21.おとぎ話では終われない昔話
リェンファ・リー。
ジジをウィッチ・ゾーイの屋敷からさらってきた人。ヘイロンの幹部。先代ヘイロン首領、ランファ・リーの息子。
あの黒をまとう美しい青年は、何を考え、何を思い、今までを生きてきたのだろう。そして、何を考え、何を思い、これからを生きていくつもりなのだろう。
ジジには解らなかった。脳裏に浮かぶリェンファの姿は、こちらに背を向けていて、その表情は窺い知れない。いつものように微笑んでいるのだろうか。それとも、怒りと憎しみに満ちた表情を浮かべているのだろうか。あるいはそれとも、何もないのか。
ただ不思議と、この手に彼の手の温度だけが思い出された。ウィッチ・ゾーイの屋敷で、この両手を手当てしてくれたあの白い手の温度。このラベルオテロにまでジジの手を引いてくれた、あの手の温かさを。
無言で自らの手を見下ろすジジを、カロリーヌがどう思ったのかは解らない。ただ彼女は、最早決して取り戻せない過去を語り続ける。
「ご子息に自ら母国のお言葉で名付けられたランファ様は、できうる限りご自身だけでリェンファ様のことをお育てになろうとなさいました。わたくしもお手伝いさせていただきましたが、わたくしができたことなど数えるほどにもございません。そんな中で、ランファ様は、リェンファ様に、決してアラーイス様を近付けようとはなさいませんでした。リェンファ様はアラーイス様の子供ではなく、ご自分だけの子供であると仰って。そしてランファ様は、たったお一人で、故郷の言語と共にリェンファ様を育てられたのです」
そこまで言い切って、ほう、とカロリーヌは吐息を漏らした。その吐息には、自らの無力への嘆きと後悔がにじみ出ていた。
小さく「お労しいこと」と呟くカロリーヌの目には、もうきっとジジの姿は映ってはいない。彼女はただ、かつて敬愛し、今なお崇拝する、美しき女主人の面影を探し続けている。
やがて、ふ、と。カロリーヌはひとたびそのエメラルドの瞳を瞬かせた。
「そうして、あの日が来ました。アラーイス様が病に倒れられたのです」
それが二度目のはじまりであったのだと、カロリーヌは寂しそうに微笑んだ。
「アラーイス様の病の原因が、自然のものであったのか、それとも人為的なものであったのかは解りません。あらゆる手を尽くしましたが、アラーイス様はそのまま身罷られました。ランファ様は、その死に目に立ち会おうとはなさいませんでした。そしてランファ様は、アラーイス様が残されたご遺言の通りに、ヘイロンの首領となられたのです」
「反対されなかったんですか?」
いくら首領の妻であり、娼館の主人であるとはいえ、元を辿ればランファは異国出身の娼婦だ。彼女にギルドの首領の座を明け渡すことにあっさり納得する者ばかりであったとは到底思えない。
むしろ反対派の方が多かったのでは、と暗に問いかけるジジに、カロリーヌはふわりと、今度は誇らしげに微笑んだ。
「ええ、それはもう凄まじい反対が各方面から噴出いたしましたよ。そもそも、次代の首領は、門外顧問が選出するというのがしきたりですから。ですがそれらすべてを抑え込めるだけの権力と能力と実力を、ランファ様は既にお持ちでした。わたくしも陰ながらランファ様を支えさせていただきましたが、わたくしの支えなどなくとも、あのランファ様であれば大した時間もかけずにヘイロンの実権すべてを握っていたことでしょう。そしてそれはきっと事実であったに違いありません。アラーイス様のご遺言などなくとも、門外顧問はランファ様を新たなる首領に任命していたことでしょうね。何せランファ様は、ヘイロンの実権を、アラーイス様の死後一年もかけずにその手に握られたのですから」
くすくすと、どこか楽しげに、そしてやはり誇らしげに、カロリーヌは語る。ジジはあんぐりと口を開けた。間抜け面を晒している自覚はあったけれど、それをどうすることもできないほどに驚いていた。
ランファ・リー。なんという女傑だ。なんというか、流石あのリェンファの母親だな、とジジはつい思ってしまった。カロリーヌの言葉通りならば、ランファはリェンファにそっくりの、それは美しく、そして強い女性だったのだろう。いや正確には、リェンファがランファにそっくりなのか。どちらであるにしろ、とにかく『流石』という言葉しか出てこない。
そんなジジの表情を楽しげに見つめていたカロリーヌは、やがて、その瞳に、また憂慮の光を宿した。
