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鍋運びのジジ  作者: 中村朱里


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17/25

17.彼は優しくない、のに

どうしよう。

そのたった一言が、やけに大きく、奇妙な存在感を持ってジジの脳裏を過っていった。どくどくと心臓が音を立てている。

普段ならば気にならないそれがやけに大きく聞こえてくる。その鼓動の音を、何故か今のジジは嫌な音だと思った。


知らず知らずの内に、買い込んだ材料の詰まった袋を抱える両腕に力がこもる。ぎゅうとそのまま抱き締めれば、乾燥された薔薇の香りが鼻腔をくすぐった。けれどその香りがジジに安堵をもたらしてくれることはなく、ただただ余計に不安を煽られるばかりだった。


「さ、がさ、なくちゃ」


強張る唇からこぼれ落ちた声は、確かに自分のものであるはずなのに、どこか遠かった。だがそれでも、その言葉によって停止しかけていた思考回路は動き出す。

こんなところで立ち止まってぼんやりしている訳にはいかない。どこでリェンファとはぐれたのかは解らないが、彼を探さなくてはと、ジジは理性的に、或いは本能的に、確かにそう思った。

いやだがしかし、誰かとはぐれた場合、下手にその場所から移動する方が悪手であると聞いたこともあるような。だとしたらどうしたらいいのだろう。

どうしよう。どうしたら。

混乱した頭を抱えたい衝動を堪えながら一歩踏み出した途端、ぐらりと足元が、世界が揺らぐ。


「あっ!」


自分で自分の足に引っかかったのだと気付いた時には、もう遅かった。無様に地面に倒れ込んだジジを、周囲の人々が迷惑そうに見下ろしては通り過ぎていく。

いいや、それだけならばまだいい。よくはないのは、ジジのことを格好の獲物として見る視線が、ジジに向けられる視線の中に混じっていることだ。


――ひろわなきゃ。


材料を拾って、そして、それから、リェンファを探さなくては。そして、そして。

そこまで考えて、ジジは愕然とした。

そして、それから――それから、どうするというのだろう。

リェンファとはぐれたのはいい機会ではないか。このままウィッチ・ゾーイとイチイの待つ屋敷に帰ってしまえばいい。それこそリェンファはここで彼とはぐれたらジジの終わりだと言っていたが、ジジだって子供ではない。ある程度ならば護身の術を持ち合わせている。それにこの場所――デュマの大鍋と呼ばれるこの闇市という場所がいけないと言うのであれば、ここから出ればいい話なのだ。そのはず、なのだ。


――本当に、それでいいの?


まるで天啓のように降って湧いた自身への問いかけに、ジジは拾い集めた材料を収めた袋を抱き締めて、道の端に身体を運ぶ。

この闇市から出て、それからウィッチ・ゾーイの屋敷へと帰ることは、ジジにとっての最適解であるはずだ。帰らなくてはならない。ウィッチ・ゾーイがもう集会から帰還しているかは解らないが、イチイをたった一人にしてきてしまったことはずっとジジの胸に引っかかっていた。

一体どれだけ心配をかけているだろう。そうだ、一刻も早く帰らなくては。たとえここが闇市だろうと、王都だろうと。

たとえ交わした契約を違えることになろうと。元から不平等な契約だったのだから責められる謂れなんてない。いくらリェンファが、今までジジに対して、脅しはしても実際には手を出さず、最初から最後まで、はたから見れば闇ギルドの幹部だなんて信じられないほどに、紳士的な対応をしてくれていたのだとしても。ジジがそのことに、何故か今更気付いてしまったにしても、だ。


――関係、ない。


そうだとも。そんなことは関係ない。帰らなくては。それでなくともここは王都なのだ。

目まぐるしい日常に翻弄され、リェンファが管理する歓楽街トゥーランドットの高級娼館リアーヌの離れの小屋に閉じ込められていて、すっかり忘れかけていたけれど、ここはあくまでも王都なのだ。魔女に敵対する教会のお膝元であり、ジジにとっては――……


「大丈夫か、嬢ちゃん」

「…………?」

「あーあー、膝、擦りむいてるじゃねぇか。ほら、手当てしてやっから、こっち来いよ」


ふいにかけられた声に、気付けば下を向いていた頭を、ジジはのろのろと持ち上げた。気付けば目の前に、粗野な印象を抱かせる男が立っていた。赤らんだ顔に、酒気を孕んだ吐息、その表情はにやけきったそれ。

反射的に身を竦ませながら、ジジは男の台詞に、自分が先程転んだ際に膝を擦りむいていたことを知らされた。ひりひりと遅れて追い付いてくる痛み。けれどその傷よりも、ただこの状況が非常によろしくないことは、いくらジジでも理解できた。


「いえ、あの、大丈夫ですから」


ふるふると頭を振ってから一つ頭を下げ、ジジは男の横を通り過ぎようとした。だが、そんなジジの行動は、男にとっては想定の範囲内だったのだろう。片手に袋を抱え直して足を急がせようとしたジジの空いた手を、男が思いの外素早い仕草で掴んだ。

