始まり〜海〜
始まり〜海〜
桜が咲き始めていた。
道沿いに並び植え付けられている幾重もの桜たち。
後一、二週間もすれば満開となり見る者たちを虜にするだろう。
そんな桜並木の中を一人の高校生が楽しそうに歩いていた。
セラー服を着て、手にはシューズケースを持っている所を見ると部活の帰りだろうか?
「もうすぐだね」
少女は桜並木の半ばで立ち止まると真上を見上げた。
澄み切った青空に点々と置かれている雲、そしてそれを額に納めるかのように少女の視界の端に見えてくる桜たち。
桜が満開になればこの少女の視界にこのように空が入ってくることはない。
その時、少女の視界にはいるのは桜の花びらだけである。
少女はそのことをよく知っている。だから、毎年桜が満開になり姉と二人でする花見を楽しみにしていた。
「もう来てるかな?」
そして、今年はその花見の席にもう一人加わるかもしれなかった。
美風荘<みふうそう>、それがこの一件の二階建てアパートの名前である。
美風荘の作りは古く築二十年にもなっているかもしれない。
近くには店もなく、美風荘の周りにあるのは桜並木だけである。
いくら美風荘の家賃が安いと言っても、この辺りは都会ではない。
海に面した何処に出もある普通の町だ。
家賃が安くて美風荘よりも住みやすい物件はいくらである。
そのため美風荘に住んでいたのは管理人の家族だけだった。
だが、今日からは違う。こんな美風荘に新たな住民がやって来るのだ。
「思ったより荷物が多いですね」
美風荘の前に立ち止まった一台のトラック。
その中から止まることなく荷物が運び出されていく。
瀬川 明海<せがわ あけみ>はそんな光景を見つめながら横に立っている男性に言った。
「まあ学者だから。結構、専門書とかが多いよ」
男の名は林原 直人<はやしばら なおと>。
彼が今日からこの美風荘の新たなる住民になるのだった。
「あら、直人さんの部屋は二階にしましたのに、本が重すぎて床が抜けなければ良いのですが」
そして、明海はこの美風荘の若き管理人だ。
六年前に両親が他界し、それ以降両親の意志を継いでこの美風荘を守り続けてきている。
「明海さん、それって冗談?」
「ええ、もちろん。美風荘はそんなにぼろアパートではありませんわ。それに、直人さんのお部屋は一階ですしね」
微笑みながら明海は答えるのが、どうもつかみ所がない。
「そうであることを願うよ」
直人は苦笑いを浮かべながら視線を美風荘の先にある桜並木へと移した。
満開にはまだ時間がかかるだろうが、桜たちは少しずつ花を咲かせ始めていた。
美風荘から外の道に出るためにはあの桜並木を通らなければならない。
あの桜並木は美風荘と外とをつなげているトンネルのような存在だ。
直人が桜並木を見入っていると桜並木から一人の少女が出てきた。
少女はセーラー服を着て手にはシューズケースを持っている。
少女も直人のことに気づいたらしく桜並木を抜けると直人を明海の元まで走り出した。
「おかえりなさい、小春」
走って二人の元までやって来た少女に向かって明海は言った。
その少女に向けた明海の言葉は明らかに直人に向けられた時とは違ったニュアンスを含んでいた。
小春と呼ばれた少女は明海に「ただいま、お姉ちゃん」と言うと今度は直人の方へと向き直った。
「はじめまして。私、瀬川 小春<せがわ こはる>です。名前から分かるとおり明海お姉ちゃんの妹なので、これからよろしくお願いしますね」
元気が良くて明るい子だな。と言うのが直人の小春に対して感じた第一印象だった。
「こちらこそよろしく。俺は林原直人、大学院の研究生だけど、一応は海洋学者見習いと思ってくれれば良いよ。これからお世話になるよ小春ちゃん」
直人は自分の自己紹介を終えると小春に右手を差し出した。
一瞬、小春は直人の手が何のために出されたものか分からなかったが、それが握手のために出されたものだと分かると「はい!」と元気よく頷き直人の手に自分の手を重ね合わせたのだった。
引っ越し屋が直人の荷物を運び終え、帰っていったので直人は今日から暮らしていく新しい部屋へとやって来た。
2LDKのこの部屋は直人一人で住むには少しばかり大きすぎたかもしれない。
「本の収納スペースには困らないな」
直人は最初に本棚を組み立てることにした。
先程明海にも言ったとおり直人の持ってきた荷物の殆どが本である。
この本たちを片づけてしまわないことには段ボールはいっこうに減らないだろう。
逆を言えば本さえ片づけ終えれば後は楽なものだ。
そうやって直人は本棚を一つ組み立て、段ボールを開けてその中にぎっしり積み込まれた本を一個一個本棚へと移し替えていく。
本の配置などを考えて並べているから、本の整理はあまりはかどらない。
そうやって少しずつ本を本棚へ移していると、誰かが玄関の扉をノックしてきた。
直人は作業をいったん止めると玄関へと向かった。
