1 父
覚えている一番最初の記憶は、玄関の外で金切り声を上げながら中に入ってこようとする女を阻止するべく、母が必死で僅かに空いている扉を閉めようとする姿だった。
扉の隙間から見える女の手には刃物が握られていて、元々は美しかったのだろうその女は髪を振り乱し目は血走っていた。口から怒鳴り声を撒き散らし続けているその姿は醜い化け物のようだった。
「ロータス! 来ちゃ駄目! 奥に行って隠れてて!」
嫉妬に狂った父の番のうちの一人が、自分と母を殺そうとしていたことを理解したのは、幼すぎたロータスがもう少し成長して物事がわかり始めるようになってからのことだった。
獣人王シドの最初の番である母ユリアと、シドの最初の子供である自分は、シドの番たちにとっては特別な存在であるらしかった。
悪い方の意味で。
シドがロータス母子を特別だと思っているようには全く見えなかったが、シドの番たちにとっては違った。
ロータスと母を殺そうとしたあの女のようにあからさまな殺意を向けて来る者は稀だったが、番たちが二人を見る目つきには常に害意が潜んでいて、ロータスはそれが恐ろしかった。
母はとても優しかったが、気の強い人ではなかった。
獣人である母はシドが何人もの女を囲っていることは苦行であったはずだし、思う所も当然あったはずだが、ロータスを産んだ後に鼻を焼き、繰り返されるシドの行動にただ耐えていた。
一度だけ、最初に別の女と番った時にシドに抗議をしたそうだが、滅茶苦茶に殴られてシドを止めるのは自分では無理だと悟ったそうだ。
母はシドが他の女を抱くことに耐えられずに死のうと思ったが、ロータスを身ごもっていることに気付き思い留まった、という話はかなり後になってから知った。
母は自分からは表立って何か行動を起こすことはしなかった。母は争いを好まず、シドの館の中で静かに巻き起こる女同士の争いからは一歩引いた場所にいようとしていた。けれど他の女たちはそれを是としない。彼女たちにとって母と自分は憎むべき相手であり、叩き落とすべき相手だった。
ロータスと母が番たちにやり込められる形でシドの館を追い出されたのは彼が七歳の時だった。
新しく住む所だと言われて連れてこられた一軒屋は、住めるのが疑わしいほどボロボロだった。家の壁は壊れて穴が空き、窓が割られているのはもちろんのこと玄関の戸は蝶番が弾け飛んで斜めに歪んでいた。家の中の家具は嵐が去って行ったのかと思うほどに破壊され尽くしていて、本当にこんな所に住むのかと衝撃的すぎて子供ながらに愕然としたことを覚えている。
案内役の人間は、昨日まではこんなことにはなっていなかったのにと驚いていた。意図的に壊されたのは明らかだった。ロータスはきっと番たちがやったに違いないと憤った。
こんな状態なのに、シドは何も助けてはくれなかった。
家を片付けて住めるような状態にするのは大変だったが、ロータスは女たちの憎悪渦巻く魔窟のような場所から出られてほっとしている部分もあった。
けれど、母は泣いていた。
母にとってシドは特別な存在だった。
シドにとっては全くそうではなかったというのに。
シドの館にいた頃は、シドは時折思い出したかのように母を自分の部屋に呼びつけては共に過ごしていた。けれど、シドの館を出てからはそういったことは全くなくなってしまった。
シドの館を出てからロータスと母への周囲からの当たりはきつくなった。
原因の一つはロータス自身にあった。
ロータスは、戦闘能力が低かった。
シドの子供として期待されている分、肩透かし感も酷かったのかもしれないが、それまで同情的に見ていた獣人たちの中にもロータス母子を冷めた目で見る者たちが増えてきた。
本当にシドの子供なのかと訝しがる者もいた。母からはシドの匂いしかしないのだから、不貞を働きまくるシドと違って母がそんなことをするわけがない。母がシドの子供だとかたるためにどこからか連れてきた子ではないかなどと言う者もいた。そんなことを言われる度にロータスは酷く傷付いた。
慰めてくれたのはやはり母だった。
「ロータスは父上と母上の実の子よ。私たちの子ではないだなんて言葉を信じないで。あなたは確かに強くはないけど、読み書きはとても立派にこなせているじゃないの。向き不向きの問題です。たとえ世界中があなたを悪く言っても、母だけはあなたの味方でいるからね」
母はとても優しい人だった。けれど優しすぎたからあんなことになってしまったんだと思う。
シドと女たちを取り巻く状況に変革が起きたのは、ロータスが八歳の時だった。
シドがどこからか美しい女性を伴って里に戻って来た。
長い銀髪に水色の目をしたとても美しい獣人だった。獣人は美しい者が多いが、それに輪をかけて美貌の冴え渡る絶世の美女で、ロータスも一見すれば呆けてしまうほどだった。けれど里に連れて来られたばかりのその人の表情はどこか虚ろで、生気がないのが気になった。
彼女はシドの館の外に戸建ての家を与えられた。ロータスたちの家に比べてとても立派な家だったが、窓には鉄格子が嵌まり玄関には外から鍵がかけられていて、閉じ込められた状態で暮らしているようだったのでそれも気になった。
シドは館にいる番たちを完全に放置して、彼女の元にばかり通うようになった。
当然シドの女たちは面白くない。番たちは自分たち母子にしたように彼女に危害を加えようと画策していたらしいが、シドは彼女を害しようとする者たちを片っ端から粛清していった。シドの対応はロータスたちへのものとは全く違っていた。
彼女の名はオリヴィア。
名前だけならロータスもよく知っていた。
なぜなら、母から彼女の話をよく聞いていたから。
オリヴィアは、母ユリアの親友であり義妹でもあった人だ。