「――そんなランファ様のお姿を、リェンファ様はずっとお近くで見ていらっしゃいました。ご自分に対しては東国の言葉でしか話しかけない御母堂のことを、リェンファ様がどう思っていらっしゃったのかは、わたくしには知り得ぬことです。当時からリェンファ様は、幼くしてご自分の感情を隠すことが、とてもお上手な方でしたから。ただ、リアーヌの一室で、いつもつまらなそうに、退屈そうに、窓から外を眺めているばかりであった幼いリェンファ様のお姿は、今もなおわたくしの脳裏に焼き付いております」
それは、ジジの知る限りの今のリェンファの姿からは想像もできない姿だ。せいぜい、あの人の子供の頃の姿は、さぞかし……それこそイチイと同じくらいかわいらしかったのだろうな、という感想を抱くくらいである。そしてそんな美少年は、母に守られ、父から遠ざけられていた。
――本当に、そうなのだろうか。
あの黒をまとう美しい青年は、リェンファは、本当に守られていたのだろうか。守られるとは、何から守られていたのだろう。何が、守られていたというのだろう。
ジジのそんな疑問に、カロリーヌが気付いた様子はない。ただ悲しげに、その長い睫毛を伏せる。
「アラーイス様は不器用なお方でした。解りやすい権力を与えることでしか、ご自身の愛情を示すことができないお方だったのです。そしてその愛情の示し方は、ランファ様にとっては苦痛を強いるものでしかなかったのです」
愛情の示し方。それは人それぞれ異なって当然のものだ。だからこそ、その愛情の示し方に相手が喜ぶのか、或いは苦しめられるのかは当人達だけに任せられてしまう。
アラーイスの愛情の示し方が、ランファにとっては後者でしかなかったのなら、それは不幸なことだ。そして、とても、悲しくて寂しくて切ないことだ。
そんな両親の姿をリェンファがどんな思いで見ていたかなんてジジには解るはずもない。側で見守っていたカロリーヌにすら解らないことが、ジジに解るはずもないのだ。
「ヘイロンという組織に縛り付けられることになったランファ様は、アラーイス様のことが許せなかったのでしょう。だからこそ、ランファ様は改革を始められました」
「改、革?」
「ええ、改革――革命と言った方が正しいかもしれませんね。ランファ様は、これまでのヘイロンの闇ギルドとしての側面を、根底から覆そうとなさいました」
それは、どんな覚悟の上での決断だったのか。異国からさらわれてきたかつての、何の力も持たなかったはずの少女は、もうただの少女ではなかった。彼女は、一人の――独りの、独裁者になった。
「薬物の取引から手を引き、賭場のルールを改正し、贋作を作ることで生計を立てていた職人を正規の職人として新たな自身の作品を作らせ……そして、特に人身売買については、ご自身の境遇からか、特に厳しく取り締まられました。もちろんそれらから生ずる不満や諍い、そして何より利益の損失は計り知れないものでした。それをランファ様は、それまで目を向けられていなかった他国……主に東国との貿易で埋め、娼館の娘達に教育を施すことで彼女達の付加価値を高め、ヘイロンの管轄下にある娼館に通うことをより上流階級の者達にとってのステータスとなるように仕向けられたのです。おかげでリアーヌやラベルオテロなどのランファ様が自ら改革された娼館は、より格調高き高級娼館となり、そこに住まう娼婦という立場もまた、誰の目から見ても恥ずかしくはない一つの『商い』と周囲に認めさせることに成功しました」
凄まじい。そうとしか言えない。他にどんな台詞が言えただろう。
並大抵の努力でそれだけのことを為し得られるはずがない。ランファ・リーという女性は、それだけの才を持つ独裁者……いいや、女王だったのだ。何がそこまで彼女を突き動かしたのだろう。そんな疑問を抱かずにはいられないが、やはりジジにはその答えを得る術はない。
「そして、リェンファ様に、そのご意思は受け継がれています」
「あの、人に?」
「はい。闇市での、リェンファ様への皆の反応はいかがでしたか?」
「え、ええと、なんというか……随分と、慕われているように見えました」
「その通りです。ヘイロンは今なお巨大なる闇ギルドとして恐れられてはおりますが、現在はほぼ通常の、世間に立派に顔向けできる姿のギルドになりつつあるとわたくしは自負しております。リェンファ様が率先して、ランファ様のご意向をお継ぎになり、そのように周囲に働きかけ続けてくださったからです」