玄関の扉を開けた先、廊下に立って直人の部屋をノックしていたのはこの美風荘の管理人、瀬川明海だった。
「直人さん、今はお暇ですか?」
「荷物整理をしていた所。荷物整理なんていつでも出来るから、話があるなら特に問題はないけど」
直人は笑いながら本で散らかった自分の部屋を指さした。
「そうですか。では失礼します」
明海が発した今の言葉が、直人には心なしか無表情で張りつめた言葉に聞こえた。
しかし、明海はそれ以上は何も言わずに、直人に向かって一礼をすると直人の部屋へと足を踏み入れた。
床に、机に、本棚の中に、直人の部屋の至る所に本が散らばっていた。
その本の多くは直人が言っていた様に明海には殆ど縁のない専門書ばかりだったが、そんな専門書に混じって所々明海でも読んだことがある普通の推理小説なども見え隠れしている。
「直人さんは本当に本がお好きなのですね」
散らかりながらも丁寧に整理させた大量の本を見ながら明海が言った。
「学者だから。それよりも俺に話があったんじゃ?」
「そうでしたわね。では、学者の直人さん単刀直入に聞かせて頂きます。あなたはこの美風荘へやって来て何を調べるおつもりなのですか?」
「ここは海が近いから、あの海、若狭海で色々な事を調べようと思ってます」
「具体的には?」
明海はさらに詰め寄った。
「どうして、そこまで聞く?」
「若狭海に海洋生物を調べにやってきた研究者を私は過去に見たことがありません」
「それは簡単に言えば、俺を疑っているって事?」
直人が静かに問い返し、しばしの熟考の後、明海は小さく頷いた。
彼女は決意の瞳で、直人を見つめ返してくる。
そして、僅かに震えている唇で問いかけてきた。
「直人さん、あなたも『神隠し』を調べるためにここへやって来たんですか?」
明海は直人が口を開くのを待った。ただ、待ち続けた。
だが、直人が口を開くことはなかった。
肯定も否定もせず、ただどうしたらよいのか分からずに明海から視線をそらすことしかできなかった。
それは、無言の肯定でもあった。
「やっぱり、そうなのですか」
明海の声に落胆の色は見えない。
逆に何処かすっきりしたような声であった。
「ねえ、直人さん。それならば私から一つお願いがあるのですが。小春には、直人さんが『神隠し』の研究をしていることを黙っていて欲しいのですが」
「二人には悪いけど、元々隠すつもりだったから、それは別にかまわないけど、理由を、聞いても良いですか?」
躊躇いながら直人は言う。
どうも嫌な答えが返ってきそうな予感がしたからだ。
「私と小春の両親は六年前に『神隠し』によって消えている。
その時私はすでに高校を卒業していましたが、小春はまだ小学生でした。
小春はあの時きっと私以上に苦しんで悲しんだはずです。まだ中学生にもなってなかったのにお父さんとお母さんを・・・・・・。
今の小春は姉の私が言うのもなんですが元気で良い子だと思います。
そんな小春が悲しむ姿を私はもう見たくないのです。
『神隠し』のなんか思い出してもらいたくないの!」
そして、明海から帰ってきた答えは最悪の答えだった。
「明海さん・・・・・・」
直人は何を言えばいいのか分からなかった。
『神隠し』は日本中の何処にでも伝承が残っている。
直人が卒論のテーマに選んだのはその中でも海の『神隠し』についてだった。今日本の中に残っている神隠しの伝承の中で、実は水難事故であった可能性が非常に高い事例を考察していこうと考えている。
そんな直人がこの若狭海に来たのは、まさに明海の言った通りであった。
若狭海は六年前にとある夫婦が『神隠し』にあった場所である。
不特定な23人が時を同じくして、唐突に消えたのだ。警察では普通の失踪事件として扱われているが、地域一帯ではこの事件が『神隠し』ではないかと噂が立っている。
直人はそんな噂を頼りにしてここまで来た。検証するのなら、数百年前の伝承よりも、6年前の事件の方が、圧倒的に簡単であるからだ。
「直人さん、そんなに難しい顔をなさらないでください」
直人と明海、二人の間に張りつめていた無言の空気は明海の朗らかな笑みと言葉でからくも崩れ去った。
「え?」
「私の両親が『神隠し』にあったことに直人さんは全く関係ありませんよ。それと、無意味な責任を感じてこの美風荘を出るのも止めてくださいね。
どうしても出て行くと言うのなら止めませんが、小春は直人さんと色々と話がしたいと言っているもので」
嬉しそうな笑みを浮かべつつ明海は直人を慈愛に満ちた目で見た。
その目に恨みや怒りと言った感情は見えない。
その目に見えているのはただ純粋な慈愛の心だけだった。
「出ては行きませんよ」
直人は断言した。
最低限、ここで直人の大切な人を奪ったあの『神隠し』について、情報が手にはいるまでは美風荘に残り続けるつもりだった。
「そうですか。ところで直人さん、お食事はもうお済みになりましたか?」
「あ、まだだけど」
「それでしたら、私たちと一緒に食べませんか?
