プロローグ 獣人王の息子
じろりと厳しい目付きでこちらを見下ろす中年男を前にロータスは俯いたまま焦っていた。
ここは街の八百屋だ。植物性のものが一切受け付けられないロータスにとってここは鬼門のような場所だった。来たくて来たわけじゃない。本当は道具屋に用事があったのに。
里を出たロータスは人間を避けるようにして山や森などの自然の中に身を置いていた。湧き水や雨水を煮沸して飲んだり、野生動物を狩るなどして日々を凌いできたが、一ヶ月を過ぎた頃、山の中で寝袋に包まり寝ていた所を狼の群れに襲われた。
幸いにしてかすり傷程度で逃げ出すことができたものの、荷物は荒らされ、ライターの燃料が入ったボトルは粉々に踏み潰されていた。少しずつ大事に食べていたオニキスからもらった干し肉も袋ごと奪われてしまった。
マッチは無事だったのでライター代わりにそれを使おうとしたら、雨で濡らしたことがあったせいなのか湿気っていて全く火が点かなかった。仕方なく原始的な方法で火を起こしてはいたものの、時間はかかるし不便極まりない。ライター自体は無事なので、燃料を手に入れるか新しいマッチが欲しい所だった。
ロータスは意を決して人里に降りてみることにした。だが、宝飾品を貨幣に換金するべく立ち寄った質屋でいきなり獣人ではないかと疑われた。強く否定すると、なら人間だと証明してみせろと言われて連れて来られたのが八百屋だった。
「どうした? 食わないのか?」
八百屋の店主が差し出す右手にはとんでもなく臭い匂いを放つ濃い緑色の液体が入ったグラスが握られていて、左手に乗せられた大きめのボウルには山盛りのサラダが入っていた。
「……量が多くないですか?」
「獣人は少しなら野菜を食える奴もいるらしいからな。これ全部食ったらお前が人間だって信じてやってもいい」
男にサラダと青汁ジュースをずいっと押し付けられるが、匂いが酷すぎて一歩下がる。
ロータスは野菜が全く食べられない。昔うっかり間違えて口にした所、三日三晩高熱と腹痛と酷い下痢に襲われたことがある。少量であんな目に遭ったのだからこの量を食べたら間違いなく死ぬ。
「……今時こんな方法で獣人かどうか試すなんて古臭いですよ」
「古臭いかどうかは関係ない。銃騎士隊を呼んだら大事になっちまうから、その前にお前が本当に人間ならそれを証明して穏便に済ましてやろうってだけだ。他人の空似ってこともあるし、ただ似てるからって獣人だと決めつけるのも酷だからな」
男はそう言って壁のとある方向を顎でしゃくった。促されて見た先には日に焼けて色褪せた一枚の紙が貼られている。その紙を見たロータスはぎょっとした。
紙はロータスの父シドの手配書で、シドの写真と共にその下には桁がかなり多い懸賞金の額も載っていた。
写真のシドはギラギラとした赤い瞳と不敵な表情を浮かべているが、現在の姿よりもかなり若い。若干のあどけなささえ残る十代半ばほどのものだ。ロータスが髪の毛を赤く染めて邪悪そうな笑みでも浮かべればほとんど写真のシドになる。
写真自体は古いものではあるが、人間社会にはシドの顔写真が広く出回っているようだ。そんなの知らなかった。これではシドに顔がそっくりな自分は人間社会に紛れ込んで暮らすなんて不可能だ。実は最近ちょっと考え始めていた方法が潰えて軽く絶望する。
「お、俺、野菜がすごく苦手で……」
「なあ坊主、お前は今獣人じゃないかって疑われているんだぜ? 人間だって証明できなきゃお前は銃騎士隊に突き出されて首と胴体がオサラバだ。嫌いだろうと何だろうと命がかかっているんだから鼻つまんででも死ぬ気で食え」
いえ、食ったら銃騎士隊云々関係なしに間違いなく死にますから。
そう言いたかったが、自分から獣人ですなんて認めるような発言は出来ない。
野菜を前に顔色を悪くしてだらだらと冷や汗を掻き始めたロータスを見て、後ろにいた誰かが「銃騎士隊を呼んでくる」と言って走り去る音が聞こえてきた。眼前の八百屋の男もサラダと青汁に全く手を出そうとしないロータスの様子から疑惑を深めているらしく、眉根を寄せて眼光をさらに鋭くしている。
これは非常にまずい。さっさと逃げよう。
くるりと踵を返し敵前逃亡を図ったロータスだったが、質屋の用心棒らしき二名の男たちに両側からがっしりと腕を掴まれる。
しかしそこは腐っても獣人。屈強な男だろうと腕力だけなら人間には負けない。ロータスは人間の子供が出せるはずのない力でもって男たちを左右に振り払う。
駆け出そうとしたロータスだったが、八百屋の男が吸血鬼に聖水をかけるが如く背後からロータスに向かって特製青汁ジュースをぶちまけた。
「く、くさっ! うえぇっ! マズっ!!」
ロータスは頭から青汁をかぶってしまい、一部は口の中に入ってしまった。ロータスはあまりの匂いと口内の刺激物に耐えられずにえずいている。口の周りには早くも赤いボツボツが出始めていた。
「こいつやっぱり獣人だ!」
「逃がすな! 殺せ!」
「うわああっ! ご、ごめんなさいいぃぃー!」
ロータスは青汁まみれになりながらもその場から脱兎の如く逃げ出した。