瀬川 明海〜愛〜
瀬川 明海〜愛〜
私は今、一日の疲れを癒すためにお風呂に入っています。
こうやって暖かい湯船に浸かっていると気持ちが良くて、私はお風呂が大好きです。
そのうち、小春と一緒にまた温泉にでも行きたいけれども、今はちょっと無理でしょう。
だって、小春は今……
「お姉ちゃん、私も入って良い?」
私が小春について考えていますと脱衣所から小春の声が聞こえてきました。
私は「良いわよ」と返事を返して湯気で曇った湯船を見つめていたのでした。
しばらくして、服を脱いだ小春がドアを開けました。
開けられたドアから湯気は外に逃げ、私の視界は鮮明なものとなります。
「おじゃまします」
はっきりと見える私の視界の中で小春は笑っているのでした。
私は湯船から上がり、頭と体を洗うことにしました。
小春は私と入れ替わりで湯船に入っているのです。
「ねえ、お姉ちゃん。直人さんってどんな食べ物が好きなのかな?」
シャンプーを使い、髪を洗っている私に小春はそんな質問を投げかけて来ました。
小春の質問、それに私は思わず笑い出してしまいました。
「あ、お姉ちゃんどうして笑うの?」
シャンプーをしているので目は開けられませんが、きっと今の小春は頬をふくらまして怒っているのでしょう。
そんな小春の顔が私の頭に浮かんできたのです。
「ごめんなさいね。最近の小春って何かと直人さんの事ばかり聞くものだから」
直人さんがこの美風荘にやってきてもう一週間になります。
その日から小春は直人さんに興味を持ち始めて、今では毎日のように私に直人さんの話をしてくるのです。
「だって・・・・・・・・直人さんなんだもん」
小春はそれだけ言うと黙り込んでしまったのです。
私はシャワーでシャンプーの泡を洗い流しますと小春の方に顔を向けました。
あいにく湯気のせいで小春がどんな表情をしているのか見ることが出来ません。
姉として、そして女性として小春の表情は気になりますがここはそっとしておきましょう。
「そうよね。それで小春はなんで直人さんの好きな食べ物を知りたいの?」
今度はリンスを手のひらに拡げながら私は小春に話しかけました。
姉としてはやっぱり妹を応援したいものですから。
今はまだ小春がそんな想いに達していなくても、いつか小春が大切な想いを感じたときに私は応援したいですから。
「明後日、直人さんとお花見するでしょうお姉ちゃん。それでね、私の作った料理も直人さんにも食べてもらいかな、とか思ちゃって」
小春にしては珍しく所々言葉に躓きながら話していました。
「そういうことね。小春、がんばってね」
「うん」
今度は小春らしく元気ではっきりとした声で頷いたのでした。
私が体を一通り洗い終えると、今度は小春が体を洗うために湯船から出て、私は再度湯船に浸かることにしました。
「ねえ、お姉ちゃん。直人さんって頭良いよね。さっきだって私、直人さんから勉強教えてもらったし」
止まること無い小春の直人さん話に耳を傾けつつ、私は少しだけ不安を感じていました。
小春はまだ、本当の直人さんを知りません。直人さんがあの『神隠し』を研究するためにここにやってきたことを。
それは私から直人さんに黙っておいてもらうよう頼んだことなのだけれども、いつか本当のことを小春が知ったら、小春はどう思うのでしょう。
やっぱり悲しむのでしょうか。
それとも、お父さんとお母さんが『神隠し』によって消えてしまったあの時のことを思い出すのでしょうか?
