7.魔女の『台所』
大人しく青年達――リェンファ達についていくに当たって、手ぶらでついていくことはできない、準備しなくてはならないことがあるから少しだけ待ってほしい、という旨のジジの願いを、それまでの強引さが嘘のように、あっさりとリェンファは受け入れた。
未だにイチイが人質に取られているジジに、下手な真似などできないと踏んだのかもしれない。そしてその認識は、決して間違ってはいなかった。今のジジにとっての最優先事項は、イチイの無事だ。彼が無事に解放されるまで、ジジにできることはリェンファに大人しく従うことだけなのだから。
「『台所』から、必要なものを取ってきます」
魔女の研究室である『台所』。本来であればその台所の主でありジジの師であるウィッチ・ゾーイの許しなくば足を踏み入れることは許されない場所だが、今はそんなことは言っていられない。
ジジの言葉に、リェンファはやはり美しく微笑んだまま、ひらりとその白い手を蝶のようにひらめかせた。
「イッテラッシャイ……と、言いたいところだケド。ワタシもついていくネ」
「え?」
リェンファの思ってもみない発言に、ジジは瞳を見開き、リェンファの部下であるらしい三人の男達は、イチイを担ぎ上げその口を押さえている一人は無表情のまま「若」と低く呟き、悪戯好きの子供を思わせる笑顔の男は器用に片眉だけをつり上げて「若?」と首を傾げ、最後にのんびりとした気の抜ける笑顔を浮かべている男は「若ぁ、駄目ですよぉ」と首を振った。
しかしそんな明らかに色良くない三人の部下の反応にも、若と呼ばれたリェンファの笑顔は崩れない。むしろ笑みを深めて、「オマエラは心配性ネ」とくつくつと笑うばかりだ。
「金の魔女の研究室、どんなモノなのか見ていくのも一興デショ。このオ嬢サンがワタシに何かできるとは思えないし、ワタシが遅れを取るハズもないし。それに仮にもし何かしたら、この子供に相応の対価を払ってもらうダケヨ。ティエン、ハァイ、リオウ。それでいいネ?」
「……はい」
「了解でっす、若様」
「お気をつけてくださいねぇ」
ジジの返答を待つことなく、リェンファ達の間ではあっさりと話がまとまってしまった。思わず呆然として固まるジジににこりと笑いかけたリェンファは、足跡一つ立てずに、まるで猫のように優美な足取りでジジの隣に並んだ。
「ヨロシク、お嬢サン」
美しく微笑みながらジジを見下ろしてそう告げる青年の言葉は、不思議なイントネーションを持つ、片言の公用語だ。そのどこか幼さを感じさせる、ともすればかわいらしいとすら思ってしまいそうな口調と、凄絶なまでの青年の美貌はアンバランスのようでいて、これはこれで彼の魅力を引き立てているように見えるから不思議なものでえある。
だが、その美しい笑顔と片言の言葉に誤魔化されそうになるけれど、この目の前の青年の目を盗んでウィッチ・ゾーイに秘密裏に連絡を取ることなどまず不可能だろう。大輪の花のような艶やかな笑顔の裏に潜む残酷さが、ジジにそれを教えてくれていた。
震えそうになる身体を叱咤して、かろうじてリェンファに頷きを返し、ジジはちらりとイチイに目配せをする。こちらの様子を無言で伺っている無表情の男に担ぎ上げられその口を押さえられているイチイの、そのアメシストの瞳は、懸命にジジに何かを訴えようとしているけれど、ジジはその半ば涙ぐむ瞳に対し、笑顔を浮かべることで答えてみせた。
アメシストの瞳が見開かれるのを後目に、ジジは踵を返して『台所』へと向かう。そんなジジの後を、一定の距離を保ちながらついてくるリェンファの足音はやはり聞こえないけれど、わざわざ振り返らずとも、彼が確かに背後にいて、ジジの一挙一動にその黒瑪瑙の瞳を光らせているのが感じ取れた。
どうしてこんなことに、と思ってももう仕方のないことだ。ジジはジジにできることをしなくてはならない。それがきっと、いつか素敵なことに繋がると信じて。
そして、背後に男を連れたジジは、ようやく『台所』へとたどり着いた。飴色に変色したアンティークの扉には、ウィッチ・ゾーイの魔女としての階級を示す、金色の星が図面化されて大きく刻まれている。
「ヘェ。ここがあの金の魔女の研究室?」
「……はい。少しここで待っていてもらえますか? すぐに戻ってきますから」
「それは駄目ダヨ。オ嬢サンが、研究室から危険物を持ってきて、ワタシ達に使わないとは限らないデショ」
「そんなこと……!」
