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3.立つ鳥跡を濁し

そして一つ夜を数えた。

ウィッチ・ゾーイが旅立つに相応しい、雲一つない晴天が頭上には広がっている。


道中で食べてもらえるようにとジジがいつもより早起きして作ったサンドイッチの包みを嬉しそうに受け取ったウィッチ・ゾーイはパチンと一つウインクをしてみせた。


「それじゃあ行ってくるわ。二人とも、いい子にしてるのよ。お土産、たくさん買ってくるわね」

「はい、ウィッチ・ゾーイ。どうかお気を付けて」

「いってらっしゃい、お祖母様。お土産、楽しみにしてるね」


大きなつばの三角帽子は魔女の証。その帽子には、金細工の蝶が、同じく繊細な金細工の大きな星に翅を休めるデザインの、大ぶりなブローチが乗っている。

悩ましげな肢体のラインを惜しげもなく晒すマーメイドラインのドレスの生地はウィッチ・ゾーイの瞳と同じ紫色。その紫の地の上には、まるで星屑のように金の粒子が散り、日の光を反射してきらきらと輝いている。

一歩間違えれば下品にも見えてしまいそうなその生地のドレスを、この上なく高貴に着こなし、その上に上等な黒のローブを羽織ったウィッチ・ゾーイは、やはりとても美しかった。


そんな師の姿についつい見惚れてしまうジジと、その隣でジジを呆れたように見つめるイチイの頬に、ウィッチゾーイはそれぞれ軽く親愛が込められた口付けを落とす。そして魔女の七つ道具の一つである箒に横座りになって、彼女はふわりと飛び立った。風の精霊、シルフの力を借りたのだろう。


ウィッチクラフトは『少しばかり素敵なこと』を成す秘術であり、『奇跡』ではないということをジジはウィッチ・ゾーイから何度も教え聞かされている。

けれどウィッチ・ゾーイが、箒に乗って空を飛んだり、杖で炎を操ったり、カード占いで未来を視たり、病に倒れた人を薬で癒したりするのを目にするたび、『奇跡』とはかくあるべきものだと思うのである。


いつか自分もウィッチ・ゾーイのようにと、何度夢見たことだろう。未だに空を飛ぶどころか傷薬一つまともに作れないジジには過ぎた夢だ。そんなことは解っている。それでもジジは「貴女なら大丈夫よ」という師の言葉を信じ、その信頼を支えにして、いつか鍋運びではなく魔女と呼ばれるようになる日を夢見るのだ。


「……ジ、ジジってば」

「え? あ、ああ、うん。どうしたの、イチイ君」

「どうしたもこうしたもないよ。お祖母様、もうとっくに見えなくなっちゃったよ? それなのにぼーっと空見ててさ。どうかした?」


ことりとイチイが小首を傾げた拍子に、その耳にかけられていた陽光を紡いだがごとき金の髪がさらりとこぼれ落ちた。幼くしてウィッチ・ゾーイに通じる艶やかなる色気を持つ少年の幼い仕草だ。

ほんの些細な仕草に過ぎず、もういい加減見惚れるのはやめろと言われても文句は言えない頃合いだというのに、未だに目を奪われてしまう自分を内心で叱咤しつつ、慌ててジジは首を振った。


「なんでもないよ。ただやっぱりウィッチ・ゾーイがいないのは寂しいなって思っただけ」

「僕がいるのに?」

「!」


十歳児とは思えない迫力満点の笑顔で問いかけられ、ジジは息を飲んだ。イチイの紫の瞳が、じっとジジを見つめてくる。自分がいるのにまだ足りないのか、と言外に告げてくる少年に対し、ジジはすぐに白旗を挙げた。


イチイの言う通りだ。私は、ひとりじゃない。そう自分に言い聞かせると、自然とジジの顔に笑みを浮かぶ。「そうだね」と深く頷いてみせると、イチイは満足げににっこりと笑った。輝かしい笑顔である。


そうだとも、イチイの言う通りだ。留守番と言っても、自分はひとりぼっちなどではない。いい歳して寂しいなんて、随分情けないことを言ってしまった。

そんな自分を反省していると、ジジの内心などわざわざ言葉にされなくてもすっかりお見通しであるらしいイチイは、その年齢に似つかわしからぬ大人びた溜息を深く吐いた。


「ほんと、ジジは僕がいなくちゃダメなんだから」


出会ってから幾度となく言われてきた台詞をまた言われてしまった。年上としての威厳なんてあったものではない。

面目ないなぁと苦笑いを浮かべるばかりのジジの鼻先に、ぴっとイチイは人差し指を突き付ける。


「今日のおやつにアップルパイを焼いてくれたら、少しくらいなら見直してあげるけど?」

「うーん、リンゴは昨晩全部ジャムにしちゃったからなぁ。洋ナシならあるから、その洋ナシのタルトじゃだめ?」

「仕方ないね、妥協してあげる」

「ありがとう。楽しみにしてて」


ふふふ、と顔を見合わせて笑い合う。こんな風に、些細な冗談交じりのやりとりを交わせることは、とても幸せなことだ。さて、こうして約束も交わしたことだし、お茶の時間に間に合うように作らなくては。

