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鍋運びのジジ  作者: 中村朱里


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19/25

19.魔女カロリーヌ

カロリーヌに手を引かれ、ジジは高級娼館ラベルオテロの最上階、その最奥に存在する、カロリーヌの私室へと案内された。

部屋に入った途端に鼻孔をくすぐったのは、鈴蘭の香りだろうか。白と緑で統一された室内は、豪奢ではなくとも優雅なもので、その調度品の一つ一つが職人もののアンティークと知れるものばかりだ。その辺の貴族風情には、ここまで上等な部屋に住まうことは叶わないに違いない。

まるで絵物語に出てくる王族の私室のような部屋を見回して、ジジはほう、と感嘆の吐息をもらした。


「どうぞそちらにお座りになって。気楽になさってね」

「は、はい」


無理です、と馬鹿正直に答えることはできずに、ジジはぎこちなく頷いた。そしてカロリーヌに促されるままにソファーに腰を下ろしたものの、その柔らかくジジの身体を受け止めてくれる感触に、より一層ジジの緊張は高まった。

こんなにも高級な調度品に囲まれることなんてそうそうないことだ。ウィッチ・ゾーイの屋敷の調度品もそれなり以上に上等なアンティークばかりであったが、それは両親を亡くした幼いイチイが引き取られたばかりの頃に、どんなイタズラをされても大丈夫なようにとウィッチ・ゾーイが自ら集めた丈夫さが折り紙つきの逸品だ。だからジジも遠慮なく使っていられた。

リアーヌの離れである、ジジにとっての『台所』たる小屋の調度品は、上品なものではあるが高級なものではない。だからこちらにおいてもジジは遠慮しなかった。

だが、それらに比べてこの部屋のすべての家具は、ジジが冷や汗を掻いてしまうほどの逸品ばかり。触れたら壊れてしまう、なんてことはないだろうが、実際に触れてみようだなんて気には到底なれそうもなかった。


「ジジさん」

「はいっ!」

「ふふ、元気のよろしいこと。さ、お膝を見せてくださいな」


緊張にうわずる声で返事をすれば、優しくカロリーヌは微笑んで、彼女はソファーに座るジジの前に跪いた。自身がまとう美しいドレスがしわになることなど一切気にしていない様子のその行動に、ぎょっとジジの方が慌てさせられる。


「ああああのっ!?」

「どうかご安心を。痛いことはしませんわ」


違う、そういうことじゃない。とは思っても、やはりジジはその台詞を実際に口にすることはできなかった。

カロリーヌの穏やかな微笑みに背を押されるようにして、そっとスカートの裾を捲ると、カロリーヌは改めて痛ましげに眉をひそめて「派手になさいましたね」と呟いた。そんなカロリーヌの手には、青い硝子でできた小さな軟膏入れと、白い半透明の磨り硝子に葡萄の房の彫刻が施された水差しがある。それをどうするつもりなのだろうとジジが無言で見守る中で、カロリーヌは水差しを床に置き、再び口を開いた。


「『水辺に住まう心優しき貴婦人さん、どうぞこちらにおいでになって。そしてそのたおやかなる御手で、あなたの優しさを示してみせて』」


揺籃歌を歌うように、あるいは詩歌を囁くように。古い約定を踏んで諳んじられたそのことのはに、ジジは目を見開いた。そのことのはが何たるかを、ジジは、師であるウィッチ・ゾーイから、確かに教えられていたからだ。

まさか、と、驚くばかりのジジを置き去りに、ちゃぽん、と水差しが何もしていないというのに音を立てる。水差しを揺らした訳でもなければ、水差しに何かを入れた訳でもないというのに、水差しの中の水のその水面に、波紋が広がっていく。その円の中心から、下半身が魚の尾びれになっている小さくも美しい女性が顔を覗かせる。四大精霊の一角、水を司る精霊ウンディーネだ。

彼女はするりと水差しから宙へと舞うように出てくると、そっとジジの膝の擦り傷を撫でた。膝にこびりついていた血や砂といった汚れが綺麗に洗い流され、擦り傷を癒していく。ひりひりと地味にジジを苦しめていた痛みが遠のいていく。やがて完全に傷が癒えた訳ではないが、とりあえず滲んだ赤が消えて綺麗になった頃合いを見計らって、カロリーヌがウンディーネに座った一礼してみせる。


「ありがとう、レディ」


カロリーヌの穏やかな礼に、構わないとでも言いたげにくるりと宙返りをしてみせたウンディーネは、水差しに戻ると同時にその身体を元の水へと崩した。それを最後まで見届けて、カロリーヌは持っていた青い硝子の軟膏入れの蓋を開ける。


