18.第二の娼館
どこへ、向かっているのだろう。止まらない涙を懸命に外套の袖で拭いながら、ジジはそう思った。
リェンファはジジの片手を掴み、もう一方の手で薬の材料の詰まった袋を軽々と抱えて、無言のままジジの前を歩いていく。手を引かれながら歩くジジには、彼が向かおうとしている場所がさっぱり解らなかった。
この闇市から出ようとしている訳ではないことは流石に解る。リェンファの足は、むしろこの闇市、『デュマの大鍋』の奥へ奥へと進んでいるようだった。
どこへ行くつもりなのかと問いかけようにも、ぐすぐすとしゃくり上げてばかりいる口からはまともな言葉が出てきそうにない。結局ジジは、行き交う他人の群れの隙間を器用に縫いながら歩くリェンファについていくことしかできなかった。
やがて、そのまま歩き続けて、どれほどの時が経過したか。ジジにとってはとても長く感じられたその時間は、ようやく終わりを迎えてくれた。
突然ぴたりと足を止めたリェンファに、ジジは不意打ちを喰らわされ、そのまま彼の背に飛び込むように、鼻先を思い切りぶつける羽目になった。細身の、ともすれば中世的にも見える体形のリェンファは、ジジにぶつかられてもよろめきもしなかった。むしろ、ぶつかったジジの方が逆によろめいて、危うく尻餅をつきそうになってしまう。そこを繋いだ手をリェンファに引っ張られることで危機を脱したジジは、気まずげに目を伏せてぼそぼそとお礼を言った。
「あ、ありがとうございます」
「ホント間抜けなお嬢サンだネ」
「……すみません」
「別に責めてないヨ。事実を言っているだけネ」
「…………」
まったくフォローになっていないどころかむしろ貶されているような気がしてならないリェンファの台詞に、ジジは反論できるはずもなくただ沈黙した。気付けば涙は止まっていた。そんなジジの手をようやく解放したリェンファは、くいっと顎をしゃくって、目の前の建物をジジに示して見せる。
そこでようやくジジは、リェンファが示した先にある、派手でも華美でもない、古き良き時代の建築と思われる、大きな屋敷の存在に気が付いた。
由緒正しき貴族の屋敷と言われても納得してしまいそうな立派な屋敷だ。田舎者であるという自覚があるジジは、図らずもその屋敷にうっとりと見惚れてしまった。
ぽっかりと口を開けた間の抜けた顔を晒して屋敷を見上げるジジの視界の端で、リェンファがにやりと笑う。そのいかにも意地の悪い笑みに、ジジがそちらを見遣れば、リェンファは紅い唇に描いた弧を深めてみせた。
「高級娼館ラベルオテロ。ヘイロンの管理下にある娼館の一つヨ。デュマの大鍋を介してじゃないと辿り着けない隠れた娼館だケド、その名前は有名ネ」
リェンファのその言葉に、ぱちぱちとジジは瞳を瞬かせた。同時に、目尻に溜まっていた最後の涙がつぅっと頬を流れ落ちていく。
高級娼館ラベルオテロ。ジジにとっては初めて聞く名前だけれど、王都住まいであり、同じく高級娼館リアーヌの主人であるリェンファがこう言うのだから、きっと本当に有名な娼館なのだろう。
そんなところに、このタイミングで何の用があると言うのか。首を傾げたジジは、やがてハッと息を飲んで、若干顔を蒼褪めさて引きつらせた。
「わ、私、もう用無しってことですか?」
「ン?」
「ここに私を売り飛ばしに来たんじゃ……」
リェンファの黒瑪瑙の瞳が見開かれ、そして続けざまに何度もぱちぱちと瞬く。長く濃い睫毛が拍手でもするかのような音を立てたような錯覚をジジは覚えた。
そんなジジの顔をしばらくまじまじと見つめていたリェンファは、やがてぷっ!と大きく噴き出した。
「ははっ! ナニ言ってるノ。このラベルオテロにお嬢サンを売ろうとしても、二足三文にもならないどころか、まず取引の段階でお引き取りクダサイって言われるに決まってるデショ」
『トリヒキ』だけに、とその気品に満ちたエキゾチックな美貌がもったいないと感じるほどにけらけらと大きくリェンファは笑った。ジジは顔を真っ赤にして俯いた。
別に自分がウィッチ・ゾーイやイチイ、そしてリェンファのように飛び抜けた美人であるだなんておこがましいこと、一度だって思ったことはない。
目鼻立ちだって平凡極まりないし、いつもうなじで引っ詰めているだけの鈍い銀髪も、冴えない青灰色の瞳も、ちっとも自慢できるようなものではない。
そう思えばリェンファの言うことは至極ごもっともだ。リェンファが主人を務める高級娼館リアーヌとて、ジジが時折目にした代表であるリェンファの美しさは見ての通りであるし、彼に従う娼婦の美貌は元よりのこと、使用人すらもとても美しかったのだから、どこからどう見てもせいぜい十人並みに手が届くか届かないか程度の容姿の自分が、リェンファが認める高級娼館などで働けるはずがない。