触れられた部分から悪寒が全身に広がっていくような感覚を覚え、ジジはひゅっと息を呑んだ。そんなジジを、男はそのまますぐ側の、左右に壁がそびえる狭い裏道へと引きずり込む。足をまろばせながら、ろくな抵抗もできずに男の思惑に嵌ってしまったジジは、顔を更に蒼褪めさせた。身を捩っても容易く動きを封じ込まれ、手を掴まれたまま裏道の奥へと追いやられてしまう。


「遠慮するなって。その恰好、あんたはあのリアーヌの使用人なんだろ? 今、俺に礼をするための手持ちがないっつーんなら、リアーヌに行ってからでいいからよ」

「離してください!」


ぱしん、と。男の手を無理矢理振りほどいた瞬間、そのまま宙を切ったジジの手が図らずも男の頬を掠める。あ、と思った時にはもう遅かった。カッと男の顔が、酒のせいではない理由で一層赤くなり、男は勢いのままにジジの身体を壁に叩き付けた。したたかに背中を打ち付け、息を詰まらせるジジに、男が声も高らかに怒鳴りつける。


「お高くとまってんじゃねぇよ! 売女にもなれねぇ奴隷女が!」


びりびりと空気を震わせる怒声だ。びくっと大きく身体を震わせるジジの反応に多少は気が収まったのか、男は再びにやにやと粘ついた笑みを浮かべながらジジを見下ろした。そしてその手を伸ばし、いやらしい手付きでジジの顎を固定して、嫌悪に顔を歪めるジジの顔を覗き込む。


「リアーヌの女の価値も落ちたもんだよなぁ。ま、代表はリェンファとかいうオンナ男だろ? だったら仕方ねぇか。あんななよっちい男がなんであのヘイロンの幹部なんてやってんだろうな。リアーヌのトップの娼婦はあいつってことか?」

「ッ!」

「案外、先代の女首領が死んだ原因もあいつなんじゃねぇか? そんでヴィルフォールの旦那をタラし込んで、はは、とんだ毒婦だな!」

「~~あの人は!」


そこで、男の台詞を遮るようにしてジジが叫んでしまったのは、何故だったのか。ジジは自分でも訳が解らなかった。それでも口は止まらない。


「あの人はそんな人じゃありません!」

「あん?」


不快げに男が眉をひそめた。酒に酔った大の男のそんな表情など、怖くないはずがない。けれど、それ以上に、無性に腹が立って仕方がなかった。気が付いたら、勝手に言葉が次から次へと口から飛び出ていた。


「た、確かにあの人は、その辺の女の人よりもよっぽど美人だし、そのくせ性格は悪くて意地悪だし、何考えてるか解らないけど……っ」


――本当に、何を私は言っているのだろう。

そう内心で自問しながらも、やはりジジの口は止まらない。何を言っているのかなんて、もう二の次になっているのかもしれない。ただこんな見ず知らずの男に、あの綺麗な青年のことを侮辱されるのは、不思議と我慢できなかった。


「でも、自分のお母様を殺すような人じゃありません! 物事の道理は通す人です!」


でなければ、あのそれぞれ別方向にクセの強い三つ子に、あんなにも忠誠を誓われているはずがない。このデュマの大鍋と呼ばれる闇市の人々に、あんなにも信頼され慕われているはずがない。

先代ヘイロンの首領たる母親を殺した? なるほど、そう思っている人もいるのだろう。だがジジにはそうは思えなかった。母親を殺してまでヘイロンの首領になりたがるのなら、いくらしきたりだからとはいえ、彼女の遺言に従う道理なんてないに違いない。

リェンファは、ジジに「性転換の薬を作れ」なんてとんでもない無茶を言いやがってくれた人だ。鍋運び――もとい、魔女の弟子たるジジにとってそれは、それこそ道理から外れた自然の摂理に反する行為だ。けれどそれはあくまでもジジの主観によるものであったことに、今更ながら気付かされる。

リェンファは、母親の……ランファの遺言を大切に思うからこそ、ヴィルフォールという男には首領の座を譲れないと思っているのではないか。ヴィルフォールにランファが残した組織を奪われないために、自身が性転換し、女性になってまでその後継者になろうとしているのではないか。


すべて、ジジの勝手な推測だ。思い込みだと言われたって反論できない。でも、それでも。


「あの人は、リ、リェンファさんは……っ!」


本当に何を私は言っているのだろう。これ以上、何を言おうとしているのだろう。

ほら見てみろ。目の前の男は今にも爆発しそうな、怒り狂った顔になってジジのことを見下ろしている。これ以上煽ったら、ジジの身が無事に済まされることはまずないだろう。

ここは王都だ。ウィッチ・ゾーイも、イチイもいない、王都だ。誰もジジのことを守ってくれない王都だ。今も昔も、ジジをひとりぼっちにする王都なのだ。

そんな場所で、どうして自分は、ジジは、あんな誘拐犯の青年を庇うようなことを言っているのか。そして更にその言葉を、どうしてもっと続けようとしているのか。本当に、本当に訳が解らない。けれど。それでも。


