6 さよなら
オリヴィアの家に近付くと、ヴィクトリアが家の前で一人ぽつりと立っていた。ヴィクトリアは家を見つめながら涙ぐんでいる。どうしたのだろうと思ったが、その疑問はすぐに解消された。
「――――――――」
家の中から女性の喘ぎ声が漏れ聞こえてくる。おそらく中にシドいる。
「にいに……」
ロータスが来たことに気付いたヴィクトリアは悲しそうな顔のままで振り向く。
「ママ、かわいそう」
「ヴィー、こっちにおいで。こんな所にいちゃ駄目だ。にいにと少し別の所に行って遊んでこよう」
ロータスはヴィクトリアを抱えて離れた場所まで歩いていく。ヴィクトリアはロータスにしがみつきながら、片言ではあるが自身に起こったことをぽつぽつと話す。つまりは、ママとのお昼寝から目覚めると、隣に裸のパパとママがいたと。ママに泣きながら外に出ていてと言われたが、ママがいじめられていると思ったヴィクトリアは、家の前から離れることも出来ずに心配で泣きそうになっていたらしい。
幼児がいる場所でおっぱじめるな! 何考えてんだあのクソ親父!
話を聞けば同じようなことは以前から何度もあって、ヴィクトリアは一人で子供部屋に籠もってやり過ごすこともあったそうだ。今回外に出られたのはまだ良い方なのかもしれない。
二人は牧場近くの草原に向かい、そこでお花摘みをして花冠を作ったり、二人だけで「狩り」ごっこをしたりして遊んだ。ヴィクトリアがお腹がすいたというのでオニキスにもらった干し肉を二人で食べたりもした。
陽がだんだんと傾いてくる。本当は午前中のうちに里から出るつもりだったのに色々と長引いてしまった。ヴィクトリアと一緒にいるのが楽しくて、里を出るのをもう一日だけ先延ばしにしようかなんて考えまで浮かんでくるが、そういうわけにはいかない。
「行こう、ヴィー」
ロータスはヴィクトリアを抱え上げてオリヴィアの家に向かった。そろそろシドもいなくなっている頃だろう。最後にヴィクトリアとたくさん遊べて良かった。
家が見えてくると、窓辺にオリヴィアが佇んでいるのが見えた。憂いを含んだ表情を浮かべている彼女はなぜだか儚く見えた。
「ママ!」
家に近付くとヴィクトリアがロータスの腕から飛び降りて窓辺に走って行く。ヴィクトリアは笑顔になってオリヴィアのそばではしゃいだ後、玄関に回った。玄関には通常の扉の他に、小さな子供しか通れないような一際小さな扉があって、ヴィクトリアはそこを開けて家の中に入った。大人が出入りする扉には外側から鍵がびっしりと取り付けられていて、シドがいなければオリヴィアは外へは出られない。
窓の中で母子が抱き合う。ロータスは自分の幼い頃を思い出して切なくなった。ロータスを優しく抱き止めてくれる腕は、もうこの世にはいない。
「ねえ、待って!」
ロータスが何も言わずに踵を返しかけると、後ろから窓を開けたオリヴィアに呼び止められた。
「……里を出るのね?」
ロータスは黙って頷いた。ロータスの背中にある荷物からオリヴィアは察したのだろう。
「お願いがあるの、この子も一緒に連れて行って」
ロータスは目を見張り驚いた。まさかそんな事を言われるとは思わなかった。
オリヴィアは「私たち」ではなく、「この子」と言った。
「ヴィーを一人だけこの里から連れ出せということですか? オリヴィアさんは?」
「私はここから出られない。あの男は私を逃しはしない」
彼女はシドを「あの男」と呼んだ。かつて目撃した二人の間にあった思いは、あの愛は、消えてしまったのだろうか。
「あの危険な男からヴィーだけでも遠ざけたいの。ヴィーも連れて行って、お願いよ」
ロータスは首を振った。
「そんなことできませんよ、そんな誘拐みたいなこと……」
確かにシドは時として予想の斜め上を行くような行動を起こす破茶滅茶な男だし、実の娘であろうと情け容赦無い対応を取ることはあるだろう。あの男と関わって不幸になった者たちはたくさんいる。
特にシドはヴィクトリアに対してロータス以上に「無」を決め込んでいる。ヴィクトリアの存在ごとそっくり無視しているような節があり、ヴィクトリアがそばにいても構わずに性交渉に及んでいるのもその一環だろう。
オリヴィアが心配する気持ちもわからなくはないが……
「オリヴィアさんはそれでいいんですか? ヴィーと離れて、もう二度と会えなくなっても、それで平気なんですか?」
自分を置いて逝ってしまう選択をした母が、彼女に重なる。
オリヴィアは首を振って、ヴィクトリアを抱く腕の力を強めた。
「離れたくなんかない。この子は私の全て。私の命そのものよ」
オリヴィアは絞り出すように言って涙を流した。
「ママ」
泣いているオリヴィアを見たヴィクトリアは、心配そうな顔になってオリヴィアの頬に手を伸ばした。
「俺には二人を引き離すなんて出来ません。ヴィーにはまだ、母親が必要です」
自分のように母親を失う悲しみを、こんな小さな子供に味合わせたくはない。
オリヴィアの嗚咽を聞きながら、ロータスはその場からそっと立ち去ろうとしたのだが――――
「にいに!」
ロータスが背を向けたことに気付いたヴィクトリアが声を上げた。
「また、あそぼ」
ヴィクトリアがとても無邪気な笑顔を向けてくるので、胸に寂しさが広がって心の中を支配する。
「……ごめんね、もう遊べない」
ヴィクトリアは断られると思っていなかったのか、不思議そうにこてりと首を傾げている。
この可愛らしい仕草も、成長していく姿も、もう見ることはできない。
「にいに、どうして?」
「……ごめん」
ロータスは謝ることしかできなかった。
「さよなら、ヴィー」
込み上げてきてしまうものがあり、ロータスは唇を噛み締めて堪える。
ロータスは背を向けると、押し寄せる全ての思いを振り切るようにして走り去った。