「後は一応軟膏を塗っておきましょうね。お若いお嬢さんの足に傷が残るなんて許せませんもの」

「い、いえ、これくらい自分でっ」

「『これくらい』甘えてくださいませ。わたくし達の――ヘイロンの問題に巻き込んでしまったわたくしに、ほんの少しだけでも贖罪させてくださいな」


その言葉に、ぱちり、とジジは大きくひとつ瞬く。贖罪、なんて。そんなことを言われるとは思ってもみなかった。そんなジジの反応に、困ったように眉尻を下げて微笑むカロリーヌに、ジジは小さく呟いた。


「カロリーヌさんは、魔女なんですね」


それは質問ではなく、確認だった。敢えてヘイロンについて触れずにカロリーヌ自身についてジジが言及したその意味に、カロリーヌは聡く気付いたのだろう。優雅な所作で立ち上がり、ジジの隣に腰掛けて、微笑んで彼女は否定することなく静かに頷いた。

そして彼女が口にした言葉は、ジジが知りたかった内容半分、もう半分は、できたらあまり知りたくなかった内容だった。


「ええ。とは申しましても、あの誉れ高き山吹の君には比ぶべくもない程度の腕ですが。そして、魔女である以前にわたくしは、このラベルオテロの代表であり、ヘイロンの門外顧問という立場にあります。有事の際は首領と同等の権限を持つことになっておりますし、また、次代の首領の選任の権利もまた持ち合わせておりますわ」


山吹の君。それは『金の魔女』ウィッチ・ゾーイの数ある異名の一つだ。魔女の間では有名な異名の一つであるそれを、魔女であるというカロリーヌに口にされても今更驚きはしない。むしろ、その後に続いた台詞の方がよっぽどジジにとって衝撃的だった。

ラベルオテロの代表。それはすでに聞かされているからいい。問題はその後だ。

ヘイロンの門外顧問。首領と同等の権限。次代首領選任の権利。さらりと告げられたその内容は、決して聞き流せるような内容のものではなかったが、不思議とジジにはそのことについてカロリーヌに問いかけることはできなかった。彼女の穏やかで優しい微笑みが、ジジがその件について触れることを拒絶しているような気がした。

だから結局ジジは、カロリーヌが語らなかったことについて問いかけることしかできない。


「このデュマの大鍋にかけられたまじないは、貴女が?」

「然様にございますよ。いにしえより続くまじないを、わたくしと、王都に暮らすわたくしと同門の魔女達の手で、今なお紡ぎ続けておりますわ」

「そう、ですか。質問ばかりですみません。もう一つだけ」

「はい。何でしょう?」


少女めいた仕草で小首を傾げるカロリーヌの姿は、その老年と言って差し支えないに違いない齢に見合わず美しくかわいらしかった。気品にあふれた仕草の一つ一つがジジの目を奪う。そういえばあの人もそうだったな、とジジの脳裏にリェンファの姿が浮かんだ。彼の仕草もまた、一つ一つが気品にあふれ、見る者の目を奪うものだ。

ヘイロンの上層部は皆こうなのだろうかと内心で首を傾げつつ、ジジはゆっくりとこれが最後のつもりの疑問を口にする。


「何故私があの人に……リェンファさんにトゥーランドットまで連れてこられたのか、貴女はご存知ですか?」


あの美しい青年が、ジジにしたことを、これからさせようとしていることを、この目の前の貴婦人はどこまで知っているのだろうか。次代のヘイロン首領の選任の権利を持つのだという、このカロリーヌという女性は、それを許したのか。ジジはそれが気になった。

沈黙がジジとカロリーヌの間に横たわり、そのまま沈黙はその場から去ろうとはしなかった。やがて、長い沈黙の後に、ゆっくりとカロリーヌは頷いた。


「女性に、なりたいと。リェンファ様は、そう山吹の君に依頼されるおつもりであったことは存じております。そしてあのお方の代わりに、貴女がその依頼を引き受けられたのでしょう?」

「――――はい」


その通りだ。依頼を引き受けた、というよりは、脅迫に屈した、という方が相応しい気がしたけれど、それは口にはしなかった。けれどそのジジが口にしなかった言葉のすべてが、カロリーヌにとってはお見通しなのだろう。長い睫毛を伏せて、彼女はそっとその両手を、ジジが自身の膝の上に置いているジジの手に重ねた。温かく、柔らかく、優しい手だった。


「申し訳ありません」


そしてカロリーヌが囁いた言葉に、ジジは再び瞳を瞬かせる。意味が解らなかった。


「どうしてカロリーヌさんが謝るんですか?」

「最初に、リェンファ様はわたくしに『女になる方法はないか』と問われました。魔女としてのわたくしも、ヘイロンの門外顧問としてのわたくしも、それは無理だとお答えしました。それでも、と、仰るあの方に、わたくしは、あの誉れ高き山吹の君であればもしや、と答えてしまったのです」