随分身の程知らずの恥ずかしいことを言ってしまった、と顔を赤くするばかりで俯くことしかできないジジの耳に、はあ、と小さな溜息が届く。
思わず顔を上げれば、目の前にリェンファの美貌があった。あまりの近さに仰け反るジジの額を、リェンファの白く長い指が弾く。
「いたっ!?」
「髪型ひとつ変えず、口紅ひとつすら塗らないくせに、一丁前に落ち込むのは筋違いだとワタシは思うヨ。元はソレほど悪くないんダカラ、少しは努力するといいんじゃないノ。もったいないデショ」
そう言い切るが早いか、リェンファはさっさと目の前の屋敷――高級娼館ラベルオテロの玄関へと歩み寄っていく。その後ろ姿を視線で追いかけながら、ジジは、「あれ?」と小さく呟いた。
美しくなるための努力をひとつもしていないのに、その容姿を笑われて落ち込むのは筋違い。確かにその通りだ。その通りなのだが……その言葉よりも、ジジはその後に続いた言葉の方がよほど気になった。「元はそれほど悪くない」と、リェンファは確かにそう言わなかったか。「もったいない」と、確かにそう言わなかったか。
――は、励まされた?
そんな馬鹿な。聞き間違いか。それとも勘違いか。そんなジジの考えは、すべてが正解であるような気がしたし、逆にすべてが間違っているような気もした。
まず、励ます励まさない以前に、ジジのことをからかってくれたのはリェンファ本人であるのだから、好意的に受け取るのはどうかと思うのだが、しかし。
そういえばウィッチ・ゾーイも、ジジにたびたび手作りの……それこそ世に出回れば富裕層の間ですら天井知らずの値が付くに違いない化粧品をプレゼントしてくれようとしたり、馴染みの仕立て屋の元へジジを引きずって連れて行こうとしたりと、それはもうジジが「勘弁してください!」と半泣きになるくらいに、美の何なるかをご教授してくれようとした。
ウィッチ・ゾーイのように美しい人が着飾るならばいざ知らず、自分のような者が着飾ったって……とジジが尻込みするたびに、彼女は言っていたではないか。
「一番不細工なのは、最初から諦めて美しくなろうともしないその姿勢よ」と。
その言葉が、先程のリェンファの台詞に重なった。
『元は悪くない』。『もったいない』。ただそれだけの言葉で背を押されたような気持ちになる。我ながら現金なものだ。というか、そもそもの話として、元の造りがとんでもなく美しいリェンファにそう言われてもあまち説得力がないような気がする。……嬉しくなかったと言えば、嘘になってしまうけれど。
まあいい。いやいいと言い切るには若干抵抗があるが、とにもかくにも、リェンファやウィッチ・ゾーイの言うことを、ジジが実際に実践するにはまだまだハードルが高い。
この荒れた手で何ができるのだろう、と、ジジが複雑そうな表情を浮かべていると、そんなジジの方を、リェンファは肩越しに振り返ってきた。
ばちりと噛み合う視線に反射的にぎくりとするジジに、リェンファは玄関の前に立っていた衛兵に扉を開けさせながら口を開く。
「ナニしてるノ。さっさと入るヨ?」
「は、はいっ!」
――と、これまた反射的に元気よく返事をしてしまったものの、慣れた様子でラベルオテロと呼ばれる屋敷の中と入っていくリェンファとは異なり、ジジにとってそれは大層勇気がいることだった。
リアーヌと呼ばれる屋敷においては、元から意識のない内に運び込まれ、初日を除いてはそのまま慎ましやかな小屋で軟禁状態になっていたためそれほど意識していなかったが、今はばっちり意識がある状態で、この立派な屋敷に足を踏み入れるなんて、そんなこと、平然を保ったままでなんてできる訳がない。
既に玄関の先へとリェンファの姿は消えている。玄関を守る衛兵が鋭い視線で「早く入れ」とジジに訴えかけてくる。このままではリェンファに置いていかれてしまうということに遅れて気付いたジジは、慌てて屋敷の中へと小走りになって足を踏み入れた。
そして、その先に待っていた光景に、唖然と凍りつく羽目になった。
「リェンファ様、お久しぶりね。私、とっても寂しかったわ」
「あら、私だって何度リェンファ様恋しさに眠れない夜を過ごしたことかしら。ね、リェンファ様、今宵はラベルオテロにお泊りになられるの?」
「まあ、素敵! でしたらぜひ私のお部屋に」
「抜け駆けは駄目よ。ああそうだわ、リェンファ様さえよければ、皆で一緒になんてどう?」
「それもいいけれど、やっぱりひとりじめしたいじゃない」
「それこそだ・め・よ。リェンファ様は皆のものなんだから」
――一体、私は何を見せられているんだろう?