「てめぇ、いい加減に……っ!」


男が腕を振り上げる。そのままその腕が振り下ろされれば、ジジの顔は見られたものではなくなってしまうだろう。ああ、やっぱり私は何もできない『鍋運び』だ。そう思いながら、きつくジジは目を瞑る。

――――けれど、予想していた衝撃は、いつまで経っても、ジジを襲うことはなかった。


「……?」


恐る恐る瞳を開いたジジは、そうしてそのまま、大きく目を瞠ることになった。


「ハイ、ソコマデ」

「って、てめぇっ!?」


目の前で、腕を振り上げた状態のまま、男が固まっている。文字通り固まっているのだ。よくよく見て見れば、男の腕に細い糸のようなものが巻き付き絡まっているのが見て取れる。どうやらそれが男の動きを封じているらしい。いいや、そんなことよりも。今、聞こえてきた、声、は。

ジジは、男の視線を追いかけて、自らもまたそちらを見遣った。男の背後、裏道の先に、悠然と佇んでいる、その黒衣の存在は。


「リアーヌに関わるモノはすべてワタシのモノヨ。ワタシの持ち物に、オマエはナニをしてる?」

「リ、リェンファ・リー!」

「気安く呼ばないでもらえるカナ? ワタシの名前は、オマエごときが口にしていいほど安くはないヨ」


リェンファだ。彼が、その手に糸のようなものを掴み、その糸をピンと伸ばして男の腕をキリキリと縛り上げ、にこやかにそこに佇んでいる。その微笑みだけ見るならば、ただ「なんて美しいのだろう」と見惚れるばかりで済んだだろう。けれど、その黒瑪瑙の光に宿る光の冷たさは、それを何者にも許してはくれない。何故なのかは解らないが、リェンファは、どうやら怒っているらしい。それも、『結構』や『割と』どころではなく、『かなり』と言っても過言ではないくらいに。

そう呆然としながらリェンファを見つめるジジを置き去りに、リェンファは、男に向けた微笑みをより一層、酷薄に深めてみせた。


「腕を輪切りにされたくなかったら、さっさとこの場から消えてもらおうか?」

「ひっ! ひぃぃぃっ!!」


リェンファが糸を緩め、男の腕を解放すると同時に、男はジジの身体を押し退けてその場から逃げ出した。それを冷たい目で見送って、リェンファはキュルキュルと音を立てて糸――どうやら金属製らしきそれを巻き取り袖の中にしまって、フンと鼻を鳴らした。


「は、雑魚が。ソレで? お嬢サン、大丈夫? だからはぐれるなって言……っ」


ジジの元まで歩み寄ってきたリェンファの台詞が、不自然に途切れる。何だろう、と首を傾げるジジに、リェンファは口元に浮かべていた笑みを消して、いつか見たものと同じような、なんとも言い難い表情を浮かべてみせた。


「……チョット」

「…………ひゃい」

「なんで泣いてるノ?」


その言葉に、ジジは自分が、気付けば泣いていたことに気付かされた。自分で認識した途端、その涙はより一層、堰を切ったように瞳からあふれ出す。視界は歪み、ひくっと喉が引きつった。


「こ、怖かったんだから、仕方ないじゃないですか」


かろうじて絞り出した台詞に、リェンファがその整った眉を、片方だけ器用に持ち上げて肩を竦める。


「あのネェ、さっきの雑魚よりも、ワタシの方が、よっぽど怖い男だってこと、解ってて言ってるのカナ?」


心底呆れ返っていることが窺い知れるその声音に、ジジは片手でごしごしと顔を拭うが、それでも涙は止まってくれなかった。ぐすぐすと鼻を鳴らしながら、「だって」と小さく呟けば、リェンファが無言で先を促してくる。それをいいことに、ジジは何度も「だって」を繰り返した。


「だ、だって、だって」

「ウン」

「だって、リェンファさん、綺麗だから」

「――――はぁ?」


ジジの知る限り、いつだって余裕にあふれ、自分に絶対の自信を持っているように見えたリェンファが発したとは思えないような、間の抜けた声が聞こえてきた。けれどそれに驚くことも、ましてや笑うこともできなかった。ジジ自身、自分が何を言っているのか、やっぱり解らなかった。ただ涙が後から後から込み上げてきて止まらない。とめどない涙がジジの頬を濡らす。

そんなジジに、リェンファは溜息を吐いた。びくりと身体を震わせるジジに、外套のフードを被らせ、ジジの手からリェンファは薬の材料が詰まった袋をさらう。


「アー……モウいいカラ、ホラ、行くヨ」


リェンファの白い手が、ジジの荒れた手を掴む。きょとりと涙に濡れる青灰色の瞳を瞬かせるジジの方を振り向かずに、リェンファはそのまま、ジジの手を引いて歩き出した。足の長さの違いを感じさせない、ゆっくりとしたリェンファの足取りに導かれ、ジジは大人しくその後に続く。

繋いだ手の温度が、今は何故だかとても温かく思えてならなかった。

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