3 失踪
※自殺の内容があります。
母が窓辺の椅子に座り、腕の中にとても小さな赤子を抱えている。母はずっと子守唄を歌っていた。
「お乳を飲みましょうね」
母が胸を赤子に差し出すが、赤子は眠ったままだ。
「母上……」
ロータスは母に声をかけた。これまで何度も何度も声をかけ続けた。けれど母の虚ろな眼差しはロータスを見てはくれない。母は真実を指摘し続けるロータスから背を向けていた。
妹の身体は既に腐り始めていて、死臭が酷い。
妊娠の途中で母は破水してしまった。そのまま産むしかなく、産まれてきた子供はとても小さくて一度も泣かないまま旅立ってしまった。
母の絶望はとても深かった。母の心は自分の子供が死んだことを受け入れられなかった。
母はずっと妹を腕に抱いたまま放さなかった。鼻を焼いている母は死臭に気付かない。母は腐って爛れている妹を平然と抱き、一言も声を発しない妹をあやし続け、乳を与えようとする。
母は壊れてしまった。
ロータスが妹を埋葬しようとして母を墓地まで連れて行くと、泣き喚かれてどうしようもなかった。この子は死んでいないのに、なんて酷いことをするの! と。
妹を無理矢理奪って埋葬することはできる。けれど、妹が生きていると信じ込んでいる母の心は救えない。
ロータスは、声をかけ続けるしかなかった。
「母上…… その子はもう、死んでいるのですよ……」
母が妹を散歩へ連れ出す。心配でロータスも後を付いて行く。
母が向かう先々で気付いた者たちが遠ざかっていなくなる。人間でも遠くからわかるくらいに死臭が酷い。
ふと、母がいつもとは違う道を歩き始めた。この先にあるのは――――
ロータスは黙って母に付いて行く。
やがて、一軒の家の前に辿り着いた。
窓辺に一人の女性が立っていた。オリヴィアは腕の中に小さな女の子を抱いていた。銀髪で水色の目をした、彼女にとても良く似た美しい子供だった。
オリヴィアの娘のヴィクトリアだ。ロータスの異母妹に当たる。
母は泣いていた。かつて親友だった女性を見たからなのか、それともその腕に抱いている女児を見たからなのか。
母は彼女たちに背を向けて、走り去る。
「ユリ!」
オリヴィアが鉄格子の嵌まる窓を開けて叫ぶ声が聞こえたが、ロータスは構わずに母の後を追った。
「母上! 母上っ!」
しばらく走った所でロータスが母の肩を掴んで止めた。母の肩はとても細く、弱々しくなっていた。
「ごめんね、ごめんね……」
母は妹を抱いたまま、ロータスの足元に崩折れた。母は誰に向かってなのか、しきりに謝り続けていた。
「この子をちゃんと、送ってあげないとね」
「母上……」
母が現実を見つめ、ようやく妹の死を受け入れてくれた。安堵したロータスは泣き続ける母の身体に手を回し、自身も泣いた。
ロータスと母は墓地に妹の亡骸を埋めて手を合わせた。死臭漂う彼らに近付く者はほとんどおらず、埋葬者はロータスと母だけだった。鋭敏な嗅覚を持ち、ロータスたちが妹を埋葬していることに気付いているはずのシドも来ることはなかったが、ロータスは妹を送ることができて幾分すっきりとした気持ちでいた。
シドにとって自分たちは特別な存在ではない。これからは自分がこの脆くも優しい母を守っていこう。
自分は全く戦闘の才能がないが、それでもこれからはたくさん訓練を積んで母を守れるくらいに強くなろう。
ロータスは母のためにもっともっと強くなろうと決意しながら、その日眠りについた。
翌朝、母は自室で首を吊って死んでいた。
ロータスは穴を掘る。
妹の墓を掘ったばかりなのに、今度は母の墓を掘る。
妹はとても小さかったから小さい穴でよかったが、母は大人だ。もっと大きく掘らなくては。
心のいくつかの感覚が麻痺したようで涙が出てこない。ロータスは墓地でただ一人、一心不乱に穴を掘る。
ガツリ、とスコップが大きい石に当たって止まる。ロータスはその石を見つめ続けた。
ロータスはまだ子供で戦闘能力が低いとはいえ、腕力は人間の大人よりある。この程度の石をどけるくらい何てことはない。
何てことないはずなのに。
ロータスはそれ以上掘り進めることができなくなってしまった。
掘った地面に水滴が落ちて染み込み、消えて無くなる。
ロータスはこれから先何のために生きていけばいいのかわからなくなってしまった。
涙するロータスの頭上に影が差す。
「父…上……」
振り返れば、シドとその臣下数名がやって来ていた。
来てくれた……
沈んでいた気持ちが持ち直す。
シドが指示を出すと、臣下が石をどかしてロータスが途中まで掘っていた穴の続きを掘っていく。
穴を掘るのとは別の臣下が、母の亡骸を彼らが持ってきた棺に入れてくれた。ちゃんとした棺だった。
ロータスは棺に入れられた母の回りに用意していた花を飾った。
蓋が閉じられていく。涙でぼやけてしまいそうになるのを堪えながら、母の最期の姿を必死で瞳に焼き付けた。
棺の上に土が被されていくが、泣いているのはロータスだけだった。
シドは何の感情も浮かんでいない顔で埋葬の様子をじっと見つめているだけだ。
シドは時折臣下に指示を出すために口を開いてはいたが、ロータスに何か言葉をかけることも、涙一つ見せることもなかった。
墓標が立てられて、埋葬が終わる。
父が、背を向ける。
行ってしまう。
「ま、待ってください! 父上っ!」
ロータスは叫んでいた。腹の中から存外大きな声が出た。
シドだけではなく、伴ったものたち全員がロータスを振り返った。
こんなことを言ったらもしかしたらシドは怒るかもしれない。でも、聞かずにはいられない。
「何か言うことはありませんか? 何か一言くらい、母にかける言葉はありませんか?」
すまなかったとか、苦労をかけたとか、何でもいい、何でもいいからっ……!
ロータスは祈るようにシドを見ていた。
シドが口を開く。
「無い」
シドたちが遠ざかる足音が響く中、ロータスはその場に崩折れていた。