重厚な玄関の扉からその内部へと入ったところ、相応の価値があると一目で解る透明な硝子がまるで王冠のように配置されたシャンデリアが吊るされている広いエントランスホール。その中心に、リェンファは立っていた。色とりどりの豪奢なドレスを身に纏った、それぞれがそれぞれの美しさを持つ、花のような女性達に囲まれて。
どの女性もとても美しいというのに、それに負けず劣らずどころか、彼女達よりもより整った美貌に、惜しげもなくいつも通りの微笑みを浮かべて、彼女達の相手をしているリェンファを前にして、ジジは思わず首を傾げてしまった。
声をかけることなんてできるはずもなく、かと言ってこのまま立ち竦んでいるばかりでいることもできず、ジジは助けを求めて周囲を見回した。だが、このエントランスホールにいるのは、リェンファ達を除けば、使用人らしき女性陣と、護衛役であるらしき衛兵達ばかりで、彼等は皆、リェンファ達の様子などいつものことであるとでも言いたげに平然としたものである。焦っているのはジジばかりのようだ。
どうしよう、とりあえず待ってればいいのかな、と、手持無沙汰に、美しい女性達にちやほやされているリェンファの様子を窺っていると、そこに、両手を打ち鳴らす高らかな音が響き渡った。
「あなた達、そこまでになさいな。リェンファ様のお連れの方が困っていらっしゃってよ」
それまで小鳥のさえずりか、はたまた寄せては返すさざなみかのように口々にリェンファに声をかけていた女性達が一斉に口を噤む。そして彼女達は、そうするのが当たり前だと言わんばかりに、リェンファから離れ、エントランスホールの左右にそれぞれ分かれて並び、色とりどりのドレスの裾を持ち上げて礼を取る。
何事かと目を瞬かせるジジの目の前にある、エントランスホールの奥に位置する階段から、一人の女性がゆったりとした足取りで降りてくる。
――きれいなひとだ。
ジジはそう思った。その女性は、もう少し細かく表するならば、『老婦人』と言うのがきっと相応しいのだろう。その年齢は既に老年の域に差し掛かっているに違いないと思われるような、深いしわがその顔に刻まれている。だが、そのしわすらも彼女の誇り高い人生の証と思わせられるような、清廉たる空気をその身にまとっていた。
色の抜け落ちた真白の髪は丁寧に結い上げられ、極上のエメラルドのような瞳は夏日に照り映える緑葉を思わせる。そのしゃんと背筋が伸ばされた、ほっそりとした身体を包むのは優美なラインを描くミントグリーンのドレスである。
その一挙一動に気品が滲み出る足取り階段を降り切った彼女は、そのまま女性達――このラベルオテロにおいて娼婦として働く美女達が作る華やかな花道を通り抜けて、リェンファの前に立った。そしてにこりと笑みを浮かべて一度リェンファに一礼すると、そのまま周囲を見回した。
「さぁさ、皆、自分の部屋にお戻りなさい」
さして大きな声でもなかったというのに、その凛とした張りのある声は、不思議とエントランスホールによく響いた。残念そうに娼婦達がそれぞれ撤退していくのを見送って、老婦人はリェンファを見上げてにこりと微笑んだ。
「お久しゅうございます、リェンファ様」
「ウン、カロリーヌ。キミは相変わらず朝露に濡れるジェイドローズのように美しいネ」
「ありがとうございます。リェンファ様こそ、相変わらずお口がお上手でいらっしゃいますこと」
「本音なんだケド」
「ええ、解っておりますとも」
リェンファが、カロリーヌと呼んだ老婦人の手を取って、その甲に軽く口付けた。それを当然のように受け入れてころころと笑った老婦人は、その表情から一変、きりりと自身の柳眉をつり上げた。
「リェンファ様、一般人のお嬢さんをからかうのも、大概になさいませ」
「からかってるつもりはないんだけどネ。向こうが勝手に焦ってるダケ……」
「リェンファ様?」
「……悪かったヨ」
「謝るお相手が違うのでは?」
「…………お嬢サン、ゴメンネ」
「えっ!? え、あ、は、はい」