ウィッチ・ゾーイの壊滅的な家事能力により荒れ果ててしまった彼女の私室の掃除もしたいし、せっかくのいい天気なのだからベッドのシーツも一気に洗濯してしまいたい。『やらなくてはいけないこと』と言うよりも、『やりたいこと』と言うべき仕事が山とある。


うん、やはり自分は幸せだ。つくづくジジはそう思う。

だからこそ、この幸せな日々が続くためならば、ジジはなんだってするしなんだってできる。それこそ、腐海と化したウィッチ・ゾーイの私室の掃除だってお手の物だ。……ちょっとどころでなく勇気はいるけれど。


「ねえ、イチイ君」

「なに?」

「ウィッチ・ゾーイのお部屋のお掃除、手伝ってくれたり……」

「絶対やだ」

「だよね」


間髪入れずに容赦なくばっさりと断られてしまい、ジジは笑った。もう笑うしかなかった。手伝ってくれないことに対していちいち目くじらを立てるような真似などするはずがない。何せこれからジジが相手取ろうとしている相手は、あのウィッチ・ゾーイの私室である。いくら孫であるとはいえ、あの部屋に足を踏み入れるのは嫌だろう。それはもうものすごく。

ジジだって最初は大層苦労したし、毎回涙目になっていた。色んな意味で。そんなジジを見かねて、ウィッチ・ゾーイは「私の部屋の掃除はしなくていいのよ?」と言ってくれたが、ここまで来たらもう意地である。

今回もそうだ。ウィッチ・ゾーイが帰宅した時に褒めてもらえるように、誠心誠意を込めて掃除と洗濯をする所存である。

よし、と両手で拳を握り締めるジジに対し、イチイは「ジジもよくやるよね」とわざとらしく肩を竦めて、ポン、とジジの肩を叩いた。


「ま、頑張れば?」

「うん。おやつはその後ね」

「え、そこはおやつが先でしょ。お祖母様の部屋の掃除がそんなに早く終わるとは到底思えないんだけど」

「……だったら手伝ってくれても……」

「だから、絶対やだってば」

「ならおやつは後です」

「ケチ」

「何とでも」


髪色と同じ金色の、整った眉を吊り上げて、イチイは非常に解りやすく不満を露わにする。だが、こればかりはジジも譲れない。

お互いに睨み合うこと数秒、そしてお互いにどちらからともなくプッと吹き出して笑い出した。


「もういいよ。ジジは掃除頑張って。僕はおやつの時間まで本読んでるから」

「うん。また後でね」


ここまでがいつものやりとりであり、最早様式美であるとはお互いに知れたことである。

言うだけ言って、そのまま踵を返して書庫へと向かうイチイを見送り、ジジはこの金の魔女の隠し屋敷の最奥に位置する、屋敷の主たるウィッチ・ゾーイの私室へと向かった。


こんな森の奥にどうやって造ったのか甚だしく謎である大きなこの屋敷、連れてこられたばかりの頃はそれはもう大変だった。ジジは迷子になってばかりで、半泣きで屋敷の中をさまよい歩き、そのたびに呆れ返った当時五歳のイチイによって連れ戻され、ウィッチ・ゾーイにはくすくすと笑われるばかりであった。今ではそれもいい思い出と言えなくもないけれどそれ以上に羞恥心が勝利する思い出だ。


そんな経験を踏まえて、暮らし始めて五年も経てば、もう完璧に頭の中に地図が刻み込まれている。迷うことなく屋敷の奥へと進み、そして古いマホガニー材より作られた大きな扉の前に到着すると、ごくり、と覚悟を決めるようにひとたびジジは生唾を飲み込む。

ポケットから、ウィッチ・ゾーイより預かった古い鍵を取り出して鍵穴に差し込めば、あっさりと扉は開かれた。

そして扉を開いた先に広がっていた光景に、ジジは盛大に顔を引きつらせる。


「今回もまた随分と……」


それ以上は言葉にならなかった。どう表現したらいいのか解らない光景を前にして、ジジは途方に暮れた。


脱ぎ散らかされた色とりどりのドレス、あちこちに積み上げられた書物、空になった何本ものワインの瓶、何に使うか解らない様々な実験道具。書き損じたらしい羊皮紙がぐしゃぐしゃに丸められて屑籠から溢れており、角の生えた動物の頭蓋骨が逆さまになって椅子の上に鎮座している。意味が解らない。せいぜいベッドの上が空白になっているくらいで、後はどこにも足の踏み場がない。


毎回のことながら、よくもまあここまで荒らせるものだと感心してしまう。流石金の魔女たるウィッチ・ゾーイ。彼女の行動はいつもジジの想像を遥かに超える――と、冗談はさておいて。


「――よし!」


自らを鼓舞するように一つ頷いて、ジジは腐海に足を踏み入れた。この部屋の荒れ果てぶりも、ジジがこの屋敷にやってきたばかりの頃と比べれば、随分マシになったのだ。このくらいの荒れ様ならば午前中で片付くだろう。

そう見当を付けて、ジジはまず床の上に積み上げられている本を手に取ったのだった。

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