「なくてもあってもどっちでもいいヨ。ワタシが研究室を見てみたいんダカラ、オ嬢サンの事情なんて二の次ネ」
駄目元での申し出ではあったが、思っていた以上にばっさりと申し出を切り捨てられ、ジジは内心で歯噛みした。ジジとしては、決してリェンファの言うような『危険物』を『台所』から持ち出す気などなかった。繰り返すが、イチイが人質に取られているのだから。
彼の身を危険にさらしかねない真似などジジにできるはずがないのだが、それをこの青年に言っても無駄であろうことはいくら鈍いジジでも解った。
――仕方ない。
そう内心で溜息を吐き、ジジはリェンファのことを見上げる。艶めく黒瑪瑙の瞳を、自身の青灰色の瞳で真っ直ぐ見上げて、「何を見ても驚かないでくださいね」と一言だけ告げる。リェンファの整った眉がひそめられ、訝しげにその首が傾げられるのをよそに、ジジはくるりと踵を返して、『台所』の扉を大きく開け放った。
扉の向こうからあふれ出す様々な薬草の香りが鼻腔をくすぐる。その香りに、無意識に強張っていたジジの身体から、ほんの少しだけ力が抜けた。
ほう、と吐息を漏らして『台所』に足を踏み入れるジジの姿をしばし見つめていたリェンファは、長い沈黙の後に、「ネェ」とジジに声をかけてくる。ジジがそちらを振り返れば、リェンファは、それまでの笑顔とは打って変わった、なんとも言いがたい表情を浮かべていた。
美貌が浮かべる表情はどんな表情でも美しいということを、ジジはウィッチ・ゾーイとイチイから教えられており、つまるところ今のリェンファの表情もこれはこれで美しいのだが、それにしても「美形でもこんな顔するんだなぁ」とジジは場違いにも感心してしまう。それくらいに、リェンファの表情は、驚きと呆れが入り混じる、実に絶妙に微妙なものだった。
それに気付かないふりをして、ジジは小首を傾げてみせる。
「何ですか?」
「ワタシが言うのも何だケド、この研究室、ワタシ達が来る前に、もう強盗が先に押し入ったのカナ?」
「…………」
そんな訳がないでしょうと言いたかったが、目の前の光景を見ればそう思われても仕方がないだろう。何せこの『台所』は、ウィッチ・ゾーイの私室同様に、とんでもなく荒れ放題の散らかり放題であるのだから。
様々な道具や薬草や書物が散乱するこの『台所』を、ジジが掃除しようと頑張ったことがないとは言わない。むしろ幾度となくチャレンジしてきたと言っていい。だがそのたびに気付いた時には元のこの状態に戻ってしまい、ウィッチ・ゾーイにも「これはこれで調和が取れているのよ」と言われてしまっては、もうジジは諦めることしかできなかった。その結果がこの惨状である。
「これはこれで調和が取れてるんです……たぶんですけど」
「――フゥン。まぁいいケド。それで? オ嬢サンは何を取りにここまで来たノ?」
リェンファの問いかけに答えないまま、ジジはこの『台所』の一角に位置する水場へと歩み寄った。背中にリェンファの視線が突き刺さっているような気がしたけれど、この際構ってなどいられない。
そしてジジは、水場の片隅の、ちょうど陽の光が窓から差し込む場所で昨夜から乾かされていた、『それ』を両手で持ち上げた。
「お待たせしました。行きましょう」
『それ』を背中に専用の紐で括り付け背負いながらジジがそう言うと、しばしそんなジジの姿を見つめていたリェンファは、やがてその口を勢いよく自らの手で押さえた。
その突然の仕草に目を丸くするジジを後目に、リェンファはその肩をふるふると震わせている。そして、とうとう耐えきれなくなったのか、その手を下ろして大きく笑い出し始めた。
「ふ、は、はははははっ!」
爆笑である。腹を抱えて笑う姿すら気品があふれ、上品さを損なわないのはすごいが、笑われているのがどう考えても自分であることを踏まえると、ジジとしてはまったく笑えない。
「な、ナニを準備するかと思えば、鍋!? 鍋を背負いにここまで!? しかもナニ、その恰好、亀みたいネ!」
朱で彩られた目尻に涙を浮かべながら、リェンファは今にも床を転がらんばかりにそう言って笑った。ちなみにその美声は震えている。そこまで笑わなくても、と、ジジは思ったが、同時に今の自分の姿がどれだけ笑いを誘う情けないものなのかということも自覚していたので下手に反論もできない。
くっ!と歯噛みしたジジはその時、決して重くはないはずの背中に背負った鍋――『金の魔女』たるウィッチ・ゾーイが有する魔女の七つ道具の一つである、魔女の大鍋を、やけに重く感じたのだった。




