4 ありがとう
ロータスは荷物を纏めていた。母がいなくなった家の中はがらんどうで、大切なものを失ったロータスの心の中をそのまま表しているようだった。
少し前までは、産まれてくる子供を楽しみにこの家で母と二人で笑い合っていた。そう思うと虚しい。
この家に一人で住み続けることはできる。里にいる限りは、きっと住む所も食べる物にも困らない。シドやシドの臣下たちが人間たちの脅威を遠ざけているからこそ、里の中で命の危険に晒されることもそうそうない。
けれどもう、あんな男の世話にはなりたくなかった。一分一秒たりとて、あの男が支配しているこの里の中にはいたくない。
シドはロータスに対して父親としてではなく、族長としての最低限の責務を果たすだけだ。他の里の面々が享受しているものと全く変わらないものを受け取るだけで、親子の絆みたいなものを感じたことは一度もない。
それでも気にかけてもらいたくて、いつか他の親子のように父と息子の関係になれる日が来るのではないかと期待していたが、そんなものは永遠に来ないことはもうよくわかった。
この里から出て行くこと、それはロータスにとって精一杯の意志表示だった。
出て行ったところでシドが何とも思わないことはわかりきっている。あの男にとってはきっと牧場の家畜が一匹減ったか増えたかくらいの感覚でしかない。
これはロータスの問題だ。シドが自分たちにしてきた仕打ちを、いや、何もしなかったということを、その事実を飲み込んで受け入れて里でこれから先何事もなかったかのように暮らすなんて出来ない。
シドは自分のことも母のことも死んだ妹のことも全く顧みることはなかった。だったら、自分だってあの男のことを顧みるのはもうやめる。
あんな父親、こっちから捨ててやる。
荷物をあらかた纏め終えた時、玄関の戸を叩かれる音に気付く。戸の隙間から漂ってくる匂いから誰が来たのか理解したロータスは、自分の匂いが相手に届かないように素早く家の奥に移動した。ひっそりと息を殺し、居留守を決め込む。
「ロータス? いないのか?」
聞こえてきたのは少年の声だった。彼は――――オニキスは、ロータスより少し年上でとんでもなく強くてロータスの憧れの人だ。細かいことにこだわらないさっぱりとした性格のオニキスは、強さを奢ることもなく他者への思いやりも深い少年で、戦闘能力の低さからよく他の子供たちに絡まれているロータスを助けてくれた。
オニキスが遊びの仕切り役をしていた時期は、他の子に嫌な思いをさせられることもなく心から楽しく遊べていた。ロータスの家に腐臭が漂い始めて里の面々がロータスたちを避けるようになっても、彼だけは変わらなかった。忙しい仕事の合間を縫ってはロータスの元に訪れてくれて、母に妹を埋葬するよう一緒に説得したり、余り物だけどこれ食って元気出せと食料などを届けてくれたりした。
墓地で座り込んだまま動けなくなっているロータスを発見して家まで連れてきてくれたのもオニキスだった。仕事を抜けられなくて来るのが遅くなって悪かったと何度も詫びられた。
墓地での出来事を話すとオニキスは我が事のように憤慨してくれて、心からロータスのことを心配してくれた。そんな優しすぎる彼もシドによって料理人に落とされている。しかしオニキスは落ち込むことなく『いつか族長にお前の飯が一番上手いって言わせてやる!』と息巻いていた。実に彼らしい。
いつもだったら喜んで戸を開けて中に招き入れているのだが、今回ばかりはそうはいかない。顔を見たら決意が鈍ってしまいそうで、泣いてしまいそうで、そして何より纏めた荷物なんて見られたら里を出るのを止めてくるような気がしたから、さよならは言わないでおこうと思った。
オニキスの気配が完全に消えてから玄関の戸を開けると、蓋付きの皿が置かれていて、中にはシドに振る舞われるような豪華な料理が入っていた。それから本当に余り物かと思うくらい、袋に溢れんばかりにびっしりと入った干し肉も置かれていた。
ロータスはそれをありがたく頂戴することにした。最後の晩餐ではなく昼餐に近い時間帯ではあるが、この先ちゃんとした食事を食べられるかどうかもわからなかったから、オニキスが作ってくれた料理を噛み締めて、ゆっくりと味わいながら食べた。干し肉は保存が効きそうだったので、荷物の中に入れた。
皿を洗って玄関先の元あった所に戻そうとして、『里を出ます。今までありがとう』とだけ書いた紙も一緒に置いておくことにした。
父にではなく、友に向けて。
書き置きを書いてから、果たしてオニキスにこれが読めるだろうかと思ってしまった。オニキスはいつも料理本が難しいと頭を抱えていて、ロータスに代わりに読んで教えてほしいとよく頼みに来ていた。でも、『ありがとう』くらいは読めるだろう。