そんなことを考えると私は少しだけ不安になってきます。
「お姉ちゃん、聞いてるの!」
私はちょっと考え事に集中していたようです。
怒ったような小春の声に私はハッとしました。
「ごめんなさい、小春。ちょっとボーとしていたわ」
「もうっ。お姉ちゃんは仕方ないんだから」
まるで自分が姉であるかのようなしゃべり方で小春は私に言ってきました。
「ふふふ。ごめんなさいね」
「許さないよ〜〜〜だ」
湯気が立ち上る小さな空間の中、私と小春、二人だけの笑い声が響きあっているのでした。
先のことは分かりませんけど、私は今は、小春を応援したいと思っています。
直人さんのことを話している小春は本当に嬉しそうですから、小春のこんな笑顔が見えるのなら私はそれだけで良いのですから。
「それでは、お詫びに小春の背中を流しましょうか?」
「いいよ、お姉ちゃん。私は自分で洗えるから」
小春はそう言っていますが私は湯船から上がると小春の後ろにしゃがみ込みました。
小春の背中は小さくて、白くて、儚くて、私は小春の手からスポンジを取り上げるとそんな小春の背中を泡だらけにしました。
「もうっ。お姉ちゃんは」
小春も何も抵抗せずに私に背中を預けてきます。
お父さんとお母さんが死んでから、私は小春を育ててきました。
そんな小春もあのころに比べると大きく成長しています。
きっともうすぐ私から巣立っていくのでしょう。
でもそれまでは、私は小春を護っていきます。
夜、外は真っ暗で静かな世界となっています。
家の中も静かで、私の家計簿を付けている音以外の音が何も聞こえてきません。
そんな部屋の中、ドアが開くとが聞こえて私は後ろに振り向きました。
そこに立っていたのはパジャマ姿の小春でした。
「お姉ちゃん、お休み」
「お休みなさい、小春」
小春はそれだけ言うと自分の部屋へと戻っていきました。
小春は明日も部活です。春休み中、土日以外はずっと部活に精を出していますから、毎日くたくたで帰ってくるのです。
そのためでしょうか、小春は毎日10時には眠りにつくのです。
小春が床について数分後、私も家計簿を付け終えてやることが無くなってしまいました。
小春のように眠るのも良かったのですが、まだ私には睡魔が襲ってきません。
テレビも特に見たい番組はありません。
「暇ですわ」
私は呟いてこれから何をしようか考えることにしました。
私は今、美風荘の前に立っています。
お風呂に入った後なので体が冷えないか心配ですが、家のは目の前です。
寒くなったら早く家に戻りましょう。
美風荘の前に立って私が何をしているかと言いますと、かすかに聞こえる海の音を聞きながら星を見ているのです。
海の方まで行けばもっと綺麗に見えるのでしょうが、私は夜の海は好きではありません。
日の昇っている時は青く明るい海なのですが、日が沈むと対照的に暗く、闇のような色になってしまいます。
私はそんな深い闇のような海が、まるでブラックホールの様ですべてを飲み込んでしまいそうに感じるので、好きではないのです。
それで、私は美風荘の前で星を眺めることにしているのです。
どのくらい星を眺めていたのでしょうか。
美風荘の方からガラガラと窓を開ける音が聞こえてきました。
私が慌てて音の方を見ますと、直人さんが私に軽く手を振っているのでした。
「明海さん、何をしているのですか?」
窓から少しだけ身を乗り出して直人さんは私に尋ねてきました。
私は真上、いくつもの小さな光がまばらに輝く星空を指さしました。
「天体観測ですか」
「そこまで大それたものでは無いのですけれども。だた、暇でしたもので星を眺めていただけですわ」
私は直人さんの部屋へと向かって歩き出しました。
ここで大きな声を出したら小春が起きてしまうかもしれません。
そうならないためにも私は直人さんの側へと近づくのでした。
「空ねえ」
「直人さんは星とかは眺めないのですか?」
私のちょっとした好奇心。
「俺は星を眺めるぐらいなら、海を眺めている方が好きかな。
あんな光り輝いている星は人が一生使ってもたどり着けない場所にあるのだからね。
あんな所にあるものを調べて何になるのか俺にはさっぱり分からないよ」
「学者としてではなく、直人さん個人としては星はどう感じるのですか?」
「俺は学者なんでね。学者じゃない俺は俺じゃないよ」
直人さんはそう言うと星を見るのを止めて部屋の中へと戻っていってしまいました。
『学者じゃない俺は俺じゃないよ』
直人さんの言った言葉が私の中に再度響きました。
そんな直人さんの気持ちは私もなんだか分かるような気がしましたから。
多分、小春がいない私も私じゃないと思いますから。
カラカラと玄関の扉が開く音がしましたので私がそちらを振り向くと、直人さんが玄関から出てくる所でした。
