾いた音を立てて転がった。
「何すんだ、てめえ⁉」
新野は足元に落ちたバットを持ち直し、振り上げる。新野の振りかぶったバットは秀樹の肩に命中した。直後、秀樹が肩を押さえ膝を突いた。
「痛いじゃねえか、この――」
荒い息を吐きながら、新野は秀樹を見下ろし、近寄った。
秀樹が肩を丸めて新野に体当たりをした。両手を突き出し、もう一度突撃する。手元には鈍い光を湛える物体――ナイフ。ぼくに渡したものよりもずっと大きく、ごつかった。刃先のギザギザも大きかった。秀樹は新野の腹に突き刺した。新野の悲鳴。すぐに新野のシャツはどす黒く染まった。
「死ね、死ね、死ね、死ね死ね」
秀樹はうわごとのように呟き、一心不乱にナイフの柄を握り、さらに奥へナイフの刃を憎き新野へ押し込もうとしていた。新野が血反吐を吐きながらわめいた。
「痛え! ざけんなよ!」
新野がバットを持ち上げ、秀樹の側頭部に叩きつけた。そのまま二度、三度と叩きつける。血飛沫が視界を覆った。秀樹が頭から倒れ込んだ。頭皮と髪の毛の間から、薄桃色の物体が飛び出した。ぼくは思わず吐いた。脳味噌を露出させた秀樹――即死のようだった。秀樹の死体は新野にもたれ掛かるように乗り上げた。新野も力を使い果たしたのか、それとも痛みを思い出し耐えられなくなったのか、しきりに口を開きながら腹を押さえて蹲った。ぼくはそれを無心で見つめていた。頭が痛くなり、血の気が引いていく。痛みが増し、息が苦しくなっていく中で、ただぼくは虚脱感だけを覚えていた。一心不乱に新野を殺そうとした秀樹。このガキ殺すぞ――新井の制止など耳に入っていないとでもいうような行動だった。それが示す真実。この人は復讐のためなら、ぼくのことなんてどうだってよかったんだ――
聞き込みは全てぼくにやらせる。そうすれば訝しんだ新野がぼくに因縁をつける。秀樹は新野の危険さを知っていてそうした。最初からぼくは、新野をおびき寄せるための捨て石でしか無かったのだ。GPSをつけた服を聞き込みの際ぼくに必ず着けるように言ったのも、新野の溜まり場を突き止めて殺すためだ。
秀樹がぼくに話しかけてきた日はお姉さんの自殺から日が経っていた。多分、ぼく以外にも声をかけていたんだろう。事件に興味がありそうな野次馬に目星をつけて。普通の人は彼の話に興味を持たず、間抜けなぼくだけが利用された――
急速に目の前に靄がかかり、光を感じなくなっていった。身体の奥から何かが降りていく気がした。体温が下がっていく。
呂律の回らない、呻き声とすら呼べないような不快な音。新野はいつの間にか仰向けになっていた。全身が小刻みに震えていた。這いずりここから出ようとしているが、自分の足元にある秀樹の死体のせいで進むことが出来ない。秀樹の死体すら、痙攣する新野には動かすことが不可能なようだった。
ぼくは空き家の出口を眺めた。長尾も新井も死んでいた。
「助けてくれ。……死にたくない。頼む、救急車、……死にたくねえよ」
新野の声はか細く弱々しかった。新野はいつの間にか歩けなくなるほどに衰弱しているようだった。仰向けになってしまったせいで、口の中に溜まる血を吐き出せないはずだ。その証拠に、彼は言葉を発する度に噎せていた。想像を絶する痛みなのだろう。なのに、ぼくはなんとも思わなかった。次第に眩暈がしてきた。頭がぐらつく感覚――痛みに耐えられそうになかった。そのうち意識もなくなってくるだろう。でも――ぼくにはスマートフォンがある。
「助けて。痛え……頼む……」
念仏のような新野の呻きが続く。
「ぼくももうすぐ死ぬよ。ぼくとおまえらのせいだよ。そんなに死ぬのって、怖い?」
咳き込みそうになるのを堪え、ぼくは一息に喋った。新野はぼくに何か言い返そうと口をぱくつかせたが、漏れたのは言葉ではなく泡が浮かんだ血だけだった。
「あなたは痛くて苦しいまま、誰にも助けてもらえず死んでいくんだ。あなたが自殺させた女の人みたいにね」
ぼくは首の刺し傷から垂れ続ける血を手で拭ってみたが、血は止まらなかった。痛みも消えない。
親父にもみ消させた――新野はそう言った。もしかしたら警察がこれを見つけても同じように隠滅されるのかも知れない。それでもよかった。
ますます体温が下がっていく。
「あなたが死んだ女の人と同じように苦しみながら死んでいく映像が撮れたら、五十嵐さんの両親も秀樹さんも、少しは報われるよ」
ぼくの声――ひどく虚ろだった。
眩暈が激しくなってきた。脳味噌が揺さぶられているようだった。ぼくは震える腕でスマートフォンを床に転がっているバットに立てかけ、画面に触れて目を閉じた。ムービーモードの効果音が鳴った。
大宮です。巻末コメントは初めてかも知れません。
6月10日の午後に何となく頭に浮かんだ作品です。おぼろげにではありますが結末まで決めていました。私にしては割と速いペースで書けた作品だと思います。
もう少し突き詰めることも出来ますが、「その場の思いつきで書いた作品に無駄に肉付けしても傑作にはならないだろう」ということで断念。それでも2週間はかかりましたから……。頑張って書きました。
しかし、結末まで決めているのに、細部を詰めていくのには苦労しました。小説を書くのは難しいですねぇ。