料理は私が作っていますし、私が直人さんを訪ねてきたのも、直人さんをお誘いに来たのが本当の理由ですし」
「お邪魔じゃなければ、ご一緒したいけど」
「お邪魔だなんてとんでもありません。
それでしたら、早く行きましょう直人さん。小春も喜びますよ」
小春も喜びますよ。直人は心の中で明海の声を反芻した。
結局の所、明海が直人に真実を尋ねてきたのは小春のためだった。
そして、小春のためにこの美風荘に残って欲しいと言ってもきた。
とどめに、今度は『小春も喜びますよ』だ。
すべてが小春のためだった。
明海は心から小春のことを想っている、妹思いの優しいお姉さんだと直人は感じた。
波が止まることなく打ち付けられは引いていく。
規則正しく、でも一度として同じ間隔ではなく波は砂浜へとやって来た。
そんな波たちが作り出す音を直人は聞いていた。
明海に誘われ瀬川姉妹と共に取った後、今度は小春から「海に行きませんか?」と誘われたのだった。
「直人さん、何してるの?」
目を閉じて波と砂浜が奏でる音を聞いていた直人の横に立ち、小春は尋ねた。
「海の音を聞いているんだよ」
「楽しい?」
小春は果てしなく広がる水平線を見つていた。
「どうだろうね。こうすることが楽しいって言う奴は知ってるが俺にはよく分からないよ。
きっと俺には感受性なんてないんだろうね」
自嘲的な笑みだった。
「そんなことないよ!・・・・・・って、今日会ったばかりの私が言える台詞じゃないかも」
変な言葉を言ってしまったと思った小春は照れ笑いを浮かべつつ直人の横顔をちらりと見た。
それなりに整った顔立ちの直人、今彼の顔には嬉しそうで、ちょっと思い出し笑いをしてしまった時のような無邪気な笑みが刻まれていた。
「ありがとう、小春ちゃん」
そして今度はその笑みが小春の方へと向けられた。一瞬、小春の胸が跳ね上がった。
「あ、いえ。それよりも直人さん。直人さんって海は好きですか?」
顔をほのかに染めながら、でもそれを直人に気づかれまいと小春は視線を海の先に向け、話題を変えた。
「海か、好きだよ。小春ちゃんは?」
「私も海は大好き。
海ってもの凄く広くて、私一人の力じゃどうやってもあの水平線までたどり着けないかもしれない。
先はもの凄く長くてたどり着こうとすれば、辛いこと、悲しいこと、楽しいこと、色々な事があると思う。
でも、これって私が生きていくこれからの未来と一緒だと思うの。
これから先、私はきっと色々なことを体験する、逃げ出したいぐらいに辛かったり、泣きたいぐらいに悲しかったり、笑い死んでも良いぐらい楽しかったり。
海を見てると明日は何が起こるんだろうってついつい考えちゃって、そしたらなんだが楽しくなっちゃうの」
どんなに手を伸ばしても届くこの出来ない水平線。
蒼い海と青き空が交わっている場所。
あそこは終点。
遙か彼方にある終点。
何時たどり着くか誰も知らないけど、たどり着く間にはいろんな事が起こる。
「すごいね、小春ちゃん」
「そ、そんなことないですよ。私なんてただ海に勇気づけられているだけなんですから。……直人さん、は海の何処が好きなんですか?」
小春の頬を染める気持ち。それは恥ずかしさから来るものだけなのだろうか?
「俺? 俺は、海の存在そのものかな。
生物の始まりは海で、海があったから生物はこんなにも繁栄してきた。海がなければ、俺や小春ちゃんだってここにはいない。
そして、俺たち生物はいつかは死んでこの世からいなくなる。
でも、海は違う。海はこの地球に生物が誕生した瞬間から存在していて、今この時も存在していて、未来永劫、地球が無くなるその時まで存在し続けると思う。
言うなれば、海は歴史の代弁者、そして未来へのタイムカプセル。
海は生きていて常に変わり続けている、でも海はいつまで経っても海のままなんだ。
そんな海を通して俺は過去を知りたい。そして、未来へ何かメッセージを残したいと思っている」
なんだろう、この気持ちは。
初めて味わう気持ちに小春は動機を早める。
見ていたすべての景色が直人の話を聞いた後全く別のものに見えてきた。
潮風、波の音、彼女の大好きな海、そして直人。
何でこんなにも違って見えてくるんだろう?
何でこんなにも切ない気持ちになるんだろう?
「直人さん」
小春は無意識のうちに小さな声で呟いていた。
それは誰にも聞こえない小さな呟きだった。
そんな中で小春は思った。
明日は何が起こるんだろう、と。