9 誕生
ロータスは呆気に取られていた。
眼前では血まみれの人間の少女が倒れていて既に事切れていた。少女のそばにはへその緒が繋がったままの小さな赤子がいて、勢いよく泣き続けている。赤子のへその緒は赤く染まる少女の衣服の下、腹部へと繋がっていた。
最初に血まみれの母子を見つけた時は、出産後に少女が死亡してしまったのかと思ったが、へその緒は腹から出ているというのに他に出産を介助したような人物の匂いは残っていない。ロータスはこの場で一体何が起こったのか探るべく、少女の血の匂い以外の他の匂いを注意深く探ってみた。
――お腹を大きく膨らませた少女がふらつきながら歩いてくる。顔面蒼白になっていた少女は突然その場に昏倒した。やがて弱くなっていた息使いは消え、少女はそのまま亡くなってしまったようだ。
とんでもないことが起こったのはその後だ。
通常の出産じゃない。誰かが刃物で外側から腹を裂いて取り出したわけでもない。この赤ん坊は、自分で母親の腹を破って這い出してきたんだ。
酷く蒸してうだるような暑さの中、汗がロータスの額から吹き出して流れていく。赤子の力強い泣き声が辺りに響き渡る中、ロータスは汗を拭うのも忘れてただ呆然とその場に立ち尽くしていた。
(こいつ、すごい……)
本来ならば母親と共に死ぬ運命であったものを、この赤子は自らの力で運命を変えてその先の未来を切り開いた。
(何て生命力だ……)
こんな小さな赤子が自分一人の力だけで命の危機を乗り越えて生き延びた。そのことがロータスの中に波紋を落とす。
ロータスはこの少女に見覚えがあった。
それほど接点はなかったが、雑用係としてシドの館に出入りしていた少女だ。確か少女はこの国の北側に突き出した半島に住む少数民族の出身で、言葉にかなりの訛りがあった。少女はすぐにシドのお手付きになってしまい、身体にシドの匂いをまとうようになった。
この赤子はシドの子供で間違いない。
シドはこの子が生まれたことに気付いているはずだ。絶対に気付いている。
この赤子はいくら母親の腹を破って出て来られるほどの力があったとしても、まだ歩けるわけではないし、獰猛な森の動物に襲われたらひとたまりもない。
なのに、助けに来ない。
衝撃や怒りはなかった。非常識だとは思うが、あの人は家族の絆を大切に思うロータスの価値観とは別次元で生きている。
シドとってはこの子も少女もどうでもいい存在なのだ。
これまでのロータスであれば見捨てられた赤子の存在に自分自身を投影し、己には価値がないと再確認して落ち込んでいる所だったが、心の中には別の思いが芽生えていた。
シドに見向きもされていないこの子に価値がないなんて、そんなことはない。
この子は自分の運命に抗って自分で道を切り開いた。
(生まれたばかりのこんな小さな子供が!)
この子が出来たんだ! 自分だって運命を変えることが出来るはずだ!
(俺だってこいつみたいに全部ぶち破って生き抜いてやる!)
ロータスは身の内から沸々とこれまでに感じたことのない衝動が込み上げてくるのを感じていた。
(里だけが世界の全てじゃない! あんな奴に認められなくたって、俺がいるべき場所は他にいくらでもあるはずだ!)
ロータスはその胸に炎のような思いを宿した。
(俺は俺なりに生きてやる! 生き抜いてやるぞ!)
ロータスの思いに賛同するかのように、赤子の力強い泣き声が周囲にこだましていた。
ロータスはまた穴を掘っていた。シャベルがないので平べったい石や手を使って掘り進めていく。墓穴を掘るのはこれで三度目だが、もうこれで最後にしたい。
少女を埋葬する前に、何か形見になれるものはないかと思ったが、少女は着の身着のまま出てきたようで荷物らしきものは持っていなかった。片側の耳に簡素な作りの銀色のピアスをしていたので、それを形見とすることにした。
少女はまだ幼さの残る可愛らしい顔立ちをしていて、年齢はロータスより二つか三つほどしか変わらなかったはずだ。
こんな年端もいかない少女を妊娠させるとは、酷い事をする。
少女はおそらく身重の状態で里から逃げようとして、この暑さにやられてしまったのだろう。
ロータスは最後に赤子をその胸に抱かせてやってから、彼女を掘った土の上に横たえた。
荷物を背負い直したロータスは、タオルで包んだ赤子を胸に抱いた。
「お前の母上は死んでしまったけど、これからは兄ちゃんが守ってやるからな、安心しろよ」
生まれたばかりの赤子の柔らかなその頬を突くと、くすぐったいのか反応して笑っている。
「決めた、お前の名前は『リュージュ』だ」
その名は、母ユリアが男の子が生まれたらそう名付けようと決めていた名前だった。
ロータスはリュージュを抱きながら里とは反対方向に目を向けた。
全ての問題が解決したわけじゃない。シドのことは今でもやっぱり許せないし、きっと一生許せないのだろうと思う。けれどシドの血が自分の中に流れていることも事実だ。あの人がいなければ自分が生まれることもなかったわけで、拒絶したいと思いながらもシドの存在を完全には否定しきれずにいる。
シドへの複雑な思いは解消されることなくこの胸に未だ燻り続けている。
それにこれから先、リュージュを守りながら人間たちの脅威を退ける日々が待っている。きっと平坦な道ではない。
けれど何があっても自分を信じて強く生きていこうと、ロータスの中には新たな決意が生まれていた。
ロータスは笑っているリュージュに慈しむような優しい笑顔を返してから、前に向かって歩き出した。