「……!」
青灰色の瞳を見開くジジの反応は、カロリーヌには予想の範疇だったらしい。ひとつ頷いた彼女は、その気品あふれるかんばせに、凛とした表情を浮かべた。
「最早闇ギルドが権力を握るべき時代ではございません。わたくし達はその時代の変化に、進歩に、確固たる足場を作りながらついていかねばなりません。だからこそ、ヴィルフォールに、そしてその娘であるオリヴィアに、ヘイロンの実権を渡してはならない。それがわたくし達の総意です」
柔らかく、穏やかでありながらも、その声音には確かな決意がにじんでいた。
「もう二度とヘイロンを、かつてのような姿に戻してはならないのです。だからこそ、今まではわたくしの権限で、ヘイロン次代首領の選任を先延ばしにしてまいりましたが、お恥ずかしながらわたくしの力ではそろそろそれも限界なのです。リェンファ様が、ご自分が女性になるだなんて突拍子もないことを言い出されたのは、そのせいなのでしょう」
自らの無力を悔やむようにカロリーヌは瞳を伏せて、そして小さく呟いた。その吐息のような、囁きのような、小さな小さな呟きは、まるで恨み言のようなそれだった。
「ランファ様は、そのようなことは、望んでいらっしゃらなかったというのに」
「え?」
それはどういう意味だ。ジジはぱちりと大きく瞳を瞬かせる。望んでいなかった、とは、どういう意味も何も、そのままの意味なのだろう。
ランファ・リーは、息子であるリェンファ・リーに、次代のヘイロン首領の座を譲る気はなかったと、そういうことだ。
改めて言われてみて、遅れてジジは内心で「確かに」と頷いた。ランファがリェンファに首領の座を譲るつもりだったのであれば、最初からそういう遺言を残したはずだ。それこそ、先々代首領であったアラーイスが、ランファに首領の座を譲ると言い残したように。けれどランファはそうはしなかった。それどころか、リェンファには最初からそんな権利などないとでも言いたげな遺言だ。その歪さに、ジジはカロリーヌの言葉からようやく気付かされる。
「ランファ様の遺言は、『次代の首領は女性でなくてはならない』という内容であったことはご存知ですね?」
「はい、あの人……リェンファさんは、そう言っていました。先代は元々娼婦という身の上だったから、同じ女性として、女性を大切にしてくれるだろうと思って、次代を女性しか認めないって……」
「そう、ですね。きっとその理由も正しくはあるのでしょう。ですが、それだけではありません」
「と、言うと……?」
首を傾げるジジに、カロリーヌは微笑んだ。深い悲しみを湛えたエメラルドの瞳でジジをじっと見つめながら、彼女は続けた。優しく穏やかな、そしてやはり何よりも深い悲しみがにじむ声音で。
「ランファ様はリェンファ様のことを愛していらっしゃいました。それは確かな真実です。けれど同時に、憎んでもいらしたのです。アラーイス様の血を引く、ヘイロンの申し子たるリェンファ様のことを」
「ッ!」
「ランファ様は、リェンファ様にヘイロンを任せるつもりなどなかったのです。憎むべき男が望んだであろう我が子への組織の継承など、ランファ様は認めるつもりなどなかったのでしょう。だからこそのあのご遺言であったのだと、わたくしは思っております」
そこまで一息で言い切って、カロリーヌはまた溜息を吐いた。そしてその白くたおやかな手で、自身の顔を覆う。泣いているのだろうか。そう問いかけることはたやすいことだった。けれどそれをカロリーヌは望まないだろう。彼女は今、彼女自身の深い後悔の中に囚われていた。
「わたくしには、解らないのです」
そうしてカロリーヌの両手の隙間から零れた声に、ジジはおそるおそる彼女の顔を覗き込んだ。
「……何が、ですか?」
「リェンファ様に、次代の首領になっていただくべきなのか、そうでないのかが」
そっと囁くように問いかければ、カロリーヌはようやく顔を覆っていた両手を下ろして、再び微笑んだ。けれどいくらジジがあまり聡い方ではないとは言っても、カロリーヌのその微笑みが心からの微笑みなどではないことに気付けないほどではない。カロリーヌは微笑んでいるけれど、違うのだ。彼女は静かに、誰の目にも映らない涙を流し続けている。
「ランファ様が起こした革命を、リェンファ様は引き継いでくださいました。リェンファ様は、ランファ様の後継者として、きっと誰よりも相応しい。それは血が繋がっているからではありません。リェンファ様が、ランファ様の見据えた未来へと今を切り開く御力を持っているからです」