悔やむように、悲しむように、しんしんと音もなく静かに降り積もる雪のような声音で、カロリーヌは続ける。ジジには口を挟むことができなかった。「じゃあ私がこんなことに巻き込まれたのは貴女のせいじゃないですか」と言うことは、とても簡単なことであるはずなのに、目の前の貴婦人の様子を見たら、それはあまりにも困難極まることでしかなかった。


「本当に、リェンファ様はお顔ばかりではなく、その気性が大層極端でいらっしゃるところまで先代に……ランファ様に似通っていらっしゃる。まさかこのような強硬手段を取られるとは思いもしませんでした、なんて言い訳ですね。あの方の成長を見守ってきた者として、わたくしはこうなることを予想していなければならなかった」


きゅ、と。ジジの手を包むカロリーヌの手の力が、わずかばかり強くなる。そちらを見遣れば、美しい緑の瞳が、深い後悔を孕んでジジのことを見つめていた。


「申し訳ありません、ジジさん。リェンファ様に代わり、あの方の狼藉を……いいえ、わたくし自身の咎を、心より謝罪致します」


そう言って、綺麗に結い上げられた真白い頭を深々と下げるカロリーヌのそのつむじを、しばしジジはじっと見下ろしていた。そして、今度はジジの方から、カロリーヌの手に自身の手を重ねる。


「どうか、頭を上げてください」


そう紡ぐ声は震えることなく、確固たる意志が宿るものだった。


「確かにあの人のやり方は、その褒められたものではなかったというか、ちょっと……いや少し……ええとだいぶ……どころではなく、その、正直かなり強引でした。それは確かです」


そうだ。酷いやり方だった。よりにもよってイチイを人質に取るだなんて、本音を言えば万死に値する行為だ。あの時のジジには拒否権なんてなかった。そして今もなお、拒否権のない問題を目の前に突きつけられたままだ。

明日をも知れぬ命、という言葉が頭を過る。冗談にできないところが怖い。とても怖い。そうだとも。ジジはずっと怖かった。今だって怖くて怖くてたまらない。ウィッチ・ゾーイとイチイに会いたい。二人の元に帰りたい。

けれど、それでも。


「でも、最終的に引き受けたのは私ですから。それに、あの人、助けてくれましたし」


助けてくれた理由は、単に例の薬が手に入らなくなると困るからだと言われればそれまでだけれど。それでも、確かにあの時、ジジは助けてもらったから。誰にも助けてもらえない、ひとりぼっちのこの王都で、彼は、リェンファは、ジジに手を差し伸べ、ジジの手を引いて導いてくれたから。


「だからいいんです。カロリーヌさんが謝られることなんてちっともないんです。どうせ謝ってもらうなら、あの人に直接謝ってもらいます」


あのリェンファが大人しく謝ってくれるとは思えないし、想像ですらそんな姿は思い浮かべることもできないから、こんなことを言っても何の説得力もないことくらい百も承知の上だ。それでも今こうしてカロリーヌに謝られるのは道理ではないと思ったし、やはり謝るべきはリェンファ自身だと思う。

今でなくてもいい、いつかでいいから、あのリェンファに一言「ごめん」「悪かった」と言わせたいとひっそり心の隅で思うジジに、カロリーヌはしばし驚いたように瞳を見張り、やがてくしゃりとその顔のしわを深めて笑った。


「ジジさんは、少しばかりお人好しが過ぎますね」

「そ、そうでしょうか」

「ええ。こんな老いた女に気を遣ってくださり、狼藉を働いたリェンファ様のことをきちんと真正面から見ようとしてくださる。わたくしは、それをとても嬉しく思います」


そう言って、カロリーヌは少女のようにくすくすと笑った。齢など関係なく、こんな笑顔を見せられたら、世の男性はきっとどきりと胸を弾ませてしまうに違いないと思わせるようなそれだった。そうしてひとしきり笑い終えた後、カロリーヌのエメラルドのような瞳が再び真っ直ぐにジジへと向けられる。そこに宿る光の強さに、それこそ世の男性のようにどきりとしてしまうジジに、カロリーヌは続けた。


「少しばかり、わたくしの――ランファ様の、そしてリェンファ様に繋がる話を聞いていただけないでしょうか?」


そう言って、カロリーヌは静かに微笑んだ。その笑顔が今にも泣き出しそうなそれに見えたのは、ジジの気のせいだったのかもしれない。それでも、その胸に迫る笑顔に否やなど言えるはずもなく、ジジは気付いたら頷いていた。

ジジがそうして無言のまま首肯したことに、カロリーヌはほっと安堵したようにまた微笑んだのだった。

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