突然振り向きざまに謝罪され、ジジはびくぅっ!と視線を正しながらかろうじて頷いた。そんなジジを、リェンファがちょいちょいと手招く。こっちに来い、ということなのだろう。それは解るのだが、なんだか二人の親密な雰囲気の間に入っていくのは申し訳ないような……とためらうジジに、老婦人が微笑みかけてくる。
優しく穏やかな、見る者に安心感を与えてくれる笑顔だ。ウィッチ・ゾーイみたい、と思ってしまったジジは、気付けば足を踏み出して、リェンファの隣にまで歩み寄っていた。
近くにまで恐る恐る寄ってきたジジに、老婦人はそのなめらかで柔らかな生地のドレスの裾を持ち上げて、優雅に一礼してみせる。
「お初にお目にかかります。わたくしはカロリーヌと申しますわ。このラベルオテロの代表を務めさせていただいておりますの」
その言葉に、ジジは目を見開いた。一目見て、只者ではないだろうとは思っていたが、まさか彼女もまたリェンファと同じ、娼館の主人だったとは流石に思っていなかった。しばし言葉を失うジジに、カロリーヌは悪戯げに、魅力的な笑みをその唇に浮かべた。その笑みに目を奪われるジジの背を、トントン、と隣のリェンファが叩く。いつまでも黙っているなということなのだろう。慌ててジジは、その頭を下げた。
「は、はじめまして。ジジと申します。ええと、私は……」
私は。その後に続けるべき言葉が見つからず、ジジは口を噤んだ。
ここで馬鹿正直に、リェンファに拉致されてトゥーランドットのリアーヌに軟禁中で、性転換もどきの薬を作らされています、だなんて言えるだろうか。答えはもちろん否だ。
だったら何と言えばいいのだろう。今の服装はリアーヌの使用人としてのワンピース姿だから、臨時に雇われていますとでも言えばいいのだろうか。それこそまさかだ。
うろうろと視線をさまよわせるジジに、くすくすとカロリーヌは口元にたおやかな手を寄せて笑った。笑いじわすらもかわいらしくも美しい、魅力的な笑みだった。
「ご安心なさいませ。リェンファ様から話は聞き及んでおります。ですが何故当館に……?」
「コレのせいヨ」
「ひゃっ!?」
ジジが着ているお仕着せのワンピースは、裾が足首まである形のものだ。そのワンピースの長い裾を、突然リェンファが、その上から羽織っている外套ごと捲った。露わになったジジの膝を見たカロリーヌが「あら……」と痛ましげに眉尻を下げたが、そんなことに気付く余裕などないジジは、スカートを無理矢理下ろさせて、リェンファを赤らんだ顔で睨み上げた。
「なななななななん、な、何するんですか!?」
突然人前で足を露わにさせられたジジの、怒りと戸惑いと恥じらいがごちゃ混ぜになった顔にも動じず、リェンファは「ダッテ」と肩を竦めた。
「口で説明するより見せた方が早いかと思ってネ」
「説明って……っ!?」
何の話ですか、と言おうとしたジジは、ふいにピリリと膝に走った痛みに顔を歪ませる。そこでようやくジジは、自分が先程転んだ時に、膝を思い切り擦りむいていたことを思い出した。今の今まですっかり忘れていた分、その痛みが余計に大きく強く感じられた。思わず顔を歪めるジジに、カロリーヌが気遣わしげに溜息を吐く。
「手当をしなくてはなりませんね」
「そーゆーコトネ」
「かしこまりました。さ、ジジさん、こちらへどうぞ」
カロリーヌの口調は、優しく穏やかなそれでありながらも、それは同時に有無を言わせないそれでもあった。
おろおろとリェンファとカロリーヌの顔を見比べてどうしたものかと逡巡するジジの手を取って、カロリーヌは「さあこちらへ」と歩き出してしまう。
カロリーヌのたおやかな手を振り払うこともできず、手を引かれるままに歩き出したジジは、思わず背後を振り返る。
「行ッテラッシャイ。ちゃんといい子にしててネ。それからカロリーヌ。余計なコトは言わないようにネ」
「ええ、解っておりますとも」
ジジが振り返った、その視線の先では、にこやかにリェンファが手を振っている。その笑顔に、今度こそジジは、自分には選択肢などないことを思い知らされたのであった。