ですが、とひとたび言葉を切って、カロリーヌは顔を歪めた。彼女のその悲痛な表情は、出会ったばかりのジジの目にすら迫るものがある表情だった。
「ですが、それはランファ様の望みではない」
――その言葉が、きっと、カロリーヌを縛る唯一にして最大の理由なのだろう。
そうなんとなく、本能的に理解したジジは、かける言葉が見つからなかった。カロリーヌもまた、ジジの言葉を待っている訳ではないに違いない。麗しの貴婦人は、途方に暮れたような表情を浮かべてもなお美しく、そしてだからこそ余計にその悲しみの深さを見る者に思い知らせてくれる。
「門外顧問としてのわたくしは、リェンファ様が女性になられたあかつきには、あの方を次代首領として選任するでしょう。けれどランファ様の部下としてのわたくしには、あのお方の友としてのわたくしには、それが許せません。わたくしは、ランファ様を裏切りたくないのです」
傷付けたくないのです、と。そうジジはカロリーヌに、そう言われているような気がした。
カロリーヌにとってのランファという女性がどういう存在であったのかなんて、やはりジジには知る術はない。ただきっと、カロリーヌにとってのランファは、とても大切な存在だったのだ。そして同時に、リェンファのこともカロリーヌにとっては大切な存在なのだろう。だからだ。だから彼女はこんなにも悲しんで、こんなにも苦しんでいる。
そんな彼女に、どんな言葉がかけられるというのか。ジジの頭ではいくら考えても解るはずがなくて、結局やはり沈黙を選ぶことしかできない自分を悔やむジジに、カロリーヌはまた微笑んだ。今度は無理矢理取り繕ったものではない、心からの微笑みだった。
「……ごめんなさい、ジジさん。貴女にこんな話を聞かせても、貴女を困らせるばかりだというのに。わたくしの自己満足に付き合わせてしまって申し訳ないわ」
「…………いえ」
心底申し訳なさそうにその柳眉を下げて頭を下げようとしてくるカロリーヌを止めて、ジジはふるふるとかぶりを振り、そして今度はジジの方からカロリーヌの手を取った。驚いたように目を瞠るカロリーヌに、ジジはぎこちなく笑いかけた。
「私は、ちゃんと考えなくちゃいけないのだと思います。師は言っていました。ウィッチクラフトは、『物事を少しばかり素敵な方向へ導くもの』であると。だから、私が成すウィッチクラフトも、『少しばかり素敵なこと』を招くものでなければならないと思うんです。誰かが悲しむような結果になってしまったら、それはきっともう、ウィッチクラフトとは呼べないものです」
ジジは今まで、何も知ろうとはしなかった。ただ脅されるままに、流されるままに、リェンファの望みを叶えようとしていた。
けれどそれではいけなかったのだ。
ジジが真実、『金の魔女』の弟子――まあ鍋運びなのだが――であろうとするなら、ジジは知らなくてはならなかった。考えなくてはならなかった。そして自分で決めなくてはならなかったのだ。
今更こんなことに気付くなんて、なんて情けないのだろう。だから自分はいつまで経っても『鍋運び』なのだ。
「私はあの人……リェンファさんの望みを叶えなくてはなりません。そういう契約だからです」
「ええ、存じております。そして、魔女の契約は絶対であるとも、もちろん存じておりますわ」
「はい。でも、それがどういう方法によるものかなんていうのは、契約の範疇外でしょう?」
リェンファの言葉ではないが、『どんな手段を用いたとしても』。
ジジにできることなんて数えるほどにしかない。けれどだからこそ、『どんな手段を用いたとしても』最善を、最良を求めたいと思う。
そうしなければ、ジジは『金の魔女』の弟子どころか鍋運びとも名乗れない。胸を張ってウィッチ・ゾーイとイチイの元に帰れるはずがない。
――貴女は貴女にできることをすればいいの。それがきっと、素敵なことに繋がるわ。
――はい、ウィッチ・ゾーイ。
脳裏に浮かんだ美しく輝く金色の面影にそう頷き、ジジは笑ってみせた。カロリーヌのそれとは比べ物とはならない、へたくそな笑い方になってしまったことは自覚していた。
カロリーヌは驚いたように目を見開き、そうして、震える声で「ありがとうございます」と囁くように呟いた。
麗しの老婦人は、懸命に涙をこらえているようだった。