片手で玄関を閉めている直人さん、その反対の手には湯気が立ち上るカップが二つありました。
「はい、明海さん」
「ありがとうございます。これは?」
直人さんからカップを受け取りながら私はカップの中身を直人さんに尋ねました。
「ココアですよ。春とは言え夜は寒いんですから、そんなパジャマ姿で外にいたら風邪ひきますよ」
男の人からパジャマ姿などと言われると私も少しだけ恥ずかしくなってしまいます。
でも、見てるのが直人さんだけなら心配ないでしょう。
「そうですね」
私は直人さんが入れてくれた暖かいココアを一口、口に含み体を温めました。
「直人さんは、研究の途中でしたの?」
「まあね。ちょっと詰まったから、息抜きに外の空気でも吸おうと思ったら明海さんが立ってたって訳」
「あ、もしかして私はお邪魔でした?」
「そんなことないですよ。俺もこうやって誰かと話している方が頭はリラックス出来ますから」
暖かいココアを自らの息で少しだけ冷ましながら直人さんは言いました。
私もココアを口に含みながら星空へと視線を向けました。
「直人さんは、海って好きですか?」
星たちが輝く真っ黒な宇宙。
それは私に夜の海を連想させました。
「もちろん。だから今、俺はここにいます。まあ、あの『神隠し』に関してはちょっと別の要素もあるんですけどね。海は好きですよ」
ためらいも迷いもなく直人さんは断言しました。
「そうですか。小春も海は好きですのよ。直人さんは小春と気が合いますね」
「ああ、知ってますよ」
「そうでしたか」
直人さんには小春と仲良くしてもらいたい。
それが私の今、一番の願い。
直人さんといると小春は本当に楽しそうだから。
私はカップに残っていたココアを飲み干して、カップを直人さんへと戻しました。
「直人さん、ごちそうさまでした」
そして、少し寒くなってきたので家へと戻ろうとしました。
風邪なんかひいて小春に心配をかけるわけにはいきませんからから。
「どういたしまして。あ、そうだ。小春ちゃんによろしくね、明海さん」
「ええ」
小春。
それは私の大事な妹なのです。
翌朝、私は小春の分の朝食を作ると竹箒を片手に美風荘の外へと出ました。
美風荘の前に立ち並ぶ桜たち。
彼女たちが落とす花びらを掃除するのが今日の私の仕事です。
それが終わったら、庭の雑草抜きなど管理人としての仕事は沢山あります。
「おはよう、明海さん」
今なお降り注ぐ、桜の花びらを竹箒で集めていた私に声が掛かりました。
この主は直人さんです。
直人さんは昨夜と同じように窓から少しだけ身を乗り出して私の方を向いています。
「直人さん、おはようございます」
私も直人さんに朝の挨拶をしました。
こんな会話は直人さんがこの美風荘に来たときからずっと続いています。
新しい、直人さんを加えた美風荘の朝の始まりです。
「明海さん、昨日は風邪とかひかなかった?」
「はい。直人さんが入れてくださったココアのおかげで何事もなく朝を迎えられましたわ」
「そう。それは良かった」
「ええ」
そうして私と直人さんが朝の会話を弾ませていると玄関の方からばたばたと何かが動く音が近づいてくるのです。
音は一瞬止み、玄関が開く音と共に再度、鳴り響くのです。
「お姉ちゃん、行ってきます」
音の主は小春。
毎朝、小春はこうやって大慌てで学校に向かっているのです。
直人さんが来る前は余裕を持って出発でしていた日もあったのに、直人さんが来てからはいつもこの調子です。
ちょっと困ったものです。
「行ってらっしゃい、小春」
私は笑顔で小春を送り出します。
「うん。行ってくるねお姉ちゃん。それと、直人さんも行ってきます」
小春は窓から少しだけ身の投げ出している直人さんにも言いました。
「おう。がんばってね小春ちゃん」
「はい!!」
直人さんの言葉に元気よく頷いた小春はそのまま元気よく桜並木の中へと走り去っていきました。
小春は毎朝これを励みにがんばっているのでしょう。
「小春ちゃんは、朝から元気だよな」
小春が走り去っていった桜並木をちょっとだけ感心したような目つきで直人さんは見つめて続けていました。
「はい。自慢の妹ですから」
私は凛とした声で直人さんに教えてあげました。
「そうですね」
それとだけ言うと直人さんは窓から身を退き部屋の中へと戻っていきました。
私も集めた桜の花びらを取り篭に集めて家へと戻ろうとしました。
小春が学校へ行った後、直人さんと二人で朝食を食べる。
これが私と直人さんの日課になりつつあります。
小春がいない、私たち二人だけの日課にです。
私が部屋に戻ろうすると直人さんが扉の前で立ち往生していました。
きっと小春が鍵を閉めたまま家を飛び出したのでしょう。
『小春はもうっ』そんな軽口を心の中で吐いた私は走って直人さんの元へと向かっうことにしたのです。
「すみません直人さん。今すぐ、鍵を開けますね」